24.心配する権利
淑女たるもの、走るなど言語道断だ。と10年前に教育係に言われたことが頭をよぎる。これも、脳が現実逃避しようとしているのかしら。
気持ちばかりが急いて、足がもつれそう。
逸る気持ちを抑えて、役所の扉をくぐり、診療所の入り口で深呼吸した。
言ってやりたいことは後から後から湧き上がってくるのに、クロードから聞いた「刺された」という言葉が浮かぶたび全てを掻き消してしまう。
ゆっくりと診療所へ足を踏み入れると、受付の女性と目が合った。
「これを」
クロードから預かった紙を見せると、彼女はそれを一瞥しただけで立ち上がり、奥の方へと歩き出した。途中で半身振り返り「こちらへ」とだけ呟く女性の背中を追う。
奥の扉の前で、女性は頭を下げてまた戻っていった。
控えめにノックをすると、中で何やらバタバタする音が聞こえた。それから。
「はい」
と、何だか懐かしいような気すらする低い声が聞こえた。
こみ上げる何かをぐっと飲み込み、何も言わずに薄く扉を開けた。
「……どうぞ?」
微かに声に不審げな響きが混じったのを感じて、ポーリーンはドアを開けると大股でベッドのそばまで歩いていき、びっくりしているテオドールの頬をぱちんと両手で挟んだ。
「……ポーリー、」
「何をしているの!!」
自分でも驚くほどに大きな声が出た。
手で挟んだ頬は温かく、こちらを見上げている瞳に映る自分の顔がひどく歪んでいるのを見て、ぱっと目を逸らした。
テオドールが何かを言おうと口を開けかけるのを遮るように、ポーリーンは言った。
「こんなところで何をしているんです。あなた、オーナーでしょう? お店を放っておいて、こんなところで寝ている場合なの?」
よかった、顔色も悪くない。身体を起こしているということは、起き上がれないほどの傷というわけでもなさそうだ。ほっとした、と同時に行き場のない、やりきれないような気持ちが溢れて止まらない。
「すみません」
はっとして顔を見ると、彼は弱ったように微笑んでいた。ただひたすら申し訳無さそうな表情で。
自分の、カッとしやすい性格はよくわかっている。元旦那を探して他家に怒鳴り込んだときもそう、今もそう。
困らせたいわけでも謝らせたいわけでもないのに、どうして自分はいつもこうなんだろう。心配してた、怪我なんてしないで、……無事でよかった。どうしてそう言えないの。
ポーリーンはきつく眉を寄せると、両手をそっとおろした。
「……」
言葉が出なくなったポーリーンに、穏やかな声でテオドールは呟いた。
「ご迷惑をおかけしてしまいました」
「違う!」
反射的にきつく言い返してしまい、後悔で唇を噛む。
違う、違う、と首を振りながら、じっとテオドールを見つめた。
「謝らせたいわけではないの」
大きく息をつき、なるべく心を落ち着かせて絞り出すような声でそう呟いた。
テオドールは、静かに聞いている。見つめられているのはわかっていたが、顔があげられないでいた。
「わたくしは、悔しいのよ」
言ってから気付いた。そうだ、悔しかったんだ。
テオドールが危ない目に遭ったところで、頼ってもらえないこと。目に見える形で関係者であると思ってもらえないこと。
例えば、これが父親だったら。ポーリーンのところに真っ先に連絡が来るだろう。
例えば、これがクロードだったら。何があっても、まず妻に話が来るはずだ。
新しくできた店の、オーナーと店主。ただの仕事上の関係者でしかない。そんな自分に連絡がなかったことなんて当たり前なのに、どうしてこんなに悔しいのか。
ポーリーンは、くっと唇を噛んでから、ゆっくりと訊いた。
「傷は、痛むの?」
「……そうですね、動くと多少は」
ごまかさず、正直にそう言ってくれたことが嬉しい。
困ったように微笑んでいるテオドールのそばに膝を折って座り、ベッドへ寄り添った。
「いろいろ訊いてもいいかしら?」
「えぇ、どうぞ」
なぜ廃屋に行ったのか。
グレイルとは何者なのか。
遺体、というのは何なのか。
どうして黙って危険なことをしたのか。そもそも危険だと分かって行ったのか。
訊きたいことが山ほどあった。
順番に訊こうと思って口を開いたが、出てきた言葉は全く別のものだった。
「わたくしのことが、嫌い?」
びっくりしたようにこちらを見たテオドールの顔に、自分でも驚いた。
思わず唇に指をあてたポーリーンに、彼は戸惑った声で答えた。
「そんなわけ、」
「そうかしら。だったら、わたくしのことが嫌いでないのなら、どうして心配かけるようなことをするの」
勝手な言葉が止まらない。
ぐっと膝の上で拳を握り締めて、ポーリーンは俯いた。
頭に大きな手のひらが乗るのを感じる。その温かさに、胸が詰まる。生きててくれてよかった。
知らない間に死んでしまわなくてよかった。
大事な言葉を伝える前に。……。




