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拾われた黒猫の夢想

「なんでこんな簡単なことができないんだよ、お前は」


 例えそれが上司のミスであっても俺のせいにされる。そんなことにはもう慣れた。だというのに体は敏感に反応する。


「申し訳ございませんでした」


 謝罪の言葉を口にする度に一緒に胃液が溢れそうになる。吐き気を堪えて長い長い理不尽な説教を受け、今日もサービス残業を終えた。


 転職しようか、と思うことはよくあったのだが、その気力すら根こそぎ奪われた。


『愚図』『ノロマ』『生きてる価値なし』


 散々な言われように元からそう高くなかった自己肯定感は負に傾いている。


 ああ、まずい。そういえば今日は水分を摂る間も与えられずにいたっけ。

 視界がぐらりと揺れて体が言うことをきかなくなる。


「 、──」


 カラカラに乾いた喉からは音にならず空気だけが漏れ出る。辺りはすっかり暗くなっていて、人の子一人いやしない。


(スマホ……誰かに……)


 緊急連絡先というものは登録していないが、簡単な操作で奏空(暇人)に繋がるようにはしてある。ただ、指先を動かすのも難しい今はそれもできやしない。


(誰か……誰でも、いいから……)


 どさり。自分が倒れ込んだ音なのに妙に離れたところから聞こえた。意識を保つことができない。このまま死ぬのかな。


 嫌だな。せめて大人の階段くらい登ってみたかったよ。あ、なんか柔らかいものが口に触れた気がする。キスって、こんな感じなんだろうか。想像したら、なんか……



 特に意識をしなくても目を開けることができた。最初に視界に飛び込んできたのは見知らぬ天井。


「ここは……」

「目が覚めた?」


 聞き馴染みのある声ではなかったが、それは確かに聞いた事のある声。ゆっくりと体を起こして声の聞こえた方を見ると、鋭い瞳が少し和らいでこちらを見ていた。


「司……」

「驚いたよ。猫追いかけてたらアンタが倒れてんだもん」


 どうやらここは司の家だったらしい。せっかくの合コンだし、と思って全員と連絡先を交換していた俺だが、彼女とは一切メッセージのやり取りをしていなかった。

 あまり人と関わらない司は学生時代から少し浮いた存在だった。ただしそういうクールなところが一部の層には大ウケで、彼女を落とそうと必死になっている人も少なからずいた。


「救急車呼ぶかどうか迷ったんだよ。でも、水飲んだだけで元気になるんだもん」

「実は……今日水分補給の時間もまともになくて……」

「へー」


 あまり興味がないようで、司は爪をやすりで整えながら雑な相槌を打った。


「アンタさ。猫に似てるって言われたことない?」

「猫? いや、ないかな……」

「ふうん」


 女性の部屋をあまり観察する訳にもいかず、俺は軽く握った手を見つめた。しばらくの沈黙の後、爪を整い終えたらしい司がふっと息を吐いて言葉を紡ぎ出した。


「ふらっといなくなったかと思ったら、いつの間にか側に戻ってきてんの。ずっとここにいましたよ、みたいな」


 その言葉を聞いても、彼女が何を伝えたいかわからない。俺はただ黙って司の話を聞いていることしかできなかった。


「人間ってさ。ニコニコしながらも何考えてるかわかんないし、関わり持つのってめんどくさいじゃん。正直そういうの邪魔なんだよね」


 おっと、いきなり怖いことを言い出すな。俺はちら、と司の方を見る。確かに面倒だという表情をしている。


「だからかな。薄っぺらい詞って意味わからんこと言われて」

「はは、それは確かに意味がわからないな」


 どの目線でそんなこと言ってるのかって話だよな。というか詞ってなんだ。司は歌でも作っているんだろうか。なんだか俺の周りは創作関係やってる人多めだな。


「で、その意味のわからないことを言ってきた奴って誰なんだ?」

「それ、本気で言ってる?」


 何か得体の知れないものを見るような目で見られて少し傷ついた。既にボロボロだった心が更に抉られた。


「心当たりとかないわけ?」

「あるはずがないだろ……いや、もしかしたら……」


 あれは高校二年生の春。今は立ち入り禁止になっている学校の屋上で、何者かが歌を歌っていた。その時にふと思ったのだ。


 曲はいい。歌詞もいい。歌声だって素晴らしい。それなのに響かない。


──薄っぺらいな


「俺か……」


 それは思いがけず口をついて出た言葉だった。あの時歌っていたのが、司だったのか。


「人と関わることで、薄っぺらい歌じゃなくなる?」

「それは、その……俺はそういうの専門外なんで……」


 少なからず俺の何気ない一言が彼女の心のどこかで引っかかっていたんだろう。俺は誰だかもわかっていなかったけれど、司の方は俺を認知していたわけだ。


「見返してやりたかったんだ」


 司はすくっと立ち上がってこちらへ寄ってきた。ベッドに腰掛けて、布団越しに俺の体に指を滑らせてそのまま顎に触れられる。


「人間は好きじゃない。だけど、アンタは猫みたいな感じがして、もっと知りたいって思った」


 あれ、これは俺口説かれてる? まあ、そんなわけがないのだけれど。冷静になって彼女の瞳を見つめると、心做しか潤んでいるように見えた。


「アンタが言ったんだから、責任取ってよ」

「な、にを」

「ああ、そうだ。言っておくけど初めてだから」


 何もなかったかのように立ち上がって、司は明るく少しイタズラっぽい声を上げた。


「初めて……?」


 ペットボトルの水を飲み始めた司。口の端から水滴が伝っていく。そういえば、意識が戻ってすぐに声を出すことができたのは。あんなにカラカラだった喉が潤いを取り戻したのは。


「のませ、て……くれたの、か」


 あれ、おかしいな。さっきとは違ってちゃんと水分は足りているはずなのに、うまく発声できない。顔が熱い。まさか熱中症?


「気付くの遅すぎ」


 キッと睨みつける彼女の瞳はやはり鋭く、容易にその心に入り込むことはできない。だけど、もしも。もしもその心にほんの僅かな隙間でもあるならば。


「どうして俺だったんだ?」


 猫のようだと感じた彼女を否定するつもりはない。だけど、俺は猫にはなれないし、なるつもりもない。彼女が心惹かれる存在で居続けられるとは思わない。


「そんなの、わかんないよ」


 悔しげに呟いた彼女。恋だの愛だの、そんな難しいことは俺にだってわからない。だけどあの時の歌を俺が薄っぺらいと感じたのなら、それは確かに(ここ)にあるはずなんだ。


「期待してもいいのか?」

「猫を拾った。思ったよりもずっと頑丈そうで、今度こそ先に逝くのはアタシの方かと思った」


 司はこちらを見ることもなく、そして俺に応えるでもなく、ただ歌うようにそう零した。


「気付いた時には側にいて、それなのに触れさせてはくれなくて」


 ぽつり、ぽつり。彼女の口から零れた言葉を、もう薄っぺらいだなんて言えない。誰にも邪魔をされたくない。一人でいたい。だって、それが一番楽だから。だけど。


「俺は野良猫なんかじゃない」


 気まぐれに愛想を振りまいて、切なさに身を焦がすお前を嘲笑ったりはしない。


「聞かせてくれ、司。お前の声で」


 まだ体力が戻りきっていないのか、足元がふらつく。それでも確実に一歩を踏み出して、司の肩を掴んだ。


「ずっと気にしていてくれたってことでいいんだろ?」


 神様、今だけはどうか自惚れさせてくれ。


「……さっきからそう言ってる」


 そっぽを向いた司の顎に指をかけて引き寄せる。


 人生二度目の口付け。

 ほんの少し、ミントの味がした。



『という夢を見た』

『だから何?』


 ラジオのネタを提供しろとうるさいから細かく教えてやったのに、奏空の反応は冷たかった。

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