愛を知らずとも
次の日にはすっかりソナラ神は落ち着かれ、打って変わってカウラ神が勢いを増したため、僕らはナヨカウラを存分に満喫することができた。
ルカの後見人もといティルマン様は僕らを心配して朝も早くから駆けつけてくれた。僕らはこの時初めて彼の名前を知って、ティルマン様を驚かせた。ティルマン様はまだ神祇官ではない僕らが様をつけることに難色を示したが、フィン先輩がそう呼ぶのでルカ以外は自然とそう呼んでしまっている。実際調停者とはいえ、ラドシュカのトルテルプなのだから、そう呼ぶのは妥当だと思う。
それからその日の午後にはヨナスがお世話になっているお店の従業員が、心配してわざわざヨナスを迎えに来た。ヨナスは心配しなくてもちゃんと出勤するのにと照れたように笑っていた。
このお店はジャデルシャーゼとは違って普通の酒場だ。店長と一部の従業員しかヨナスが分化できなかった未分化だと言うことを知らない。言う必要はないのではと臨時の保護者となっているティルマン様は面接の前にヨナスに言ったようだが、ヨナスは隠す必要性がわからないと、女性ではないと言うことを伝えたそうだ。
その週末には街で大きなマルシェが開かれると、ルカとフィン先輩はティルマン様に連れられて、野菜の苗を見に行った。食料と一緒に様々な品種の苗やレンガ、育成に必要なあれこれを買って帰ってきた。僕とルカはインドアなパオルを引きずりながら菜園へ向かい、汗水垂らして畑を耕したり苗を植えたりした。
長雨はルカに十分な知識を植え込むのにうってつけだったらしく、農家顔負けの風体で僕らにあれこれと指示をした。ヨナスは大きいツバの帽子を被って時々フィン先輩と一緒に、飲み水と軽食を持ってきてくれた。
「学校に戻るまでに収穫できるのかしら」
「無理すれば日帰りできない距離じゃないから、収穫が終わるまで毎週通ってもいいかもね。でもね、別にいいんだ、収穫できようとできなかろうと、ここで僕が何かをしたっていう痕跡があれば」
「是非を問わなければ勿体ないから、ティルマン様に収穫にきて貰えばいいよ。なんだかんだ言ってあの人、ルカを可愛がっているからね」
「可愛がられる覚えも謂れもないんだけど、お金の縁くらいしか」
「んなこと言ってやるなよ。こっち来る度に帰りたくなさそうにしてるのがそれだろ?」
「それはフィンがここにいるからじゃないの?」
「それは無いよ。ここへ来るより僕が向こうに手伝いに行く方が多いんだよ」
「純粋な好意に慣れるのも大事ですよ」
ルカは複雑な心境と言わんばかりの表情で僕らをぐるっと見渡した。無償の好意について彼は知らないのだから仕方のない事だけど、不憫だなと感じた。
確かにティルマン様との間には、お金で雇われている調停者であり後見人だ。でも彼はとてもルカを可愛がっているのは、僕らの目から見ても一目瞭然だった。僕らはそれを信じることのできないルカに、どうしてと直ぐに尋ねてしまうが、ティルマン様は大人だからだろうそれを実感するのをひたすら辛抱強く待っているように見える。
「いいわよ。きっとだんだんわかって来るわ。その内愛でいっぱいになるわよ。あたしも人にあーだこーだ言える程知っちゃいないけどね、でも歌のおかげであたしは愛を感じられるわ。愛ってね形の無いものなの。だから見たり聞こえたり、触れたりできないのよ。見えないけど、ちゃんとあるのよ。ルカとあたしの間にもあるし、ベンヤミンとの間にも、パオルとの間にも、フィンとの間にもあるの、もちろんティルマン様ともね。それは友愛だったり慈愛だったり敬愛だったり、色々とあるのよ」
「じゃあ僕は愛してと懇願しなくとも、すでに手に入れていたの?」
「そうね、ベンヤミンと出会った時からは、確実に手に入れていたんじゃないかしら」
「そうなの?」
「そうですね。そういう言い方をするのであれば僕は”無償の友愛”の元、接すると決めたいたので、そうなるんでしょうね」
「愛か…」
でも僕のそれは建前上だった。
そうあろうと努力はしていたが、それが真の友愛かと問われれば僕は返事をすることができなかったと思う。しかし僕が知りうる、僕が持っているそれを全て彼らために捧げようと思ったことだけは確かだ。
それを愛と呼ぶのならそうかもしれないが、僕には自信がなかった。
「難しく考えるな、考えてわかることじゃねぇよ」
「漠然としてる」
「そういうもんだってヨナスが言ったろ?」
「心配しなくてもその内、ルカは精魂含めあたしたちも愛を知るわ」
そう言ったヨナスの顔が陰るのをしっかりと見てしまった。あれだけ優雅に愛を全身で歌うヨナスは、愛を知らないと言っている。僕自身、こんな押し問答 の正解を知らない。
パオルの言う通り、考えてわかることじゃ無いのかもしれないが、それでも彼らにこれと言う形で愛を見せたくなった。しかし愛とはなんだろうか、僕が持つ愛について考えた。
「今から育てる野菜に、ルカの考える愛ってものを注げばいいんじゃ無いかしら」
「野菜に?」
「そう言う愛もありなのか?」
「あら、育つものには全て愛が必要なのよ。水にだって、スミロ様にだってあたしたちにはわからない愛が含まれているものよ」
「それは素敵な考えですね」
「歌の受け売りよ。でもあたしも素敵な考えだと思うの」
「じゃあ僕は3人に僕なりの愛を、これからも注いで行かないといけませんね」
「美味しくなれって?」
「幸せになりますようにと」
「お前のおかげで十分幸せだよ」
「まだまだですよ。これからもっともっと幸せになるんです」
「贅沢になりそうね」
「そうなってくれるのが目標です」
「これからか…」
「ずっとずっと、続きますよ」
それから僕たちは時々雑談を交わしながら、畑を作り上げた。
丸々3日かかった畑は立派なものになった。案外レンガを積むのは楽しくて、まさか自分たちでできるとは思っていたかったので、菜園の囲いが見事にできた時は感動した。
耕した土に野菜に合った肥料を撒いてまた耕して、そこに野菜の苗を植える。すっかり増水のおさまった川から水を汲んできてたっぷりと水をやった。早ければ帰るまでに一度は収穫できるなんて野菜もあるらしい。
ルカでは無いが何かを育てるのは、とても楽しいものだと感じた。
「実は僕ギマィエ好きじゃないんですよね」
「突然どうした」
「ルカにはあの場でちょっと言えなかったんです。緑の野菜は平気なんですけど、あの赤さとか切ったときの断面とかちょっと苦手なんですよね」
「わからんでは無いが、味も苦手なのか?」
「不可解さは感じます」
「ギマィエはこの時期の野菜だしな。花芽のついた苗だと収穫も早いみたいだぞ」
「そうなんですよ。きっとまともに収穫できる唯一の野菜だと思うと……、どうにかこの機に克服するべきなのかと考えています」
「変なところで真面目ちゃんだな」
「美徳とは感じませんが、そう言う性分なので」
「素人作りだからな。酸っぱくて生じゃ食えたもんじゃ無いことを祈るしかねぇな」
「ソースや煮込みなんかは食えるんだろ?」
「消去法でなら」
「食えるなら問題ねぇよ。自分で育てて収穫したもんなら、それこそ愛着も湧いてんだろう。美味しく思えるかもしれねぇぞ」
「そうだといいんですが。このことはどうかご内密にお願いします」
と言ったが、どうやらパオルとフィン先輩の関係は良好らしく、見事に筒抜になっていた。あれだけ今も、険悪ではないが不干渉だといった空気を醸し出しているのに、どこでどう良好な関係を築いたのか気になった。
もしかすると元々悪いわけではなかったのではないのかと疑問に思ったが、今までの二人の様子を考えるとそうではないと言い切れない気もした。なんだかんだ、関係を断とうとしていたのはパオルで、フィン先輩はそんなパオルを僕に任せるという煮え湯を飲んだ結果になっているのだ。
「詮索はよく無いよ」
「わかってますよ。深く詮索する気はありませんが、人間関係把握していないと若干不安なんです」
「とは言ってもウッキウキで君の苦手なものを報告してきたわけじゃ無いからね」
「それもわかってます」
「きっとベンヤミンが優しい気持ちをかけ続けてくれたから、パオルも優しい気持ちを君に返したいんだよ」
「それも愛ですか?」
「愛だとベンヤミンが感じれば愛かな」
「そういうものですか」
「その辺は難しいよね。こちらが愛だと思って接しても、受取手が愛だと思わなければ愛ではないのかもしれないしね」
「難しいですね」
「だから100個愛を投げて、その中の1個でも誰かに愛と感じてもらえるくらいでいいと思うんだ」
「だって、親愛を持って接していても、僕とパオルの関係はこうだもの」
「でもしっかり実ったじゃないですか」
「君のおかげでね」
グツグツと煮込まれるスープからいい匂いが漂う。石窯からはパンの焼けるいい匂いもしている。僕はこの匂いを幸福な匂いだと思っていた。全員で食卓につくことも、同じ食事をとることも幸せな行為だと思っている。学校の食堂を思うと当たり前のことのように思うが、こうして気の置けない友人とこうして食事を取れることがなによりの幸せなのだ。
肺いっぱいにその匂いを吸い込んで、僕は各々一人の時間を楽しむ彼らを呼びに行くのだ。
返事の催促がくることはなかったが、繰り返し手紙と父の日記を読んでやっと僕の気持ちは固まり、やっとこの頃は筆を取ることができている。書き出しは決めていたため、気持ちが決まれば書くことができた。
僕はこの手紙に感謝の気持ちしか書くまいと決めていたのだ。どうあがいても過去は消せないし、きっと家に戻れば同じことを繰り返してしまうと確信している。だからやっぱり僕はそれに蓋をすることにした。きちんと向き合った結果、蓋をすることにしたのだ。
断じて臭いものに蓋をするような行為ではなく、記憶として記録としていつでも取り出せる場所に蓋をして置いておくのだ。きっと違う形の僕みたいな子供はこの世にたくさんいるはずだ。その時にこの蓋を少しだけ開けて、そんな彼らに寄り添うことに決めたのだ。
嫌な記憶も良い記憶も、全てが僕の今からの糧になるのだ。しかし書いたは良いが、この手紙を出す勇気がちっともなかった。何度も下書きをして、それを読み返してやっと清書して、これ以上読み返すとまた書き直したくなると封を閉じた。
それが昨日の午前中のことだ。
昼食をとったら出しに行こうと思ったが、気がつけばルカに付いて菜園に行ってしまっていた。朝イチで出しに行こうと、気合だけ入れたがどうも気が乗らない。この手紙の内容はやはりどこかおかしいのではないかと思ってしまっている。あれだけ決意して推敲してこれ以上のものはないとまで思ったはずだったが、こうも投函に勇気がいるとは思いもよらなかった。
食事の準備をする際にポロッとフィン先輩に喋ってしまった。意気地がないと飽きられてしまうだろうか。
「結局まだ出してないんだ」
「だんだん自分が駄目な人間だと思えてきました」
「極端だね。他人相手なら君は書いたってだけで自分を褒めなきゃって言いそうだけど」
「他人に甘く自分に厳しく生きたいです」
「ダメ人間製造機だなあ。そんなに思い悩むくらいなら、出しに行かざるをえない状況を作れば良いんじゃない?」
「頼りすぎじゃないですか?」
「本望だと思うよ」
確かに一人ではきっといつまでもこの手紙を出しに行くことはできないだろう。
昼食をとった後、僕はヨナスを誘って街に出た。ヨナスは理由を聞かずに、二つ返事でついてきてくれていた。
「どうしてあたしを誘ったか聞いてもいいかしら」
ヨナスはお気に入りだと言う黄色のワンピースを着ている。ヨナスに似合うとわざわざサイズを合わせてもらった服らしい。それに揃いの帽子を被っていて、どこからどう見てもオシャレをしたお嬢さんだった。
だから僕はつい、調子に乗ってしまった。
「デートだって言ったらどうしますか?」
「いつからベンヤミンは笑えない冗談を言うようになったのかしら」
うまい冗談を言ったつもりだったが、そうではなかったようだ。僕には冗談のセンスはないようで、すぐに謝罪する。ヨナスは謝罪を受け入れてくれたが、どこか釈然としない様子だ。
「ヨナスは僕の勇気の元ですから、少しだけ背中を押してもらいたかったんです」
「あら嬉しいこと言ってくれるのね。と言うことはお手紙書けたのね」
「はい」
「よかったわね。それで、言いたいことは全部書けたのかしら?」
「どうでしょう。何度も読み返しました。でもこれで良かったと思う反面、これで良かったのだろうかとも思うんです」
「そんなものよ。あたしだってこれで良かったのかって、いつでも思うもの。両親の望む姿が誰にとっても良かったのかもしれないって、そうしたら、今も普通の家族でいられたのかしらってね。でもそんなことより、あたしはあたし自身を選んだのよ。だから自分で選んだ言葉なら、自信を持って良いと思うわ。今までベンヤミンの言葉が、あたしを傷つけることなんてなかったもの」
「自信ですか」
僕は意を決して投函した。
封筒が底へついた音がすると、ついに観念がいって、なんだかさっぱりした気分になった。肩の荷が下りた気持ちというのはこういうことなのだろう。
「あら良い顔」
「そう見えますか?何だかスッキリしています」
「最近そんな顔のベンヤミン、見たことなかったから安心したわ」
「ご心配おかけしました」
「いいえどういたしまして。でも心配させて、あたしたちは寄り添いたいの、お返しをさせて欲しいわ」
「そんなお返しだなんて、僕はずっといっぱい貰っていましたよ。ヨナスの歌にずっと救われていました。ヨナスが歌ってくれなかったら今ここに立っていなかったかも知れません」
「そんなことはないわよ。これもマハネ神の円環の一部なのかしらね。それに、あたしの歌ってね、誰かの為に歌ってるなんて大層なものじゃないの。確かにね、ルカが歌ってって言えばルカの為に歌うけれど、それでもあたしはあたしがルカに喜んで欲しいから歌ってるの。だから誰かの糧になってるとか、誰かって言う存在があって歌ってるんじゃないのよ」
「そんな烏滸がましいこと思ってませんよ。僕のためだけに歌ってくれたなんて……。おこぼれに預からせて貰ってるって思ってます」
「それくらいで良いの?」
「もちろんです。ですが、誰もがヨナスの歌に救いを求めると思います。でもヨナスはヨナスでいてくれれば良いんです。そこに僕らは勝手に救いを求めるんですから。だって僕らは結局自分のためにしか祈れないんです」
J「そうね、やっぱりベンヤミンは凄いわ、あたしはあたしの言葉に傷ついてたけど、そうね、そう言う考えって救われるわ」
くるりとこちらを振り返るヨナスのスカートがふわりと揺れる。帽子をかぶったヨナスの顔は影っていて、うまく表情を読み取れない。
「ヨナス?」
「あなたの言葉は救いよ。眩しいくらいに目の前を照らしてるわ。だから不安にならないで」
「そうじゃないないんです、ヨナス。そうじゃない」
「あたしはあたしの歌を肯定するわ。あたしはあたしのために歌うの」
「聞いてください、ヨナス。そうじゃないんです」
「ベンヤミン?」
「孤独にしたいんじゃないんです。ヨナスの歌は勇気をくれます。安心をくれます。元気をくれます。安らぎをくれます。でも独りにしたいんじゃないんです。崇め奉ったり、そう言う意味じゃない」
「あたしはあたしの歌を愛してくれる人が好きよ」
「お願いですから、昔みたいに、独りになろうとしないでください」
「ごめんなさいベンヤミン。ルカにはああ言ったけど、あたしは人のまだ好意を上手に信じられないわ」
目の前にぶら下げられた大きな人参は、ヨナスにとってずっと毒でしかなかった。愛してるといいながら、ヨナスをずっと踏みにじってきた。
その踏みにじられてできた傷は、もう膿んだり血が出ていることは無いだろうが、塞がってはいないのだ。どれだけ僕たちが信用して欲しいと言ったところで、あまり意味がないだろう。陰った顔はやはり表情がうまく読み取れなかった。
「ごめんなさいね。せっかくの良い気分を台無しにしたわ」
「そんなことはありません。どちらも僕にとっては大事なことです」
「私が私を取り戻す前のことを時々思い出すの。思い出す必要はないし、思い出したくはないのよ。でもぼんやりと霧のかかった世界だったように思うの、色はこんなに鮮やかじゃなくてずっとくすんでたわ。その中で唯一鮮やかな色を持っていたのが歌だったのよ、あたしの世界はそれしかなかったの。でもベンヤミンやルカたちがその霧を晴らしてくれたわ。それから歌はもっと鮮やかに見えるようになったの。だから信じなくてはいけないと思ってるの、思ってるけどできないの、その言葉を信じられないの」
「ルカも、ですか」
「ええ。だから二人の秘密ね。どうしてかしらね。あなたにも言うつもりなかったのに」
風に吹いて帽子が揺れた。笑顔を引きつらせるヨナスが痛々しく見えた。どう返事をして良いかわからなかった。
「ちょっとここで待っててくれる?出たついでにちょっと行きたいところがあるの」
「僕も行きます」
「少し一人で考えたいって顔に書いてあるわ。大丈夫、すぐに戻ってくるわ」
そう言って僕を置いて急足で何処かへ行った。すぐに人混みに紛れてしまったヨナスを追えずに、僕はその場に立ち尽くして待った。
この街は規模の割に人が多く賑わっていて、朝市が終わればそうではない露天が広げられる。その中の色々な国のお菓子を取り扱っている露天が目に入った。
いつかのジュブフジュだ。
あの日食べ損ねたと、人数分と他のお菓子も一緒に買った。不思議ともう見ても何も思うことはなかった。ヨナスと別れた場所は目と鼻の先で、振り返れば確認することができる。しかし何度か振り返ったが、戻ってくる気配はなく僕はまたそこへ戻りヨナスを待った。
あくびを1つ、2つ、3つする頃に、大きな荷物を抱えてヨナスがヨタヨタと不安な足取りで戻って来た。
「ごめんなさい。思ったより荷物が大きくて」
「持ちますよ」
「お願いして良いかしら」
大きさの割には重くはなかったが、中身がわからない分その軽さに驚いた。
「中身はドレスよ、実はこれ受け取りにどの道、こっちへ来る予定だったのよね」
「そうなんですかって、どれだけ買ったんですか」
「今までのお給金のほとんどね。どうせ買わなくちゃいけないものだったし」
「そうかもしれませんけど、思い切りましたね」
「こういうのは思い切りが大切よ。お店の出入りの衣裳店だから、随分と安くしてもらったのよ」
ヨナスは立ち止まると大きく深呼吸した。
「自前の2着も、お店で借りているドレスもどれもあたしが選んだドレスじゃないのよ。だからあたしはあたしのドレスを選びたかったのよ!!」
「そ、そうですか」
呆気にとられる僕を置いて、ヨナスはまた歩き出した。慌てて僕はヨナスの後を追う。
「別に大した意味はないのよ。あたしを思って作ってくれたドレスだし、借りているドレスも店長さんがあたしに似合うって勧めてくれたドレスだもの。気に入らないとかじゃないの、せっかく選べる機会があったら選びたいと思ったの」
「良いと思いますよ。選ぶことができなかったヨナスを思うと感慨深いですし、僕は着飾っているヨナスを見るのはとても好きです」
ヨナスは目をまんまると大きく開いて、こちらを凝視して黙った。少しだけ視線を泳がしてから、大きな溜息をつく。
「ベンヤミンに選んでもらえば良かったって、少し後悔しちゃったわ」
「そうなんですか?自分で選びたかったのでしょう?選びたいと思ったことは進歩ですよ」
「そうだけど!鈍感ね」
道中、ずっと僕たちは無言だったけれどスカートを翻しながら歩くヨナスがどこか楽しそうに見えた。邸に戻ると、ルカが泥まみれでパオルとフィンを追いかけ回していた。
僕とヨナスは慌てて荷物を背中に隠すと、こっそりとヨナスの部屋へ向かった。
「何があったんでしょうか」
「知らないわよ、でも触らぬ神に祟りなしね」
「同感です」
ヨナスは早速買ったドレスをベッドの上に広げた。きらびやかなドレスが三着、どれもヨナスにとてもよく似合いそうだった。それをヨナスは体に当てて、うなっている。
「ちょっと思ってたのと違うわ、こんなものかしら」
「よく似合うと思いますけど、違うんですか?」
「ここの部分が、もうちょっと何か違…」
「悪い匿ってくれ」
突然開けられたドアと共にパオルが入ってくる。
「あらいやだ、ノックもなしに入ってくるの?」
「緊急事態だよ。ルカのやつなんかおかしくなった」
「放って置いて良いんですか?僕が見て来ます」
「悪い、そう言う意味じゃねぇ。水撒いた後コケて泥まみれになったみたいなんだが、それを見た俺らが驚いたのが面白かったみたいでな」
「それで追いかけ回されていたんですね」
「あらあら、大変ね」
「ん?それどうしたんだ?」
「お店のお給金で買ったの。今日届いたから見てるんだけど、どうも思ってたのと違うのよ」
「ああ、その持ってるやつは、そこんところがちょっと違うんだろう」
「わかるの?そう、この部分、なんだか違うの。どう違うのか言葉にできないのよ」
パオルはヨナスが体にドレスを合わせたまま、片方だけあちこちを摘んでみせた。
「ここをこうすれば、思った感じになるんだろ?」
「そう、そうこの形を思ってたわ」
「これくらいなら、すぐに直せるぜ」
「本当に?嬉しいわ」
何やら二人盛り上がってすっかり蚊帳の外なので、静かになった下階へ降りて見ることにした。どうやらフィン先輩によって浴室へ放り込まれたのか、そちらから賑やかな声が聞こえる。
若干の疎外感を感じたが、誰もが笑い合っている賑やかしい多幸感にそんな感情はすぐ消えてしまった。
イラスト協力:pizza様 https://www.pixiv.net/users/3014926




