55.第六章八話
婚約を結んで間もない幼い頃、クェンティンはプレゼントをくれた。
『青色がお好きだと仰っていたので』
その言葉と共に渡されたのは、青色の箱に入った青色の小物入れだった。確かに、何度か顔合わせをして好きな色やものは何かを訊かれて答えたのをよく覚えていた。
その頃にはもう、何が好きかを訊いてくれる人はほとんどいなくて、これが好きですよねと確認を受けることばかりだったからだ。
それも、すべてジュリエットの影響だった。
『ありがとう』
だから、純粋にとても嬉しかった。シャーロットに直接何が好きかを確かめ、それを考慮した、想いがのせられたプレゼントが。
この人とならお互いを尊重していけるはずだと、そう思っていた。
クェンティンがシャーロットに会うために王城にやって来たある日、クェンティンは早めの時間に到着していて、シャーロットがレッスンを受けている間は庭園を散策していると使用人を通して伝言があった。
レッスンが終わったシャーロットが庭園に向かうと、ベンチにクェンティンとジュリエットが座っているのが見えた。
そういえば、ジュリエットも今日は体調が安定しているからと庭園を散歩していると使用人が話していた。偶然ここで二人が会ったのだろう。
クェンティンに会いにきたのだから声をかけるべきなのだけれど、ジュリエットがいることで、シャーロットは躊躇していた。そうこうしている間に、話し声が届いてくる。
『私は、父や兄たちほどの才能はありません。侯爵家の名に恥じぬようどれほど努力しても、どうしても追いつけないのです。……正直、王太女殿下の婚約者に相応しいかどうか……』
苦悩に満ちた声は、微かに震えていた。
クェンティンが優秀な家族と比較されていることは知っていた。シャーロットも似たような立場だから共感していたのだ。
ジュリエット相手に、想像よりも少し暗い話が二人の間で繰り広げられていたらしい。
シャーロットがそばにある木の幹に手をついて声をかけるタイミングを窺っていると、ジュリエットが『クェンティンさま!』とクェンティンの手をぎゅっと握った。
『他人にあれこれ言われたって気にしなくていいと思います!』
『ですが……』
『クェンティンさまはクェンティンさま、さいしょうさまはさいしょうさま、クェンティンさまのお兄さまはクェンティンさまのお兄さまだもの。他の誰かみたいになろうとしなくても、みんなそれぞれにいいところがあるのです。クェンティンさまは十分、みりょくてきですわ!』
笑顔で強く言い切ったジュリエットに、クェンティンは頬を染めて目を見開いた。ジュリエットの言葉に心の苦しみが解され、ジュリエットの笑顔に見惚れたのだろう。
それは、人が恋に落ちる瞬間だった。
婚約者の中で、自分ではなく妹が一番になった瞬間だった。
それからどれほどの月日が流れた頃だったか、またクェンティンからプレゼントを貰ったのだけれど、以前のものとはだいぶ様変わりしていた。
何がと言うと、――色が。
『王太女殿下にぜひお贈りしたく、領地の雑貨店で購入しました』
一目で、嫌な予感がした。箱が、いかにもジュリエットが好みそうな桃色だったのだ。
とりあえず箱を開けると、綺麗に折り畳まれた布が入っていた。取り出して広げてみれば、淡いピンクがかった白い布に、桃色で繊細な模様の刺繍が施されていることがわかった。可愛らしいハンカチである。
『……綺麗な、桃色ね』
『はい。殿下は淡い色がお好きなのでしょう?』
確信を含んで、クェンティンはそう問うた。信じられない思いでシャーロットは僅かに目を見開き、震えそうになる唇を薄く開く。
『どうして、そう思うの?』
『ジュリエット殿下からお聞きしました。普段着用なさっておられるのも淡い色合いのものが多いですし、好みが変わられたのですね』
『……そう……』
短い言葉しか、声に出なかった。
以前、好きな色は青色だと確かに伝えたのに。それを参考にしたプレゼントだって貰ったのに。結局はこうなってしまった。
シャーロットの持ち物はジュリエット好みに染められてしまっているので、仕方のないことではあるのかもしれない。けれど――ジュリエットの言葉が正しいと受け入れ、確信を持ってシャーロットにただの確認を取るその流れが、衝撃だった。
青色が好きだとシャーロット本人から直接聞いていたのに、異なる情報を他者から与えられてそこに疑問を抱かないところが、心底不思議だった。
それも、よりにもよってジュリエットの髪の色だなんて。
(貴方は、違うと思ったのに)
婚約者という存在だけで特別に感じたのがいけなかったのだろう。期待などしてはいけなかったのだろう。
やはりあの日――彼が妹に恋をした日に、割り切るべきだったのだ。そうすれば、こんなにも落胆し傷つくことはなかったはずである。
淡い色が好きだなんてジュリエットの思い込みだと否定すれば、また異なる展開が待っているのかもしれない。今後も青色が使われた贈り物が届くだろう。
しかし、また同じことが繰り返されるのだと、容易に想像できた。ジュリエットがそんなはずはないと否定し、シャーロットはジュリエットと同じ物が好きなのだと語り、クェンティンがその話を真実として受け取る未来がはっきりと見えた。
他の者たちが、そうだったから。フレドリックも、乳母も、侍女も、騎士も、みんなそうだったから。
だから、何も言わずに甘受した。これ以上抗ったところで結果は決まっていたから。変化が起きるのはせいぜい過程だけ。時間稼ぎでしかなく、行き着く先は決まっている。
否定は、無駄な足掻きでしかない。
『――ありがとう』
笑顔を貼り付けて、感謝を伝える。
そうして、初恋に育つ前に、淡い期待は完全に儚く散ったのだ。
◇◇◇
他には誰もいないはずの牢の中。ベッドで横になっているシャーロットは、ぎしりとマットレスが音を立てて沈んだことで、閉じていた瞼をゆっくりと上げた。
「――婚約者のことは嫌いなんじゃなかったのか?」
背後から聞き慣れた静かな声が落とされる。普段よりも少しばかり声のトーンが低いように感じた。
「元、婚約者です」
そう指摘しながら、ベッドに手をついて上体を起こす。
振り向けば、エセルバートがそこにいた。ベッドの端に腰掛け、青紫の双眸にシャーロットを映している。今のシャーロットは髪がパサパサで肌の状態も良いとは決して言えないので、美貌の皇弟殿下にこの姿を見られるのはなかなかに堪え難い状況だ。
「嫌いですわよ、あんな男」
「そうか」
「妬いてらっしゃるのですか?」
無愛想な彼の態度が不思議でそう訊くと、エセルバートは目を瞬かせた後、顎に手を当てて暫し考え。
「そのようだな」
と、肯定した。
今度はシャーロットが瞬きをして、それから表情を和らげる。美貌、地位、実力、すべてを持っていて自信に満ち溢れている人なのに、案外可愛らしいところもあってなんだかおかしい。
クェンティンとの最後のしんみりとした空気感でシャーロットにとって彼が特別なのではないかと感じ、嫉妬するだなんて。
「彼は昔、わたくしに何が好きか訊いてくれたことがあるのです」
エセルバートがそうしてくれたように。昔のクェンティンは、シャーロットのことを多少は考えてくれていた。
「今日はわたくしが待ち望んだ最期の日ですし、かつての彼の心遣いに対する最低限のお返しでも置き土産にしようかと思いまして」
一応は婚約者だった男なので、最期だからとシャーロットなりに誠意を見せただけだ。この素晴らしい日を迎えて、単純に機嫌がよくて口が多少は軽くなったとも言える。
「新聞はどうなっていますか?」
「すでに王都中に配布されている。フレドリック王の元にもそろそろ伝わるはずだ」
「そうですか」
シャーロットはベッドから降りて、エセルバートを見下ろした。
「もういいのか?」
「はい。非常に満足というわけではありませんけれど、それに近い結果です。やり残したことはありません」
浮かべている笑みは柔らかく、まさに心残りはないと存分に示す表情と雰囲気だった。
ジュリエットの精神を壊し、王太女の反逆という不名誉極まりない失態を作り出し、フレドリックの名誉に深い傷を与えた。計画通りに事が運び、シャーロットをさんざん苦しめてきた者たちが己の過ちをはっきりと自覚し、後悔に苛まれ始めている。
真実の公開により、更に苦しむことになるだろう。
「では、最後の仕上げといこう」
立ち上がったエセルバートが懐から出したナイフが、キラリと光を反射する。かなり切れ味が良さそうだ。
「一思いにお願いしますわ」
「……ああ」
晴れ晴れとしているシャーロットとは対照的に、エセルバートは苦しそうに眉を寄せた。
◇◇◇




