寒い夜君に会いたい
自分の名前が嫌いだった。こうきと呼ばれる度に思い浮かぶのは病弱な兄の顔だったから。
「こうき……だめよ、こうき……」
恋人の名前を呼ぶような甘ったるい母親の声を聞いてから、俺はますます自分の名前が嫌いになった。
桐生洸希。一人じゃ何も出来ないくせに、全てを奪っていく男。
「お兄さんと同じ名前なのか!!」
あれは確か中学の時。一風変わった社会科の教師からの課題で家系図を書く機会があった。
当時隣の席だった直也が無遠慮に覗き込んできて指摘されたくないとこを大声で叫んだ。元の声量がバカデカいから、たぶん教室中に響いたんだと思う。
紙を丸めて捨てる間もなくクラス中の生徒が寄ってきた。
「へえ、兄弟で同じ名前ってアリなんだ?」
「同じ漢字でなければいいはず。ほら、戸籍にフリガナって載らないじゃん」
「それで洸希と虹輝? どっち呼んでるかわかんなくない?」
勝手に盛り上がり始めるクラスメイト達に辟易する。こんなことになるとは露ほども思っていなかったのか、直也が手を合わせて「すまん!!」と謝ってきた。
「……俺のも見たんだからお前のも見せろ」
そう言って直也の持つ紙を奪い取る。そこに書かれていたのは「瀬川直也」の文字だった。
「瀬川? 森だろ、お前」
「それはだな。自分の苗字があまりにも簡単なものでかっこいい苗字を考えたんだ!!」
「お前、本当にバカだな」
ふふん、と胸を張っている直也に呆れた視線を送る。この時は底抜けに明るい直也が複雑な事情を抱えていることなんて知らなかった。今更ながら、あの時の言葉を後悔している。
「おっと、春彦さんから電話だ。さっきはすまなかった!! まあ、色々事情はあるよな!!」
心配性らしく1時間ごとに電話をかけてくる「春彦さん」が何者なのか知っている者はいなかった。
「よう、桐生」
昼休み、屋上で過ごしていたら直也が来るようになった。最初は鬱陶しいと思っていたのだが、存外彼はいい奴だった。
「メロンパン食うか?」
「メロンパンって、なんか苦手なんだよ」
「ほほう、それまたどうして!!」
「……メロンっていうからジューシーなものだと思って食べて……」
「食べて?」
「口の中の水分全部持っていかれた」
「ははは、トラウマだな!!」
直也は腹を抱えて笑っていた。こんな風に俺の言葉に笑ってくれる奴なんて初めてで、小学校の時に避けられ疎まれ虐げられてきた俺の凍りついていた心はゆっくりと溶かされていった。
これ、相手が女の子だったらかなりいい恋物語が始まるんだろうけどな。
「おっと、春彦さんだ。もしもし」
慌てた直也は操作をミスしてスピーカーで応答した。春彦さんとやらの声がしっかり聞こえてくる。
『直也くん? 今日お小遣い忘れていったみたいだけど、ちゃんとご飯は食べられてるの? お弁当持って行ってあげようか?』
物静かな大人の男性の声。一体どんな関係なんだろうか。
「昨日もお小遣いをもらったばかりですから!! 昼食はきちんと摂っていますしご心配なく!!」
それから数度やり取りをして、直也は電話を切った。少し、物憂げな表情をしている。らしくない。
「今の、誰? パパ活とかしてないよな?」
「はは、してないしてない!! パパではあるがな!!」
「父親なのか?」
それにしては随分と他人行儀だ。それに、あの謎の家系図。こいつがバカなだけと思っていたが、もしかして。
「俺の実の両親は俺が2歳の頃、同時に不倫相手と蒸発してな!!」
「明るい調子で言うことじゃねえぞ、それ!! 2歳児がどうやって……」
「たまたま近所の人が通報してくれてな!! まあ、結果的に命は助かった!! この通りピンピンしている!!」
信じられないことを聞いた。平気で話せることではないだろう。
「お前……大丈夫なのかよ」
「こういう言い方はよくないかもしれんが、お前よりもずっと恵まれている!! 確かに実の両親はいないが、今は春彦さんと由美さんがいてくれるからな!!」
「あ、母親は由美さんっていうんだな」
なんだか明るい調子で続けられてこっちが困惑する。
「しかし、俺ん家より恵まれているとは大きく出たな。桐生財閥を知らないわけじゃないだろう?」
「俺は金はそんなに要らん!! 欲しいのは愛情だ!!」
片頬を上げたシニカルな笑みのまま固まってしまった。三下のような笑い方をする直也に、俺は何も返す言葉がなかったんだ。
ああ、昔のことを思い出したらなんだか自分のことより直也のことが心配になってきた。
『元気してるか。弥生とはうまくいってるか』
『大事件が起きたんだ!! 聞いてくれ!!』
メッセージ画面を開いたままずっと待っていたんじゃないかと思うほど早く既読がついて返事が来た。
『どうした』
『弥生ちゃんが……弥生ちゃんが……』
ぷるぷる震えている姿が容易に想像出来る。ついに男だと気づいたのだろうか。
『俺に!! き、キスを!!』
『リア充乙』
ちょっと悔しかったのでスクリーンショットを撮って青春グループに貼り付けておいた。なんだよ、キスって。俺たちもしたけども。
『熱々ですなー』
『ついに八分咲き』
『キス一つでめっちゃ咲いてんの笑う』
『弥生が顔真っ赤にしてる』
『なんで一緒にいんの』
『いないけど』
うーん、カオス。
『し、してないぞ!! してないからな!!』
『いや、完全にキスされた流れだろ』
それ以外に何があるんだよ。
移動中の車の中でクスクス笑っていたせいか、運転席の詩音がバックミラー越しに視線を向けてきた。
「……笑ってちゃ悪いか」
「いいえ。楽しそうで何よりです」
詩音が目を細める。その笑みは妖艶というのがぴったりで、色気のある女性というのはこういう人を言うんだろうとぼんやり考えた。まあ、胸がデカいので俺は興味なかったけど。
「坊ちゃんが楽しそうだと私も嬉しいです」
「そういうのはイイ男に言ってやれよ。たぶんめちゃくちゃ喜ぶぞ」
「他の男に興味はありません」
何事も無かったかのように車は発進する。聞こえなかったことにしよう。
『キスをねだってくれたという話だ!!』
『ねだってきたのにしてねえのかよ』
『勇気が足りなかった……』
『ステ振りやり直せ。声量にポイント振りすぎだバカ』
女……ではないが、まあそちら側にねだらせておいてキスをしないなんて男じゃない。男なら黙って……黙って……
『司、愛してる(*-( )チュッ♪』
ああ、会いたいな。こんなことしてないで直接彼女に会いに行けばいいのかな。だけど、一歩進むためには仕方のないこと。
『み』
一文字ですか。
『ゆっくりでいいよ』
司はメッセージを打つのが苦手。どんなメッセージが来るんだろうか。純情直也とのメッセージ画面を無駄に音符で埋めつくしながら返事を待つ。
長い信号に捕まって詩音が少しイライラしてきたようで指先がトントンとハンドルを叩いている。
『みぎ』
右? 顔を上げて窓を開けて外を見てみると。
「な、んで……」
隣に停まってる一台のバイク。ヘルメットを押し上げてこちらを見ているのは、司だった。
「追いかけてきた」
「待って、なんで」
「女といるの、ムカついたから」
一体どこから?
「違う、こいつは」
「こっちに来て」
ヘルメットを投げ渡される。ナイスコントロール。でも、待ってくれよ。俺は今から。
「信号変わる。早く」
「っ、詩音、予定変更だ!!」
「……行ってらっしゃいませ」
まだ少し、足踏みさせて。だってほら。
──寒い夜君に会いたい
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