58.第六章十一話
「ご機嫌だな、エセルバート」
シャーロットを侍女に預けたエセルバートは、兄――皇帝の自室に報告に訪れていた。
兄パーシヴァルは深く椅子に腰掛け、ワイングラスを片手にエセルバートを迎え入れた。エセルバートも椅子に腰を下ろすけれど、勧められたワインは断る。
「『封印』はどうだった?」
「問題はありませんでした」
「そうか、さすがだな。しかし、魅了の適性は利用価値が高いのだが……惜しいな」
パーシヴァルは残念だと息を吐く。
リモア王家には、何代か前に魔術師の血が入っている。その影響か、魔術の素養はなくともそれなりに魔力を持つ者が何人か生まれていた。
魔術師として育つ者はいなかったので、特に脅威には感じていなかったのだけれど――第二王女ジュリエットが少々特殊な力を宿していることが、エセルバートの留学中に判明した。
ジュリエットは魔力の量で言えば魔術師の平均以下で一般的なものだけれど、その性質は魅了の適性が高いようで、魔力そのものに軽い魅了の力が宿っているごく稀なケースだ。彼女自身が魔力を操作できるでもなく、感知できるわけでもなく、ただ体の外に少量ずつ垂れ流しているだけではあれど、周囲に効果を及ぼしていた。
自分に向けられる好意を多少増幅させる程度の微々たるもので、それは魔術ではなくあくまで魔力そのものの単純で些細な力であり、魔力が多い者や魔術師には通じにくい。そもそもジュリエットに好意を抱かないものにも効果はない。
しかし、一度好意が膨れ上がると、大きなきっかけがない限りは嫌いになることもない。そういう力だ。
そして、共に過ごす時間が多ければ多いほど、相手に強く影響が出てしまう。少しの好感さえあれば、あとは徐々に好かれていくだけ。
魅了の影響を受けた人は基本的にジュリエットのために動こうとするので、シャーロットのような被害者が生まれるのだ。
魅了は珍しく、便利な力だ。相手を思い通りに動かすことだって可能とする。
魔術の適性があり、魅了の魔術を覚えたら。きっと帝国でも片手の指に入るレベルの魔術師であるエセルバートでさえも、術に抗うのに苦労をしいられるのだろう。しかしジュリエットに魔術の素質はない。
「仮に魔術の素養があったとしても、第二王女は忍耐力が皆無です。魔術の習得には修練が欠かせませんし、まして魅了は扱いも難しい部類。努力などできない彼女が自由に術を操ることはできないでしょう。魔力操作も同様の理由から、封印を施して懸念を払うのが最適な対処です」
「うむ。そういう報告だったな」
思い通りに人を操ることさえ可能にする力だからこそ、制御できない者が持っていると危険なのだ。だから、留学が修了して帰国する前に封印した。そして今回は、シャーロットを手助けするついでにジュリエットの封印に綻びがないかも確認していたのだ。
「それで、シャーロット王太女の方はどうだ?」
シャーロットがジュリエットの魅了の魔力に影響を受けなかったのは、シャーロットの魔力量がジュリエットのそれを上回っていたからである。それも尋常ではない量で、魔術師でもそうはいないレベルだ。
「魔力の保有量は魔術師団の者と比較してもトップクラスで、体にもかなり馴染んでいるようですが、やはり魔術の適性はないようです」
「そうか。――ありがたい、と言うべきだろうな」
パーシヴァルにはすでに子供がいる。けれど、パーシヴァルも子供たちも、エセルバートを凌ぐ魔術の才があるとは言い難い。無論、子供たちはまだ幼いのでこれから成長することも考えられるけれど、エセルバートが規格外すぎる。
優秀な魔術師をエセルバートの妃として迎えると、魔術大国であるファレルデイン帝国では皇位継承問題がまた勃発しかねない。本人たちの意思はそっちのけで周りが勝手にどちらかを支持し、争うのだ。
だからこそ、魔術師ではないシャーロットを皇弟妃とするのは都合が良い。非魔術師から魔術師が生まれる確率はかなり低いからだ。
「魔力の操作は鍛練すれば問題なくこなせるでしょう。我が国には邸の中にも魔術具が多いですが、その点においては不便にはならないかと」
「そちらの素質はあるのか」
「はい。むしろ無意識に魔力操作を可能としています。それにより疲労などを癒しているようです」
「無意識でとはすごいな」
フレドリックとシャーロットは膨大な魔力を有している。その魔力が体の負担を軽減しており、二人の体はかなり丈夫だ。そうそう体調を崩すことはないほど。
シャーロットの疲労が顔に出にくい体質も、彼女の魔力が関係している。
(なまじ能力が備わっているだけに、時間は要するものの皆の理想に近い姿を最低限に装うことは可能だった。だから王との差異に気づかれなかった。豊富な魔力で体が常人より丈夫だったのが不幸なのか幸いなのか……)
初めてシャーロットに会った時、エセルバートはシャーロットの魔力量が規格外であることに気づけなかった。それは、シャーロットが過酷なスケジュールをこなす上での疲弊を常に無意識ながらも魔力で癒しており、魔力が消費されていたためだ。
「ふむ。お前の婚約者が魔術師ではなくそれ以外の面で優秀なのであれば、私としては願ったり叶ったりだ。しかもお前が愛しているとなれば尚更な。しかし――そんなにも有能なのであれば、反皇室派に嫁入りさせて奴らを取り込む駒として使えそうだと思わないか?」
挑発的な笑みを浮かべるパーシヴァルに、エセルバートは不快感を隠すことなく鋭く目を細める。エセルバートの体から冷気のように魔力が溢れ、部屋の温度が下がった。
「冗談だ。兄をそう睨むでない」
パーシヴァルがワイングラスをゆっくり回す。
「面白いな、お前がこうも本気とは。甥か姪の顔を見るのもそう遠くなさそうで楽しみだ。お前を揶揄うのは私の生きがいの一つだが、お前の幸せを心から願っているのも事実だからな。お前の未来の妃とは数度しか面識もないし、義兄になる者として相対するのが本当に待ち遠しい。私の妃も首を長くして待ち焦がれているぞ」
にんまりとしている兄にぴくりと眉を動かした後、エセルバートは愛想笑いを見せた。
「私は明日から公爵領の邸で生活しますのでそのつもりで」
ご機嫌にワイングラスを回していたパーシヴァルの手がぴたりと止まる。
「……は? 待て、そんな話は聞いていないぞ?」
「兄上には今初めて言いましたので」
「つまり他の者は知っていたと?」
「私が口止めしました。そうしなければ仕事を増やすなど幼稚な嫌がらせをなさるでしょうから」
弟をからかうのがこの兄の生きがいの一つなのだから、事前に対策をしておくに越したことはない。
「異国に来た婚約者は心細いでしょうから、寄り添う時間を確保するのは当然です」
「何も公爵邸で暮らして付きっきりになる必要はないだろう!」
「兄上との顔合わせを早々に済ませ、その足で暫く休暇を取ってのんびり過ごそうと思います」
「早急な顔合わせ自体は賛成……暫く休暇!?」
「そのために公爵邸ではなくわざわざ最初に皇宮に連れてきましたから。では明日、彼女の準備が整いましたらご挨拶に伺います」
「ちょっと待て!?」
制止の言葉は無視し、エセルバートは立ち上がる。
「それから、彼女はすでにリモア王家とは一切関係ありませんので、『シャーロット王太女』という呼び方は相応しくありません」
そう語る表情は厳しい。エセルバートは随分とかの国にご立腹のようだ。
「それはそうだな。公爵令嬢になるのだから、シャーロット公女とでも呼ぶべきか」
「いえ。名前も変えるそうです」
「名前もか。確かにその方が正体は露呈しづらいが……それで、新しい名は?」
「考え中です」
「……お前がつけるのか?」
「はい。実は彼女がそう言い出すのを見越して以前から考えていたのですが、なかなか決まらないものですね」
「お前がか?」
「名付けとは難しいと実感しました。義姉上が妊娠した際、子供の名前決めでお二人があれほど悩まれていたのも納得できましたね」
「お前がか!?」
「では報告することはすべて完了しましたので、そろそろ失礼いたします」
「だから待て!?」
皇帝の引き止める声も虚しく、エセルバートはあっさり転移して姿を消したのだった。
「お帰りなさいませ、エセルバート様」
「ああ……ただいま」
自室に戻ると、湯浴みを終えたらしいシャーロットがソファーに座っていた。一応ショールが肩からかけられているけれど、胸元を強調するような寝衣を身にまとって。
邪な考えは頭の片隅に追いやり、エセルバートは努めて優しく声をかける。
「何か不手際はなかったか?」
「はい。さすがはファレルデインの皇宮で働く侍女たちですわね。元通りとはいきませんけれど髪はサラサラで、肌も潤いがあります」
「そうか、よかった」
エセルバートが切ったために長さが少し不揃いだった髪は綺麗に整えられており、牢生活でダメージを受けていた髪質も入念な手入れで艶を取り戻している。
シャーロットの元に歩み寄り、ソファーの背もたれに前腕を置き、片方の手でシャーロットの髪に触れると。
「あの」
上目遣いで、シャーロットがこちらを見上げた。
「ファレルデイン帝国では、婚前であっても同衾は珍しくないとお聞きしました」
彼女の口から紡がれた『同衾』という言葉の破壊力の、なんと強いことか。
「……ああ、そうだな。魔力に敏感な魔術師にはお互いの魔力の相性が大事になってくる。相性が悪いと握手をするだけで不快感を覚えたり体調を崩したり、子供ができにくいこともある。酷い場合は同じ室内にいるだけで不快な感覚があるそうだ。だからまあ……婚前交渉は魔力の相性を確かめる上で最も正確な結果を導ける手段だな」
「でしたら、正式に婚約する前にわたくしたちも試しておいた方がよいということですわよね?」




