亡魂の噂と正体について
週が明けてしまえばいつも通りの学校生活が始まった。特筆するような問題は何も起こらず、部屋替えから2週間が経とうとしている。僕と言えば安穏とこの平和に胡座をかいている訳にはいかず、どうすればいいのか考えあぐねいていた。
ぼんやりとただ安穏としていた訳ではないが、あまりに彼らの問題が僕の前で矮小化してしまっていた。パオルに必要な学習課題を見出したし、ルカの放浪癖も小煩くたしなめ、その結果煩わしいさが勝ち、点呼の時間に部屋にいるようになったというのが大きい。が、問題はヨナスだった。
ヨナス本人に問題行動があれば、それを正すことはできるのだろうが、彼の場合、彼自身と第三者との関わりが問題だった。彼自身はとても折り目正しく規則正しい生活をしていた。カウラの時が来る前に起きて、僕らを起こさぬように気配を消しながら朝支度をし、朝の自主練へ赴く。
発声練習からその日の礼拝集会で歌う曲目を練習して、起床の号令前に集まる聖歌隊員の朝練に参加し、朝食前の礼拝集会で声高らかに歌い上げる。その後一般生徒と同様に朝食を取り、授業に参加し、放課後はまた聖歌隊の練習に参加し、夕食を取り、また自主練に励むのだ。そして点呼前に自室に戻り、夜支度をして点呼後すぐに就寝するのだ。
1日も乱れぬことなくそれを続ける、あまりにも四角四面なヨナスに一目置くならわかるが、どうして嫉み妬みといった感情を持つのだろうかと、ただただ疑問しかわかなかった。
僕視点からの問題は、学年が違えばクラスも違い、放課後活動も違えば完全に接点がないことだった。彼への危害の正体も結局はほとんどが事前に頂いた資料とフィン先輩からの伝聞で、その実態のほとんどを僕は上手く把握しきれていなかった。
どうしたものかと頭を抱えた。守ってやるなんておこがましいが、僕は彼を含め、彼らが真っ当な学校生活を送れるように導くのが役目なのだ。
「時にベンヤミン、君はヨナスに付随した噂を知っているかな?」
考え込んでいると、後ろから突然声をかけられて声も出せずに退けぞいた。心臓がばくばくと大きな音を立てている。
そう、この2週間で最も距離が縮んだのは誰でもない、フィン先輩だ。
「気配を消して寄らないでくださいと、何度も伝えましたよね」
「丁度僕が話しかけようとしているときに、君が考え込んでいるのが悪いと何度も言っているよね」
このやり取りも、もう数度目だ。
あまり公に声を掛けるのをはばかられる内容なので、どうしても僕が1人の時に声をかけてくる事になる。確かに友人と呼べる級友は1人もいないが、上辺だけの当たり障りの無い良いクラスメイトというものは存在する。
義理堅い、これこそ信仰と聖力を認められて入学できた生徒の見本という彼らの一部は、僕を上辺だけでも差別せず、ひとりぼっちにならぬよう、入学当初から遠巻きにしつつも一定の距離内に置いてくれていた。
彼らは身をもって、敬虔なる子羊はみな平等に神の子だと語っていた。だけれども本心とは真逆なのだろうか、それとも自分から壁を作ってしまっているのかはわからないが、この肌と目と髪の色はそういうもので、彼らとは打ち解けることができないでいる。
「用事というのはね、ヨナスの件なんだ」
「週末にでもご相談に伺おうと思っていました。僕はまるで役に立たないんです」
「ああ、そうか、そうだね。でも僕の要件はまた少し違う」
フィン先輩は、黙ってしまった。
僕が余計なことを言うと、思慮深いフィン先輩は時々こうして黙ってしまう。それにこうして僕に知っているかと問うくらいの噂だ、もう学校で知らないのは僕と当事者のヨナスくらいなのかもしれない。つまりは、気を使われているのだ。
「気を悪くしないで。そうだね、君の悩みと同等か考えていたんだ」
「同等とは?」
「言葉通りの意味だよ。彼、どうやら夜中の徘徊癖があったようなんだ。聞いたことなかったかい?前の寮にいる時に女の子の亡魂が出るって」
少しだけ記憶を辿った。
聞いたことがあるような、無いような。そう言えば亡魂が怖いと言って、何度か同室の生徒のトイレの付き添いをしたことがあった。
マハネ神に招かれなかった魂は、エンゾザと共にネソワの時に人を惑わし失わせる。それが亡魂と呼ばれるものだが、僕はあまり信じていない。円環の理を生み出したマハネ神が人の魂を円環へ招かないなどということがあるはずがない。
「ありましたね」
「それがこの2週間ピタリと止んでるそうだ」
「それで僕らの誰かが犯人ではないかと?」
「そう」
「でもなぜヨナス何ですか?僕でも、ルカでも、パオルでもいいじゃないですか」
「発生時期からすると、ルカと君は除外されるんだよ」
「でも、今までそんな様子はありませんでしたよ」
「決して頻繁に目撃例があったわけじゃないんだ」
「それなら、たまたま亡魂が現れていないだけではないでしょうか」
「それが…ね…」
歯切れの悪い口調でモゴモゴと何かを言い淀むフィン先輩の様子に、嫌な予感がした。
「ヨナスの忘れ物があったみたいで、それが、その、ね」
「確たる亡魂の証拠だったわけですか?」
「亡魂の証拠というにはあまりにもお粗末過ぎる物だったし、本当にそれがヨナスのものかという疑いはあるんだけど……、学校には届けずに役員が一時預かりをしているんだ。ヨナス本人に聞いて、ヨナスのものであれば返却すべきか、無かった事としてこちらで処分するか決めかねているところだよ」
それが何なのかを明言しないところを見ると、僕に教えることができないということなのだろう。傍証はできるだけ提示するから、そこから先は自分の目で確認しろと言うことなのだろうか。
「でもなぜ?ヨナスであると疑うならそれなりの理由は必要ですよね」
「日頃の鬱憤ばらしに生徒を驚かせて楽しんでいる」
ここで日頃のヨナスのあの制欲的な生活が裏目にでるのかと、複雑な心境に陥った。
「というのが、噂の終着点だよ」
「それじゃあ、ますますヨナスの立場が悪くなるじゃないですか」
今はまだ噂だけで済んでいるかもしれないが、現状無視や陰口、物隠しやちょっとした暴力、暴言がさらに助長したらどうなるか、僕自身嫌になるほど身に染みている。どうしたらいいのか、どうすればいいのか、どうしても僕自身のことが先ん出てしまい上手く考えることができない。
額に、背中に脂汗が滲むのがわかる。
僕自身が受けてきたあれこれが、背後にある濃い影からじわじわと手を伸ばしているように思えて、今すぐに逃げ出したくなった。できるだけ平静に、気取られないように、必死に繕った。
「ヨナスは歌うことができれば案外そういうことには無頓着なんだよ。目下怖いのは、楽譜に何かされることなんだけど、今の所、彼に対して危害を加えているのは彼や僕が所属している聖歌隊の隊員が主だから、ある意味、大丈夫なんだけど……」
「楽譜に何かあれば、どうなるんですか」
「楽譜について何も知らない一般生徒が噂を鵜呑みにし、嫌がらせを模倣して、楽譜を破いてしまったり落書きしてしまったなら一大事なんだ。ヨナスの個人所有の写しなんかは学校の管理の管轄外だから大丈夫だろうけど……、いや大丈夫じゃないけど、聖歌隊の財産なら、その生徒は間違いなく反省房行きだよ」
フィン先輩はわざと視線を外していた僕と目を合わせた。気取られたことに気づいて、また再び脂汗が滲む。彼はそういうことに秀でているからこその役員、それも相談役なのだ。
「まずは、ベンヤミン、君に事の真偽を見極めてほしい」
しかしフィン先輩は僕の様子に言及することなく、話を続けた。見逃してくれたのかそうじゃないのか僕にはわからない。
「そして亡魂の正体がヨナスでないのなら、その事案はこちらで受け持つことになるよ。でも、亡魂の正体がヨナスなら、君が君自身の知恵と勇気で解決しなくてはいけないよ。役員の手を借りずに、というのが約束だらね。あ、相談は大丈夫だよ。僕でなくても僕にでもどんどん相談して。君の動向を中心に彼らの動向も把握しておきたいからね」
「あの、もし、1人で抱えられるものではなかった場合はどうしたら……」
今度ばかりはフィン先輩は肩をすくめて呆れた顔を向けた。
「早々に弱気だね、あの時の威勢の良さはどこに行った?」
そうだった。
思い出した。
僕は僕たらしめんために、それを成し遂げなければいけないのだ。父のためにも、母のためにも、兄たちのためにも。
「そうでした、僕は僕のためにも何としてもやり遂げなくてはならないんです」
そうフィン先輩の目をしっかりと見て言うと、なんだかはっきりとした気持ちになり、やっといつもに自分を取り戻せた気がした。見透かすようなフィン先輩の目は、僕がしっかりと目を合わせたことでその色をいつもの柔和に戻した。だが本当にそうなのかは自信が無い。いつだって目の前にいる人は、自分を映す鏡のようなものなのだから。
「その意気だよ」
フィン先輩は吊るしていない方の手で僕の肩を叩く。
「君はいつでも自信を持って前を向いていてくれると、彼らはきっと同じ方向を向いてくれるよ。それが虚勢だろうとなんだろうと、関係ないんだ、その姿勢が大事だからね。君が彼らの道標となってくれれば僕も安心できる」
そこまでの存在になれるだろうかと、思わず青色吐息が漏れる。
今度のこれは、劣等感からくるものではなくただただあまりの重責に押し潰される思いがしたからだ。何十年後、自分自身の足でしっかり立って他を導ける存在になりたいと思っている。でも誰かに途を示してもらっている今の僕が果たしてそんなことをしてもいいのだろうか。
「何がそんなに不安かな?」
「資格があるのでしょうか」
「資格?そんなものは要らないよ。彼らに寄り添えればいいんだよ。難しいことなんて何もいらない。彼らはそれを求めているんだ、君は自分が思っている以上にずっと明るい方向を向いているんだよ」
フィン先輩は僕を買いかぶっているのか、僕のそうありたいと言う姿勢を言ってくれているのか、全くわからなかった。
「パオルにそういう傾向が強いのはわかります。でもルカとヨナスにただまっすぐな道を前だけ見て歩くように示すことが当てはまるとは思えません」
「確かに僕らは彼らではないからどう思っているのかはわからないけれど、でも人間後ろよりは前を見ているほうが健全だと思うけど」
「それはそうですが」
「でもそうだね……。特にヨナスはそんな当たり前とか、一般的な規格というものから少し外れるのかもしれない」
「ヨナスは明るい方向を向きたくないということですか?」
「ちょっと違うかもしれないけど、僕は彼に対してそうなんじゃないかと思っているんだ。彼は君の向いている方向とは違うと言う意味でね。でも決して前を向いていないという訳ではないと思うよ。これだけ言った上で、身勝手な言い分だけど、僕は本当に彼がわからないんだ。だから君に何一つ助言をしてあげることはできないけど、一つだけ言えるとしたら、君は君自身を信じてまっすぐ進めばいいんだ。どっちに転ぼうとも、ね。僕らは彼らについて、君の出した答えを支持すると決めているから」
何かを確信しているような、どこか含みのあるフィン先輩のその言葉は最悪を考えろと言わんばかりだった。
ふと思う。フィン先輩を除く彼らは本当にヨナス以外の救済を求めているのだろうか。むしろフィン先輩すらも僕を含めたあの部屋にいる4人が来年この学校にいない事を望んでいるのではないだろうか、という疑いの気持ちがぼんやりと浮かんでくる。
だが僕はフィン先輩だけは信じたいという気持ちでいっぱいだ。盲信さを見破られているのだろうか。そうであって欲しいと願うのは悪いことではないと信じたいのだ。
すぐに僕は行動に移す。その日の午後の授業の合間に僕を輪の中に入れてくれているクラスメイトに訊ねてみた。彼らは普段僕から話しかけることがないため驚きはしたが、今をときめく噂話なのだろう。すぐに詳細を教えてくれた。
彼らひとりひとりの知る噂話は少しずつ違ったが、共通点は三つ、白い亡魂、女の子、週に何度も現れていたのにここ2週間誰も見ていない。その亡魂を見ることは一種の栄位のようなものになっているらしい。
5人にしか聞いていないが、その中の3人が実際に目撃していたし、同室の生徒が目撃していたことや、1人だけ追いかけたという生徒がいたが、寸でのところで姿を見失ってしまったらしい。そして、「彼女は甲高い声でクツクツと笑って、白いスカートを翻しながら走って行ったんだ」というどこかの安っぽい恋愛小説の一文のような感想を頂いた。
その日、役員寮に帰るとめずらしくルカが部屋にいて勉強していた。今日は面談はせずに勉強がしたいということなのだろう。でもなんとなく話し相手が欲しかった僕は、そんなルカを無視して淡々と僕が今日耳にした噂話とフィン先輩との会話を聞かせた。
「今日僕は勉強しなくちゃいけないって見てわかるでしょ?で、なんで僕になんて言って欲しいのさ」
「何か言って欲しいとは思っていません。君が一番この件に興味を持たなさそうだったので、無視してくれるとばかり……」
返事を期待していなかった僕は、ルカがしっかり話を聞いていてくれたことに驚いた。そんな情の深さをとは裏腹に、冷ややかな瞳がキラキラと日の光を浴びて煌めいた。どう見てもよく磨かれた宝石にしか見えなかった。
「あの人がまた変な入れ知恵でもしたの?」
「入れ知恵?助言ですよ」
「盲目的にあの人を信じるのはどうかと思う」
「でもこの件は僕だけでは到底気づくことができませんでしたよ」
「そりゃそうさ、ヨナス本人がなんとも思っていないのだから。あれは鈍いのではなく、僕以上に全てに関心がないんだよ」
僕とルカは同時にヨナスの机を見た。ボロボロになりひどく落書きのされたノートが無造作に置かれている。一度部屋に戻って、慌てて楽譜だけを持って練習に行ったという様子だ。
「知ってます。彼のノートを見せてもらいました。とても後から復習や考査対策の勉強ができるものではありませんし、新たに板書をすることも難しい有様でした。でもヨナスはそれを全く気にしていないんです。落書きの上から、破られた箇所も気にせず続きから板書するんです。だからどんどん激化していっていると言うのに、自分のことなのにヨナスは全く関心を持とうとしないんです」
「そりゃそうさ。ヨナスは歌うことができさえすれば、それだけで良いんだから」
彼の横顔を見ながら、彼の無機質な瞳を眺めた。一本一本精巧に植えつけられたような金色の長い睫毛は、時々バサリと瞳を覆う。
やはり同じ人間だと、どうしても思うことができなかった。本当に魂の宿った人形なんですと告白されても納得してしまいそうだ。
「もしヨナスが亡魂の正体なら、この寮でも亡魂が出るってことになるよね」
「今の所、そういった話は無いみたいですよね」
「でもこの寮って、人数もたかが知れているよね。役員と僕らみたいな監視対象の生徒が数人、全部で40人もいないよね」
「確かに、夜警の当番がそもそもいないですから、お手洗いに起きるくらいしか遭遇する機会は無いでしょうね」
「あっちの寮みたいに部屋から距離があるわけではないから、それも難しいね。だったら不寝番でもしたら?」
「それも悪くありませんが、一つ仕掛けをしてみようと思っています」
この会話中、ルカの表情は何一つ変わることなく、緩慢に唇が動き瞬きしたくらいだった。声色と表情が全く一致していない様子は、亡魂よりも奇妙なものに思えた。
ぷにっと思わず僕はルカの頬を突っついた。
パオルであれば眉間に深い皺を寄せて手を叩いただろう。ヨナスであれば泣きそうな困った顔をして顔を赤くするか青くしただろう。
「硬いのかと思いました」
「は?」
「それに柔らかい」
「どうして硬いと思うんだよ」
唖然としている僕の手をルカは思い切り振り払った。触った頰を空いた手で拭っている。
「家にあるビスクドールに、君と同じ瞳をしたものがあったことを思い出したんです。あまりにそっくりで、それに君は表情を変えなくて、もしかしたらと」
「人形だと思ったの?」
「実は人形ですと告白されても驚きません」
「残念ながら、これでもれっきとした生き物なんだよね」
おもむろにルカは、筆箱から鉛筆を削る用のナイフを取り出して腕をじわりと切った。そこから赤い血がゆっくりと腕を伝った。ぽたりと一雫落ち切るまで、その様子を凝視してしまっていた。
顔を上げてルカの顔を見たが、その非日常の様な様子に不釣り合いな程平静な表情をしていた。
「痛くないんですか?」
「顔をしかめるほどは痛くないね」
そう言うルカの表情はまるで変化しなかった。
僕は手に持ったナイフと、腕から溢れる血、そしてルカのビスクドールのような顔を交互に見ながら、人と人形の違いについて考えていた。確かに人は血が出るが、人形は血が出ない。
「救護室に行来ますか?」
「この程度なら行かなくて平気、しばらく押さえておけば止まるよ」
「そうなんですか。でも突然、どうしたんですか?」
「人形は血なんか流さないし、死人も亡魂も血を流したりしない」
「そういうものですか?」
「知らない」
床にぽとぽとと血を落とす。ルカは慣れた手つきでハンカチで血を抑える。
白いハンカチは見る見る赤く染まり、7割ほど赤く染め上げたところで止まった。ルカのあまりに落ち着いた様子に、フィン先輩の言った“死にたがり”と言う言葉が頭を過ぎった。
「ガーゼと包帯と消毒液が机の引き出しに入ってる。そう、二番目の、その奥」
言われるままに引き出しを開けると、そこには簡単な治療の道具が入っていた。消毒液から包帯、ガーゼ。
そこから包帯を一つ取り出す。何度も使われて蒔き直された包帯は、決して新しいものではなかった。ガーゼは新品なようで、油紙に包まれている。消毒液は使いかけのもので、瓶の三分の一ほどしか中身がなかった。
「ルカはなぜ死にたいのですか?」
「ベンヤミンは生きてるのが恐ろしくないの?」
「僕はやりたいこと、成し遂げたいことがいっぱいあるんですよ。だから大人になるのが待ち遠しいですね」
「へー。それは、とてもいいことだね」
「羨ましく思いますか?」
「どうして?」
ギョロリとした目が今日初めて正面から僕を見た。大きく開かれた目は、いまにも眼球が落ちてしまうのではないかと心配になった。
「どうして?大人になることが恐ろしくないの?気持ち悪くないの?」
「今までそんなこと、考えてたことなんてありませんでした」
「そう、なんだ」
途端に興味を失ったようで、腕を抑える手に視線を落とした。おおよそ血の止まった腕からハンカチを外し、慣れた手つきで消毒してガーゼを乗せ、包帯をまいていく。あれだけ血だったのだから深く切ったのだと思ったが、そうでもなかったようだ。
「器用ですね」
「ただ、好機を逃し続けたことが問題なんだ」
「どう言う意味ですか?」
「僕が今こうしてここにいる理由だよ」
「マハネ神は救済の神ではありませんよ」
「別に僕はここにいる生徒のように、右習えをしている敬虔な信者ではないよ。救済を求めたのは僕の両親さ」
「ルカのためでは無いんですか?」
「それだけは無いね」
今日は嫌に口の滑りがいいと思った。
彼にとっての自傷行為は何かとても意味のあるものなのかもしれない。あれだけの血が出ているのに眉ひとつ動かさないのは、その痛みに慣れているからなのだろうか。巻き終わった腕を凝視した。
陶器のような真っ白でツヤのあるような腕は、よくみると所々細かい傷でいっぱいだ。
「別に痛いのが好きだとか、血を見るのが好きだとかじゃないよ。ただうまくいけば死ねるかもしれないと思っているだけ」
「もっと確実な方法があるんじゃないですか?」
「確実な方法は幾度も試したさ。首を吊ってみたり、異国の習慣のように腹をかっ裂いてみたり、湯船に浸かって腕を切ったこともあるね」
ルカはシャツをめくって僕にお腹を見せた。おへその上に随分前に治った一筋の傷があった。
「確か10歳の時だったかな、すぐ死ぬためには力が足りなかったんだ。気が付いた時には病院で、医者や看護師に随分と説教されたよ。聖力が高かったから生き延びたって。飛び降りは後始末が大変と聞くし、第一、確実に死ねる高さじゃないともっと自分では死ねなくなってしまうらしいじゃないか。だからと言って、毒なんかは子供の僕じゃ到底手に入れることなんてできない。ああ、そういう意味では早く大人になりたいね。でもダメか、僕はそこそこ聖力が高いからなまじっかな毒じゃ苦しむだけで死ねそうにない。まぁ、そうやって、どれもうまく見つかって助けられてしまったのが今の僕だよ」
「それでここへ?」
「病院は体裁が悪いし、聖力の高い子供は国に通告する義務があるからね。低翼手放すにはおあつらえ向きだったってこと」
「大人になりたくないという死にたい理由をご両親はご存知なんですか?」
「さあ、どうだったかな」
ルカは床に落ちた血もガーゼで綺麗に拭いて、それらを油紙に包んで捨てた。
「洗えば使えますよ」
「洗ってまで使うものでも無いよ」
そう言ってルカはベッドに倒れこんだ。僕はルカの椅子を借りてそこに座った。
「ヨナスの件ですけど、ルカは亡魂を見たことありますか?」
「それって、僕にあれこれ話を聞かせる前に聞くこと、だよね?」
ルカは呆れたと言わんばかりに大きなため息をこれ見よがしに天井へ向かって吐いた。
「もちろんあるよ、何度も」
「どうでした?」
「白い、女の子の亡魂だったと思うよ。ぼんやりと、姿が光に溶けてるように見えた」
「追いかけたりとかはしなかったんですか?」
「興味もないし、そんな粋狂でもないよ」
「綺麗でした?」
ルカは体を起こして、こちらにじっとりとした視線を送って、またため息をついた。こうやって見てみると、彼の動作は表情などに頼らなくても余程感情を表しているようにも見える。
「どうだっただろう、顔まではちゃんと見たことないな」
「ヨナスに似ていましたか?」
「背丈は近いんじゃないのかな」
ルカは不機嫌さを表すように、ボリボリと頭を掻いた。
「あの人はヨナスを完璧に疑っているんだね」
「最悪の事態を考えておけ、みたいなことは言われましたね」
「ああ、嫌だ嫌だ」
そう言いながらまたベッドに倒れこんだ。
それきり、ルカは何を言っても反応はなく寝ているのか、ただ目を瞑っているのかわからなかった。
イラスト協力:pizza様 https://www.pixiv.net/users/3014926