18.その時が来たら、……
テオドールはポーリーンを見つめたまま、静かに口を開いた。
「どうして、オクレール公を幸せにしたいと?」
怒りなのか他の感情なのかはわからない。けれど、テオドールの瞳は燃えるようにちらちらと煌めいて、ポーリーンは目を逸らすことが出来ない。
「オクレール公が何をしたか、何をされたか……分かっておられますか」
「あ、……」
考えてみれば、クロードが囲った女性はベルタの腹違いの妹。であれば、テオドールの妹ということでもある。嫡男であるテオドールがそのことを知らないわけがなかった。
この場合、元夫の不始末を謝ったほうがいいのかしら、と思った瞬間、彼はテーブルの上のポーリーンの手の甲に自分の手を乗せた。温かい手。
「しっかりしてください、ポーリーン。貴女という素晴らしい妻がいながら、他に目移りするような男ですよ」
「テオ、一応ここも公爵領なのだから、」
「領民にも知っていただいたらいいんだ」
その言葉とは裏腹に、他のテーブルにまでは届かないような声。どんな時でもきちんとした気遣いの出来るテオドール。乗せられた手を払えないまま、ポーリーンは弱々しい笑顔を浮かべた。
「だって、悪いじゃない?」
「悪いのは公爵で」
「そうではなくて、……わたくし、最近とても幸せだと感じているから」
もしかしたら、クロードとの結婚生活を送っていた時よりも、今のほうが。
「確かに、クロードはだめよ。わたくしは傷ついたわ。ベルタも傷ついたし、アナスタシアも傷ついたと思うの」
それから、テオドールも。
「でも、クロードだってもしかしたら傷ついていたかもしれない」
テオドールがむっとしたのがわかる。
「あの頃、あの状況……わたくしとの結婚生活にとても満足していたのだとしたら、他の子に手を出そうなんて……いえ、手を出すくらいはするかもしれないけれど、こそこそ隠して、人に迷惑をかけて、当の女の子を傷つけてまで二重生活をしようとなんて思わないでしょう」
「どうでしょうか」
心底不機嫌、といった表情でテオドールは言った。
「傍若無人なのが公爵の本質なのだとしたら? 少なくとも、ポーリーンを妻にして不満などあろうはずも」
「どうしてそう思うの?」
じっと見つめると、テオドールはまっすぐに見つめ返してくる。
「わたくしが完璧な妻だったと思う?」
「えぇ、もちろん」
「どんな生活をしていたかなんてテオは知らないでしょう。しかもわたくしは、帰ってこない夫を探して責めようとして、よその家の主人の胸ぐらを掴んで怒鳴り散らすような女なのよ」
「私は、それを聞いても」
テオドールの目に熱がこもる。
「それだけ愛されているオクレール公に対する嫉妬しか感じない」
一瞬、何て言われたのか理解が出来なかった。
テオが? 嫉妬? 何に? 頭の中を疑問符が飛び交っている間に、テオドールは長い指でポーリーンの手の甲をするりと撫でてから手を離した。
「ただの『素敵な公爵夫人』ではない。貴女は私の唯一です」
熱っぽい目でそう言われ、返事をすることが出来ない。茶化すことも出来ず、余裕を装ってお礼を言って聞き流すことも許されない空気。
こくりと喉を鳴らすと、ふっとテオドールは破顔した。
「忘れてください」
「え、」
「今はまだその時ではないこと、分かっているので」
と言いながら、ためらう様にテオドールはもう一度ポーリーンの手を取り、甲に、それから手のひらに、と二回唇を寄せた。
「でも、これだけ許して」
「テオ、」
「怒らないで」
怒らないけれど、怒るわけがないけれど、でも。
今朝方自分で言った「初デート」の言葉が脳裏をよぎり、心音が早まる。
困ったような弱ったような笑みを浮かべてこちらを見ているテオドールの眉間を指でピンと弾いて、ポーリーンも笑った。
「テオ」
「はい」
「……『その時』は、来るのかしら?」
テオドールは真剣な声で「はい」と頷いた。
「公爵様だけを幸せにするのは癪なので」
「貴方も言うわね」
「実は、」
ポーリーンに手招きをして、耳元に顔を寄せ、テオドールは囁いた。
「私、公爵が嫌いなんです」
「!」
「もちろん、私怨ですが」
「そんなこと、堂々という人だとは思ってもみなかったわ!」
「嫌ですか?」
「好ましいわ」
嬉しそうに優しい笑顔を浮かべたテオドールの顔を見て、穏やかな気持ちになる。
クロードと向かい合って話をしているとき、こんなに穏やかな気持ちになったことはあっただろうか。
テオドールと初めて会ったのは、もう10年以上も前のことだ。
公爵家に嫁ぐことが決まり、お披露目パーティか何かがあったときにホイットモー家の兄妹を紹介された。
まじめで責任感の強そうな長男。それが第一印象。明るく社交的な次男とまだ幼い三男の様子に目を配りながら、そつのない挨拶をしてきた。
周りの貴族からは、商人風情が、という目を向けられていたが、ポーリーンは気丈に胸を張り、堂々と見えるように一生懸命だった。そんな中、ホイットモーの兄妹の存在はありがたかった。気配り上手なのは、生まれ持っての性質かもしれない。
今、こんな風に一緒に行動することになるなんて、あの時からしたら全く思ってもみなかったこと。
既婚女性が独身男性と親密になるなんてありえないけれど、今はいいかしら。
いいのかしら。……どうなのかしら。
まだ離縁状の提出はされていない。だから、やはりこれは許されないことかしら。




