05.第一章四話
隣国ファレルデイン帝国とリモア王国では、国力がまったく異なる。
リモア王国は決して小国ではないのだけれど、帝国は広大な土地を持ち、さらには異常なまでの軍事力を保有しているのだ。特に他国ではあまり生まれない魔術師が多く、魔術師で構成されている魔術師団もあると聞く。
リモア王国が先代や先先代の王の時代、何度も戦をしかけて返り討ちにあうだけで攻め込まれなかったのは、当時の帝国では皇位継承問題が勃発しており、内でごたごたしていたからだ。そうでなければリモア王国は今頃、帝国の従属国となって久しかったことだろう。
国王がフレドリックとなってから、両国の関係は改善に向かっている。しかし、暴虐のかぎりを尽くしたリモア王国の立場は、国際的にあまり強くない。
それでもフレドリックの手腕は見事なもので、見る見るうちにリモア王国の立場を固めていった。帝国でさえも容易に手を出せないほどまでに国力もついている。
とはいえ、帝国は魔術国家だ。リモア王国など、落とそうと思えばいつでも実現できるだろう。
それを実行しないのは、リモア王国を手中におさめる過程で命の犠牲が出ることを懸念しているのと、フレドリックの王としての才能を強く感じているからだ。敵対関係を保つのではなく、友好関係を築く方が益があると判断したのである。
そして、まだ両国の溝が埋まったとは言いがたい中、関係改善の先駆けとして両国間で留学制度を整えるという話になり、数年ほど前から留学生が増えた。
リモア王国の民にとっては帝国の魔術という不思議な力が、帝国の民にとっては魔術がなくとも発展したリモア王国の科学技術や制度が新鮮で、刺激になるらしい。
今、シャーロットの眼前に現れた青年の名は、エセルバート・サディアス・ファレルデイン。彼は隣国ファレルデイン帝国の皇弟という立場にある。
エセルバートも留学生で、チェスター学園の大学部に半年だけ所属している。
エセルバートは独特の雰囲気を持つ男性だ。強者であり為政者の威圧感、威厳、上流階級の力強く品のある振る舞い、圧倒的な存在感。――そして、目を奪われてしまう美貌。
シャーロットは彼と面識があるのだけれど、毎度その顔を見るたびに息を呑んでしまうほど美しい相貌で、なかなか慣れることがない。
「エセルバート殿下に拝謁いたします」
「だから、そういう堅苦しい挨拶は公的な場だけでいいと言っているだろう」
困ったやつだと言わんばかりにエセルバートは息を吐いた。その様子までもが様になっているのは、彼の人間離れした端正な顔立ちと纏う空気感の相乗効果だろう。
彼がチェスター学園に留学に来てからというもの、学園内やこの図書館、そして王城で出会すことが何度かあり、多少は気安い関係になった。王太女、皇弟と、国を背負う立場が似ているためか、話が合うのだ。
それに何より、話術が巧みなのはもちろんのこと、彼の話はシャーロットの興味を強く引く内容が多い。
「相変わらず忙しいみたいだな」
護衛が抱えている書類を視認してエセルバートが零す。「ええ」と応えたシャーロットは書類を個室へ先に持って行くよう護衛に指示を出し、シャーロットから離れることを渋った護衛はエセルバートの説得で大人しく個室へ向かって行った。
「ここに来たってことは、また新しく仕事を押し付けられたのか?」
「……これも王太女の務めですから」
「私相手に取り繕う必要はないぞ、シャーロット王太女」
エセルバートはあらゆる意味で鋭い。その観察眼を誤魔化すことは難しく、何もかもを見透かしているように感じられる。心の中を暴かれているようなそんな感覚があるのだ。
「君の妹は呑気に城下の散策をしているというのに、理不尽なものだな」
「よくご存知ですわね」
「いつものことだろう」
ジュリエットが放課後に城下に出向くのは周知されていることだ。いつものことという説明は何も不自然な点はない。
「それに、学園の門の前で君たち姉妹が揃っていれば目立つ」
王族二人が話していればどうしても注目を集めてしまう。シャーロットが好き好んで遭遇したことはなく、いつもジュリエットの方がシャーロットを探し出して関わってくるので迷惑極まりない。
立場上目立つうえ、周りの人間がジュリエットに協力的で、どこでシャーロットを見た、前の授業が何々だったから今はこの辺りにいるはずなど、情報提供が後を絶たないので隠れるのが難しいのだ。
「押し付けられた仕事もどうせ、元は妹の案件だったんじゃないのか?」
「……よくご存知ですわね。まさか王城内に殿下の目と耳でもあるのでしょうか」
「さあな。いつものことだろう」
目を細めてシャーロットが見据えるも、エセルバートは平然とそう言い放った。
「期日までに終わりそうか?」
「殿下にお答えする理由はないかと存じます」
「それもそうだな」
無関係の人間に話す必要はない。この国の人間であれば相談相手として考えられなくはないけれど、彼は他国の人間である。
この国の人間に相談したところで、シャーロットが望む答えを出してくれるはずもない。
「今日は君の時間をこれ以上奪うことはしないでおこう。友人に本気で鬱陶しがられては寂しいからな」
(友人……)
自分には縁がないと思っていた単語が耳に届いて、シャーロットは取り繕うことも忘れ、ぱちりと目を瞬かせた。
そんなにも素直な反応が返ってくることは予想していなかったのか、エセルバートも意外そうに軽く目を丸めると、次の瞬間には楽しそうに笑みを見せる。
王太女の周りには人が集まる。否が応でも令嬢令息と交流を持たなければならない。
その中に真に友人と呼べる関係の者はいないと思っていた。王太女というシャーロットの立場に群がり、甘い蜜を吸おうとする者たちばかりだと。
エセルバートの友人という発言が本心からなのか、シャーロットには確信できる材料がない。それほど親しいと実感したことが、少なくともシャーロットの感覚では今までなかったからだ。
けれど眼前の彼の態度に確かに嘘偽りがないと感じたのは、願望に近いのだろうか。
「そのうち、君に私の暇つぶしの相手をしてもらうことにする。フレドリック王を通して正式にお誘いしよう」
隣国の皇弟との交流も公務の一環だ。滅多なことでもない限り、フレドリックが断ることはないはずである。帝国との友好関係の強化は、この国では優先すべき課題の一つなのだから。
「お暇なのですか?」
「案外な」
「何かなさりたいことが?」
「デートだ」
「……そうですか」
ただのお茶ではなくデートとは、何を企んでいるのか。わざわざその言い方をするということはどこかに出かけるのかもしれない。
これまた縁がないと思っていたものだ。婚約者はいるけれど、デートなんて経験がない。クェンティンと二人で出かけるのは視察くらいだったので、決してデートとは呼べないのである。
(デート……デートね)
知識はあるものの馴染みがなさすぎる響きに、シャーロットはいまいち想像ができなかった。
一般的には恋仲の者たちが二人で出かけることを指す言葉だと理解している。しかし、友人同士や家族で出かける際もその表現を使う場合があるとも、王城の使用人の話で聞いたことがある。
エセルバートはただ面白おかしくデートという単語を使っているのだろう。
「殿下であれば、お誘いを待っているご令嬢が多くいると思いますけれど」
「下手に誰かを誘うわけにもいかないだろう」
エセルバートが特定の異性と交流を持てばすぐに噂が広がるだろう。妃候補として目をつけているのでは、と勘違いする者が騒ぎ立てるのは想像にかたくない。
実際のところ、魔術師の素質がないこの国の人間を帝国の皇弟が妃として迎え入れる可能性は限りなくゼロに近い。帝国は魔術師同士の婚姻を推奨しており、特に力が望まれる皇族はそのしがらみも強いからだ。魔術に疎いとは言っても、この国の者たちもそれは十分に理解しているはず。
それでも学生のうちの火遊びだのなんだのと、本人の意思とは関係なく火種が放り込まれて一気に燃え広がるのが噂というものである。夢を見たい令嬢も少なくはないだろう。
「わたくしはよろしいのですか?」
「皇弟と王太女。国交のためと言えば何も不自然なことはない」
確かに、学園に通うそれぞれの国の代表として交流を深めているだけだと誤魔化すことは可能だ。
それでも、尾鰭がついた噂が広まるのは目に見えている。噂は何が事実かなど重要ではなく、刺激的であればあるほど面白く、求められるものだから。
しかし、デート、それも友人だと語るエセルバートからのお誘いであれば、断ろうとは思えなかった。
「そうですね。わたくしと殿下は友人らしいので、友人とのデートを楽しみにしておきます」
シャーロットが微笑を浮かべると、僅かに瞠目したエセルバートは少しして満足そうに口の端を吊り上げ、「ああ」と応えた。シャーロットの手を取り、口元まで持ち上げてその甲にキスを落とす。
「好きな色は?」
「え……色、ですか?」
「ああ」
「えっと、青です」
「了解した」
予想外の質問に戸惑いを隠せないシャーロットを見下ろし、エセルバートの口角は相変わらず上がっている。
「ではまた、シャーロット王太女」
「……はい」
解放された手を思わず胸の前で握る。
挨拶を終えて去っていくエセルバートの後ろ姿を眺めながら、口づけされた手の甲をそっと反対の手で撫でた。
(皇弟だけあって、女性慣れしてるわね)
心臓がいつもより短い間隔で鼓動を刻んでいるように感じるのは気のせいだろうか。
◇◇◇