11.神出鬼没の元旦那と、小さな騎士様
目的地の店にたどり着くと、ポーリーンとユーゴは示し合わせたように同時に大きく安堵のため息をついた。
そして、顔を見合わせて笑いあう。
「このお店、前に来たところ」
「そうよ、この店の前でユーゴとクロエに初めて会ったわね」
数日前に来たばかりだが、いろいろなことがあったせいで何となく懐かしさすら思う。
ユーゴは初めてここに来た時に座った椅子を見つけると、自分の席とばかりに座っておとなしくしている。
ポーリーンは、持参したノートを広げて、セレモニーの準備がすべて予定通りに行われているのかを確認していくことにした。ユーゴの興味深そうな視線がくすぐったい。
ずっと視線がついて回るのがおかしく、ポーリーンは振り返りながら言った。
「ちょっとユーゴ、あんまり見られているとやりづら……」
振り返った先には、ユーゴ、の隣に見慣れた男。
「くるくるとよく動く奥さんだ」
「ク……オクレール公爵様……」
店に入ってきたとき、鍵を閉め忘れていたのか、と悔やんだ。勝手に入ってきた男を睨みつけ、ユーゴとクロードの間に割り込んだ。
「いらっしゃいませ、公爵様。ですがこちら、まだ開店前ですの」
「知っているよ」
「ではお引き取りいただけますね?」
「……ポーリーン……」
ふぅ、とこれ見よがしに大きく息を吐き、天を仰ぐように芝居がかった仕草をして、クロードは近場のスツールにもたれた。
「いつまでそうしているつもりだ」
「いつまで、とは?」
「今夜、何があるのかわかっているだろう?」
先ほど会った子爵夫人のことを思い出し、眉根を寄せる。
結局直接誘いにきた、ということか。まぁ、無視するより面と向かって断りを入れる方が確実かもしれない、けれど。
「夜会にはどうぞ、美しくお若いピンク髪をお連れになってはいかがです」
「まだそんなことを言っているのか」
「まだそんなこと、はこちらのセリフですよ公爵様。再三申し上げている通り、」
「私は認めていない」
いつになく静かな声でそう言い、クロードは一歩ポーリーンに近付いた。
近付いた分だけ後じさると、寂しそうに目を細め、クロードは延ばしかけた手を引いた。
「離婚、だなどと本気で言っているのか?」
「――本気です。どうして分かってくださらないのです」
「なぜ」
「なぜ、と聞きますか?」
ぐ、と拳をきつく握りしめた。
この男には、伝わらないのか。どうして自分がこんなにもつらく切ない思いを抱くことになったのかということが。
それでも、かつて愛した男が、強く拒否されてもまだ追いすがってくるのに微かに心が揺れる。
妻の目から隠すほどに大事にしていた少女ではなく、もう若くもない自分を追ってここまで来た、という事実。ほんの少しの申し訳なさと、長年温めてきた気持ちが燻る。
プライドの高すぎるほど高い公爵が、何度も何度も?
逃げた妻を追って。そんなの、クロードが一番嫌がりそうな行動なのに?
「ねぇ」
少年の声に、はっと我に返った。
ユーゴは、椅子から飛び降りてポーリーンの前に出て、長身の男を見上げる。
クロードの目をじっと見つめて、もう一度「ねぇ」と呼びかける。
強い視線に射抜かれて、クロードは少し怯んだように数回瞬きをしてユーゴを見下ろした。
「何だい?」
「いやがってるよ」
幼い子供に淡々としたトーンでそう言われ、びっくりしたようにクロードは押し黙った。
クロードを黙らせるなんて。この、押しが強くて我が強い、傍若無人を地で行くような男を一言で黙らせるなんて。
小さな背中がとても大きく頼もしく見えて、思わずポーリーンはユーゴを後ろから抱きしめた。
「わっ!」
「ユーゴ」
「ポーリーン、その子は?」
前にポーリーンの家に押しかけてきたときにも会っているはずだが、クロードは今ようやく少年の存在を認識したかのように訊いてきた。公爵様は、基本的に物の数でもないような人間のことを気にかけたりしないのだ。
「ユーゴです」
「君の親戚にはこのくらいの年の子はいなかったね」
「えぇ、そうですわね」
しれっとそう答えると、戸惑った顔でクロードはユーゴの前に跪いた。
誰かの前で膝を折ったことなど、今まで見たことがない。今日は驚くことばかりだし、初めて見ることばかりだ。
「ユーゴ」
「……」
返事をせずに見つめ返してくるユーゴに、クロードはまっすぐに言った。
「君は勇敢だ。私のように大きな大人の男を前にしても、まったく恐れず、ポーリーンを背中に隠して」
隠れ切れてませんけどね、とは言わないでおいた。
「ユーゴにとっても、ポーリーンは大切なんだね」
こくりと頷くユーゴに、ポーリーンの胸が熱くなる。
「私もだ」
クロードは、少年に語り掛ける。ポーリーンにではなく、ユーゴに。
「私にも、ポーリーンは大切な人だ」
「クロード、」
「でも、おじさん」
幼い少年からすれば、おじさんか。
微かに傷ついたような顔をしたクロードに、ポーリーンは笑いをこらえる。
「ポーリーンは、おじさんといっしょにいたくないみたい」
初めて名前を呼ばれた。そして呼び捨て。一人前の男のような態度が愛らしくて仕方がない。
「そうなのか?」
とクロードに問われて、ポーリーンは話の内容が半分くらいしか耳に入っていなかったことに気付いた。
適当に答えるのもまずいかと、黙ったままでクロードを見つめる。
「あのね、おじさん。ポーリーンが大切なら、いやがることをしたらいけないよ」
当たり前のことを当たり前のように言い、ユーゴは跪いたままのクロードの肩にポンと手を置いた。
「人はね、」
「……」
「自分の居場所は自分で決めていいんだ」
はっきりとそう言い、目で「そうだよね」とポーリーンに同意を求めるユーゴ。
ポーリーンがしっかりと頷くのを見ると、ぱっと表情を明るくした。
「……クロード」
久しぶりに名を呼んだ。
クロードは弾かれるようにポーリーンを見上げ、身動き一つせずに続く言葉を待つ。
「今夜の夜会、わたくしは一緒には行かないわ」
どうして、と問うこともせずに、クロードは黙ったままポーリーンを見つめた。
「誘ってくださって、うれしかったわ」
微笑んで手を伸ばすと、クロードはその手を取りかけた、がためらう様に手を引いてゆっくりと立ち上がった。
「ならば、私も欠席しよう」
「なぜ?」
「貴女がいない夜会など、つまらないからね」
気取ったように茶化すようにそう言ったが、その声音に寂しさが潜んでいるのをポーリーンは聞き逃さなかった。
「お上手ね、公爵様」
軽口で返事をした。断ることに罪悪感を持たせないように、といつものように軽い調子で流してくれた元旦那に感謝して。
不思議そうにこちらを見ているユーゴの髪をくしゃっと撫でて、クロードは笑った。
「また会おう、ユーゴ」
「ポーリーンをいじめない?」
「大丈夫よ、わたくしは強いから」
店を出ようとドアに手を掛けたクロードの背中がひどく小さく見えて、ポーリーンがかける言葉を探していると、彼はくるりとこちらを振り向いて恭しく頭を下げた。
「またお会いしましょう、お嬢さん」
「……その時は、呼び鈴を鳴らしてくださいませね」
寂し気な笑顔を残して、クロードは出ていった。
ベルの音が軽やかに鳴り、静かにドアが閉まる。
「おじさんは、」
ユーゴは閉まったドアを見つめながら、淡々とした声で言った。
「ポーリーンのそばにいたいんだね」
そうであれば、そのように扱ってほしかった。
ずっとそばにいてくれさえすれば、なんて今更の話。ユーゴにする話でもないし、振り返ったところで意味もない。
「ぼくとクロエも、ポーリーンのそばにずっといられたらいいのに」
ぽつりとそう呟き、それからユーゴは何かを考えるようにじっと黙っていた。
ソファに座ったまま膝を抱え、視線も動かさないままで。