雨の後には虹架かる
どうやら何か嫌なことでもあったのか、バケツをひっくり返したような大雨にやられた帰り道。
傘を差していても心許なくて、俺と直也は近くにあったカフェに入った。
──ここは押し潰されそうな程に辛い奴が雨によって導かれてくるカフェなんだ
不思議な言葉を聞いてまたもや夢かと思ったが、昔土産でもらったものとはまた違った味わいの「まめぶっせ」の味と耳打ちされた言葉を俺の想像で片付けるにはあまりにも無理がある。
「直也」
「おう。甘える勇気、だな!!」
直也は腕まくりをしてにかっと白い歯を見せた。やはり夢ではなかったようだ。不思議なこともあるものだ。ほんのり温かな胸に手を当て、握り締める。
「弥生ちゃんのことだが」
「うん?」
「実は弥生ちゃんは……」
もったいぶってたっぷりと間を置く直也に、ようやく気付いたのかとちょっとホッとする自分がいる。しかし、続いた言葉に容易く裏切られた。
「くすぐりに強い!!」
「……あ、そ」
まあ、確かに。奏空とわいわいやってた時の感じだと弱そうに見えたし意外っちゃ意外だけれども。それより先に気付かなきゃいけないことあるだろうが、ポンコツ。なんでこんなバカが免許証の種類欄結構埋まっちゃってんだよ。難しいやつあるだろ。
「はぁ……」
「試しにくすぐってみたんだがな。脇をくすぐった時は少し声が漏れたがそれだけで、ああ、でも首をくすぐった時には随分と可愛らしく──」
「悪いが具体的な反応はあまり聞きたくない」
手も繋げねえくせにそれ以上を平然とするなよ。
「ん、そうか? まあ、あの可愛らしい姿を他の奴に知られるのはなんだか気分が」
「もういいから黙れ」
聞きたくないって言ってんだよ。
「そういえば、何か耳打ちされていたな。いいアドバイスだったか?」
「……まあ」
「そうか!! 上手くいくといいな!!」
それからお互いにちょっとした惚気を言い合って解散した。
『詩音さんに悩みはないかと聞いてみてください』
あの言葉……詩音に聞くことがいい方向に繋がるってのは、どういうことなのか。そりゃあ、詩音にも悩みの一つや二つはあるだろう。それが俺たち家族とどう関係あるのか。
「お帰りなさいませ。ああ、裾が濡れてしまっていますね。お風呂の用意は出来ていますので、まずは体を」
「詩音。お前、何か悩みとかないか?」
「……っ、肩が……よく凝ること、ですかね」
ビッグマシュマロぱいだもんな。そりゃ肩も凝るさ。
「俺が聞きたいのは、そういうことじゃない。わかってるだろ」
右足を後ろに引いて逃げの姿勢を見せた詩音を壁に追い詰める。左手を壁について囲うようにして真っ直ぐに瞳を見つめると、彼女の仮面が剥がれ落ちる。
「わ、たし……私は……」
相手が俺だからか、彼女は目を逸らすことも出来ずにいる。少し強引過ぎたか。身を引こうとするとジャケットの裾を掴まれた。
「私……ごめん、なさい……坊ちゃんを、あの会社に、行かせなければ……妹が……っ、妹の、手術が……」
しゃくり上げながら必死に紡がれる懺悔。
刹那、心が冷えきって頭が熱くなる。
詩音には生まれつき心臓に疾患のある小さな妹がいるという話は聞いたことがあった。この話の恐ろしいところは、その小さな妹が入院している病院が桐生財閥の寄付により設立された病院だということにある。
「外道が……っ」
人の命をなんだと思っている。そこまでして俺を家に縛り付ける理由はなんだ。顔も合わせず名前すら呼ぶことのない代用品にそこまでする理由とは。
ああ、もう、何も考えたくない。ただひたすらに力の入る拳をあの父親の顔面に叩きつけたい。
涙でぐしゃぐしゃな顔をした詩音が縋るようにしがみついてきた。できるだけ細く、長く息を吐けば握り締めていた拳から力が抜けていった。
「……妹の手術は」
「っ、ぶ、無事に……っ」
「なら、いい」
しゃがみこんで俯き始めた詩音の顔を見上げる。
「就職するだけでお前の大切な人を救えた。まるで勇者にでもなった気分だ」
「ぼっ、ちゃん……」
「……勇者らしく魔王を倒してくる。用意していて正解だった」
俺は詩音の頭をひと撫でして立ち上がった。ベッドサイド、奏空によって司にバラされたおかずの中から封筒を取り上げる。
「改めて感謝するよ、不殺探偵」
封筒を額に当てて祈るように呟き、俺は引きちぎる勢いでネクタイを外した。
「詩音、お前はここにいろ。俺に知らせたことを決して悟られないように。いつまで泣いてる、美人が台無しだぞ」
「っ、はい。仰せのままに」
涙を拭ってすくっと立ち上がった彼女は深く礼をした。
「出迎えすらないとは随分と舐められたもんだな。あの出来損ないに跡を継がせる気でいるのか? はは、数字を見るだけでも発作を起こすグズに任せちゃあ桐生財閥もお終いだな」
わざと声を張り上げてやると、数人の使用人が顔を見せた。みな揃って憎悪にも似た色を浮かべている。だだっ広いこの屋敷では声を張ってもこれが限界か。
「大事な息子が会いに来たってのにソファーで愛人と呑気におねんねか? 桐生清次郎、とっとと面出せや!!」
ああ、久しぶりに大声を上げたから喉が焼けるように痛い。慣れない言葉を使って心臓がバカみてえに騒ぎやがる。
ああ、クソ。
こんなことやってる暇があったらソラジオにコメント送りてえよ。
「誰だ」
顔どころか頭まで真っ赤にしてドスドスと足音を立てて現れた父親。
「息子の顔も忘れたか? 反吐が出るほど瓜二つだと思うがな」
「……こうきか」
その名前が、俺は嫌いだ。
「そうだよ。ありがたいことに健康な体を頂いちまったこうきだ。お陰様でこんなもんを手に入れることまでできた」
封筒を投げつけると勢いで中身が広がった。
「大物のくせにみみっちいことばっかりやってるんだなぁ。不倫に借金、脅迫にドラッグ、その他諸々。どうやって豚箱入りを避けてきたんだぁ?」
「……何故だ」
怒りに震える声ではなく、嘆くような声色。
「お前に不自由はさせていないだろう」
「ああ、お陰様で睡眠不足に摂食障害、それから偏頭痛と自由に病気かかり放題だよ」
片頬を上げて笑うと、おそらく本当に父にそっくりな顔になるだろう。こんな顔、司には見られたくないな。
「俺は仕事を辞める。見たこともねえ婚約者もいらん。刹赫って苗字に憧れてるしな、二度と桐生を名乗らない」
「どうしてそこまで。何が不満なんだ」
「まだわかんねえのかよ。空っぽにしとくのはタマの中身だけにしとけ、色ボケジジイ」
一歩、二歩。ゆっくりと足を進めると、周囲の使用人連中も同様に歩き出した。
「お前が親父である限り、俺は」
ズキリと、腰が痛む。腹の奥に石でも詰められたかのように重い。こんな時に思い出すなんて。いや、こんな時だから、か。
「俺は、まともに息ができない」
その歪んだものを愛情と呼ぶことはできないほど、みんなのおかげで真っ当な道に引き戻されている。
「…………好きにしろ」
一発や二発、ぶん殴ってやろうと思って近付いたのに。
「……これを兄貴に」
胸元から出したのはいつか渡そうと思っていた小切手。今まで俺のために使われてきた金額が明示してある。
「これで、全て忘れてください」
俺は深く、深く頭を下げて。
もう振り返るまいと足早に屋敷を飛び出した。
「……ほんとにいた」
今は聞きたくなかった、それでも愛おしくてたまらない声。
「猫は、お前の方だ」
気まぐれで神出鬼没、なかなか懐かないくせに、心を許した相手にはとことん尽くす。
「今度は気絶しないでよ」
「……自信は、ないな」
投げ渡されたヘルメットを被り、ぴたりと体を寄せる。心地よい温もりを胸に抱きながら、ジャケットを掴む手に力を込めた。
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