夢遊病の原因は何?
翌日、僕は礼拝集会が終わり朝食を食べるとすぐに図書室へ向かった。片っ端から本を集め、閲覧机に積み重ねると一冊一冊該当するページをじっくりと読み、メモを取った。
ルカは良い参謀のようで、彼の助言は的を得ていた。夢遊病という奇怪な病気も、本によればヨナスのあの状態に当てはまるように思えた。そうとして対処するのが一番効率がいいように思えた。夢遊病とは睡眠時遊行症とも夢中遊行症ともいうらしく、主な原因としては興奮状態のまま寝てしまうか、極度の精神的なストレスが原因らしい。素人目線から見ても、どう考えても原因は後者だろう。彼の日常を考えると興奮状態になることは稀だ。
休息日を費やして図書館を調べたが、専門書の類はそう多くはなく、どれも似たり寄ったりでこれ以上はわからなかった。いっそのこと外出届を出して街の書店を回ってみようかとも思ったが、僕自身専門家でもないので、素人が余計な知識ばかり入れるのはどうかと思い直した。
当たり障りのないままでいる方が、素直な目でヨナスを見ることができるのではないかとあれこれ考えては結論は出なかった。
次の日の昼休みに僕はフィン先輩を“いつもの会合場所”に来てくれるように伝言板に書き記しておいた。
「熱心だね」
「すみません。よかった。初めて伝言板を使ったんです」
「毎朝確認するよ。相談役としての仕事も書かれてることが多いからね。ところで、早々に亡魂の正体と原因がわかった、といったところかな」
「早々すぎて驚きも何もありませんけど」
夢遊病についてはルカから事前に提案されて疑っていたこと、パオルが仕掛けを作るのを手伝ってくれたこと、怖気付く僕を先導してルカがヨナスを追ってくれたこと、どれだけ自由に歌うヨナスが美しかったかを僕はフィン先輩に報告した。するとフィン先輩は少し驚いた顔をした。
「ルカやパオルが君に協力したの?僕としてはそっちの方が驚きだよ」
「やっぱりヨナスとわかった上で、僕に話をしたんですね」
「悪いとは思っているよ。でも君、僕が何言ったって実際目にしなければ信じやしないだろ?」
「それはまぁ、そうですけど」
確かにヨナスと判明した時、僕は怖気付いて彼を追いかけることができなかった。ルカがいなければ屋上に辿り着くことすらできなかったかもしれない。
「彼らを真正面から信じるって決めてますし」
ここでこれを口にするのはとても言い訳じみていて、言いながら少しだけ惨めな気持ちになった。
「それに、若干怖気付いてた」
ニヤリと笑うフィン先輩に、僕はぐうの音も出ない。
怖気付いたのは自分の境遇と、今のヨナスを重ねてしまったからだ。信じるなんて安っぽい常套句は、フィン先輩の前では紙よりも頼りなかった。でもその気持ちが少しでも無かったかと言えばそうじゃない。
ヨナスが亡魂じゃないと、僕は信じたかったのだ。
「さて、それじゃあ、これからのことを考えようか」
「何か妙案でも?」
「正直、役員寮に変わったことで、一般生徒はヨナスに何もできなくなった。亡魂は現れなくなり、めでたしめでたし。だけれども噂はずっとヨナスに付きまとうし、彼の現状は悪くなっても良くはならない」
「ヨナスに我慢を強いるということですか?」
「彼のストレスは彼自身に影響を与えていないからね」
「どこか別に発散場所を見つければいいと」
「ご明察。で、夢遊病の彼についてどう思った?」
「とても艶やかでつややかで、まるで天使のようでし…た…って、え?」
「彼屋上で歌ってたんでしょ?」
「なんで知ってるんですか?」
「なんでって、構造上の問題とあとは、こじんまりとした寮で僕の部屋は4階だからじゃないかな?」
僕はいまいちフィン先輩が何を言いたいのかわからない。
「前の寮で歌う幽霊なんて噂が無かったのはどうしてですか?」
「簡単なことさ。歌っていなかったんだよ」
「ん?」
「だってあっちの寮、洗濯物が干されていなければ、休息日でも昼過ぎには施錠するでしょ。そして鍵は教師が管理する」
「確かにそうですね。じゃあ、歌うことが目的で徘徊していたわけじゃないということですか?」
「そうなるよね」
答えは自分で探せということだろうか?にこりと何も言わないフィン先輩を横目に、僕は必死で考えた。
昨日のヨナスを思い浮かべる。まるで女の子のような様子で、屋上で艶やかに優雅に歌う姿。
「ヨナスのストレスはもっと別のところにあるということですか?」
「別のところとは?」
「基本的に、ヨナスは歌えれば満足なところがありますよね?」
「そういう傾向は多分にあるように見えるね」
「だから、なぜあんな格好をしているのかと思ったんです。ヨナスの目的は、噂されているような、驚かせて楽しんでいるとは違うと思うんです」
「それって一番最初に思いつくところじゃないの?」
ひょいとルカが後ろから声をかけてくる。
「この件に関して、どうも君の興味を引いているようだね」
「御託はいいよ。僕は彼が気に入ったんだ」
「ルカは、ヨナスのあの格好にどのような意味があると思いますか?」
「そうだね…、あの格好は自己実現の訴求の結果、とか?」
「そうなりますよね。彼は今回たまたま歌える場所があったから歌っていただけで、本来歌うことが目的ではなく、あの格好をするのが本来の目的であると」
「そう考えるのがしっくりくるよね」
「それだと女の子の格好がしたかったということになりますよね?」
「そうなんじゃないの?」
ルカはさも当たり前というように僕を見る。フィン先輩の様子から既にその結論に達した状態で僕に話を持ちかけたのだとわかった。
「ベンヤミンに渡した資料にもあるけど、ヨナスは途中入学者だね。1年次の終わりに入ってきて、2年に進級することにはもう噂はあったと思うよ」
「ヨナスが聖堂のあの場所で歌うようになったのは2年生の途中からなので、嫌がらせがヨナスの最たるストレスでは無いということになりますよね」
「この結論からいくとそうなるね」
フィン先輩はさあ、さあ、と僕が答えに辿り着くのを今か今かと待っているよう見える。
「ヨナスの忘れ物って、もしかして白いシーツで作ったドレスですか?」
「正解。まあでもドレスというには大変お粗末なものだけどね。一応、口外するなとは元同室の生徒には言っておいたけど、あまり意味はないだろうけど」
「そうでしょうね」
着るつもりのなかったシーツで作ったドレス。作るだけ作ってしまいっぱなしだから一着元の部屋に忘れたことにも気が付かなかったのだろう。夢の中で綺麗なドレスを着て観衆の中流行歌を自由に歌っているのだろうか。
空を仰いでため息をつくフィン先輩を尻目に、ヨナスの様子を思い浮かべた。決して男らしい振る舞いをしているわけではないが、それでも女の子というものとは乖離しているように思う。
僕の知っている女の子は、いつでも集団で甲高い声でキャッキャと笑い、肌の色や髪の色、瞳の色を揶揄して、また甲高い声で笑う生き物だ。これは確実に偏見で、そうじゃない女の子も沢山いるのはわかっているが、実際に体験として、体感として知っている女の子というものはこういう生き物だった。
それから考えると、どちらかというとそう、ルカのいうように天使に思える。
「天使になりたいんでしょうか」
「天使?」
「なぜまた天使」
ルカとフィン先輩がそれぞれ驚く。驚くようなことを言ったつもりはなかったため、何となく違和感を覚えた。
「だってそうでしょう?あの白い格好、どう見ても天使だったじゃないですか」
「ヨナスがここで手に入れることのできる大きな布生地といえば、シーツくらいだからじゃない?ごまかしも効きやすいだろうしね」
「部屋に戻って家探しでもする?」
「プライバシーの侵害です」
「本人気にしやしないよ」
「フィン先輩、これは道徳の問題ですよ」
「じゃあ、それこそ本人に直接聞くべきだ。ストレスの根源が天使になりたいじゃお話になんてならないじゃないか?女になりたくて、それでそんなキチガイいらないって親に言われて、この学校へ押し込まれたってだけの、単純な話だよ」
「その根拠は何ですか」
「だーかーらー、それを本人に直接聞くんでしょ」
矢継ぎ早に波状攻撃を繰り出す弁の立つ2人に、僕はとうとう何も考えられなくなる。資料は必要がない限り見ないことに決めているとはいえ、事前情報として知らなければならなかったの最低限事項だったのだろうかと後悔しそうになる。
「実際彼の所見を見ると、中途入学の理由は家族が許可を出さなかった、だからね。並外れて聖力の高い彼を個人で占有することはこの国では認められていないし、結局は教会が動いて彼は家族の元から引き離されたとは思うよ。実際、イゼの位を持つ神祇官による 家族との面談回数が書かれていたし」
イゼが動くほど聖力が高いなら、両親、その一族に圧力がかかるのはわかる。
「じゃあ、逆だね。家から出さずに飼い殺しする予定だったところが教会と学校に救い出された、と」
「まぁ、ここで論議してもしょうがないよね。ストレスの根源がそれだとして、彼はそれをすぐに理解して肯定するとは到底思えないからね」
「認めないってこと?」
「現に夢遊病なら本人に自覚症状なんてないし、本人が女性になりたいって気づいていないことだって考えられるよね」
「藪蛇なんて気にしてられないよ」
「繊細な問題なんだから、先走ってはいけないよ。そもそもルカ、君は直接首を突っ込んではいけない。これはベンヤミンがやるべきことなのだから。僕も君もベンヤミンの相談に乗ったり助言することはできるけど、直接関わるのはダメだ。それに、夢遊病が本当なら専門家に任せて僕らはこの件から手を引くべきかもしれないからね。でも考えれば何か光明は見えるかもしれないからもう少しだけ時間をかけてみよう」
そう言うと、そろそろ昼休みが終わると言って、フィン先輩は教室に戻っていってしまった。
僕はとうとう口を挟むことすらできずにフィン先輩に呆れられたかもしれない。
「たまには午後の授業に出るかな」
「……、僕は出たくないですね」
「珍しい、優等生じゃ無かったんだ」
「優等生ですよ。優等生でもそういう気分の時があるんです」
「ベンヤミンは結局、世間擦れしてないお坊ちゃんなんだよ。よく両目を開いて見てごらんよ。ベンヤミンがいた世界は見たくないものばかりだったのかもしれないけど、目を瞑っていいことなんかひとつもないしね。ここはきっとベンヤミンの知っている世界よりもずっと優しいし、綺麗だよ」
「ルカ?」
顔を上げると、ルカはこちらを向いてじっと僕を見つめている。瞬きをしないその様子に血の気が引く思いがして、その瞳に釘付けになった。しかし、もしかすると、よほど僕より人間らしい感情を持ち合わせているのかもしれないと、なぜかそのビスクドールのような表情の無いルカに対して感じてしまった。
ルカは僕の何を知ってああ言ったのだろうか。見透かすような両目の宝石は、その中で光を乱反射させている。
「どうしても辛いなら、一緒にマハネ神のところへ行こう」
そう言い残して、走って行った。
本心だろうか、……いや、紛れもない本心だろう。死はやはり彼にとって救済なのだ。
そこまで考えて、予鈴が鳴り重い腰を上げて教室まで走った。
そういえば、名前を呼ばれたのは初めてじゃなかったか。ニヤつくか頰に気づき、我ながら現金だと必死に平常心と抑えつけた。
放課後、役員寮へ戻ろうとしたら、職員棟の前で事務員に呼び止められた。
事務室までついて行くと大量の手紙の束をこちらへ寄越し、これは全てヨナス宛なのだが、彼はちっとも受け取りに来ないのだと呆れた声で言われた。彼に届けてくれということなのだろう。本体なら禁止されている行為だったが、事務員としても再三の呼び出しに応じず受け取りに来ないと嘆いていた。
受け取りの書類に名前と部屋番号を書く。
「違う違う、役員は役職と名前を書くんだ。役職がなければヴィロットとだけ書くんだよ。お前さんの先輩は何も教えてくれてないのか?」
「まだ見習いなんです」
「ヴィロット寮に住んでる生徒は学校側にとってはみんな役員だよ」
そういえば、役員寮はヴィロット、一般寮はエハネットという名前がついていたことを思い出した。入学時にしか聞くことのないその名前を使うのはほとんど事務員だけのように思う。教師も使っているところを見たことがない。
ヴィロットとエハネットは建国に助力した精霊王ヴィロットギステンとエハネットギステンから取られている。この2人の精霊王はレザメットを用いて信仰することを提唱したと言われている。
消印を見ると、新しいものは今週だが、古いものは3ヶ月も前だ。
僕らは入学時に洗礼を受けて神々から名前を授かる。宛先の名前はヨナスの本名が書かれていて、差出人の名前はヨナスの家名とは違っているが全部同じ名前だ。歌以外に興味が無いにもほどがあると、こちらも呆れた。読まれていないにもかかわらずこんなに頻繁に手紙を寄越す様子に少しだけ恐怖する。
数えてみると24通もある。消印を確認しながら来た順に並べ替えると、手紙の主は律儀に毎週手紙を送っていることがわかった。
「遅い。わざわざベンヤミン、君のためにこの時間をあげているんだからね」
部屋へ戻ると大変ご立腹な様子のルカが腕を組んで待っていた。表情は相変わらずないが、声と態度はかなり怒っている様子だ。
「ごめんなさい。事務員に呼び止められたんですよ」
そう言って手紙の束をルカに見せた。
「何それ」
「ヨナス宛の手紙です、再三の受け取りの呼び出しに応じないって事務員が困っていました」
「見ていい?」
「ダメに決まっているじゃないですか」
「どうしても?」
「どうしてもです」
「ケチ」
「ケチとかそう言う問題じゃありません」
ひらひらと僕の手から手紙を奪おうとするルカを必死に抑えつけて、ヨナスの机の引き出しにしまい込んだ。
「机を勝手に開けるのはいいんだ」
「揚げ足を取らないで下さい」
屋上の一件からルカはすっかり打ち解けてくれたように思う。
ビスクドールのような表情は相変わらずだが、柔らかな一面も見せてくれるようになった。
「ルカは人見知りだったりしますか?」
「安易に信用はしないね」
「最近懐いてくれてるようで、嬉しいですよ」
「誰が?」
「ルカの話です」
「てっきり猫か何かの話だと思った」
「すっかりとは言いませんが、随分懐いてくれていると思いますよ」
「懐くって、僕を猫か何かだと思ってるの?」
「猫は飼ったことが無いですけど、ルカのような性格なんですか?」
「僕も無いから知らないよ。でも一度だけ母親の親戚が来た時に、猫も一緒だったな、灰色で柔らかそうだった」
「触らなかったんですか」
「遠くから見てただけだから。でも猫って本にはそういうものだと書いてあるよね」
「警戒心が強いけど、気まぐれに懐くって」
「じゃあそっくりですね」
「自覚はないよ」
「それにしても、ルカはよく本を読んでいますよね。夢遊病もそこから知ったんですか?」
「前に読んだ本にそういう登場人物が居たんだ。本はいいよ、どれだけ汚い話でも救いがなくても、それは作り事だから」
ルカとの会話は間合いが重要だった。
今日はとても会話が弾んでいるが、いつでもどこでどう逆鱗に触れてしまうのか、突然会話が途切れることがある。それは主にルカ自身に関することが多く、それ以上に深入りして良いのか、こちらも黙るべきかと距離を上手に測りながら慎重に会話を進めなければならない。
その内、聞くことができるだろうか。
生への嫌悪と死への執着の理由。
大人になりたくない理由。
「今日はそんなことより、ヨナスの話だよ。正直彼のことが終わらないと死ぬに死ねないよね。彼がマハネ神のところへ行きたいって言ったら、喜んで一緒に行くけど」
「そんな馬鹿な入れ知恵をしないでくださいね」
僕が呆れてそう言うと、ルカは声だけで失笑する。何か面白いことを行っただろうか。真面目な話しかしていなかったはずだし、僕は今ルカを嗜めたはずだ。
「案外、そういう感情に向けてしまうのは、君のような存在かもしれないけどね」
「どう言うことでしょう?」
ガチャリと扉が開く音がする。てっきりパオルが早く帰ってきたと思いきや、ヨナスだった。
「ヨナス?」
「わ、…忘れっ…も、の…」
ヨナスはごそごそと楽譜の入った箱を漁り、そこから目当ての楽譜を取り出すと大事そうに紙挟みに挟んだ。管理の仕方は雑な割に、楽譜そのものはたいそう丁寧に扱っていた。
「珍しいですね、ヨナスが忘れ物だなんて。そうだ、事務室からヨナス宛の手紙を預かっていますよ。ルカが興味を示すから、悪いと思いましたが引き出しを開けて入れさせてもらいました」
ヨナスは引き出しを開けずに、そそくさと返事もせずに行ってしまった。
会話を聞かれてしまったのではないかと思ったが、いつもと変わらない様子で安心した。どのみち名前を出してはいなかったので、聞かれたところで自分のことだとは思わないはずだ。それに名前を出していたところで、僕らの会話に興味を持たないだろうから耳に入っていたとしても聞いてはいないだろう。
今ばかりは、そのヨナスの姿勢に救われた思いがした。
「興味が無いのか、読みたく無いのか、どっちだと思う?」
「考えたくありません」
「大事なことだと思うけどね」
「大事なことだろうと、そうでなかろうと、この時間は君との時間だから君の話をしたいんです」
「僕のことなんか知っても面白くもなんともないと思うけどね」
「そんなことありませんよ。ルカの博識ぶりはいつも僕に驚きと発見を与えてくれます」
照れたのか、ふてくされたのかわからないが結局それから口をきいてくれなくなった。
「何か触れて欲しくないところに触れてしまったなら謝ります、どうか機嫌を直して夕飯を食べに行来ましょう」
そう言いながら近寄ったが、どうやら本に夢中になって居て僕に気づかない。
しかしよくよく覗くと、ルカはどうやってかわからないがヨナス宛の手紙を読んでいた。僕はそれに驚いて、勢いよく手紙を取り上げた。
「ダメだって、言ったじゃないですか」
「答えが目の前にぶら下がっているのに?」
「答え?」
「彼の敵もまた彼の両親だよ」
彼の敵もまたと言うのは自分の両親のことも指しているのだろうか。それとも暗に僕を見透かしてそう言ったのかわからなかった。
「君はどれだけ僕が無理強いしても読まないだろうから、この分厚い手紙を要約するよ。ちなみに6枚もあったよ」
僕は慌てて耳を塞いだが、ルカのどこにそんな力があるのかというような強い力で腕を押さえられた。
「簡潔に言うと、無理矢理入学させられたのだから、学校はヨナスを立派な男の子にしてくれたんでしょうねって言う内容をくどく6枚にも渡って書いてあったよ。ヘドが出る」
口調は激しいのにその表情は何一つ変わらないルカに、僕は今程不気味に思ったことはい。血の気が引くのを感じたが、それに気づかれないように僕は精一杯平静を装った。
「彼が学校来れなかった理由は、彼が女の子になりたかったからなんですか?」
「この手紙の文面からだとそうだろうね。母親の服を勝手に着られたのがどうしても気持ちが悪くて、お気に入りだったのに捨てるしかなくなったことへの恨み節はひどいものだだったよ。この調子だと、残りの23通全部同じ内容じゃない?」
「まさか……」
「誰も君や他の生徒のように、幸せな手紙がくるような生徒ばかりじゃないよ。知らなかった?現に僕はこの学校に来てから両親から手紙をもらったことはないよ。パオルもそうじゃない?まぁあっちは文字が書けないって場合もあるだろうけど」
「まさか」
「ベンヤミン、君はどうやら自分より酷い環境の他者に対して思考が停止してしまうみたいだね」
思わず両手で口ふさいだ。
その拍子に持っていた手紙がバラバラと足元に落ちる。手紙に書かれた文字は、パオル程ではないが几帳面で、とても優しい文字に見える。しかし、どうやらその文字の印象と手紙の内容は大きくかけ離れているようだ。
机上の空論ではないが、知っている、理解しているのと現実に直視するのとでは訳が違う。
「ぜひ、君はヨナスに許可をもらってでもこの手紙達を読むべきだと思うよ。僕らに関わりたいと思うならね。こう言っちゃなんだけど、パオルのように単純な話ばかりではないよ」
何も言えなかった。
ルカは静かに手紙を拾い上げて元あったように閉じて、他の手紙と一緒に机に押し込めた。そして静かに扉から出て行った。
追いかけて何か言わなければならないのはわかっていたが、何を言わなければいいのかさっぱり見当がつかなかった。彼の言う思考停止とはこう言うことなのだろう。彼はよく見ているし、よく見えているのだろう。だからこそ、大人になりたくないと言うのかもしれない。
「なんだお前、飯食いっぱぐれるぞ」
「パオル」
「どうせあのバカか人形に嫌なこと言われたんだろう。あいつらはいつもそうだ、ロクなことを言いやしねぇ」
「半分あたりで半分外れです。僕は色々と悩みすぎていけないようです」
「何考えてんのかワカンねぇあいつらより、ずっとお前の方がマシだからな。だってよ、お前ちゃんとわかりやすい言葉で言ってくれるじゃねぇか。今だって、ちゃんと悩んでて困ってるんですって言ってくれるのは、ありがてぇよ。どうせ俺が聞いたところで役にたたねぇが、お前が困ってるってのを知っててやれる。それって大事なことだと思わねぇか?」
「そうでしょうか」
「お前が俺にしてくれてることだよ。俺はそれがありがてぇことだと思ってる。俺の感情にしっかりと名前をつけてくれるからな。俺は今までどうしてイライラするのかわからないことにもイライラしてたからな。……って、泣くなよ」
パオルは袖を伸ばして、涙を拭ってくれる。ゴシゴシと痛いくらいに。でもそれはとても嬉しいことのように思えた。
「すみません、少しでも役に立ててるってわかったのが嬉しくて」
「それだよ」
「ここであのバカみたいになんでもないなんて言われてみろ。俺はお前がどうして泣いているのか理解してやれねぇ。よくワカンねぇが、自分の気持ちをちゃんと言えばいいんじゃねぇか?俺にしてくれるみたいにさ」
遠くで予鈴の音がする。
「長々と喋っちまった。行くぞ」
そう言うとパオルは僕の手首を掴んで部屋を飛び出した。
彼は僕の後ろめたい気持ちなど気づきもしないのだろう、袖で涙をぬぐいながら一緒に走って食堂へ向かった。
イラスト協力:pizza様 https://www.pixiv.net/users/3014926