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元凶は捨てられた手紙にあって

スチルが一切無い部分もあったりします

 点呼後いつものようにヨナスに話しかける。

 とりとめのない雑談、彼はゆっくりどもりながら返事をしてくれる。当たり前だが、歌声と話声はとても同一人物と思えないくらい違う。それに慣れるまで随分と時間を要したが、いまはその落差にも慣れ一々驚かなくなった。


 今夜はとりとめの無い話ではなく、ちゃんと身のある話をしなければならないと心に誓う。

 理由は一つだ。真綿で優しく包むようにゆっくりと時間をかけようと思っていたが、現状目の前の状態を見るにそうはいかない。


「どうして、手紙を読まずに捨てたんです?」


 夕食から部屋に戻って最初に目に入ったのは、無造作に捨てられゴミ箱から頭を出した24通の手紙だった。


「あ、…そ、その…」

「別に僕が届けたものを捨てられたからといって怒っているわけでは無いです。なので、ゆっくりでいいので理由を教えてくれませんか?」

「お、おな、っじ…、同じだ、から」

「手紙の内容が全部同じなんですか?」


 横でルカがほれ見ろと言わんばかりにこちらを見てくる。表情は無表情のまま眉一つピクリとも動かさないが、得意げに鼻を鳴らしているのが手に取るようにわかるのだから不思議だ。

 小さく頷くヨナスに、大きなため息しか出ない。


「その様子だと返事は書いて無いですよね」


 またコクリと小さく頷く。

 彼との会話は常にこの作業だ。最初の頃は戸惑ったが、はい、いいえで答える質問形式は慣れてしまえばとても楽だった。


「実は、先ほどルカが一通見てしまっているんです」

「あ、何で、言うなよ」

「…かま…わ、構わない…」

「僕もその内容を聞いてしまいました。ごめんなさい」


 小さく首を振る。彼にとって手紙の内容は特筆すべきことでは無いらしい。ヨナスはゴミ箱から一通手紙を拾って差し出した。


「僕も読んでもいいですか?」


 それを受け取ると、手紙を丁寧に開けて目を通した。横からルカがそれを見ている。どうやらルカが読んでいたものとは違う手紙のようだ。

 女性が好みそうな便箋書かれた文字は、やはりパオル程ではないが几帳面で、とても優しい文字に見える。読み終わると、ルカは手紙を奪い取ってビリビリと破いた。


「なんだこれ、最低だ」

「一字一句は覚えていないけど、まるで印刷物のように内容がまるで一緒じゃないか」


 そう言うルカに、ヨナスは聖堂で歌っているような顔をして微笑んだ。読むに耐えないと言うのはこういうものを言うのだろうか。ヨナスに対する恨み辛み、まともな人間になることができたか、恥であるかと言うものが詳しく丁寧にそれも文言を変えてしつこく何度も書かれていた。

 腹を立てるを超えて呆れてしまう。よくもまあ週に一度、甲斐甲斐しく手紙を送ってくるものだ。


「どうして笑えるの?悔しくないの?」


 ヨナスは小さく頭を振る。


「信じられない、親だからって何を言っても良いって訳じゃないんだよ?親に言われたからって、何もかも我慢しなくちゃいけない訳じゃないんだよ?」


 ヨナスは困った顔をしてまた小さく頭を振った。


「何が書かれてたかは知らねぇが、親なんてそんなもんだ。パンを盗んでこい、果物を盗んでこい、酒を盗んでこい、体を売ってこい、できなきゃ穀潰しだ。俺の親は自分の子供にこんなことしか言わなかったぜ」

「あー、パオルも大変だったんだね」

「これからはこの聖力のおかげで、んなことやんねーで済むらしいからな」

「じゃあ、ちゃんと6年生になって、クォルの位もらって、7年生にならなくっちゃ」


 僕が驚いて思考停止している間に、ルカは話題に飽きたのか、自分の机に戻って本を読みだした。やはりその表情からはなんの感情も読み取れない。


「ともかくまずはこの手紙です。ヨナスは女の子になりたいんですか?」


 ヨナスは顔を上げ目を見開き、こちらを凝視する。ルカではないが、これがどういう感情の表情なのかわからなかった。

ぽかりと頭を殴られる。振り向くと、パオルが怒った顔で見下ろしていた。


「俺が言えることじゃねぇが、言葉が悪りぃぞ」


 僕はヨナスとパオルを交互に見て、あまりに言葉選びが軽率すぎたと後悔した。


「すみませんヨナス、配慮不足でした。パオルもありがとうございます。ご両親のように、この手紙のように責める気持ちはありません。ただヨナスがどうしたいのか知りたいのです。言いたくないのなら仕方がありませんが、できるならヨナスがなりたい姿になれるように協力したいと思っています」


 それでもヨナスの表情は固まったまま、瞬きくらいしか動きがない。

 いつも下を向いて伏し目がちなヨナスの顔をこれだけまじまじと見たのは初めてだった。

 目はくりっとしていて大きくまつげは綺麗にそれを縁取っている、すっと通った小さい鼻に唇は花びらを落としたようにも見える。頰は軽く赤みがさし、彼と言うものを知らなければ一見すると女の子にしか見えない。

 ルカが実は魂の宿った人形でしたと言われても驚かないくらい、実は女の子でしたと言われても疑う余地はないように見えた。そもそも彼の地声は歌声とはまた違うかん高さがあった。


「そんなに目を見開いたら落としてしまわないんですか?」


 自分でも何を言っているかわからなかった。後ろでパオルが呆れ返っているのが手に取るようにわかる。ぽろっと口から出た言葉がこれだったのだ。


「似合うと思いますよ、リボンも花もドレスも。夢を見たんです。ヨナスが天使のような白いドレスを着て歌っている夢を……、とても似合っていました」


 とってつけたような言葉がヨナスに響くとは到底思えなかった。でも何か言わなければならないと思ったのだ。口から飛び出たのはこんな陳腐な言葉だったが、ヨナスはいつもの伏せた姿に戻り、小さく首を降った。


「も、も、う…やすっみ…休みます」


 ヨナスは慌てた様子で夜支度をしに部屋から出ていった。


「失敗したと思います?」

「よく言って及第点。口説いてどうするの」

「ですよね」

「俺はあれで良かったと思うぞ。お前はヨナスを否定しなかった」

「そこだけだよね」

「それができれば今日のところはいいとして下さい」


 僕は大きくため息をついた。

 ルカが破って散らかした手紙を片付けていると、ヨナスが戻ってきてこちらにチラリと視線をよこしてベッドに入った。どう言った意味の視線かわからずに頭を抱えた。ヨナスもルカ並みに表情を読み取れない。


「おやすみ、ヨナス、良い夢を」


 声をかけると、ベッドからくぐもった声が聞こえた。どうやらおやすみと返してくれたようだが、そうだろうと言う程度の音しか耳に届かなかった。

 すぐさま寝息が聞こえる、どんな状況でもすぐに寝てしまえると言うのは一種の才能としか言えない。


「怒らせたと思います?」

「興味無いに一票」

「よくわからないけどイライラするに一票」

「それただのパオルだよね」

「怒ってはないけど、言い表しようのない複雑な気分ってのが言いたいんですよね」

「あ?そうなのか?」


 今日の様子を見るに、彼の一番のストレスはあの手紙の内容にあるのは明白だ。彼は心と体がバラバラなのかもしれない。男性の体を持って生まれてきたけれど、そこに宿った心は女性のものだったのかもしれない。それは彼の歌声が中性的な天使のそれに聞こえる大きな要因なのかもしれない。


「でも僕は嫌いじゃないけどね。そのなんでも肯定してくれようとする姿は。でも本心、君もよく分かっちゃいなんだろ?」

「お恥ずかしながら、その通りです。ヨナスは女の子になりたいんですか?」

「十中八九そうだろうね」

「別に珍しいことじゃねぇだろう、性別を選べる人間にとっちゃ、選べるなら選びてぇだろうし」

「性別を選べる?」

「未分化ってんだっけ?」

「未分化ってこの国にいるの?てっきりよその国の話だとばかり」

「いや、いるな。俺の元住んでた場所にもいたぜ。すぐ死んじまったけどな」

「へぇ、いるところにはいるもんだ。本でしか知らないや」


 未分化は男女どちらでもなく生まれてきた、本当の意味での神々に愛された存在だ。未分化と呼んだり天使、神使と呼んだりすることは知っていたけれど、それが本当に実在するなんて知らなかった。それこそ亡魂と同じような話だと思っていた。じゃあ、亡魂も実際するものなのだろうか?


「普通は隠して育てるのが当たり前っぽいな。俺が住んでたところは普通のところじゃねぇし、まぁ、言ってみればあの真っ白はいい金蔓ってこった」

「本当に真っ白なんだ。目は?本には赤いってあったけど」

「目は赤かったんじゃねぇの?遠目にしか見たことないしな」


 ルカは興味津々にパオルにあれこれ質問する。パオルは面倒臭そうに答えるがあまりルカの読んだ本と変わりがないようで、すぐに飽きた様子だ。


「大抵親は男になって欲しいと思うんだと。だから親の期待通りに分化できずに逃げた奴らが集まる場所ってのが、こういう人が多い場所にはあるらしくてな」

「物知りだね」

「嫌味か。小遣い稼ぎに裏路地へ行くと色々と情報が入ってくんだよ。お前こそそんだけご立派な本を読んでて知らねぇのかよ。中にはあっただろう?どちらにも分化しそこねて色だけついた元未分化の話」


 パオルは苦虫を噛み潰したような顔をした。こうやって見てみると、この3人の中でパオルが一番表情が豊かでわかりやすい。


「そんな本読んだことないし、パオルに無知扱いされるとは思ってもみなかった」

「そういう場所って、この近くにもあると思いますか?」

「物珍しさを売りに出せる店なんざ相場が決まってんだ。大抵酒を出して歌って踊ってっていう、珍しい店でもねぇよ。探せば1軒くれぇあるんじゃねぇか?」

「それですよ。それがいいです。歌って踊れるだなんて、ヨナスにピッタリじゃないですか」

「どういうことだ?」

「そのお店を探してヨナスを売り込むんです、女性の格好ができて歌えるなんて一石二鳥じゃないですか」

「お前わかってんのか?それに簡単に言うが、そういう店は今営業してんだぜ。点呼後にすぐ寝ちまうこいつがどうやって歌うって言うってんだよ」

「週に一度くらい無理でしょうか?」

「休息日の前の日くらいならどうにか行けるかもしれねぇが、脱走の罰則は反省房行きだぞ」

「そこはフィン先輩を通して秘密裏に特別措置を取ってもらえないか相談します。今回のことは役員、もとい学校からの依頼ですからね、どうにか便宜を図ってもらいます」

「そう簡単な話じゃないと思うんだけど」

「わざわざ難しくしなくてもいいと思うんです。許可がもらえるものは許可をもらってしまった方がことが早い」

「降りなかった場合は?」

「降りるまで粘るか、また別の策を考えましょう」

「奇妙なところで前向きと言うか、楽天的だね」


ルカは背もたれに体を預けながら、呆れたと体全身で表した。


「よく言われます」

「でも親はどうするの?そっちの方が問題じゃないの?」

「記録にはご両親の面会や、帰省したというものはありませんでしたので、ひとまずは亡魂をどうにかしましょう」

「何それ、そんなのまで書かれてるの?」

「見せることはできませんが、ルカのもパオルのも頂いていますよ」

「納得がいかない。僕をあれだけせめておいて、やってることは同じじゃないか」

「同じじゃないですよ。こっちは学校や役員から頂いた正式な資料ですし、必要がない限りは見ない予定のものです」

「パオルもなんか言ってよ理不尽だって」

「まあそこは仕方がねぇんじゃねぇの?必要なきゃ見ねぇって言ってんだし」

「裏切り者!」


 怒るルカを無視して、僕は夜支度をするために部屋を出た。なんとなく方向性は決まった。フィン先輩の言う明るい方向へ導くと言うのはこう言うことかもしれない。

 目の前に光明が見えた気がした。


 その後、思いついた作戦をしっかりと練りに練り、要点を紙に書き出すという作業は結局、カウラの時近くまでかかった。流石にヨナスが起きる時間にはベッドに入ることができていたが、こんなに寝ていない経験は初めてだった。

 そして僕は見事授業中に睡魔に負けてしまうと言う愚行中の愚行を行ってしまった。教師の咳払いに我に返るとクラスメイトの刺さる視線に、恥ずかしさのあまり走って逃げたい衝動に駆られた。入学してからこれまで、教師に見つかる前にクラスメイトを起こしたことはあったが、まさか自分がそうなってしまうとは思いもよらなかった。

 僕は案外睡眠に対して貪欲なのだと気付き、もう2度と無茶な夜更かしはしないと心に決めた。そんな恥じ入りを昼食時まで引きずり、フィン先輩にうまく報告できるか心配になっていた。


「昨日の今日だけど、何か進展があったんだ?」

「進展どころか、完全に原因がわかりました」

「それはよかった」

「で、どうするの?」

「?」

「原因を聞かないんですか?」

「興味はあるけど、今はそれを聞く立場に無いし権利も無いだろう?解決策の提示にどうしても必要なら聞くけど」


 報告すべき案件の一つだと思ったが、フィン先輩が違うと言うのならそうなのだろう。たとえヨナスが二つ返事するだろうと分かりきっていても、手紙の内容を勝手に口外してはいけない。それがたとえそれが相談役のフィン先輩であろうとも。


「えっと、今から解決策を提案をするので察して下さい」

「そういうのは得意だよ」


 にこりと笑うフィン先輩に、なんだかしてやられた気分になった。きっとこの人の耳にはすでに授業中の居眠りの件は届いているのだ。いっそのこと責められた方が気が楽だと、処刑前の囚人のような気持ちになった。


「何も聞かずに3日でいいので、僕に点呼後の校外への外出許可をいただけませんか?そこで結果が出れば解決策をお話しします」

「まずはその結果がわからないとお話しにならないと言うことだね」

「そうです。ご面倒をおかけすることになるのは重々承知してます」

「構わないよ、学校からの外出の許可は出ないだろうけど、役員の黙認事項としてならいけるかもしれない。これだけ急なら申請すること自体が藪蛇になるだろうからね」

「対外的に問題が無いようにして頂けるなら、なんでも構いません」

「でもどの辺りをウロウロするかだけ教えてもらえると、何かあった時に迅速にもみ消せるのだけど……、石は必要?」

「石は必要ありません。私物があるので。それと、地図を持ってきています。この辺りです」


 地図を指すと、あからさまにフィン先輩は怪訝な顔をした。こちらを数秒凝視して、大きなため息をついた。


「多分それで合ってます」

「あえて言及はしないでおこうか」


 やはり僕が下手に説明しなくとも、察しの良いフィン先輩はこれだけで何をしたいのか言わんとすることをわかってくれたらしい。


「でも大丈夫だと思うんです。楽天的だと笑うかもしれませんが。休息日の開放礼拝はこの街の人が訪れます、ヨナスを知らない人はいないと思うんです」

「それはそうかもしれないけど、毛色が違うと受け入れてもらえないのではないかな」

「それは、少しだけ考えましたけど、ヨナスの歌を聞いてもらう機会だけでも取り付けることができればいけると思うんです」

「僕は反対したんだけどね」

「また来たんですか」


 ルカは元からずっとそこに居たかのように、割って入ってくる。


「子供1人で出歩いて問題が起きないと思えないんだけど」

「じゃあ、どうせ役員を巻き込むのだし、点呼後と言わずに開店前の時間から動けばいいんじゃないかな。夕食もどうにかすれば3日くらいならごまかせると思うよ」

「でも店の検討がさっぱりつきませんよ」

「僕も場所に詳しい人物に心当たりもないな。だからと言って、教師や部外者に協力を扇ぐのは現実的じゃないしね」

「こんな時、早く大人になりたいって思いますね」

「同感だよ。こういう時僕らはどれだけ知恵を働かせても、できる事は少ない」

「本当にそうです。でも僕が教師だったならヨナスに気づく事はできなかったのでしょうが、それでも歯がゆい」


 ふと何気無くルカの方を振り向くと、青い顔をしてこちらをじっと見ていた。何か気に触るような事を言っただろうかと疑問がよぎったが、大した話はしていない。


「気持ち…悪い…」


 そのままルカはその場にしゃがみこんで、吐いた。


 慌ててルカに駆け寄るフィン先輩は、背中をさすりながら動揺する僕に落ち着くように声をかける。粗方吐き終えたルカをフィン先輩は抱えて救護室へ行ってしまった。残された僕は、昼食だった残骸を掃除した。

 掃除しながら会話を反芻しているとだんだん落ち着いてきた。


「そこまで大人というものに拒否反応を出すものだろうか?」


 つい疑問が口から飛び出す。これしか思い当たるものがない。大人にそれほど嫌悪感があるのだろうか。でも子供ばかりと言っても教師陣やシスター、司教様たちは大人だ。大人という区分に拒否反応が出ているわけではないと思けど。見当違いか、単に体調が悪かっただけかもしれない。


 掃除し終わり片付けていると、フィン先輩がこちらに駆けて戻って来るのが見えた。


「ルカは、大丈夫ですか?」

「気を失ってるけど、大丈夫のようだよ」

「体調が悪かったんでしょうか…」


 フィン先輩が僕の顔を覗き込む。


「別の要因も視野に入れているのかな?」

「あの、ルカは、大人になりたくないのでしょうか」

「やっぱりベンヤミンにもそう見えるかぁ」

「見えます」


 僕は報告すべき事柄か一瞬だけ迷ったが、こればかりは報告すべきだと感じ、話すことにした。


「と言いますか、実は先日、そういう話をしたんです」

「彼がマハネ神の元へ行きたい原因はそれのようだからね」

「大人の何が原因なんでしょう」

「それがわかれば君に託したりはしてないよ」

「そう、ですよね」


 前途多難だ。ヨナスの問題の一つの解決策が見えてきた途端にこれだ。

 前言撤回。請け負うと決めたのはこの僕自身だ。弱音を吐いてどうする。


「相談していいですか?」

「どうぞ、僕の役割はそれだからね」


 フィン先輩にルカの腕の包帯の経緯について話をした。


「内心驚いていたんですよ。あのタイミングで腕を傷つける意味がわからない」

「彼はそうだね。すぐにそういう行為に走る」

「せっかく綺麗な肌をしているのに勿体無い」

「確かに、彼は美しいとか、そういった形容詞が嵌る存在だと思っているよ。そんな彼はどういう目で見られてきたかな。ベンヤミン、君は別の意味でのその視線を知っているよね」


 僕は声が出ず、ヨナスのように頭を上下に振ってフィン先輩に答えた。フィン先輩はそんな僕を見て、少しだけ思案してから続けた。


「そんな彼が身を守るためにはどうしてきただろうか」

「あ、でも、そんな…ルカも?」

「話せるなら話でごらん」


 大きく深呼吸をした。

 これはあまりにも僕1人では抱えきれない。ルカの家の状態から考えて、盗みを強要されたとは到底思えなかった。では何を強要されたのだろうか。

 いまだにパオルの言う“体を売る“が全く検討がつかない。もしかしたらルカの言うように、わかりたくないから思考停止しているのかもしれない。


「昨日両親の話になったんです。パオルの親の話になった時に、ルカの様子が変わりました。パオルの親はパオルに盗みや体を売る?ことを強要していたと言いました」


フィン先輩は一瞬目を見開いて固まったが、すぐさまいつもに戻った。別人のような表情はしっかりと目に焼き付き、何か恐ろしいことでも言ったのかと不安になった。いや、恐ろしい話ではあるのはわかっている。

親が子供に盗みを働かせるなど僕が今まで生きてきた中で考えても見なかった話だ。親がおらず、食うに困って盗みを働くならまだわかる。庇護者がいるのになぜ子供に悪行を働かせるのか本当に理解できないのだ。


「そこでルカの様子が少しおかしいと感じました」

「それしかないだろうね」


 フィン先輩は、頭を抱えてうな垂れた。


「昨日の今日で、何か思うことがあったのかもしれない。それに、そういう噂が無きにしも非ずだからね」

「また噂ですか」

「そう呆れないでおくれ。この学校の生徒はみんな刺激に事欠いているんだよ。それにルカは立っているだけで目立つ存在だからね」

「ルカが自ら教師に自分を売って?いるということですか?ルカは金銭的に不自由していませんよね?」

「理由は僕にはわからないよ。でも、もしかするとルカ本人もわからないのかもしれないね」

「どういうことですか?」

「言ったろ、ルカは人を惑わすんだ。そこに金銭の授受があるとは思えないけれど、なんらかの取引はあるかもしれないね」


 僕はようやっと体を売るという言葉が如何わしい意味を持つことを理解した。

 あの日のルカの格好を思い出したからだ。ボタンを掛け違えたシャツから覗く白い肌、窓辺で揺れた白い足を思い出した。あの細い肢体を蹂躙する大人がいるのかと思うと虫酸がる。

 いくら僕でも知っている。そういう世界は僕と薄皮一枚の隔たりしかないのだと。それならよほど搾取される子供より大人を選ぶはずではないのかと思ったが、ルカの中ではそうではないのかもしれない。


「大人は汚くて醜いんんだろうね。そんなものになるくらいなら子供のうちに、そう天使のうちに死んでしまいたいのかもしれないね」

「ああ、だから天使にこだわったのか」

「そうなの?」

「はい、僕も人のことは言えませんが、ヨナスに対して天使という表現を繰り返し使っていました」


実際、ヨナスが本当に未分化であれば天使という表現は間違っていない。実はルカも未分化だったのだろうかと疑問がよぎる。

 フィン先輩は長考に入り、間も無く予鈴が鳴った。そのまま彼は手だけあげて別れを済ませるとそそくさと教室へ戻っていった。僕もそれに倣って教室へ、フィン先輩の長考の意味を考えながら戻った。


 仕事が早いフィン先輩は、次の日の昼休みには黙認の許可を取り付けてきてくれた。しかし、但し書きとしてパオルを同行させることとあった。

どうしてかと聞けば、野生の勘に期待するという信頼性に欠ける回答だった。色々と調整と話し合いが必要なのだと、要点を話すとすぐにどこかへ行ってしまった。


 ルカの様子も報告したかったが、それも言う暇もないほど慌ただしく、忙しなく去っていった。その日の放課後にはスッキリと、何事もなかったような顔をして部屋にいた事を報告したかった。しかしフィン先輩のことだから、すでに元気になったことは耳に入っているだろう。

 ルカのことは、緊急性がないと判断されたのだろう。


 事情を話すと、パオルはさも面倒臭いと言った顔をした。断らなかったのはヨナスのためだからだ。


「めんどくさいことさせやがるな」

「すみません、力を貸してください」

「別にそれはかまわねぇけどな。助けてもらってんだ。たまには返さねぇとな。あれだ、危ないと思ったら引っ張って逃げるのは俺の得意技だからだろう」

「それですね。実のところ、いわゆる街というものを、僕はあまり歩いたことがないんです」

「お坊ちゃんだもんな」

「そうではあるんですが、なんせこの見た目ですから」

「別に珍しくはねぇがな」


 それがいけないんだよなと思ったが、思っただけで口には出せなかった。パオルに理解してもらえる言葉で説明できる自信が無かったからだ。言うなれば、絡まれやすい色なのだ。

 僕のような色を持った子供が上等の服を着て街を歩けばすぐに標的にされる。その時も、ほんの少しの時間だった。もしかしたら、ほんの瞬きの間のことだったかもしれない。ほんの少し、両親や兄達と離れてしまった時に、裏路地に連れ込まれた。服は一瞬で全て剥ぎ取られ、殴られ、蹴られた。

 すぐに僕を探した使用人に見つけてもらったが、彼らはそんな色だからと、まるで汚いものでも見るかのような目で僕を見た。両親は泣いて心配したが、どこか他人事のように思えて、いたたまれなくなったのを強く記憶している。


「一回昼間に下見に行くか?」

「そうですね、休息日に外出届をもらいましょう」

「んなのんびりしてていいのか?オレは授業をサボって行く気満々だったが」

「それは絶対にダメです。急いで解決しなければならない話ですが、今日明日で解決できる話ではないですから」

「そんならいいが」


 何かパオルには思うところがあるのだろうか。


「パオルは早めに行動した方がいいと思うんですか?」

「うまく言えねぇから、もういい」

「そう、ですか。勉強の邪魔してすみません。続き、やりましょう」


 もう最後の見開きだ。

 竜の背の探検家が精霊王と共に最初の建国を終えて、物語はこれで完結する。ちょっとした冒険とちょっとした感動が繰り返されるように明快に書かれた物語は、どうにかパオルを飽きさせずに最後のページまで連れてきてくれた。

 めでたしめでたしで終わったこの絵本は、十分に彼の識字率を上げるのに役立ってくれた。


「なあベンヤミン」

「どうしました」

「本って面白いのな。今日は最後のページだから、最初から読み返したんだよ」

「これからはもっと色々な本が読めるようになりますよ。絵本だけじゃなく、もっともっと難しい本も、読んでみたいと思った本は全て読めるようになります。それにこの絵本のもっと詳しい話が知りたければ、聖書を読めば知ることができます」

「そうか」


 終始しかめっ面の顔は、笑うと途端に幼く見える。ずっと笑っていれば良いのにと思うが、すぐにしかめっ面に戻ってしまう。


「多分俺は、この先にどれだけ本を読むことになろうとも、この本だけは忘れねぇ気がする」

「当たり前じゃないですか、だってパオルが読んだ初めての本ですよ」


 こちらが笑うと笑い返してくれる。彼はまるで自分を映す鏡だ。悪意には悪意を、敵意には敵意を、彼は繊細で人の心に敏感だ。だから優しい気持ちには優しい気持ちで返してくれた。ヨナスとパオルを見ていると、特別にそう思えた。


「でもその前に、聖書と教科書を読めるようにならないといけないですけどね」

「あー、そうだった。そうだったな」

「教科書は別として、聖書はもう何となく読めてしまうんじゃないですか?それは嬉しんじゃないですか?」

「まあな」

「多分この四人の中で、パオルは誰よりも敬虔ですよ」

「その言葉だよ。その言葉。よくあいつも使ってた」

「フィン先輩が?」

「何かにつけてオレに向かって言ってたんだよ」

「調べました?」

「今から調べる」


 そうして慣れた手つきで辞書を引いていく。その姿はあまりにも自然で、数週間前までのあのぎこちなさが嘘のようだった。僕が感慨に浸っている間に目当ての言葉にたどり着く。


「そうか」


 パオルは辞書に書かれたその言葉を見て、どこか納得するように、どこか気恥ずかしそうに頷いた。


「悪い意味ではないでしょう?」

「俺はあいつからこう見えてたのか」

「話の流れはよくわかりませんが、そうなんでしょうね」

「てっきり、バカにされてるとばかり思ってた」

「フィン先輩は人をバカにしたりはしませんよ」

「そうなんだな」


 パオルは無造作に机の上に置かれたレザメットを握りしめて祈りの姿勢を取った。時々彼はこうして他人の目を気にせずに祈りの姿勢を取る。心の機微に寄り添わせるように、神に心を預けているように見えた。


「苦手意識、減りました?」

「別に苦手なんかじゃねぇよ。気にくわねぇだけだ」

「その内、仲良くなれるといいですね」

「そんな日はこねぇよな。まだ人形と仲良くした方がマシだ」

「あはっ、光栄だよ」


 戻ってくりなり、ルカはパオルに食ってかかっていた。


「突然後ろから現れるな、誰も仲良くしたいとは言ってねぇ」

「僕も別にどっちでもいいかな。この部屋だって、ベンヤミンを中心に集められただけなんだし」

「僕は4人で仲良くなりたいと思っていますよ」


 点呼の時間が近づいても、ヨナスは一向に帰ってくる気配がなかった。

 ルカならさほど心配もしないが、ヨナスは初日以降きちんと点呼までに帰ってきている。窓から身を乗り出してヨナスを探すが、灯の一つ見えなかった。そうこうしている内に点呼前の鐘が鳴り、役員が見回りに来た。

 都合の良いことに、今日の見回り当番はフィン先輩で首の皮一枚繋がった。


「ヨナスが帰って来ていません、心配なので探しに行かせてもらえないでしょうか」

「え?ヨナスが?体調不良で自室で休むから放課後の練習を休むって聖歌隊の方に連絡が来てたって聞いたけど」

「え?」

「ベッドで寝てる、なんてことはないか」


 フィン先輩は折り目正しく畳まれて整頓されたヨナスのベッドを確認した。それから少しだけ考える様子を見せた。


「探しに行くにしても検討がつかないな。嫌な予感しかしない、こっちで請け負うから君たちは部屋から出ないように。万が一戻って来たら、残ってる役員に伝えてくれればいいから」


 そう言い残してフィン先輩は慌てて何処かへ行ってしまった。


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