正しい街
ぼくが小学校に上がるころ、転生ブームとやらが巻き起こった。
人は死ぬと、剣と魔法のファンタジーな世界に行けるのだそうだ。
そんな話がまことしやかに動画サイトやSNSで語られ、メディアに取り上げられ。
「完全転生マニュアル」なる本が書かれ、ベストセラーになり。
死後にたどり着く世界がどんなに素晴らしいものか、そこでの苦難や喜びを高らかに歌った歌が、チャートをにぎわせた。転生をテーマにしたアニメ漫画映画小説も、掃いて捨てるほど、ごまんと量産された。
そして。
実際にたくさんの人が死んでいった。
小学校の卒業式までに12回、同級生の訃報を聴かされた。最初は皆驚いて、教室のあちこちから泣きわめく声が響いた。幼かったし、人がまさに現に死にました、という事実を突きつけられたのが、たぶん、ただ単にショックだったのだろう。しかし2度、3度と繰り返されるたびに。
あるものは、またかよ、と、まるで夕食前のニュースで遠い国の出来事に憂鬱になる大人たちのごとくため息をつき。またあるものは、へえ、あいつがついに!と半ば目を輝かせ言った。
目を輝かせるんだ。
そういう日の放課後、ぼくの耳に飛び込んでくる言葉があった。彼らは言った、胸を高鳴らせ、ドキドキさせ、興奮気味に、無邪気に。同い年の誰それが誰それに恋の告白をした話題でもふるかのように。僕らと同い年で、ついこの間まで同じ校門をくぐっていた、死者を、こう形容するのだ。
「すっげー!!」
「マジですげー!」
彼らは本気で信じているのだろうか。当時のぼくは思った。彼らは、俯いておぼろげな目で教師たちが名前を呼ぶ僕らの同級生が、今まさにこことは違う世界に旅立ったのだと。どうして、何の根拠があって、信じることが。
できるのか。
そんな疑問をふと抱きながらも、しかし、ただの子供として、この世界においては恐らく多少できのいいだけの、ごくありふれた平凡な小学生として、ぼくはただ無為に過ごしていた。あの日、彼女に出会うまでは。
◆ ◆ ◆ ◆
中学に上がりたて、入学式から何日か経った、ある日のこと。
家路についてしばらく道をゆくと、歴史の教科書を教室の机に入れっぱなしで置き忘れていたのに気が付いて、僕はそれを取りに戻った。家で自主勉強をするわけでもなし、よせばいいのに、なぜかその日は道を引き返して、夕暮れの校舎に紛れ込む選択を、ぼくは選んだ。
あの日の空気は、なにかが違っていた。いつも通りの人生、変わらぬ日常を、どこか俯瞰して、けれども安心して進んでいたぼくに、こっちにおいでよ、と手招きでもするかのような、やけに甘く、それでいて冷たく、香しい、奮い立つような。
きらきらとして、可能性に満ちた、そんな空気。
まるで麻薬のように僕を虜にしてしまったその黄昏時の、春風を胸にいっぱい貯めこんで、ぼくはうきうきと、夕闇に細長く影を落とす校舎の階段を、勇み足で登って行った。
そしてさっそく、異物に出会う。
まず聞こえてきたのは、女の子の泣き声だ。
そして、声の主とは違う女の子の、荒っぽい調子の、こんな言葉だった。
「お前さあ、無能で愚図なんだからさあ、さっさと異世界にでも転生すればいいんだよ!」
ギャハハハ、という声が続く。女子の集団だった。
いわゆる、これは。ぼくの脳裏にある単語が浮かんだ。恐喝。恫喝。いじめ?
いじめって呼ばれていた気がする。はじめて、遭遇した。その時はぼくの平和ボケした頭には、不謹慎にもなんだか、やや滑稽な出来事に思えたし、興味は沸いたし、その場で足を止めた。見ると、膝を抱えうずくまる女の子が一人、彼女の髪を引っ張り上げる女子が一人。取り囲んで見下ろす女子が……そう、6,7人はいたっけ。
「やめて」
「やめねーよ愚図。ゴミ。虫けら」
「お願いやめて」
「うるせーよやめてほしかったら土下座して奴隷になりますって言ってみろ」
「お願いだから、もうやめて、やめてやめて!」
「奴隷になったらやめてやるよ命令してやる今すぐ転生しろ!てーんせい!てーんーせい!」
すぐに女子たちの集団が、転生コールを始める。息がぴったりだ。先ほどの自己紹介を甘んじてお借りしつつ謹んで呼ばせていただくと、クズはクズ同士ウマが合うのだろう。クズ友だちがこんなにいっぱいいらっしゃるのだから、それはそれは随分と充実したクズのクズによるクズのための陽キャライフを送っていられるのだろう。
「やめてぇェェーーーっ!!」
その叫び声を聞くなり、ぼくはいてもたってもいられず。反射的に教室に飛び込んだ。いや、殴りこんだ。
クズ代表、髪の毛を引っ張り上げ声を荒げるK氏の懐にまっすぐ飛び込んで、後頭部をつかみ、顔を地面にたたきつけた。
その後のことは覚えていない。気が付くと、ぼくはK氏に馬乗りになっていて、K氏は僕の下で真っ青な顔を引きつらせていた。両目からはだらだらと涙をこぼし、上半身は裸に剝かれてて、両手で胸を隠していた。ぼくはその光景を見て、思わずこう言った。
「正気に戻った。これ以上、痛いことはしないから」
瞬間、教室に絶叫がこだました。女子たちは我先にと争うように、教室から蜘蛛の子を散らすように。
取り残されたK氏は声にならない声を上げながらがくがくと震え、立ち上がろうとあがき、何度も足をすくませて尻もちをついている。その光景を無感情に眺めて、それにも飽きると、いじめられていた長髪の女の子の手を取って、ぼくは言った。
「もう大丈夫。行こう」
ごく自然に握りしめたけれど、考えてみれば、生まれて初めてだった。女の子と手をつなぐのは。
その手を振り払ってもよかったはずだ。彼女にしてみたって、異性と手をつなぐのは初めてで、それも相手のほうから一方的に行われたのだから。だけど、彼女は両手で僕の手を握りしめて、そっと、贈り物のように、ぼく自身の胸へと返し付け。
少し戸惑い気味に声を震わせ、静かにこう言うのだ。
「なにも、大丈夫じゃないんだよ」
そして。
あろうことか、今まで自分の髪をつかみ上げていたK氏を、抱きかかえ、強く抱擁し、両目から涙をこぼしてこう言った。
「ごめんね、無能で」
わけがわからない。混乱した。ぼくは言った。
「やめてって、言ってたじゃないか、君」
彼女はゆっくりと、こう返した。
「やめてほしかったのは、本当なんだよ。でも、それは。なんていうか、うまく言えない……あなたが思っているような、理由じゃない、きがする」
別に、褒められたいわけじゃない。ぼくだって、ヒーローになりたかったわけじゃない。ただどうしようもなく、怒りが、義憤がわいてきて、それを堪えきれなかっただけだ。少々やりすぎた気もする。でもだからって、君を助けた相手を否定することはないだろう。そう言いかけて、言葉を飲んだ。
なにかが、おかしい。
「やめてって、言ってたのは、わたしが苦しいからじゃないよ、私をいじめている、この子だって、苦しいから。誰かが誰かをいじめて、痛めつけようとして。そういう事が起きてしまう、この世界が苦しいから」
意味が分からなかった。少なくとも、当時の僕には。
「この子は、きっと表現したかったんだよ。わたしに汚い言葉を投げつけて、ひどいことをして、それで表現したかったの。この子は叫びたかったの。この世界は醜い場所なんだって。だからお前はそれを認めろって、どうせ醜いんだから、もっともっと汚したって構わないだろって。……だから、わたしはやめてって叫んだんだと思う、たぶん」
K氏を抱きかかえる彼女の眼には、涙がたまっていた。歯を食いしばって、震える声で、ひとつひとつ、言葉を絞り出している。とても余裕のある表情ではない。人をだましたり、演技をしているような様子や気配は、みじんも感じられなかった。
「だって、醜い場所だって認めたら、この子はずっとこれからも、その醜い世界で生きてかなきゃいけない、そんなの」
そうだ。そうだった。この日の出来事は、やっぱり今でも、鮮明に覚えている。
「そんなの、ひどすぎるよ」
これが、彼女との――のちにぼくの、じっさい、「彼女」となる女性——冬部 終との、出会いだった。