8月29日
「ちょっと、よろしいでしょうか?」
「何だい?」
「何か、食べ物、残ってないでしょうか?」
野出は徐に、外車を掃除する碤嗣郎に尋ねた。彼の後ろでは、小さなお菓子の袋を握り締めて野出を見つめる瑛砥と、シートを倒して眠っている煐子が居る。
「悪いが、こっちは分け与えられるほどは持ち合わせてないんだ。あんた等こそ、菓子やジュースをかなり溜め込んでいたじゃないか。それはどうしたんだね」
「男子大学生が二人も居たら、とっくに食べられちゃいますよ」
「計画性の無い連中だなあ」
碤嗣郎は野出を相手にする気は無かった。
「恨むんなら無計画な坊主等を恨め。俺は父親としてこの家族を守らんといかんのだ。たとえ君等が餓死しようともな」
碤嗣郎にけんもほろろに断られ、眞姶はトボトボと先頭の軽自動車へ回れ右をした。
「あのお、すみません」
「お? どした?」
前から3番目に縦列駐車してあるのは、車高の低いシルバーの車。その運転席でフロントガラス越しに空を眺めていた七五三和悦に声を掛けたのは、ツルこと、五十部蔓延だった。
「食べ物とか飲み物とか……どうされてますか?」
「な~んも無い。ここに来た時に飲みかけの缶コーヒーがあったくらいだよ」
「やっぱり、そうですよねえ」
「助けは来んのかなあ。これじゃあ先に飢え死にしちまうぜ」
ここに辿り着いて、飲まず食わずで2日が経過したにも拘らず、七五三和悦はまだ案外余裕そうだ。
「良かったら、これ」
五十部蔓延は、駄菓子屋で売っているサイズの小さなポテチの袋を、和悦に差し出した。
「これは?」
「僕等、ここに来た時、お菓子とか結構持ってたんです。でも、飢え死にしたくないから、バレないように僕等だけで3等分しようってことになって……。でも、でも、食べ物独占して他の人に死なれたら、良い気分しないなって思ったので、その……ささやかですが、僕の分だけでも、と……」
開いた扉の影にポテチを隠すように持って、蔓延は同輩の二人の様子を窺う。それを見て、和悦からは笑みが零れた。
「がめつい野郎どもだと思ってたが、君だけはマシみたいだな」
「やっぱりバレてたんですね」
「皆、腹空かしてっから、鼻も利いてくるさ」
和悦はポテチを受け取った。
「ありがとうな。大事に頂くぜ」
蔓延も先頭の軽に戻っていった。
「警察の人って、こういう時の何か……無いっすか?」
崖崩れを先頭に、軽自動車の隣には、パトカーが並んで停まっている。そのパトカーに傍らで話し合っている三人の警察官に、志字贏也はボヤッとした質問を投げた。
「何かって?」
「その、非常食的な」
「そういうのは常備してないなあ」
答えたのは、正能宴息だ。
「私等は捜索でここに来てしまたからなあ。こうなると分かってりゃあ手は打ってたんだが」
水畑父こと、水畑富衍もそう答える。
「なんだよ~こういう時に守ってくれるのが警察じゃないの~?」
「すまないね」
志字贏也はあからさまな溜息を吐いて、パトカーの隣の自分の軽に乗り込んだ。
「目の前に困っている人が居るのに、無力ですね、私達……」
穎帆は面目無さそうに呟く。
「所詮、公務員は組織で権力を持つ集団だ。こんなとこで切り離されちゃあ、私等は彼等と同じ遭難者だよ」
水畑富衍は、底深い渓谷を眺めて言う。
「あいつら、充分飲み食いしてるからまだ生きてられますよ」
「私達は飲まず食わずで丸一日断食。はああ、あと何日これが続くんだろう……」
穎帆は時折小さく鳴る自分のお腹を擦ってみせる。
「警察の威信に懸けて、いずれ助けは来る。信じて待つしかないさ」
富衍は、そう娘を励ますしかなかった。
「後ろの家族は?」
「分けられるものはないって。子供から奪うわけにも行かないし……」
「その後ろの兄ちゃんは?」
「飲み切ったコーヒー一缶だけ」
「んだよ。皆、用意悪いなあ」
自車に戻った。贏也、眞姶、蔓延は、話し合っていた。一行の食料の持ち合わせが非常に乏しいことを確認し、苦難の表情を見せている。
「どうする?」
「んーどうしよっか……」
「警察が助けに来るんですよねえ? 救助計画みたいなのは聞いてるんですか?」
次に警察官達に話し掛けたのは、和悦だった。
「だから、俺等は捜索でここに来たんだって。救助を呼ぼうにも……」
何もできない正能宴息は、無念を抱えて、少しイラついている。
「俺等は行方不明ってことになってるんですよねえ? だったら、警察の救助を信じていいんですよね?」
「それは勿論。このままほったらかしということはないはずだ」
「ならいいんですけど……」
和悦は不信感を露に、天穹を仰いだ。
「そんなに警察が信用ならんかね」
「水畑さん、やっぱ変じゃないですか?」
正能宴息も空を見上げる。
「万が一、陸路がダメなら、こういう時ヘリで救助に来るものですよね? 昨日から全くそんな気配がしないんですが」
「確かに……なんか、静かすぎるような……」
穎帆も辺りを見回した。富衍は返事を濁す。その違和感には気付いていたようだ。
「俺、3日間空を眺めてて、気付いたんすけど——」
その時、最前にとまるパトカーの隣の車輛のエンジンが掛かった。大学生三人を乗せた車輛だ。それは徐に発進すると崖崩れの際に前輪が乗り上げるまで進み、車体が大きくグラリと揺れていた。後部座席からは逃げる様に蔓延と眞姶が降車する。続いて運転席から降りてきた贏也は、その車の上に攀じ登り、崖崩れを正面に構えてみせた。
「おい、何してる!」
「こんなところで飢え死になんて御免だね。俺がここ渡り切って、向こうの集落から助けを求めてやるよ」
「馬鹿野郎! 危険な真似はよせ!」
「このままじっとしてて何が変わるってんだ! あんたら警察を当てにしたって、助けなんて来ねえじゃねえか!」
水畑富衍と志字贏也の叫びが飛び交う。
「思い立ったが吉日! 後悔する前に動くんだよ!」
贏也は軽自動車の天井を駆けていき、崖崩れの斜面に飛び付いた。上手く木の枝や岩に手足が掛かったのか、軽い落石を齎しながら藻搔いている。
「あんな無茶を……」
「マズい……。逃げろ! 逃げろ!」
茫然と眺める一同の中で、和悦は皆を後方に避難するよう呼び掛ける。それを受けて、蔓延も眞姶も、警察官の三人も、格闘する贏也を残して後退っていく。車戸一家もそれを聞きつけ、自車から降りてきた。
贏也が30㎝くらい登った時、足を掛けた大岩が崩れ落ち、先頭の軽のボンネットに大きな凹みを空けた。その拍子に彼はバランスを崩し、摑んでいた埋木もろとも斜面からずり落ちた。それを皮切りに崖崩れは更なる崩壊を始めた。枝や岩が動いた跡に、その上の土砂が雪崩れ込んでくる。斜面は土石流となってズルズルと流れていき、遂には山の上部に積み重なっていた土砂も地上に降らせていった。
眼前の災害に恐怖を覚え、攀じ登る贏也を眺めていた一同は全力の退避を始めた。被害の規模は想像がつかず、一番安全と思われるトンネル内まで全員が駆けていく。
心臓の乱れた拍動が収まらずに息を潜めていると、徐々に崩壊の地鳴りが止んでいくのが分かった。一同が怖々元の場所に戻っていくと、先頭に駐車していた軽自動車とその隣のパトカー、更にはその後ろの車戸家の外車が土砂に埋もれており、再生の余地など何所にも無かった。
「お前等! どうしてあいつを止めなかった!」
唖然とする一同の静寂を切り裂くように、和悦は大学生二人に摑み掛かった。
「い、言って聞く奴じゃないんですもん……」
「崩落現場ってのはなあ、土砂が繊細なバランスで積み重なってんだ! 近づいちゃいけねえってのはそういうことだ! 覚えとけ!」
崩落が収まった現場で、和悦の怒号が木霊していた。
「ね、ねえ、贏也は? 贏也はどうなったの?」
眞姶の声が震えている。
「知るか。自業自得だ」
和悦は冷酷に吐き捨てた。
「ったく。ループしてるから災害の危険性だけはねえって思ってたのによお」
「ループってなんです?」
ぼやく和悦に、穎帆が問い掛けた。
「ここの環境、毎日ループしてんですよ」
「??? どういうことですか?」
「3日間、気候の流れが同じだ。雲の形も変わらない、風も一切吹かない。全く同じ青空が3日間広がってる」
「そういえば、今日は雨予報じゃ……」
「それに、外部の音が一切聞こえない。渓流のせせらぎも、鳥の鳴き声も。ヘリコプターもそうだ。助けって言うんなら、崖崩れの対岸からこちらの様子を偵察しに来る方法もあるだろうに、それすらも来ない」
和悦が説明を止めると再び静寂が戻った。周囲には異様な静けさが染み付いている。
「俺等は、入ったら出られない、透明なフラスコみたいな陸の孤島に閉じ込められてるんですよ。だから、外部からの助けは来ない。俺等が自力で脱出する術も無いんです」