光なき窓
仕方がないので、駅にほど近い恩田家まで彼を担いで、手を振って、この借りは必ず返せよ、と別れを告げると、ぼくはとうとう、ついに、終と二人きりになった。
「お邪魔していいの!? ほんとに?」
「わっわっ」
しまった、がっつきすぎだ。これじゃ何か不埒な疑いをもたれかねない。やばいぞ、と思った時には手遅れで、終はジト目気味にぼくを見上げた。
「ね、あの、恋人とかじゃあ、ないんだよ」
「もちろん、もちろんわがってる」
我がってる。知らない言葉だった。だがなんとなく今のぼくにピッタリだ。
「やっぱり、紅世くんもゲームに興味あるんだね」
「あっ! そう! めちゃくちゃ興味ある! 最後にやった時から、もう一回遊びたくて仕方ない! ずっとゲームの事ばっか考えてる!」
最後にやった、というか人生で唯一遊んだのは、もうかれこれ4、5年前だけど。
「ふーん。違う世界、行ってみたい?」
終の顔が、どこか曇った気がした。なので、ぼくはイエスとは言えなかった。そういえば、自分では全然プレイしてないって言ってたっけ。TRPGやってた時の演技力を思い出したら、アレには結構、彼女ものめり込んでたように感じていたんだけど。
「あ!」
視線の先に何かを捉えるや、その表情に紛れていた曇りを一瞬で吹き飛ばすように、彼女は、ぱっと明るい笑顔を見せた。それを見るや、ぼくの少しばかりの憂いも、それで吹き飛ぶ。
「ネモフィラだよ。ほら、咲いてるよ」
終の指さす先に、小さな青い花が咲いていた。
終はかがんで、その花に顔を近づけ、くんくん、とまるで子犬のようにふるまった。小さな尖った鼻先が、時折花弁を揺らしている。
その姿は、まるで赤子を愛でる母のようだった。
十郎太の家から10分と歩かずに、ぼくらは十壱河駅にたどり着く。もう正午を回りそうな時間だ。あらためて、今日が休みでよかった。ここから電車で引き返して、サリカの家のある九王町を通り過ぎて、五湖橋で降りたら、まあとっくに昼飯どきを過ぎている頃だろう。そういえば、お腹すいたな……。
「ね、このあと何か予定あるかな」
先に言ったのは終だった。そして正直なところ、そのセリフは僕の方こそ口にしようと思っていたところだ。シンクロニシティ。うれしかった。
「ない! ないない! 暇で死にそう!」
「そっか。それじゃあ、ちょっとだけ、わたしの家にでも寄……あっ」
そこまで言って、彼女は目を見開いた。ぼくは喜びかけ、次いで怒りを覚えた。誰だよおい、終のありがたいお言葉を遮った奴は!
終の視線の先を追うように見上げると、いやに大きなビルの壁面、巨大なエンブレムが目に飛び込んできた。見おぼえがあった。企業のロゴじゃない。そんな洗練されたデザインではない。シンプルなようでいて、どこか違和感、威圧感のある、不気味なデザイン。
十字架の左右に翼のような斜め線。その外周に半円。『匡』の字を右へ90度回し、丸めたような形状。
その異様な雰囲気の建物は。
「協会、こんなとこにもあったんだ」
ご丁寧に名前が刻んである。匡生世界協会。その十壱河支部らしかった。
◆ ◆ ◆ ◆
電車に揺られながら、ぼくたちは沈黙の中にいた。あの建物を見てから、終はすっかり無口になり、俯きっぱなしになってしまった。ぼくは、最後に終が言いかけたあの言葉の続きを、どうしても言ってほしかった。
「ね、ねえ……何か嫌な思いとかしたの」
「うん? えと、そんなのないよ」
「でもさ、協会の建物見つけたとき、すごい顔してた。眉間にいっぱい、皺よせて」
ぼくがそういうと、終はまた俯き、黙ってしまう。正直、なにか触れてはいけない事情があるのを察したけど。そこに触れさせてもらえたら、とも思った。ぼくは遠慮を知らなかった。終にも、遠慮してほしくはなかった。
「無理して言わなくてもいいけどさ、でも、ぼくは終の事だったら、何でも知りたい」
驚いたように、口を半開きにして、終はぼくを見据えた。そして再び沈黙してしまったので、ぼくは話題を変えるというか、ぼくにとっての本題へ話を移す。
「ところで、さっき何か……言いかけてたじゃない。あれ、なんて言おうとしてたの」
「へ? わたしが?」
「そうそう、家が、とか、なんとか」
ぼくがそう言うと、終はあっと呟き、小さく閃いたように両手の掌をぽんと叩く。
「そうだ! 今日この後、紅世くん、良かったらわたしの家に……遊びにこない?」
やった! 一番乗りだ! べつにやましい気持ちなんかない、終とお近づきなりたかったただそれだけなんだ! そんなピュアな願いが今まさに天に届いたのだ! ありがとう神様!
ぼくは心で勝利のダンスを舞い踊る。次の瞬間、電車が止まる。九王町に戻ってきたのだ。扉が開き、まばらに人が乗り込んでくる中、ぼくは喜んで答えようとした。うん! いくいく! 絶対行く!
しかし。ぼくの返事を待たずに、彼女の意識はまたも、別の場所にとらわれていた。
「こみち……ちゃん!」
窓の外、駅のホーム上に、ぼくの恨みを買うであろう何がしかを見つけるやいなや。終はがばっと勢いよく立ち上がり、そして駆け出した。