小休止.馬鹿でグズなアーニャ(後)
ひとりであちこちを見て歩いて、分かったことがある。アーニャはやっぱりクロードのことが忘れられない。
一人旅、と思って出てきたけれど、気付いたらオクレール公爵領の街を端から訪れて観光しているし。
素敵な出会いがあるかもしれない、と思っているけれど、女の一人旅は危険だから当然夜はちゃんと宿に戻っているし、誰からも声を掛けられないし、こちらからも掛けないし。
つまりなかなか出会いがない。
「公爵領は、どこもかしこもいい場所だわ」
今日着いた街も、賑やかで活気がある。道行く人はみな楽しそうで、そうするとひとりでいる寂しさに拍車がかかる。
行く街がどこも明るいのは、オクレール公爵の統治だからなのかもしれない。ただの嘘吐きの女ったらしじゃないってことなのかな。
ふと、どこかで見たことがあるような男が、目の前のカフェに入っていくのが見えた。どこかで見たような、よく知っている人のような、と無意識で追いかけ、後に続くようにカフェに入った。
「いらっしゃいませー」
カランカラン、と軽いドアベルの音が響き、明るい声に迎えられた。
さっきの男性は、と探して店内を見回すと、カウンターに座る男がこちらに気付いた。
目が合った瞬間に思い出す。よく知っている、会うこともなくて忘れかけていたけれど。
アーニャがぎっと睨みつけると、男は柔らかい笑みを浮かべて手を振った。
「アナスタシア」
「……テオドール=フォン=ホイットモー……」
父の本妻の息子、テオドール。そして、ふと隣を見てはっとして目を逸らした。思わずショールで顔を隠して背を向ける。
ポーリーン。なぜ、奥様がここに? どうしてテオドールといっしょに? 混乱しすぎて目の前が暗くなりかけたそのとき、優しい声で呼ばれた。
「アーニャさん、こちらへどうぞ。……大丈夫、怖がらなくていいわ」
恐る恐る振り返ると、ポーリーンは屈託のない笑顔でこちらを見つめて手招きをしていた。
早く逃げないと、わたしはこの人にすごく迷惑をかけて、憎まれても殺されても文句なんか言えないし、と頭の中ではいろいろ考えているのに、身体はすでに観念したように、招かれるままにカウンターへと歩いていた。
「ミルクティーでいいかしら」
顔を上げられない。小さく頷くと、テオドールがロールケーキを差し出してきた。
「どうぞ」
ぺこりと頭を下げる。どうしよう。針の筵ってこのことだ。
じわ、と目に涙が浮かぶ。謝らなきゃ、とはずっと思っていた。知り合った時には、公爵だなんて知らなかったんですとか。でもそんなの言い訳で、知ってからだってわたしは公爵の元にいたんだから、完全にわたしが悪だ。
言葉を探してうなだれているアーニャの上から、ポーリーンの声が降ってきた。
「こんなに若くて可愛らしい子に、クロードは本当に悪い男ね」
「っ、」
「パーヴェルも心配していたよ」
テオドールの口から出た兄の名前に、微かに顔を上げると、二人は優しい笑顔でアーニャを見つめていた。
「にいさん、が、」
「あぁ。ちゃんと見守りがついていたけど、気付いていた?」
気付いてなかった。全然気付いてなかった。
アーニャは、何も変わっていない。わがままで自分本位で回りが見えていなくて、子供でバカだ。
バカな子供、だから素直になっても恥ずかしくない。ぐっと手の甲で涙をぬぐって、ポーリーンに頭を下げた。
「ごめんなさい、ポーリーン様」
「ん?」
「たくさん、傷付けてしまって、」
自然と嗚咽か漏れる。恥ずかしいのにしゃくりあげるのが止まらなくて、背中を震わせながら謝った。
「いやなおもい、させて、しまって、」
「つらかったわね、アーニャ」
さら、とアーニャのストロベリーブロンドに触れて、ポーリーンは静かに言った。
「わたくしもつらかったけれど、貴女も。そうでしょう?」
「でも、でもわたし、」
ひどい男だと思ったし、思っている。金で解決されたことだって、馬鹿にされていると思ってつらかった。
だけど、やはり自分にとっては初恋で、今でも思い出すのは笑顔の彼で。
「わたくし、離婚したのよ」
「え、あ、わたしのせい、で、」
「きっかけではあったけれど、貴女のせいではないわ」
ふふ、と笑ってポーリーンはテオドールを見た。
「……貴女のおかげ、はあるかもしれないけれど」
「??」
言葉の意味が分からず、首を傾げたとき、ドアベルが鳴り響いた。
「いらっしゃいませー」
そう言いながら、ポーリーンはアーニャに軽くウィンクした。
それから耳元に唇を寄せると、からかうような口調で言った。
(ここからは、貴女自身がどうしたいか、よ)
まさか。
ぱっと振り返ると、夢にまで見た金髪の美丈夫。
どうして。
彼は、クロードはアーニャを見ると、今までのことなど何もなかったかのように、悪びれることなど少しもないような笑顔を浮かべた。
「……隣いいかな、お嬢さん?」
初めて会ったときと同じセリフで、でも目には懐かしさを滲ませて。
アーニャも、あの時と同じ言葉を返していた。
「――はい、空いていますよ」
◇ ◇ ◇
「……で?」
家に戻ったアーニャを待っていたのは、冷たい目で見下ろしてくる兄だった。
「クズ公爵の愛人として生きることにしたのか」
「クロードはクズじゃないわ!」
と、脊椎反射で言い返したけれど、兄の視線に耐えられずに目を逸らした。
ソファに身体を沈めて、今までの事を思い返しながら、ぽつりぽつりと話し出した。
「奥様、クロードと離縁なさったんですって」
「そうらしいな」
「なんで兄さんが知ってるのよ」
「ヴァルターに聞いた」
アーニャが傷付けてしまった奥様を救ったのは、義理の兄だった。やるせない気持ちになったのは確かだけど、ほっとしたのも事実。
「ポーリーンさんには幸せになって欲しいわ」
「お前が言うな」
「うん、そうよね」
厳しい口調だけど、兄の言葉には優しい響きがある気がした。
「クロードに、会って話したわ」
「そうか」
「奥様もいるところで、テオドールもいて、落ち着く感じのカフェで」
取り留めのない話し方でも、兄は相槌を打ちながら聞いてくれる。
「出会った時のように、優しくて素敵なクロードだったわ」
「……」
「会ったら言いたいことはたくさんあったはずなのに、ただ楽しくお話したの」
「で? 付き合うのか」
アーニャは静かに首を振った。
「もう、いいの。途中からは多分、意地だったんだって気付いたから。話してスッキリして、貰ったお金も全部使い果たして、何もかも終わったの」
ぴく、とパーヴェルの眉が跳ねる。
「全部使ったのか!」
額に手を当て、いくらあったと思ってるんだ、と呻く兄に、アーニャは唇を尖らせた。
「あれがあると、気持ちが塞ぐのよ」
「だからといって、」
アーニャはニコッと笑った。
「わたし、クロードとの経験を生かす仕事をするわ!」
「……プロ愛人か?」
「いいえ」
テーブルの上に、数冊の本を並べて兄に見せた。
「?」
「恋する少女に夢とロマンと感動を与えるお仕事よ」
「アナスタシア?」
「もう、現実世界なんてこりごりだわ」
そう言って、晴れやかな顔で本を手に取る。
パーヴェルの視線に、「なに?」と訊くと、兄は久しぶりに見る笑みを浮かべた。
「取材よ! とか言ってまたおかしなことをするなよ?」
「ふふ」
楽しかったこともつらかったことも、全部フィクションに混ぜて昇華しよう。
歳をとった時に読み返したら、懐かしい気持ちになれる気がするから。
完結しました。
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\★/アナスタシア先生の次回作にご期待ください!\★/