1.元、公爵夫人です。
愛人とともに家から出た旦那を追いかけて、よその家に怒鳴り込みに行ったのが遠い昔のように感じる。
ポーリーンは、リズミカルに滑らせていたペンの動きを止め、微かな溜息を洩らした。
結婚生活10年は、我慢することをやめた瞬間に終わりを告げた。
浮気性の旦那、クロード=フォン=オクレール公爵と暮らした館から出て、どのくらい経っただろうか。あの館を出たときには、ちょっとした意趣返しの家出のつもりだった。友人である侯爵令嬢……今は伯爵令息夫人となったベルタのところに身を寄せて、あの浮気男がどんな反応をするのかを楽しみにしていた。
いつも、クロードを追いかけるばかりだった。他の女性ではなく、自分を追いかけてきてほしかった。のかもしれない。
でも、心の距離が開いてしまったところに身体まで離れてしまえばそれはもう取り返しがつかない。
離縁までは、すぐだった。
「でも、よかったじゃないですか」
ぐるぐる考えていた思考を、明るい声が遮った。
「よかったって、何が?」
「ジョアンには分かりますよ、お嬢様が今『元』旦那様のことを考えていたということは」
元、と思いっきり強調していうと、侍女のジョアンはニコッと笑った。
「まだ悩まれているようですけれど? でも! 離れてよかったとジョアンは思いますよ」
書き終えた図面をポーリーンから取り上げて手早く丸め、次の紙を広げてウェイトで押さえると、ジョアンはこつこつと紙を指示した。
「どんどん行きましょう、お仕事はたくさんありますよ!」
「……はいはい」
くるりとペンを回して、思うままに描いていく。
これは、初仕事。「お手伝い」ではない、最初の仕事。依頼主が実の父親であろうと、手を抜くわけにはいかない。
近々、父のショップの2号店がオープンする。各国から買い集めてきた人形を扱う、小さな店だ。
ポーリーンは今回、その店のお披露目会の設営を任された。店内装飾の花とリボン、包装紙や小さなお菓子をデザインし、人形を求めてくる小さなお客様のための柔らかなガーゼのハンカチやお口拭き、用意すべきものは多岐に渡る。
「しっかり作りこんで、お父様をびっくりさせるわよ」
「心臓が止まるかもしれませんね!」
「それは困るわね……」
顔を見合わせて笑いあう、穏やかな時間。
静かな室内には紅茶の香りとペンの滑る軽やかな音が満ち、窓の外から時折聞こえる鳥や子供の声に目を細める。
ポーリーンの父は、世界中を飛び回る商人だ。祖父が立ち上げたゴドルフィン商会を2代目にして拡大し、豪商へと成り上がった。もちろん、それには貴族であったポーリーンの母の後ろ盾があってのものではあったが、父の辣腕は今もなお健在である。
仕事一筋の父、献身的に支えた母。仲睦まじい夫婦であったが、母はすでに亡い。
公爵夫人の立場を捨てて戻ってきた娘を、父は何も言わずに受け入れてくれた。
おかえり、と強く抱きしめてくれた父には感謝しかない。
「お嬢様、お手紙です」
差し出された数通の封筒の中に、見知った公爵家の印章を見つけ、心が揺れる。
クロードからの手紙で動揺するなど、未練がましい。公爵夫人の身分は自分で捨てたんでしょう、しっかりしないと。
受け取った封筒をそっと裏返して机の端へ寄せ、上に本を乗せて視界から外した。
「お読みにならないんです?」
ジョアンはせっかく重石にした本を本棚に戻し、公爵からの手紙を手に取った。
「何が入っているか分からないもの」
「刃物の感触はしませんよ」
ふ、と思わず口元が緩む。
「手紙に刃物なんて……クロードはそんな人じゃないわ」
そうではなくて、とポーリーンは思う。
押し付けてきた離縁状に署名と証人を揃えて送り返してきたのでは、と。自分が求めたものではあるのに、それが送られてくるのが怖い気がした。
恨みつらみが綴られた手紙であれば、その方がもっと怖い。自分が捨ててきた夫なのに、嫌われるのも傷付けるのも嫌だなんて、ひどくわがままだ。
「こじらせてますね、お嬢様」
「10年は長かった、ということかもしれないわ」
きれいさっぱりと忘れられればと思うのに、忘れたくないと思う自分もいる。まだ、クロードに最後に会ってからたったの一週間しか経っていないのだ。
ペンを置いて、ポーリーンは立ち上がって大きく伸びをした。
「お疲れです? 今お茶でも、」
「いえ。ちょっとお散歩してくるわ」
帽子掛けからツバ広の帽子を取り、ポンと被って手を振った。
「2号店の確認に。夕方までには帰るから、誰か来ても上げないで」
「用だけ聞いてお帰りいただきます」
来るかもしれない人なんて、いないけれど。
ペンとノートをショルダーバッグに入れて、ポーリーンは家を出た。
「引きこもりの私に求婚した相手は離れに愛人を囲っているようです」のポーリーンのお話です。
引きこもり~を先にお読みいただくと、ポーリーンについてよくわかるかも、です。(CM)