03.第一章二話
シャーロットは目を開けた。テーブルに広がっている書類に視線を走らせ、短くため息を吐く。
(休み時間にまで仕事をしているせいかしら。嫌なことばかり思い出す)
ふとした瞬間に脳裏に浮かぶ、何度も目にしたもの。
あれは、過去に起きたこと。そして今も続いている光景。シャーロットがずっと置かれている、生きづらい環境。
(はやく、楽になりたい)
地獄とも呼べるこの状況から解放される日が来ることを、ずっと前から望んでいる。
リモア王国の名門校、王立チェスター学園は、貴族の子女が多く通う由緒正しい学園だ。初代王が創立し、彼の名がつけられた学び舎。平民ももちろん入学は可能で、優秀な人材には奨学金も与えられる。
第一王女であり王太女であるシャーロット・カリスタ・リーヴズモアは、リモア王国で英雄視されている国王フレドリックの第一子。フレドリックから受け継いだ眩い金髪と翡翠の瞳、美しい容姿が目を引く女性だ。
彼女もまた、チェスター学園に籍を置いている。
シャーロットは中等教育を受ける年齢までは王城で家庭教師から教育を受け、交友を広げる機会を作るためにと高等部から入学した。しかし王太女としての仕事があるので、授業時間や休み時間くらいしか生徒たちと私的に関わる時間がない。
もっとも、昼食込みの昼休みは一番長い休憩時間となるけれど、結局はほとんど仕事で潰れてしまっている。よってそれ以外の、授業の合間の短い休み時間だけが、授業の他に交友関係に充てることが可能だ。
(まあ、まともに友人と呼べる人はいないわけだけれど)
シャーロットに近づいてくるのは、王太女に取り入りたい者ばかりだ。それに皆が皆、『優秀な王太女』という前提を持ってシャーロットに接している。さすがはあの国王の娘だと、聞き飽きた褒め言葉となんの変哲もない態度ばかり。気を許せる相手など存在しない。
「貼り出されてた結果見ただろ? また満点の一位だったし、すごいな。やっぱり俺たちとは次元が違う」
「さすがは未来の女王陛下だ」
「現国王陛下のご息女なんだから当然だろう」
放課後の廊下を歩いていると、窓の外から声が聞こえた。ここは一階なので、外で男子生徒が数人集まって話をしているようだ。
「ジュリエット殿下は結果が芳しくなかったみたいだな」
「お体が弱いのだからそれも仕方ない」
ジュリエットの名前が出て、シャーロットは思わず眉を寄せた。
朝からこの話ばかりが耳に届く。定期試験の結果が貼り出されたのが今朝のことだったので、未だに冷めることなく熱が続いているようだ。
シャーロットは定期試験で常に一位をキープしており、今回も同様の結果だったけれど、ジュリエットはこれまた安定の下から数えた方が早い順位だった。王族としては滅多に例がない酷い結果だ。
シャーロットへの賞賛と、ジュリエットへの理解。姉妹の結果は両極端だったけれど、ジュリエットを嘲笑する声はあまりなかった。毎回のことだ。
この国では、暴君から国を救ったフレドリックへの過剰な敬意が、その娘たちを見る目を曇らせている。
(馬鹿の一つ覚えみたいに、煩わしい)
体が弱いと言うけれど、試験準備期間でジュリエットが体調を崩したのはたった一日だ。少し倦怠感があるからと周囲が大袈裟に騒ぎ、一日中部屋で休ませていた。そのおかげもあって翌日には万全の体調になっていたのに、無理は体に触るからと甘やかした結果があの順位なのだ。ちゃんと勉強していればもう少し点は取れていただろう。それでも順位としては良くて真ん中辺りにしかなっていなかっただろうけれど。
ジュリエットの試験の結果が良かったことは一度もない。それでも次回は頑張らないとと必死にならないところが、ジュリエットへの周囲の甘さを如実に表していると言える。努力しなければいけない状況に追い込まれることがないのだ、ジュリエットは。
馬車までの歩みを進めて建物を出たところで、視界の端に見慣れた人物を見つけてしまった。シャーロットが身につけている制服と同じものを着た、可愛らしい少女だ。
桃色の髪をふわふわと揺らし、空色の瞳を輝かせる少女――ジュリエット・カリスタ・リーヴズモア。シャーロットの一つ下の妹であり、リモア王国の第二王女だ。
彼女の隣には青い髪に黒い瞳を持つ美麗な顔立ちの男性がいて、彼女に優しく微笑みかけ、会話を弾ませている。
クェンティン・サージェント。宰相の第三子であり、シャーロットの婚約者。王女姉妹と幼なじみでもある。年齢はシャーロットの二つ上で、この学園の大学部に所属している。
「お姉さま!」
シャーロットに気づいたジュリエットが小走りで駆け寄ってきた。クェンティンが慌てた様子で後を追う。
「ジュリエット殿下、危ないですから走るのはご遠慮ください」
「もう。わたしは小さな子供じゃないのよ?」
ぷっくりと頬を膨らませるジュリエットに困り気味に眉尻を下げるクェンティン。仲の良さが一目でわかる二人の様子を、シャーロットは冷めた目で見据えていた。
(中身は紛うことなく子供でしょうに)
面白くない冗談である。もっとも、ジュリエット本人は至って本気なのだけれど。
「ねえ、お姉さま。これから城下を回るのですが、お姉さまもご一緒にいかがですか?」
放課後、ジュリエットは体調が悪くなければ、必ずどこかに寄り道をして帰る。城下のカフェでお茶をしたり、買い物をしたり。王女としての仕事のためにまっすぐ帰る、ということがない。
そして毎度、シャーロットを探しては一緒に行かないかと誘うのだ。この後に続く展開が違ったことなんて、一度もないのに。
「ジュリエット殿下。王太女殿下は城に戻って陛下の手伝いがありますので、困らせてはなりませんよ」
こうしてクェンティンが優しく断るのだ。シャーロットの意思など確かめもせず、当然のように。
もっとも、ジュリエットと城下を回るなんてまったくもって時間の無駄でしかないので、確認されたところで拒絶一択である。
(呑気に街を散策する元気があるのなら、少しはその足りない脳に歴史でも詰め込みなさいよ)
国や世界の歴史ももちろんだけれど、己の歩んできた歴史も。足りないところだらけなのに直そうともしないジュリエットに、王族としての真の誇りなどないのだろう。
「でも、たまには」
「なりません。お忙しいのです、ご理解ください」
なぜクェンティンが申し訳なさそうにするのか、シャーロットは何度目かもわからない疑問を浮かべる。
クェンティンはシャーロットのスケジュールを把握している。仕事が詰まっていることは承知の上なので、いくらジュリエットのお願いでもシャーロットの予定に支障が出ることはなるべくさせない。
「もう。わかりました。なら、クェンティンさまは付き合ってくれるでしょう?」
「私も仕事が――」
「クェンティンさまもだめなの?」
それに、仕事だと言えばシャーロットのことはすぐに諦めるけれど、ジュリエットはいつも他のことは食い下がる。クェンティンやフレドリック、護衛や使用人たちがわがままを聞いてくれると知っているからだ。
ジュリエットがうるうると見つめておねだりをすれば、クェンティンは数秒しかもたずに折れてため息を吐く。
「少しだけですよ」
「ありがとう、クェンティンさま!」
にっこりと笑ったジュリエットに、クェンティンは甘く微笑んだ。これもいつもと同じ流れだ。
クェンティンは婚約者というだけではなく、シャーロットの補佐も務めている。にもかかわらず、その役目よりジュリエットの相手を優先するようだ。ジュリエットが関わることであれば可能な限り優先することを、フレドリックから許可されている。仕事に大幅な支障が出なければ注意を受けることはない。
ただし、その皺寄せはシャーロットに来る。何せ彼はシャーロットの補佐だ。彼の不在で遅れるのはシャーロットに回されてくる仕事であり、それでもシャーロットが予定通りに仕事をこなさなければ、怒られるのはシャーロットである。クェンティンはジュリエットのために少し付き合っていただけなのだから、シャーロットがその分フォローをして然るべきだと。それくらいは容易なのだから怠けるなと、そう叱責される。仕事を放棄したクェンティンでも、ジュリエットでもなく、シャーロットが責められる。
本当に、理不尽ばかりだ。
シャーロットが背を向けて馬車まで歩き出すと、気づいたジュリエットが「お姉さま!」と呼ぶ。
「また夕食でお会いしましょうねっ」
笑み浮かべる彼女の姿は確かに可愛らしい。けれど、シャーロットにとっては悪魔の微笑みでしかない。
返事はせず、門のすぐ目の前に停められている王家の馬車に乗り込む。御者が馬車を走らせたのを振動で感じ取り、シャーロットは息を吐いた。
(わたくしはなぜ、こんなにも頑張っているのかしら)
馬鹿らしいと思いながらも結果は残す。ジュリエットのせいで増える仕事を片付けて、テストではきちんと満点を取って、表面上は模範を崩さずに演じる。
良き姉でいれば、優秀な跡継ぎであれば、少しは優しくしてもらえるのだろうか。家族の一員として、ただの娘として、認めてもらえるのだろうか。
そんな淡い期待を抱いていた時期もあったけれど、とっくの昔に砕け散ってしまった。どれほど結果を残そうとも、周囲にとっては最低ライン。王太女としてむしろできない方がおかしいことで、努力など決して認められることはない。
それなのに、シャーロットは仕方なく、王太女としてここに在る。
今はただ、あの男のような王にはなるまいと、それだけを思って日々を過ごしている。この国を導く立場以外、シャーロットには許されていないから。
けれど――何もかもを放棄してしまいたい衝動に、時折駆られそうになる。我慢して我慢して、無理をして皆の理想通りに振る舞って、そんなことに意味はあるのだろうかと。疑問を常に胸の内に抱きながらも、これまで通りに過ごしていた。