心はずっとそこから離れたいのに
あれから僕は使い古しのノートにここへ入学する前、つまり家にいた頃の嬉しかったこと嫌だったことを思い出すままに書き連ねた。残り数ページだったノートはすぐにいっぱいになって、他のページも少しの隙間を埋めるようにみっちりとノートに書いていった。
ようやっと記憶も底をついてノートを見返してみればやっぱり嫌なことの方が多かった。それでも無理やり嬉しいことを思い出そうと努力した結果、今まで表層に現れて来ることがなかった嬉しいことがいくつもできた。案外あるじゃないかと、先人の知恵に感服した。
そんな僕を気に留めず、ヨナスとルカはおしゃべりをしながら荷物をまとめている。
「ヨナス荷物それだけ?」
「そうよ。私物なんて楽譜くらいしかないもの」
「ドレスとかはみんなあっちだもんね」
「しばらくは女の子を満喫するわ」
「僕のところに来ても女の子してればいいのに」
「そうね。普段着を借りられたらそうするわ。ところでパオルはどこかしら?お見送り無しなの?生意気ね」
「何か用事があるって言ってましたけど、どうしたんでしょうか」
居残り組は何かと忙しい。このだだっ広い校舎の掃除が、少ない居残り組で振り分けられるのだ。
僕とルカは丁度その当番に当たってしまい、街まで見送ることはできない。パオルはその当番からは外れていたと思ったが、もしかすると急な帰省の生徒の代わりをすることになったのかもしれない。
門までヨナスを見送ると、僕らは指定された持ち場へ掃除をしに行った。気持ちはすっかり上昇していた。そもそもあそこまで落ち込んだ理由は自分でもわからなかった。帰省を前に神経質になっていたところで、あのお菓子を見たからかもしれない。特に因縁があるわけではないが、なぜかジュブフジュが起因するお菓子になってしまっているのだ。
いつもは3、4人で掃除する場所を1人で掃除するのは骨が折れたが、1人であれこれと考えるには絶好の時間だった。事例にあったように、掃除の間中、嬉しかったことを反芻した。
多分あれは住み込みの使用人の子供だろう、一時だけ屋敷にいた子供だ。
男女の兄弟で僕は彼らと何度か遊んだ記憶がある。彼らは僕と遊んでくれた。僕の色に疑問を持たず、からかいもせず、ただ純粋に同じ子供として遊んでくれた。彼らの母親も僕をただの子供として扱ってくれた記憶があった。他の使用人とは違い僕に対して汚いものを見るような目では見なかったし、優しい声で話しかけてくれた。
今思うと自分の子供に僕が危害を与えないか注意深く観察していたのかもしれないし、そうでなくても子供を住まわせてもらっている負目からだったかもしれないが、家族以外の大人の優しさに触れたはじめてだったと思う。
その頃母はまだ僕を腫れ物を触るような接し方だったので、彼女たちとの暖かいふれあいは僕の心を十分に満たしてくれていた。
どうして忘れていたのだろうと疑問に思ったが、その答えも事例にあった。嫌な記憶ほど思い出させやすいと。彼らの顔や声を思い出そうとしたが、うまく思い出せず掃除が終わるまで記憶の糸を辿ることに没頭したが、思い出すことはできなかった。
父の仕事関係の従業員も僕に対して汚いものを見るような目では見なかった。彼らはとても友好的で、こちらも僕をただの子供として扱ってくれた。貿易を取り扱っているので、当たり前といえば当たり前なのだが、僕は彼らと共に珍しい異国のお菓子を食べたり、異国の話をする彼らを楽しみにしていた。楽しいこと、嬉しいことも十分にあった。
時間の長さを言ってしまったらはるかに嫌だったことの方が長いけれど、それでも僅かなその時間は確かに今の僕の糧になっている。
「終わった?」
掃除道具を片付けていると、明らかに退屈していますと言った顔をしたルカがひょこりと現れた。
「迎えに来たんですか?」
「いつまで経っても帰ってこないし、パオルもどこにもいないんだ」
「珍しいですね」
「黙って外出届もらって外に行ってるのかな」
「案外そうかもしれないですね」
「いつもならあまり気にならないんだけど、最近静かなのはちょっと寂しんだ」
「いい傾向なんじゃないんですか」
ルカは表情をくるくると変えている。
笑ったり怒ったり拗ねたり、寂しがったり。今までも顔に出ていなかっただけでこれだけの感情を表に出していたはずだ。
「また笑ってる」
「嬉しんですよ」
「もう僕の顔は人形じゃない?」
「はい」
僕が微笑みかけると、それに応えるようにとっておきの笑顔を返してくれる。部屋に戻ると、やはりパオルはまだ帰って来ていなくてがらんどうとしていた。ヨナスのベッドがすっかり片付けられていて物悲しさを感じる。ふとベッドの向こうに一枚の紙を見つけた。
「楽譜ですね」
「これ今練習している曲じゃないかな、ここの歌詞に覚えがあるよ」
「届けた方がいいですかね」
「どうしよう、楽譜は向こうにもあるって言ってたんだけど…」
僕らはそれを持って外出届をもらいに行くことにした。すぐに外出許可は降りて、僕たちはジャデルシャーゼへ急いだ。
まだ早い時間だったが、入り組んだ裏路地はネソワが来れば灯が点されるまで真っ暗だし、途端に治安が悪くなる。それに今日はパオルがいない。
僕らは街に溶け込むような格好をして裏路地への道を進んだ。ある程度顔見知りになっていた普段行き来する街路とは違い、まだカウラの時とはいえ、どこか薄暗く心許ない。
何度か通った慣れた道順のはずだったが、何かあれば僕がルカを守らなくてはならないという気負いもあって緊張していた。
「ベンヤミン、ルカ!」
「パオル」
「何してんだ?」
「そっちこそ」
「俺は今ヨナスを送り届けた帰りだよ」
パオルは背中に大きな袋を担いでいた。
「いい加減材料を恵んでもらうのも申し訳なくってな。安い問屋を紹介してもらったんだ。そしたら行きがてらにヨナスを見つけてな。一緒に行くっつうから一緒に行って来たんだよ」
「イマイチ浮かない顔なのは、問屋の主人がヨナスのファンで融通を利かせてくれたからですか?」
「なんでわかるんだよ」
「いつもの不機嫌さとは少し違うと思ったので」
「いいんじゃないの?いいものを安く仕入れるのが商売の鉄則じゃない?」
「そうだが、なんか解せねぇ。つか、あいつ女の格好してたがあれで学校出たのか?」
「そうなの?」
「普通にいつもの外出着のヨナスを見送ったけど」
「内緒があるのかな」
「知らねえが」
「どうせ今から会いに行くし」
「なんかあったのか?」
「忘れ物です。必要ないかもしれませんが一応」
「じゃあ急いだ方がいいな」
僕らは今通ったばかりなのにと言うパオルの後をついてジャデルシャーゼに急いだ。やはりこの日もカルラの時のはずなのに薄暗かった。慣れた様子で外階段を上がって行くパオルについて行き、二階の入り口から入った。
そしてある部屋の前まで来ると、パオルは大きくノックした。
「ヨナスいるか?」
「なに?」
すぐに返事があったが、ドアが開く様子はない。
「着替え中か?」
「勝手に入ればいいじゃないの。鍵なんかついてないわよ」
僕らは勢いよく部屋に入った。
「あら、どうしたのかしら」
着替え中と言うわけではなかったようで、ヨナスはどうやら探し物をしていた。楽譜をあたり一面に並べて、身動きが取れない状態のようだった。
「忘れ物を届けに来たよ」
「楽譜かしら?」
「正解」
「よかったわ。今まさに探していたところなのよ。最近練習始めたばかりで、一応覚えたつもりだけどまだ自信がないの」
僕はカバンに丁寧にしまっていた楽譜を取り出しヨナスに差し出した。ヨナスは慌てて通り道の楽譜をまとめると、楽譜を受け取った。
「そうこれ、この楽譜よ。ありがとう、ベンヤミン、ルカ」
「いいえ、どういたしまして」
「来てよかったよ」
「お礼に下でリハーサルでも聞いて帰ってもらいたいところだけど、いくらカウラ祭を終えたばかりとはいえすぐにネソワが来るわ」
「構いません。楽譜を届けに来ただけですし」
「すぐに僕らだけの演奏会してもらうから大丈夫だよ」
ヨナスは長いスカートをたくし上げながら、楽譜を避けて僕らを見送った。その仕草はもう女性以外の何者と思えなかった。
「ヨナス、いつも見たドレスも素敵でしたが、そういう服もとても似合います」
「そう?嬉しいわ」
ヨナスはとても嬉しそうに目を細めた。ハウエ神とルクト神はどうしてヨナスを女性に分化させてくれなかったのだろうか。ヨナスならそのあらゆるものを乗り越えられると信じたからだろうか。それとも歌の才と加護を引き換えとした苦難なのだろうか。
ヨナスの微笑みは余計に、僕の胸を軋ませた。
寮へ戻る途中に事務員に呼び止められた。ルカに封書が来ていると言って、受け取りの手続きをして部屋に戻った。
「屋敷の間取りが送られて来た」
「明日行くのにギリギリだな?ってか広いな」
「僕もびっくりした。郊外とは言え僕一人の家なのに広いね」
「本当だ」
家主のルカを除いて、お邪魔する僕らは一部屋に押し込められるものだと考えていたが、どうやら一人一部屋でもお釣りが来るほど部屋数があるらしい。
「嫌味のような部屋数だなあ」
「確かに」
「どう言うことだ?」
「場所的に元々の別荘として建てられたものでしょうから、ゲストルームはあるのはわかります。多分ご両親はルカへの嫌がらせに、わざわざゲストルームの多い屋敷を選んだんですかね」
「部屋数が多いとダメなのか?」
「僕に友人はできずに、一人寂しく広い屋敷で孤独に死んで行くのがお似合いってことじゃないの?」
「そうなのか?」
「知らないよ。僕に聞かないでくれる?大体これから神祇官になろうってのに、この別荘だってほとんど無用の長物みたいなもんじゃん」
「でもルカのご両親がルカに対してそこまで興味があるかといったらそうでもないと思うので、偶然でしょうけどね。値段と立地の兼ね合いじゃないですか?」
「使っていなかった、僕の元家の所有物という可能性もあるしね」
「何なんだ?」
「つまりは嫌味と感じるのは、僕の気持ちの問題だということ。えーっと、パオルはまだわからないって顔だね。ある意味パオルは素直な世界で生きて来たってことだし良いことだよ」
「解せねぇ」
僕とルカは顔を見合わせて説明しようか目配せしたが、きっと理解できないと思ってそのまま口を噤んだ。
パオルはルカの言う通り、ある意味単純で素直な世界の住人だったのだ。お互いの腹を探り合ったり、影でひそひそとしたりそう言うのとは無縁の世界で生きてきたのだ。
彼自身も裏表のない素直な人間だ。感情に振り回される傾向が大きかったが、それも感情の起伏を原因を解消できたことで問題を起こさなくなっている。
「わからないならわからないで大丈夫です。これは経験則に基づくところが大きいので、その内だんだんわかってきますよ」
「そういうもんか」
「クォルをやっていれば、嫌でもその火中の栗になれますから」
「まあこういうのって経験があっての話だからね。そんな目に遭ってこなかったってのはいいことだと思うよ」
溜飲が下がらないような面持ちだが、今の会話でわからなければ説明してわかるものではない。僕だってそんな思いをすることはいくらだってある。パオルに対してもルカに対してもヨナスに対しても。
投げかける質問に全部答えてくれるような世界ではないのも重々承知している。でもなんとなく僕らが抱えるものを少しだけでもパオルに理解して欲しいと思った反面、説明する言葉を僕達は持ち得なかった。
「それより、このバッテンなんだと思う?」
「なんでしょうね?」
間取りには2箇所ほどばつ印が書かれてた。
ゲストルームのようだが、単に何か不具合があって使えないと言うだけかもしれない。後見人から届いた封書には間取りの紙しか入っておらず、一体これで何をするのかわからなかった。
次の日は僕らは誰も当番にはなっておらず、朝からのんびりと過ごした。のんびりとはいっても僕は帰省の準備をしなくてはならなかったし、パオルは昨日仕入れてきたものをベッドの上や机の上に並べていて数を確認するので忙しそうだった。重そうだとは思ったが、本当に結構な量だったらしく、レースやビーズ、糸なんかが次々に出てきた。
ゆっくりとしているのはルカだけだったが、パオルのあまりの広げように本を読むのをやめて驚きながら眺めていた。
「随分と仕入れたみたいだけど、旅費大丈夫?」
「言ったろ。本当は、この半分も仕入れることができなかったんだがなヨナスさまさまだよ」
「そんな顔をするなら、ヨナスのために何か作ったら良いじゃないですか」
「そうだよ。あの白いドレスも宣伝になってるんでしょ?」
「これ以上、おんぶに抱っこもどうだかなと思ってんだよ」
「作ってつけてもらうと、それはそれで宣伝になると。だーかーらー、もっと図々しくていいんだよ、商売ってそういうもんなの」
パオルは腑に落ちないと言った顔をしている。
「良いじゃないですか?僕らはそれが嬉しい」
「ヨナスも負けずと劣らずパオルと一緒で素直だし、利害なんか考えてないよ」
「ああ、そう言う気持ちですよ。相手を慮る気持ちと相手の気持ちにズレが生じるんです。さっきの話はそう言うことですよ」
「つまり俺があれこれ機を回すほど、ヨナスは何も考えちゃいないってことか」
「そうです」
「なんとなくわかったっちゃあ、わかったかなあ」
「そういえば、もうドレスは作らないんですか?」
「あれはなー、元があったからできただけで1からなんか作れねぇよって。前にもこんな会話しなかったか?それこそどっか修行いかねぇと、本だけじゃ到底無理だな。器具とか色々と必要になってくるし、そこまでの金はねぇし貯められねぇよ」
「そういうもんなんですね」
「しっかし、溜めるといえば、私物なんてほとんどなかったんだがな。今から引っ越しが憂鬱でならねぇ。箱が幾つになるんだろうな」
「これ、僕の家に全部持ってくるの?」
「んなこたしねぇよ」
そう言ってパオルはスケッチブックを取り出した。そこには装飾品のスケッチが描かれていて、僕たちは驚いた。
「パオルって絵が上手だったんだ」
「練習したんだよ」
「これっていわゆる図面みたいなもんですか」
「そうなるな。まだ多少誤差が出るが、だいたいこの絵通りに作れるようになってきた」
「すごいですね」
「これ見て、これに必要な材料だけ持って行くんだよ、だから全部って訳じゃねぇ」
「ねぇ、他のページも見ていい?」
ルカはパオルから受け取ると、新しい絵本をもらったばかりの子供のようにそれに見入った。
「これとこれがいい、ヨナスに似合いそう」
「似合いそうも何も、ここに描いてあるやつは全部ヨナスが付けてんのを想像して描いたからな」
「なんだかんだで、パオルもヨナス大好きだよね」
「そりゃあな」
僕は楽しそうにする二人を眺めながら、帰省の準備をした。
帰省当日、朝食を食べた僕は予定通りに色々と済ませ、駅へ向かった。パオルは掃除当番に当たっていて、ルカも当日ギリギリだというのに掃除当番が当たっていた。
駅に着くと丁度いい時間で。そのまま列車に乗り込んだ。地元の駅まではパオルではないが、10時間近くかかる。しばらくもしない間に大きな音を立てて列車は動き出した。
本は旅のお供に2冊ほどここへくる前の古本屋で新調した。片方は軽く読めそうな短編集で、もう片方は少し厚めの長編を購入した。短編集と長編というだけで買った2冊だったため、特に中身は気にしなかった。短編の方は喜劇小説で、長編は恋愛小説だった。
もう少し中身を吟味すべきだったと思ったが、所詮暇つぶしだと思いパラパラと目を通した。しかし、さっぱりと集中できず、数行読んではその前に何が書かれていたか思い出せずに、またそこを読み返すことになり、早々に読書を諦めた。不安がないわけではなかったが、どこかもう大丈夫だと自分に何度も言い聞かせた。幸せな思い出だってあるし、逃げる場所だってあるのだと。
しかし意気込んだ僕はその2週間後には学校に戻っていて、予定を前倒しにしてルカの元へと向かった。
「……って、意気込んだ割にはあたし達と一緒にって、随分ね」
向かいに座るヨナスはネープを剥いては口に入れている。ジャデルシャーゼの主人から旅のお供にと貰ったらしい。爽やかな柑橘の香りが辺りに広がる。僕の膝の上にもネープがあったが、すっかり僕の体温で温くなっている。
「言わないでください」
「ルカには言ってないんだろ?驚くぞ」
僕の隣に座るパオルはヨナスの教科書を膝に乗せている。会話が終わればすぐにでも開きそうな勢いだ。
「多分手紙より僕の方が先に着きそうです。なんせ宛先は後見人の方の住所ですから」
「パオルもすみません。もう少し学校に居たかったですよね」
「それは別に構わねぇよ。どこに居たってやるこた一緒だ」
そう、僕は実家に到着早々、家族からは大歓迎を受けたが使用人からは相変わらずの奇異な目を向けられ、慄いてしまったのだ。わかってはいたし、そういうものだと知っているが、久々に浴びるその視線にその夜は一晩中吐いてしまった。
流石にもう表立って嫌な目に合わされることはなかったが、それでも蓄積された記憶が今まさにそれが行われているような錯覚をさせた。
それでも兄の婚約者のお披露目会に出席しなければならないとどうにか1週間耐えた。婚約者本人はとても素敵な方で、僕の色のことをあらかじめ知っていたとはいえ、それに触れることなく、嫌な顔ひとつせずに、新しくできる弟として扱ってくれた。
しかし、彼女が滞在した4日間は本当に地獄のようだった。彼女についてきた使用人は僕の姿を嘲笑っていたし、どう事情を聞いたか主人がいない場所では所構わず娼婦の子供と罵られた。断じて母は娼婦などではないと、声を大にして叫びたかったが、終ぞ蓋がされたように僕の口らかその言葉を出すことができなかった。
「ルカはそんなことじゃ怒らないでしょうけど、心配するわ。すっかりやつれているもの」
生家にいる間、食べては吐き、日中ずっとひどい頭痛に苦しんでいた。必死に隠していたが帰省して10日目で、父親が僕の異変に気付いた。理由を言わない僕に、何か察したか学校に戻るかと聞いてきた。
「まだ頭痛いか?」
「大丈夫です。もうそんなに酷くはないですし、昨日の夜から吐き気もありません」
そして僕は、僅か13日で僕は学校に逃げ帰ってしまったのだった。豪語した1ヶ月持たないことは、屋敷に続く道を辿った時からわかっていた。全身が脈打って冷や汗が止まらなかったからだ。
年若い使用人に置き去りにされて道がわからなくなった林が見えた時は、足がすくんでしばらく動けなくなった。庭師の道具小屋に何度閉じ込められたか覚えていなかったが、母も留守だったその日はそこで一晩過した。その日は大嵐で、大きな風の音と雨の音が小屋を揺らし、雷も鳴っていた。僕は雷が鳴る度に身を縮めて耳を塞ぎ、風が小屋を揺らす度に体をビクつかせた。雨漏りする小屋はポツポツと嫌な音を豪雨に負けず響かせていたのを、昨日のことのように覚えている。
記憶の中の僕は怖いよ出してと、戸を必死に叩いていた。
先日紙に書いたときはここまで如実に思い出さなかったが、やはりその場所に立つことで余計に思い出されたのだろう。
「でもまだ顔色が悪いわ」
「きっと着く頃には良くなります」
「少し眠るといいわよ。まだ先は長いもの」
帰りは父の所の従業員に学校まで送ってもらった。それほどまでに僕は憔悴仕切っていたようで、学校へ帰る道中も何度か吐いて迷惑をかけてしまった。これは彼の仕事ではないのにと、何度も申し訳なく思った。
これも仕事も内だと言う彼に甘えたのは、どうしても1人ではまともな判断ができなかったからだ。こんなに1日中頭痛と吐き気に見舞われるのは初めてだった。それがどうだ、学校へ着いてパオルの顔を見た途端すっと頭痛が和らいだのだ。
「着いたら起こしてくださいね」
そして意識を手放した僕は、久しぶりに深く眠った。
ヨナスが列車の震動音に紛れるように、僕の耳に届くか届かないかくらいの声で歌ってくれている。優しい歌はどんどん僕の心の嫌な記憶を深く深く沈めてくれた。もう湧き上がってこなくていい、こんな嫌な思い出全て沈めて忘れてしまいたいと思った。
「ベンヤミン、もうすぐ着くわよ」
揺り起こされると気分は更に晴れていた。
「ありがとうございます。ヨナスが歌ってくれていたおかげで、随分楽になりました」
「それは良かったわ。本当にあたしの歌好きよね」
「ルカには負けます」
「駅が見えてきたぞ」
「迎えに来てるって話だったわ」
列車が止まるとヨナスはスカートを払いながら、立ち上がる。立ち上がったヨナスは驚いた顔をして窓の外を見ている。僕とパオルはヨナスの視線の先を探すと、唖然とした。
「なんでフィン先輩が?」
列車から降りると、ニコニコ顔のフィン先輩が駆け寄ってきた。
「久しぶりってほど久しぶりでもないね。元気は…ベンヤミンはしていなかったみたいだね」
「お久しぶりです。どうしてここにいるんですか?」
「生活費諸々を稼ぐためのアルバイトと言った所だよ」
「調停者の所で働いているんですか?」
「んにゃ、まぁそれも含めだけど、基本はルカのお家でハウスキーパーしてるよ」
僕らはどこにどう驚けばいいのかわからずに、唖然とするばかりだった。
「駅から随分と歩くことになるから馬車を用意してあるよ。あっちでは雑務諸々といったところかな。これでも一応料理も掃除も洗濯もできるんだから」
確かに授業項目の中に家事一般の履修がある。
とりわけ料理は炊き出しなどがあるため徹底的に教え込まれる。小さな教会では1人で100人分の炊き出しを用意しなければならないことは良くあることらしい。
「まあ習うからな」
「そうだけど、僕のご飯は美味しいよ」
この教科に関しては考査という考査は行われないが、真剣に神祇官を目指す生徒にとっては死活問題なのでそれは真剣だった。ナザ以上になれば高確率で地方の教会に派遣されて1人もしくは少人数で切り盛りしなければならないのだ。
「遅いよ、どこかで道草食ってたね」
「遅くないし、道草も食ってない。時間通りに到着して予定通りに帰ってきたよ」
「僕も行けば良かった」
「留守はどうするの、どっちかしか行けないって言ったじゃないか」
卒業式以前よりも打ち解けたフィン先輩とルカに思わず笑いがこみ上げた。
「すっかり仲良しですね」
「ベンヤミンだ。どうして」
「2週間持ちませんでした」
ルカは駆け寄ってきて思い切り僕を抱きしめた。
「2週間も頑張ったって言いなよ」
「そうだぞ。2週間って結構長げぇよ」
「そうよ。どうせ初日から体調悪かったんでしょ?よく耐えたわよ」
目頭が熱くなるのを感じた。ルカの肩に顔を埋めて鼻をすする。
「ありがとうございます」
両親や兄達、兄の婚約者もルカやパオル、ヨナスのように優しかった。優しい言葉をかけてくれて、いつでも目の届くところに僕を置いて、嫌な目に合わないか注意してくれていた。それなのに僕ときたらとんだ体たらくだ。
「部屋は一人一部屋ね。色々と考えたんだけど僕らはいい加減お互い離れをしなくちゃ行けないと思うんだ」
「お互い離れ?」
「ここ数ヶ月でナヨナヨになった精神を鍛えなおすんだよ」
「まだ諦めてなかったんだね。毎晩寂しいって僕と一緒に寝てたのに、どうせ無駄だよ」
「なんでバラすの。黙っててって言ったよね」
「仲がいいことは良いことだわ」
一応とばかりに荷物を各々割り当てられた部屋へ運んだ。広くはないが狭くもないといった一般的なゲストルームだった。
「大変だったんだよ。丁度カウラ祭の前に誘われてさ、来てみればどんな廃墟かと思ったよ。蜘蛛の巣だらけ埃まみれ、建物自体におかしなところは無いみたいだけど、掃除が本当に大変だったんだよ」
「給金は十二分に弾む話でまとまったんでしょ?」
「ただただ評価して欲しいだけだよ。この埃1つない磨き上げられた手すり、蜘蛛の巣1つない天井、君らの部屋も大変だったんだよ。4日間、毎日洗濯しては干し、乾いたらまた次の洗濯物を干しなんて、洗濯屋になった気持ちだったよ」
「後見人の方は?姿が見当たりませんが」
「気を利かせてしばらく僕らだけにしてくれるみたいだけど、あれは仕事が溜まってる感じだったね」
「ご挨拶がしたかったんですが」
「気を使わなくて良いよ。あの人はそういうの気にしないし、そう…、ちょっと変な人だし」
「そうだね。どうせここにいる間に嫌というほど会えると思うし」
僕らはフィン先輩から勝手を教えてもらうと、それぞれの部屋に戻って荷ほどきをした。ここへ来てさらに体が軽くなったように思う。
すっかり頭痛のことは忘れていたし、ここ数日の慢性的な腹部の不快感はすっかりなくなっていた。ベッドに倒れると、また眠気が襲って来た。優しい気だるい空気がそうさせるのだろうか。
「また寝てるよ」
「よほど寝れなかったのかしら」
「学校に戻って来た日も、ほとんど寝れなかったみたいだしな」
「よく学校に泊まれたわね」
「こっそりとじゃねぇが、申請はしてねぇみたいだったしな」
「まあ彼、それどころじゃなかったわよね」
「なんも苦労を知らねぇボンボンかと思ってた」
「何かはみんな持ってるわよ。あたしのことだって今のあたしからは全てを想像できないでしょ?」
「特にベンヤミンは隠すのが上手だったから仕方がないわ」
ヨナスとパオルの声に、半分覚醒していたがどうしても瞼は持ち上がらず、指先すら動かすのが億劫だった。それでも耳だけはしっかりと起きていて、彼らの言葉はしっかりと耳に入って来た。
「次はあたし達が助ける番かしら」
「んなことできるのか?」
「できたら良いわねって話よ」
優しい彼らの心は、僕をまたネソワの世界に誘った。静かに戸が閉まる音がして静寂が広がり、僕はまた意識を手放した。
イラスト協力:pizza様 https://www.pixiv.net/users/3014926




