37.第四章十一話
帰りの馬車の中、エセルバートの正面に座っているシャーロットは見るからに眠そうにしていて、目があまり開いていなかった。
それも仕方ない。伯爵領に到着して挨拶、取り調べ、火事、捜査と、ほとんど休む間もなく数日を過ごしたのだ。ただでさえ王太女という立場で忙しい日々を送っていることに上乗せされ、疲労が限界に達しているのだろう。
「眠ったらどうだ?」
声をかけると、シャーロットは顔を上げた。
疲労困憊でも、顔にはそれが表れていない。ただ睡魔の波が来ていることしか外からの観察では判別できないけれど、それが疲労によるものなのは明白である。
「いえ。到着までに報告書をある程度まとめておかなければいけませんから」
彼女の手には今回の捜査情報が記された紙が何枚か。それを読み込みながら抜けている情報を書き込んでいる。あとで形式に沿った形で報告書を作成する必要があるとかで、頭の中で情報を整理しているようだ。
環境が環境とはいえ、彼女はどうも諦めが癖になってしまっている。
「もっと自分を大事にしろと言ったはずだが」
「……」
「そして、君は承諾した」
目を眇めて静かに告げると、シャーロットは瞬きをして、ふふ、と綺麗に笑う。
「そうでしたわね。では、少し休憩します」
ペンと紙を置いたシャーロットに、エセルバートは満足げに口角を上げて「英断だ」と褒めた。
馬車が王都に到着し、エセルバートとブランドンは迎賓館で別れることなく、そのまま王城まで同行した。魔術師の視点からの現時点での報告をフレドリックにするためだ。
城門を通り抜け、王城の前で馬車が停まり、エセルバートが先に降りる。手を差し出せばシャーロットは自然と手を重ね、緩慢な動きで地に足をつけた。
馬車移動中の質が良いとは言えない睡眠だけではやはり十分な休息にはならなかったようで、疲労感が見える。それでも若干は和らいだだろう。
出迎えにはフレドリックや宰相のカーティス、騎士たちがいた。
ジュリエットの姿がないのが意外だけれど、安静にさせておくためにシャーロットの帰還日時を正確に伝えていなかったのかもしれない。ジュリエットに過保護なこの国の連中であればありえることだ。
「ご無事のご帰還、何よりでございます」
カーティスが頭を垂れる。シャーロットがエセルバートの手を離して「ええ」と答えると、フレドリックが足を踏み出した。
持てあますほどの憤りを表情にのせ、シャーロットの元まで歩み寄るフレドリックのただならぬ様子に、エセルバートは怪訝に眉をひそめる。
――バチンッ!
娘の前で立ち止まるよりも先にフレドリックの手が振り上がり、乾いた音がして――一瞬、時が止まったような感覚を覚えた。
何が起こったか理解するのに時間がかかった。この場にいた者の大半がそうだっただろう。
そうして、視界から得られた信じがたい情報が処理できた瞬間、エセルバートは思わず彼女の名前を叫んだ。
「っシャーロット!」
「殿下!」
エセルバートとほぼ同時に、カーティスも声を上げてこちらに駆け寄ってきた。ブランドンも心配そうな面持ちで後ろに控えている。あまりにも衝撃的な光景だったのか、クェンティンや騎士たちは言葉を失って立ち尽くしていた。
左頬を押さえたシャーロットは俯き気味で、髪で隠れているせいで表情が窺えない。
「そばについていながら妹を危険に晒すとはなんてざまだ」
「……申し訳ございません」
フレドリックの冷酷な叱責に、シャーロットは淡々と言葉を返す。まるでなんてこともないように。
彼女だけは、驚愕していなかった。悲鳴も何もなかった。こうなることを予想していたのだろう。ここで異変を感じとったのではなく、きっと前もってフレドリックの行動を想定していたのだ。
それはすなわち、想定できるほど『経験』があったということを意味する。
フレドリックが、シャーロットの頬を容赦なく叩いた。その上、難じた。
眼前で繰り広げられた出来事に、エセルバートは全身の血が沸騰したような怒りを覚えた。体が熱い。
「陛下、これはさすがに――」
「フレドリック王」
カーティスの言葉を遮り、エセルバートはフレドリックとシャーロットの間に体を滑り込ませた。背中にシャーロットを隠すのに、皇弟という立場も育ちのいい健康的な体も役に立つ。
この国で英雄などと大層な呼び名がつけられている男を睨めつけながら、エセルバートは続きを放った。
「王太女も危険な目に遭ったというのに、まずは身を案じる言葉をかけるものでしょう。それどころか一方的に暴力を振るうとは、それでも父親なのですか」
「暴力だと? 当然の罰だろう。あの男は警戒対象だったというのに、姉として、シャーロットはジュリエットの庇護を怠った。気が緩んだ結果だ。あの子が感じた恐怖に比べれば、この程度は甘受して然るべき痛みだ」
真面目に、フレドリックは語っている。本心からそう考えていると表情からも声音からもひしひしと伝わってくる。怒鳴っていないだけでかなりの激昂具合である。
第二王女は結局、傷一つも負っていない。シャーロットは自身を危険に晒してまで最速の手段を選択して第二王女を助けたのだ。
それなのに、彼女がこのような仕打ちを受ける正当性が、一体どこにあるというのか。
「貴方であれば未然に防げたとでも?」
改めて痛感した。この男は本当に愚者だ。
シャーロットがされた以上のことを、痛みを、この男の心身に刻みつけてやりたい。まずはその頬に一発拳を入れてやりたい衝動を、エセルバートはなんとか抑え込む。
「人間は不完全な存在です。全知全能ではない。完璧な者など存在しない。第二王女を常に守る役目は近衛騎士が担っているはずです。派遣された騎士は貴方が自ら選んだ精鋭たちだと聞いていますが、彼らはあっさり魔術具に――」
「エセルバート様」
シャーロットが落ち着いてくださいと言うようにエセルバートの腕を優しく掴み、後ろから出てきて隣に立った。
「大丈夫です」
「だが」
「お気遣いいただきありがとうございます」
エセルバートに心配は不要だと伝えるように微笑むシャーロットの片頬は赤い。肌が白いから腫れがよく目立つ。痛いはずだ。
けれど、それをおくびにも出さず、シャーロットはフレドリックを無感情に見据えた。
「疲れたので部屋に戻ります」
「まだ話は――」
「陛下」
鋭く、悍ましささえ感じるような雰囲気を纏う。
「一応わたくしも、軽い怪我では済まなかったかもしれない状況でした。捜査もほぼ休みなく進め、帰城いたしました。疲れています。報告書は今日中に提出いたしますので、説教なら日を改めてください」
「……、……」
その表情は、いつかのそれよりも色濃く感情が表れていた。相手への負の感情が濃縮されている。
直接そのような感情をシャーロットが見せることはそうそうないのだろう。フレドリックも僅かに驚いた様子を見せ、戸惑っているように感じられた。何も言葉を口にしない――いや、できていないのがその証拠だ。
シャーロットは数歩エセルバートから距離を取ると、流れるように優雅な礼を取る。
「お見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ございません。わたくしは失礼させていただきます」
「……ああ。ゆっくり休め。頬も、ちゃんと薬を塗るんだぞ」
「はい、ありがとうございます」
一礼したシャーロットは表情を削ぎ落とし、フレドリックの横を通って王城へと入っていく。ちらりとフレドリックを一瞥したカーティスが、シャーロットのあとを追っていった。
「――ブランドン、帰るぞ」
「はい」
エセルバートが自身の従者に告げると、クェンティンが「皇弟殿下」と引き止めた。
「報告は後日にする。――構いませんね?」
「……ああ」
後半はフレドリックに尋ねて了承をもぎ取り、エセルバートはブランドンが連れている愛馬の手綱を握る。
「お前と二人乗りはごめんだ。歩いて帰ってこい」
「ええ……。まあ八つ当たりされたくないですし、そんなに遠いわけでもないのでいいですけど」
笑って穏やかに返しているブランドンだけれど、彼もまたフレドリックに憤りを覚えているのは明瞭だった。
◇◇◇




