まい そんぐ
日常は続いていました。あのドリーマーの再出現から一か月ほど経って、それらの事象は、人々の頭から忘れ去られていきました。
カフェ周辺の自衛隊の人の数は日に日に減っていきました。そのかわり、なぜか研究員の人の数は増えてきたような気がします。
ドリーマーの出現の跡の調査をしている人で、ここのカフェに訪れる人も少なくありませんでした。あの春日とかいう偉いらしい研究員も、ちょくちょく訪れました。
どうやら、彼は私のアパートを夜遅くに訪ねたことを覚えているようでした。少し世間話をすることもありました。だらしない見た目とは裏腹に、とても紳士的な話し方をしてくれます。もっとも、私は彼と話すときにぎこちなくなってしまうようで、私をナンパしているのだと間違えられて、春日さんが店長に注意されることもありました。
カエルちゃんは元気です。相変わらずの笑顔で、毎日のお留守番にも不満なそぶりは見せず、いい子でいてくれました。
今日は、カフェの閉店時間を早めることになりました。季節外れの台風で、外はとんでもない大雨でした。予報によれば、さらに雨は強まるということで、帰れなくなると大変だから、とのことです。
雨は横殴りで、傘なんてほとんど意味をなしませんでした。全身があっという間に濡れました。
感じられるものは雨しかありませんでした。視界を覆ってしまうほどの雨なのです。聞こえるものも雨の音だけでした。まるで世界が雨でできているようでした。傘を閉じました。私は雨に逆らうことをやめたのです。カエルちゃんの気持ちが、少しわかったような気がしました。
アパートのドアを開けると、カエルちゃんがいました。お昼寝をしていたようでした。ただいま、と言ってあげました。カエルちゃんは起きたようでした。
と、そのとき。カエルちゃんは、外の大雨に気付いたようでした。彼女は、眼の色を変えたようです。
あっという間のことでした。カエルちゃんが、外に出て行ってしまったのです。
あまりのことにあっけにとられてしまったのですが、急いで追いかけました。それでも、カエルちゃんの走るスピードは早く、追いつけそうにありませんでした。
どれくらい追いかけっこをしていたでしょうか。
家の近くの広場で、カエルちゃんは止まりました。そして、例のごとく、雨と戯れ始めました。
カエルちゃんの雨との戯れを見るのは、久しぶりでした。雨に向かって、なんだかわからない踊りをし
ているようなのですが、今日は、その踊りがなぜか美しく思えました。でたらめなようでどこか規則的な
その踊りは、何か私を引き付けるものがありました。
どれくらい彼女の戯れを見ていたでしょうか。二人とも、とっくにびしょ濡れでした。それそろ帰ろうと思って、踊りを止めさせて、帰りたくなさそうなカエルちゃんの手を握った時、
後ろから視線を感じました。
見ると、こちらへ向かってくる人影が、何人かありました。
やがて、止まりました。見ると、軍の人たちが三人ほどいて、真ん中に、白衣の人がいました。白衣の人は、春日さんでした。みんな、傘をしていませんでした。
「どうして」
どうして、ここがわかったのでしょうか。頭の中で、いろんな疑惑がぐるぐる回りだしました。つけられていたのでしょうか。私のアパートは監視されていたのでしょうか。心の底から、怖くなりました。
そんな私を見てか、春日さんが口を開きました。
「時空の歪みがあったんです」
時空の歪み?
「情報有機体が発生するとき、情報を実体化させる過程で、時空の歪みが生じるんですよ。私たちは、奴らが発生する前にそれらを予兆として確認することで、対策をします。そして、一か月半前、急にその類時空の歪みが観測されました」
彼はいったん息をおいて、言いました。
「それは、あなたの住むアパートからでした」
とても衝撃なことを言われた気がします。でも、なぜだか、私は動揺を感じませんでした。
「私たちは、観測機器の誤作動だと思いました。実際、情報戦争以前の機械を使っているため、誤作動が
起こることもあります。でも、そのすぐ後に近くで歪みが発生して、それは実際に情報有機体として発現したのです。私たちは、例のアパートの観測を続けました」
彼は、あくまで冷静で、それでいてどこか優しいような、そんな口調で話してくれました。
「そして今日、ついさっき、時空の歪みの移動が確認されました。私たちは至急駆けつけました」
そして、ここに行きついたのでしょう。
あまりの情報量に、私の脳はパンクしそうでした。
「水森さん、その娘は誰ですか?」
カエルちゃんは誰なのか。それは、私が一番知りたい問いでした。
「この娘は、カエルちゃんです」
私は答えました。
「カエルちゃん?…まあ、わかりました。」
何も分かっていなさそうです。
「その娘を渡してもらえないでしょうか」
カエルちゃんは、どうやらドリーマーたちに関係があるようです。不思議な存在の彼女です。彼女を調べることで、何かドリーマーたちのことがわかるのかもしれません。人類のために、ここは彼女を渡すべきなのでしょう。でも、
「渡したく、ないです」
私は、なぜかそう答えていました。
「そうですか…」
春日さんは、ため息をついてしまいました。そして、彼は、私たちの方へ進んできました。
危険を感じて、私はカエルちゃんの肩をぎゅっと握りました。でも、
「どうか、お願いします。その女の子を、渡してください」
春日さんは、私たちに向かって、土下座をしました。震える声でした。その震える声のまま、しゃべりだしました。
「私には、生涯の師がいます」
師?
「私は、茜山教授という方に様々なことを教わりました。彼は私の父との知り合いで、子供のころから私に良くしてくれました。博識でいながら、とても優しい人だったのです」
茜山教授。どこかで名前を聞いたごとがある気がしました。そうです。彼は確か――
「彼は、情報科学の第一人者で、情報上の物体を現実に発現させる研究をしていました。最初は不可能と思われた技術でしたが、度重なる試行錯誤の上で、ついに情報上のものを現実に発現させるプログラムを開発させたのです」
それは世紀の大発明だったのでしょう。彼は夢の技術を作り出した科学者として、歴史に名を残すべき人だったのかもしれません。
「でも、そのプログラムは流出しました。原因は不明です。誰かの手によるものとも、とんでもない偶然ががさなったものともいわれています。そうして、彼のプログラムは、情報有機体を生み出してしまった。夢の技術は、人を地獄へ貶めるものへと変わってしまった」
彼は、私に言っているというより、独り言を言っている風でした。
「教授はすべての責任を押し付けられ、自殺しました。世間では、教授は悪者とされました。そんな出来事は、当時学生だった私の心に様々のものを植え付けました」
そして、春日さんは、ドリーマーの研究者になったのでしょう。それは、茜山教授の無念を少しでも晴らすためなのかもしれません。
「どうか、私に協力してください。もう、情報有機体の被害者は出したくないのです。どうか、どうか…」
それは、要求ではなく、懇願でした。
たぶん、春日さんはいい人なのでしょう。それも、どうしようもないほどに。自衛隊の人たちを使って、強制的にカエルちゃんを連れて行くこともできたはずです。それなのに、得体のしれないはずの私たちに、土下座までして。つらい思いをしたからこそ、他人に同じつらみを味わわせるのではなく、つらい思いをさせないようにするような人なのでしょう。
協力してあげたい、と思いました。
もう、顔を上げてください。そんなことを言おうとした時でした。
カエルちゃんが、泣き始めました。
彼女は、再開してからというもの、笑顔しか見せませんでした。何かがおかしいと思いました。
自衛隊の人たちが何やら焦り始めました。
自衛隊の人たちの後ろを見ました。いつの間にか、ドリーマーが発現していました。
奴は、彼らを、あっという間に飲み込んでしまいました。