小休止.馬鹿でグズなアーニャ(前)
一方そのころ、クロードの元愛人アーニャは。
読み飛ばしてもらってもだいじょうぶです。
アーニャは、本日何度目かの深いため息をついた。
(もうこの先、生きていたっていいことなんか何にもないんだわ)
悔しいし、腹が立つし、何より悲しくて絶望している。
貴族なんてろくなものじゃない、なんてことずっと昔から……何なら生まれる前から分かっていたはずなのに。なのにどうしてこんな風になってしまったんだろう。
「だからやめておけって言っただろう」
苦虫をかみつぶしたような兄、パーヴェルの言葉に、プイッと横を向いた。
「分かってるわよ」
「分かっていないから言っているんだ」
「分かってるわよ!」
握りしめていたハンカチを兄の胸に投げつける。声が涙でにじんでしまったことが悔しくてたまらない。
「公爵様が、わたしなんて……わたしなんて恋人にしてくれるわけないって、知ってたし!」
「恋人じゃない、愛人だ。それも、よその家に隠されるほど、公にはしたくない愛人」
「どうしてそんなに意地悪なことを言うの、兄さん! だからまだ嫁の来手もないのよ!」
「馬鹿な妹には、きつい言葉じゃないと伝わらないだろう!」
どんどん大きくなる二人の声に、窓の外で小鳥が飛び立っていく。
「わたしと、ベルタと、何が違うわけ!?」
「っ……」
「お母さんが侯爵様に結婚してもらえなかったから、だから私はこんな目に遭うんだわ。侯爵様が、家のために結婚させられた奥方を捨てられないから、弱虫だから、こんな目に遭うんだわ」
「……それは違うよ、アーニャ」
視線を落として静かにそう言う兄を睨みつけて、また横を向いた。
違う、なんて分かってる。「家のために結婚させられた」「だからお母さんは侯爵夫人になれなかった」、「自分がこんな目に遭っているのはお母さんのせい」全部違う。
アーニャの父、ホイットモー侯爵の妻は5人の子を産んだ。奥方とは仲睦まじく、社交界でも有数のおしどり夫婦であるという。
(なら、なぜお母さんを愛人なんかにしたの)
それが悔しくてたまらない。母が妾なせいで不遇であったのだとそう思う。
そう思わずにはいられなかった。
母が侯爵を愛していることは事実だろう。けれど、侯爵の本当の気持ちなど全く分からない。母に聞くことも出来ず、推し量ることも難しい。そもそも、ホイットモーはこの家に来ることはほとんどなく、アーニャ自身も会ったことは数えるほどしかないのだ。
母と侯爵の馴れ初めや関係は、タブー視されている。本当のところは何も分からないのだ。
ホイットモー侯爵のことを父だと思ったことなどない。母の想い人、その程度の認識しかない。
「アーニャ。お前が馬鹿なのは、母様のせいじゃない」
「わたしは馬鹿じゃないわ!」
「馬鹿なんだよ、アーニャ」
憐れむような目で見つめられると、悲しくなる。
馬鹿なのは知っている、何より自分が一番よく知っているのだ。
オクレール公爵に初めて会ったのは、町のカフェだった。
まさかそんなところに公爵がお供も連れずに来たなんて思いもしなくて、ただ素敵な年上の落ち着いた男性が自分のことを好ましく思ってくれたということが嬉しくて、舞い上がってしまった。
つまり、子供だったのだ。
母がどうのとか生まれがどうのとかは関係なく、ただ世間知らずのお嬢ちゃんが悪い大人に騙されたのだ。
ただ、相手が悪かった。
その素敵な男性が公爵様で、しかも既婚であると知ったのは、アーニャが身も心も捧げて生涯この人しか愛さないと胸の奥で誓った2日後のことだった。
後悔しても時すでに遅く、茫然としている間にアーニャのためにと用意されたという屋敷に幽閉されて、家族とも連絡が取れず、ただ愛した男を待つだけの生活を強いられた。
アーニャは分かっていた。
待っていたところで男が本当の意味で自分のものになる日など来ないということ。
そして、絶望した。
自分と公爵の逢瀬を人目から隠し、真の意味で日陰の身にした男、マティアスの妻となる女性が、自分の腹違いの姉であったこと。
腹違いの姉ベルタは、何も知らずにアーニャに会いに来た。話し、笑い、楽しい時間を過ごした。
幸せに育ってきたのだろう、純粋さが腹立たしかった。それ以上に、羨ましかった。楽しかった分だけ、憎かった。義姉であるベルタがではない、自分の置かれた環境を憎んだ。
ベルタに意地の悪いこともした。
マティアスと自分が深い関係にあるようなことを匂わせて、傷付けた。ホイットモーの本妻の娘に、ホイットモーの愛人の娘からのささやかな報復だった。
ベルタはいい子だった。数か月違いの姉。あんな出会い方でなければ、きっと仲良くなれた。彼女と話す時間が楽しいものであったことも、事実だった。
世界全て敵に思えた。
この世から政略結婚などなくなればいい。あんなものがあるから「本当の愛は別にある」等という幻想を抱いてしまうのだ、と感じた。でも、そんなことは後付けの理由であることも分かっていた。
普通に出会って、普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に幸せ。
そんな普通なんて、普通ない。悲しいけれど、そう思う。
だって、そんな人、周りにいない。
「お前が、『そんな人』になればいいんじゃないか。愛人なんかやめて、普通に恋愛すればいい」
「ちょっと、なんでわたしの考えに割り込んでくるのよ」
「全部口に出てるからな、言っておくけど。全部全部聞こえてるからな、聞きたくもないのに」
「いちいち意地悪! もう、分かったわよ! わたし、探しに行くわ」
お金ならあるもの、悲しいお金が。公爵からもらったこのお金、全部全部使ってやるわ。
「何を探しに行くんだ?」
「愛よ!」
本物の馬鹿を見た、と目で語ってくる兄に「いってきます!」と叩きつけるように言って、アーニャは適当に着替えだけ詰めた旅行鞄だけ持って家から出た。
さようならお母さん。さようなら兄さん。
わたしはこのまま旅に出ます。
何となく、気の向くまま、足の向くままに。
後編は連載の最後で!




