50.第六章三話
この気楽な空間を切り裂いたジュリエットという災害が護衛に連れられて去り、牢で悠々自適に過ごしていたシャーロットは、牢の外、ここからは死角になっている階段の上のドアが開かれた音に意識を向けた。その後、階段を一段一段、ゆっくり降りてくる足音が響く。
階段から現れたのはクェンティンだった。シャーロットが捕まったあの日、国王の手によって婚約は破棄されているので、今はただの幼馴染みという関係性しかない男。
彼が面会に来るのもこれが初めてである。ジュリエットと違って許可が出なかったわけでもないだろうに、元婚約者でありながら一度も顔を見せなかったとは薄情なものだ。姉が投獄されてショックを受けていたジュリエットの精神面をフォローするためにそばについていたのだろう。
「――なぜ、あのような愚かなことを」
そう尋ねる彼の表情は厳しい。幼馴染みとして、元婚約者としての親しみなど感じさせない、シャーロットの罪をただ責め立てるだけの雰囲気を纏っている。
この男らしいと、シャーロットは意外に思うこともなかった。これでこそクェンティン・サージェントという男なのだ。
「『愚か』? そうね、確かに愚かかもしれないわね。この国がどうでもいいからって、少し無謀だったわ。もっと徹底的に、慎重に動くべきだった」
緩慢な動きで足を組んだシャーロットは、手持ち無沙汰に長い髪に指を通す。
牢に収容されてからも湯浴みは一応させてもらえるけれど、いつも侍女たちが丹念に香油を塗り込んでケアしていた髪は、今では使用人の手を借りることもなくオイルが与えられることもないので、少しごわごわしている。だから指通りが悪くて、シャーロットは不満そうに目を細めた。
己の行いを一切反省していない太々しいシャーロットのその姿に、クェンティンは酷く失望と嫌悪を抱き、取り繕うことなくそれが表情に出ていた。
「ところで、『なぜ』と聞くのはどうしてかしら。あの子の護衛から話は聞いているでしょう?」
恐らくクェンティンは毎日ジュリエットに寄り添い、励ましていた。だから今日、ジュリエットが面会の後に戻ってきて驚愕しただろう。だからここにいるのだ。
「面会にいらしたジュリエット殿下に、心ない言葉をぶつけたそうですね」
「……は」
シャーロットの疑問への返答ではなく、これまた予想の範囲内の質問ではあったけれど、シャーロットは思わず冷たく短い笑い声を零した。どこか馬鹿にしたような、呆れたような色彩を帯びている。
心が壊れたジュリエットを見て、衝動のままここにやって来たのだ、彼は。元婚約者と面会をするためではなく、大事な人を傷つけた者を責め立てるために。
どこまでもただまっすぐに、――愚直に、ジュリエットのためを想っている。
「貴方はわたくしが国を裏切ったことよりも、あの子を泣かせたことに激昂しているのね」
的確な指摘に、ぐっとクェンティンの眉が寄せられた。
彼の険しい顔は見慣れている。それほど、シャーロットの前で見せる表情が婚約者らしいものではなかったということを意味している。甘い表情なんて向けられたことがない。
ジュリエットの護衛の騎士は、どこまで彼に話したのか。ジュリエットに肩入れせず、どれほど冷静に、シャーロットの言葉を歪めずに伝えることができたのか。
あくまで推測するしかないけれど――正しく伝わったにしろそうでないにしろ、クェンティンにとってはジュリエットが傷つけられたという一点のみが何よりも重大な問題として強く残った。それだけのことだ。まったくもって想定内すぎる。
「貴方、わたくしの婚約者だったわよね。なのに――馬鹿なことに貴方があの子に惹かれていると、わたくしが気づかないとでも思っていたの? あんなにもわかりやすく態度に出していながら」
「っ……」
不貞にまでは至っていないけれど、その心の不誠実さを鋭く指摘され、クェンティンは息を呑んだ。
自分のことなのだから、よく自覚しているだろう。
「別に、貴方の心があの子に向いたところでどうでもいいのよ。わたくしは貴方のことが好きだったわけでもないし、政略結婚でしかないと認識してたわ」
シャーロットは婚約者を好きになれなかった。そして彼もそうだった。そこに関してはお互い様だけれど、だからと言って我慢できない部分はたくさんあったのだ。
「ただ、誰もがあの子に甘くてわたくしに厳しいこのリモアという国が、どんどん憎らしくなっていっただけ。こんな国のために自分の時間を費やすのが馬鹿らしくてたまらなくなった。だから裏切ったのよ」
不可解だと、クェンティンは目を眇めた。その反応も想定通りで面白みがない。
シャーロットの罪。その原因が自分達であることを、彼らは想像もしていないだろう。ジュリエットへの不満をぶつけた後でもなおこの有り様である。
すでにジュリエットに話しているけれど、この場でもはっきり、事細かに説明する。人を主君となるべき人間としか見ずに労力を搾取しておきながら、未だその自覚がない愚者たちのために。
「あの男の娘、未来の王としてしか見られていないわたくしが、一体どれほど努力してきたと思う? わたくしはあの男みたいにただ一度見聞きしただけで全てを覚えたり実行できたりするような特技はないのよ。頭や運動神経がすごくいいわけでもないし、明らかにあの男より劣っているの。けれど凡人であることに甘んじることを許されないから、寝る間も惜しんで必死に勉強して、仕事をこなして、ようやく及第点をもらっていたわ」
一つの失敗も許されない立場。それがこの国の王太女だった。
完璧すぎる国王の後継者であるがゆえに、求められるものが多すぎて、窮屈で、苦痛なだけの地位。膨れ上がる期待に応えるには、到底足りない能力。それを補うにはただひたすら努力するしかなくて、それでも本当にギリギリのところに立っている。
すぐ後ろには崖が待ち構えているような精神状態で、常に結果をもたらさなければならない。完璧な国王と同様の完璧さを備えなければならない。
それがいかにつらいことか、他人が理解できるはずもないのだ。
「それなのに、あの子は何? 教養はいつまでたっても拙いし、昔と違って体も多少は丈夫になっているのに、王女としての責任を果たしもしない。圧倒的にわたくしより劣っていて王女としての自覚も素養も足りないのに、叱られるどころか褒められて励まされてるわ。いつまでも甘えてばかりで、遊んでばかりで、それが許されることに疑問も抱かない」
そんなことが、許されていいはずがない。
「無責任なんて言葉で表すには生ぬるいわ。病弱で可哀想? ――ふざけないでよ」
自由などない。家族だけの私的な場であっても、王太女としての立ち居振る舞いしか許されなかった。わがまま一つだって叶えられなかった。口にすることすら、厳しい叱責の対象となった。
それに比べて、ジュリエットは違った。
「健康な王太女より、自由な時間があったくせに。愛情たっぷりに、守られているくせに」
静かな怒りと憎悪に燃える声に、クェンティンは動揺を露にし、瞠目した。その反応でさえ、シャーロットの癇に障る。
シャーロットとジュリエット。第一王女と第二王女で、こんなにも扱いが違う。理不尽と言わずしてなんと言うのだろう。
「王太女としての仕事に加え、王妃がやるべき王城内の管理、無責任に仕事を投げ出す第二王女の仕事、更には補佐のはずの貴方がジュリエットにかまけて遅れる分の仕事。わたくしは三人分以上の仕事を押し付けられているの。王妃がいないリモアでは王妃の仕事は本来なら半分はジュリエットのものよ。わかる? わたくしの三人分の仕事の半分が、ジュリエットが放棄しているものなの。おかげでわたくしは睡眠時間を削っても休みなんてないわ」
半日でさえも休めなかったのだ。
「それに比べ、一体あの子はどれほど自由に過ごしていたかしら。陛下――あの男と視察ついでにリゾート地に旅行に行っていたこともあったわね。その時はあの男の分の仕事までわたくしが押し付けられて、本当に倒れる寸前だったわ。倒れなかったのが不思議なくらいよ」
その旅行は、ジュリエットのわがままで決行された。ジュリエットはシャーロットも一緒にと言っていたけれど、一週間以上の日程が組まれる旅行に王太女と国王が同時に行けるほどの時間的余裕はなかった。だからシャーロットは居残りとなり、フレドリックの仕事までする羽目になったのだ。
「尻拭いをするわたくしの苦労など想像もせず、いつもいつも呑気に遊び回って……。唯一頑張っているのは慈善活動だけれど、孤児院や病院を訪問して、子供たちの相手をして、配給をして、それだけじゃない。根本的に貧困を改善する策を考えるわけでもない、そもそも考えようともしない。可哀想だから政策が必要だと言うだけで、全部他に丸投げ。しかも後先考えずに直感だけで行動して急かすだけで予定を狂わせて、そのせいで仕事が更に増えるわ。無駄に増えた対応もわたくしがしないといけない。それであの子は叱られることもない。逆にわたくしはただでさえ過酷な状況の中で押し付けられた仕事もこなさなければ、怠けていると非難が待ってるの」
休みなく、シャーロットはずっと働かされてきた。フレドリックでさえ休日はあったのに、シャーロットには必要ないとされた。「怠けているから」と。
「これが当然だと本気で思っている貴方たちは、狭い視野と閉じられた思考しか持ち合わせてない愚か者よ。王太女というだけで、あの子の姉というだけで、国のためにあの子のために奴隷よろしく酷使される。こんな環境で壊れない人間なんていないわ。実際にわたくしは国を売って、こうして牢の中。『普通』に育っていたらこんなことにはなるはずがないでしょう?」
心身共にシャーロットの疲労はとっくに限界を超えて、感覚が最早おかしくなってしまっている。決して明るくない内容とは裏腹に、シャーロットは笑顔だ。
「自分の仕事でも手いっぱいなのに、あの子がやっぱり無理だと無責任に放棄した仕事の尻拭いを、あの子が遊んでいる間に済ませなければいけなかったわたくしの気持ちが貴方にわかる? わからないわよね。貴方はあの子のフォローをするのは当然だと考えているから。王族の責務を果たさずに権利だけ貪っているあの子に疑問なんて持ってないんだものね」
その笑顔は思わず目が惹かれてしまうほど綺麗である。しかし――。
「あの子のことが好きなら話は変わったんでしょうけれど……生憎、あの甘ったれは好きになれる要素が一つもないのよ」
細められている瞳に宿るのは楽しいという感情と、眼前にいる人物、そして他の者たちやこの国のすべてへの軽蔑だった。




