34.第四章八話
『貴方はお父様のように身の程も弁えない身持ちの悪い卑しい女に騙されてはだめよ』
それが、マルコムの母親――ケイティ・エルムズの口癖だった。
母と父は順調に婚約するはずだったのに父は泥棒女に騙されて子供まで作ってしまった、その二の舞にはなるな、と。そして――その男に取り入るしか脳のない女の息子であるジョージより劣ってはいけない、と。幼い頃から口を酸っぱくして洗脳のように刷り込まれてきた。
あの男とその母親が卑しく穢らわしい。それはマルコムも同感だ。
しかし、事あるごとにジョージが、ジョージがと狂ったように言われ続けるのは、鬱陶しくて仕方なかった。
母に従順でいるだなんて何も面白味のない人生だ。抑圧に耐えきれず、好き放題に振る舞った。愛なく結婚した後妻の息子二人にあまり興味のない父は、だからこそ干渉も少なかったため、増長を止められる者はいなかった。
騙されるような男にはならない。適当に女で遊んで、むしろ利用する側に立った。
両親から受け継いだ自慢の顔立ちが役に立ち、相手に困ることはない。むしろ向こうから寄ってくるので選びたい放題。母からの小言も無視して、兄とも思いたくない穢らわしい異母兄がいる邸で長く過ごすことはなく、朝帰りなんて珍しくもない自由奔放な生活。
伯爵家を継がなくとも贅沢ができる次男という立場は、なかなかに楽で快適だった。
そうして相変わらずの生活を送っていたチェスター学園大学部第四学年在学中、マルコムは人生を変える出会いを果たした。
遊び相手の令嬢が腕に絡んで豊満な胸を押し付けてくる感触を楽しみつつ、学園の隅々まで手入れが行き届いた庭園を歩いていた時のこと。どこからか風で飛んできたハンカチが、マルコムと令嬢の前に落ちたのだ。
『あらまあ。どなたのかしら』
令嬢が呟く横で、マルコムはなんとなくそのハンカチを手に取った。女性ものの可愛らしい柄のハンカチだったので、持ち主が誰なのかこの目で確認したかったのだ。綺麗なら新しい遊び相手にでもしようと企んでいた。
『あの!』
そして現れたのは、小走りでこちらに向かってくる可憐な少女だった。桃色の髪を揺らし、空色の大きな瞳でこちらを捉えている。
可愛らしい顔立ちが印象的で見惚れたのと同時に、その容姿から噂の第二王女だとマルコムはすぐに気づいた。
『ごめんなさい、風で飛ばされてしまって。拾っていただいてありがとうございます』
お礼と共にふわりと浮かべられた笑顔が決定打となり、マルコムは初めての感覚を味わった。
胸が普段より速く甘くドキドキと鼓動を刻み、体温が上がる。隣の令嬢の存在など忘れてしまうほど、マルコムの意識がすべて眼前の少女に掴まれている。
一目惚れ。
認めざるを得ないほどの多大な衝撃を、その日初めて経験したのである。
それからマルコムは異性関係を清算し、ジュリエットに近づくことを試みた。しかし、ジュリエットは常に誰かと共にいて、近づくことは困難だった。姉、姉の婚約者、友人――守りが堅く、マルコムが自らをアピールする隙がなかったのである。
周囲の人間がマルコムを警戒していたというのも要因だろう。ジュリエットに過保護な面々が、マルコムを近づけないように立ち回っていたのだ。その原因はわかっていたので、過去の自分の行動をこれほど悔いたことはなかった。
けれど、これも試練と思えばいい。
伯爵家の人間が王女に近づくには壁がない方がおかしいのだ。努力して、積み重ねていけばいい。ジュリエットが社交界に出るようになれば接触する機会はあるのだから。
そんな期待で自身を律して、マルコムは学園を卒業し、商会の手伝いを始めた。
父が事故に遭ってから意識を取り戻さない中、忌々しいあの男が伯爵家も商会も我が物顔で仕切り始めた頃、レックスに話があると呼ばれて二人きりになった。
『大陸南部は紛争地帯で情勢が不安定だから、何かしら支援をするという話ならともかく、取引数が急激に増えるなんてことは普通は考えられない。こんなに莫大な金額が動くはずないんだよ』
レックスはそう言っていた。あの男がエルムズを代表して動くようになってから、おかしな点がいくつもあると。
確かに提示された資料を見ると不自然ではあった。紛争に紛れて大陸南部では違法薬物や盗品が流れているという話もあるので、あの卑しい男なら手をつけても不思議ではない。
これは使える。マルコムはそう考えた。
ジュリエットと添い遂げるには、継げる爵位もない伯爵家の次男では身分が釣り合わない。伯爵位でも本来であれば低いけれど、ないよりはマシだ。
マルコムが伯爵になるためには、兄と弟が邪魔である。兄の方は後ろ暗い取引をしているらしいことが発覚したので、それを公にしてしまえば排除できるだろう。
非常に不本意なことに長子という立場にあるあの男が後継として相応しくないとなれば、自由気ままな振る舞いをして後継者にはならないと宣言していたマルコムではなく、弟のレックスにその座が移る。そうならないように、レックスにも何かしら『失態』を犯してもらい、マルコムが評判を上げていけばいい。
そして、ジュリエットにも接触し、好感を与えればいいのだ。
ある日、使用人から不審な封筒が送られてきたと知らせがあった。
その封筒には宛名『マルコム・エルムズ様』だけが見える場所に書かれており、誰からの手紙なのかが示されていなかったのだ。
一応、マルコムは中身を確認することにした。すると、中の手紙にはジュリエットが孤児院訪問の帰りに襲撃を受けるという内容が記されていた。襲撃犯の魔術具の情報まで。
ジュリエットの身に危険が及ぶ。由々しき事態である。
これはすぐに王家に連絡しなければと思ったけれど――そこで、マルコムはあることを思いついた。
もし、このまま襲撃が実際に起きて、マルコムがジュリエットを救ったのなら。ジュリエットを手に入れられるのではないか。
幸い、魔術具には回数制限があるという。タイミングを見計らい、救出すれば、きっと振り向かせることができる。
そんな自分の利益のために、マルコムは襲撃の情報を通報せず、レックスの元へと向かった。
『レックス。来週の商談の担当を変わってほしい』
『担当を? 別に僕でも問題ない案件だけど……』
『確か向こうの代表は若い女だったろ。俺の方がいい条件で契約を結ぶよう誘導できる』
『そう言われるとなぁ。兄上は上手いからね、女性相手の交渉』
『代わりに俺が担当してたこっちをお前にお願いしたい。この投資家の家にはお前に近い年頃のご令嬢がいるらしいから、将来のことも考えて取り入るに越したことはないぞ。お前が伯爵家と商会を継いで切り盛りしていく上でいい嫁候補になる』
『うーん……わかったよ』
承諾を得るのはそれほど難しくなかった。思い通りに事が運んでいく。
『試練』というものは、乗り越えられるようにできているのだ。
これで偶然を装ってジュリエットを助け出せば惚れてくれるはずだと、マルコムは信じていた。
しかし、現実は甘くなかった。試練は想定以上だった。
ジュリエットはマルコムに好感は抱いて信用もしてくれているようだけれど、そこに男女の熱が込められているかと問われればそこまでではなかったのだ。マルコムの想いは接するたびに際限なく膨れ上がっていく一方なのに。
マルコムは焦った。そして、思い至った。
襲撃を受けた際、ジュリエットはずっと馬車の中にいて外の状況を直接目にしてはいない。だから恐怖が足りなかったのではないか、と。
似たような状況を作り出し、目の前で今度こそ命を救えば、ジュリエットの心が手に入るのではないか。
そう一計を案じたマルコムは、騎士たちでも容易に対処ができないあの状況を再び用意するべく、エルムズ商会の倉庫を秘密裏に探った。ジョージが南部との取引で魔術具を密輸していると確信に近いものがあったからだ。
運良く早々に当たりを見つけ、ひとまず自室に持ち帰り、そこらの破落戸にでも後から襲撃の依頼をすればいいと考えていた。
それなのに、想定外の事態となった。
エセルバートがこんなところに赴き、捜査に協力する上、魔術具を瞬時に魔術で探れるなんて、想像もしていなかったのだ。
けれど、彼らは火事の対処で屋敷を空けている。であれば今のうちに例の魔術具――剣を持ち出し、依頼をして、ジュリエットを襲撃させてもいい。
そう考えて自室に向かっていたところで、廊下に「マルコム!」と声が響き、母が急いでこちらに駆け寄ってきた。
「倉庫が火事だそうじゃないの。どうして貴方はここに残っているの?」
「来るなって言われたんだよ、あいつに」
「なんですって? 穢れた娼婦の血を引く分際で偉そうに……」
母は歯軋りし、閉じている扇子を怒りに任せて強く握りしめた。その顔の醜さを、母はきっと自覚していない。
「ところで、ジュリエット殿下についていたんじゃないのか?」
「ああ、そうだったわ! 大変なのよ! ジュリエット殿下が――」
「……は?」
マルコムは己の耳を疑った。母の言葉を理解したけれど、きっと聞き間違いだと思った。
恋焦がれている相手が、マルコムのものになるはずの少女が。
『救っていただきありがとうございます』
あれほど感謝してくれていたのに、笑顔をむけてくれたのに。あっさり、――よりにもよって、ジョージを好きになったなんて。
「……ありえない」
口をついて出たのはそんな呟き。
そう、ありえない。ジュリエットはマルコムの運命の相手なのだ。あの穢らわしい娼婦の息子が触れていいような人ではない。
「そうよ、あってはならないことよ。ジュリエット殿下は貴方と結ばれるべきなのに、あの男なんかに……って、マルコム!? どこへ行くの!」
母を置いて、ずんずんと足を動かし、自室に向かう。
自室に入って真っ先に、チェストに隠していた魔術具の剣を取り出し、部屋を出た。すると、廊下にはクェンティンと近衛騎士が立ちはだかった。
クェンティン。王太女の婚約者であり、ジュリエットの周りを彷徨いている、目障りで大きな障害となっている男だ。そして、エルムズ家よりも爵位が高い、侯爵家の子息。爵位そのものは一つしか違わないのに、王族と縁を結ぶに申し分のない地位の家。
そのクェンティンが、騎士たちの先頭に立ち、こちらに貼り付けたような笑みを向けている。
「それはジュリエット殿下を襲撃した者たちが持っていた剣と酷似していますね。何をするつもりです?」
「どけ!」
剣を振るうと、暴風と風の刃が飛んでいき、クェンティンと騎士たちは「がは!」と吹き飛ばされた。
クェンティンは吹き飛ばされつつも咄嗟に剣で風の刃の軌道を逸らしたものの、腕を切ってしまって血が滲んでいる。他にも、血を流す騎士たちがいて、壁に頭を打ちつけて気絶している者もいた。
「貴様……っ」
クェンティンの笑みが消え、怒りを宿した鋭い眼光で睨みつけてくる。マルコムの行く道を阻み、邪魔をしようとしている。
「ジュリエット殿下は、俺のものだ……!」
正しい運命の障害は、排除しなければならない。
◇◇◇




