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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ケセラセラ。

 信じ難いことに、俺は今叶わぬ恋をしている。


 だってそうだろう? 別に今までの人生で特に女に不自由したこのなどないこの俺が、どうしてよりによってあんな冴えないやつを好きになったんだ?

 自分自身でさえ正気とは思えないこの有り得ない感情に戸惑って。


 ※※※※※


「お疲れさん。君が作ってくれた資料のおかげで今日の商談も無事済んだよ。特に例の比較資料な、あれは役に立った。お礼に今夜は奢るから呑みに付き合えな」

「先輩、強制っすかそれ?」

「まあな、いいだろ? 普段から『奢りなら付き合いますよ』っていうのが口癖じゃないか」

「いいっすけどねー。そのかわり高くつきますよ? いい酒呑ましてくださいね」

「ああ。とっておきのボトルが入れてある店があるからさ。期待していいぞ!」


 ヨレヨレのシャツに上着。お世辞にも出来る奴とは思われそうにも無い先輩、高野サン。

 ほんとに人が良いだけが取り柄なこの先輩に誘われるまま、俺は今夜も夜の街に繰り出した。

 そう毎晩呑み歩いていれば財布の中身も心許なくなるっていうものなのだがこうして奢りならそんな心配も無い。

 まあ人生で一番幸福を感じるのがこの酒を呑んでいる時だからな。俺の身体の大半が酒で出来ていると思っても過言じゃぁ無い。

 きつい仕事も酒を呑んで寝ればすっかり忘れられる。


 まあそうは言っても高い酒なんてめったに呑めるもんじゃないし、こうして奢りの時には喜んでついていくのだけど。


 時間は夜の8時、会社を出て繁華街まで歩く。

 ビルには煌々と灯りが灯っている。ネオンが煌めくそんな夜の街にたどり着いた俺は只々高野サンの後ろをついて行った。

 背は高いなこの人。

 その背中を眺めながらそんな感想を持つ。自分がそんなに背が高い方じゃ無いのが唯一のコンプレックスだった俺から見れば、この身長は羨ましい、そうも思う。

 客引きや外国人の女性がたむろしている歩道を抜けて少し裏道に出た所で高野サンが振り返った。

「ここだよりょう。なかなかの穴場なんだ」

 と。目の前の薄暗いビルを指差しそう言った。

 看板は……、CAT’s。猫、か。

 あまり自己主張しないその看板に少々不安も覚えるけれど高野サンのお勧めだしな。と気を取り直し後ろをついて店のドアをくぐる。

「あら、いらっしゃい高野サン。おひさねー」

 そう甲高い声が聞こえた。

 女性の声? そう思ったのに目の前カウンターにいるのは少年が二人。まだ年若い彼ら、Tシャツにジーンズといった出立の男性が二人カウンターの中にいた。

 薄暗い店内。カウンターだけの小さなバーだ。調度品もざっくりしていて壁もコンクリートの打ちっぱなし。お世辞にも高そうには見えないか。

 他に客も居ない店内で高野サン、カウンターのど真ん中に座り隣を俺に勧める。

「ロックで二つ」

 常連らしくそれだけで通じるのか目の前の少年がお酒を用意し始める。

 し、か、し。

 この少年、さっきの声の子だよな。ぴっちりしたTシャツを着ているから女性で無いのは間違いない。

 ここまで胸が無い女性もいないだろうし。

 ジャニーズ系? って言えばいいのか、とにかく整った顔立ちのその少年は肩幅なんかも華奢で、まるで生まれてくる性別を間違ったんじゃ無いか、そうも思えるほどだ。

 もう一人が坊主頭でやんちゃそうな顔をしているから余計にそう思うのかも。

 髪は肩までのふんわりした栗毛。うーん、ふせたまつ毛も長い、か。まさに美少年。

「おいおい涼、そんなに見つめてやるなよ。いくらアキラが可愛く見えるからってそれはちょっと見惚れすぎだ」

 はははと笑いながらそう俺の背中を叩く高野サン。

「見惚れてなんかないっす! ただあんまり……、で、ちょっと驚いてただけですよ」

 そう返して目の前にきたグラスをぐぐっとあけた。

 喉元を通るアルコールにむせて、ゴホッと息を吐き出して。

「もったいない呑み方だな、もっと味わってくれよ」


 そう笑う高野サンの顔をみるのが恥ずかしかった。


 ☆


 宝石でも舐めているかのようなこの芳醇な香りとほんのり甘さも感じる味わい。

 普段呑んでいる水割りやハイボール、ビールに熱燗、カクテルなんかは皆それぞれに旨いと思う。

 だけれどこれは別格だった。

 アランビックという名のブランデーなのだという。今まで呑んだどの酒よりも酒の味そのものが旨い。

 味わいは、男らしいものではないかもしれない。もっときつい酒がいいという奴も居るだろう。

 でも。

 俺はこの酒が好きだ。そう思わせるだけの何かがある。そんな気がしていた。

 確かにこの酒はロックで呑むべきだろう。せっかくのこの味わいを水割りなどにして呑むのはもったいない。

 高野サンに感謝だ。こんな旨い酒をこんなにも旨く呑ませてくれた事に。

 旨い酒にすっかり上機嫌になりいつのまにかボトルも空になっていた。すかさず次のボトルを入れてくれる高野サン。もう神様仏様高野様。俺はもう一生ついていきますなんて軽いノリで喋り倒し。

 上機嫌で目の前のアキラ君にも話しかける。


「アキラ君女装とかも似合いそうだよね」

「まあね。でもここ、そういうお店じゃないのでー。ざんねん!」

「はは。じゃぁ今度プライベートでデートしない? 水族館とかさ?」

 ああ、もうノリがホステスさんを口説く時といっしょになってるや。まあいっか。

 すっかり酔った俺はもう目の前の子が男だか女だかそんな事も考えられなくなっていた。

「うーん。まだ今夜初めて会ったばっかりでしょー? もう少し通ってくれたらデートも考えてあげてもいいけどなぁ」

 そんな返事を返すこの子の声は完全に女の子と変わらなくて。俺の頭の中はたぶんどうかしてしまっていたのかもしれなかった。

「そうだなー。じゃぁこれからは足繁く通いますよ。お姫様」

 そんな風に軽く話す俺。隣の先輩が無言になっているのにも気がつかずはしゃいで。


 暫くそんなノリで楽しんだ後他の客が1組来店した所で俺はトイレに立った。

 用を足して扉を開けるとそこには高野先輩が立っていた。ああやっぱり背が高いな羨ましい。そんな感想が頭をよぎり。

「ああすみません先輩。待たせちゃいましたかね。どうぞ」

 そう言って場所を譲ろうとした時だった。


 ドン!


 俺の顔のすぐまた横に、高野サンの腕。

 トイレの扉にドンと右手をついた彼が、俺の顔を覗き込んで、呟いた。


「涼はアキラが好みなのか? 俺じゃ、ダメか?」

 と、そう。


 ドキ!


 迂闊にもそう心臓が飛び上がった。


 そもそも彼が俺のことを涼と呼ぶのはただの区別の為だった筈。

 佐藤が三人いるうちの職場でそのまま佐藤サンと呼ばれているのが主任の佐藤健次さん。

 佐藤君と呼ばれているのはおれの同期のイケメン佐藤裕樹。

 でもって俺、佐藤涼。

 どちらかといったら三人の中で一番チャラチャラして見える(らしい)俺の容姿。最初のうちは佐藤涼佐藤涼とフルネームで呼ばれていたけれどそのうちにただの「涼」に落ち着いた。

 だから今ここで「涼」と呼ばれる事にだって特別な意味なんてなかった筈だ。

 と、今まではそう思っていた。

 でも、どうした?

 この状況って。


 ヨレヨレのシャツの高野サン。高野康平サン。

 歳は二十七だったっけか。その割にしっかりして見える。

 背が高くてわりと顔立ちも整っていて、それでもって優しい。女の子にだってモテる筈だろう?

 だけど今までそんな浮いた噂も一切無くて彼女いない歴年齢だと笑っていたけど、こういう事なのか?

 てっきりこのヨレヨレの具合や冴えない雰囲気が原因かと思っていたのに!

「冗談きついすよ高野サン。もうかなり酔ってるんですか?」

 おれはとりあえずそうかわしてみる。こんな告白、まともに受けたら負けだ。

 でも。

「俺はまだ酔っちゃ居ない。本気だよ、涼」

 と、そう言ったかと思った瞬間だった。


 ぎゅっと抱きしめられ、口が……。


 思いっきり濃厚なキス。

 耐えられなくてそのままヘナヘナと崩れ落ちる俺。


 茫然としゃがみ込む俺を残して高野サンは席に戻って行った。


 俺は……。


 その衝撃に、暫く立ち上がれなかった。


 ※※※※※


 そのあとは、何をどう話したのか正直よく覚えていない。

 席に戻ったときには高野サンは普段の様子に戻っていて、まるでさっきのことは酔っ払って観た夢なのかと勘違いしそうになるくらいで。

 そのまま酒をあおった俺は酷く酔っ払い、どうやら先輩にタクシーに乗せられ家まで帰ったらしい。

 気がついたら明け方で、自宅の玄関の廊下で寝ていた俺。荷物も服も家の鍵までちゃんとあったから、きっと玄関までは高野サンが連れてきてくれたんだろう。

 混乱した俺はそのままベッドに潜り込んだ。どうせ今日は休日だ。このまま昼過ぎまで寝よう。そう決めた。




 そして無情にも月曜日がまたやってきた。


 だいたい月曜日の朝っていうのはこれから地獄の一週間がはじまるっていう世の中で一番嫌われている時間だろう。

 ベッドからおきるのも億劫だけれどそのまま寝ているわけにもいかない。情けない事に俺は働かなくては食っていけないのだ。

 貯金も無い、毎月の給料前は食い物も控えないといけないくらいにギリギリの生活をしている。

 それもこれも会社の給料が安いからいけない、とは言うものの、そんな会社に出社しないことには給料は貰えないどころか首になってしまったら露頭に迷う。

 高校を中退し街を彷徨っていた時は夜の仕事にも手を出してバーテン使いパシリ客引きとなんでもやった。

 身体を売れば金になると誘われた事も無いでは無かったけれど、そこの一線だけは死守したのだけど。

 それも客はハゲのおっさんだと言う話では流石に嫌だと逃げ出したのだ。


 どちらかといったら背も低く華奢だった17の頃。

 そもそも母親が死んだのをきっかけに住む場所にも困り、母方のおじさんに世話になる筈が襲われかけ逃げ出したのだ。ここでそんな客を取るくらいならおじさんの世話になっていた方がマシだっただろ?

 そうして夜の街でチンピラの真似事みたいな仕事をしていた俺を拾ってくれたのが今の会社の社長だった。

 最初は怪しんださ。俺みたいなチャラい男を真っ当な会社が雇ってくれるなんて。

 そんな話信じられなかった。

 しかし。

 まあ捨てる神有れば拾う神有り、だ。

 俺の境遇を案じた店のママさんが客の社長に声をかけてくれたって話だった。

 住むところも会社の借り上げ寮で仕事も一から鍛えられた。

 そんなに大きな会社じゃないけれどそれでも真っ当に働けるだけでも幸せなのかもしれなかった、んだけどさ。

 それでもやっぱりどうしても、月曜の朝だけは好きになれないな。


 昨日は結局、目が覚めるともう外が暗くなっていた。俺の休日が——

 そう嘆いてみたけれど過ぎた時間が取り戻せるわけでもない。

 仕方がないのでとりあえず買ってあったソーセージをつまみに酒を飲むことにした。

 と言っても安物の焼酎の炭酸割りだ。流石に節約しないと給料日まで持たないのでそれで済ます事にする。

 いい加減に酔い直した所で袋ラーメンを作り食べて。ああ、卵を一個落としたから栄養はまあ考慮してる。


 そうしてそのまままた眠りについたのだった。


 ※※※※※


 気持ちの悪い満員電車をなんとか凌ぎ、俺は会社の玄関をくぐる。先代会長の銅像を眺めそのまま階段をあがり二階のオフィスに向かった。

 時間はまだ早い。他の社員はまだ出社していない中、案の定高野先輩だけが席に着き新聞を読んでいた。


 気まずい、か。

 でもまずお礼も言わないと、だろうな。

 まああれだけ酔っぱらって潰れたんだ。記憶の一つや二つ無くなってたっておかしくは無い。

 と、自分を奮い立たせた。


「おはようございます!」

「おはよう」

「先輩すみません。俺、記憶なくすまで呑んじゃったみたいで。気がついたら玄関の廊下で寝てました。送ってくれたんっすよね? ほんとすみません!」

「ああ、まあいいさ。それよりもA社の見積もりなんだが——」


 顔色も変えず普段通りな反応をする高野先輩。まるであの夜の出来事が無かったかのように振る舞う彼に、俺は少し苛立った。


 なんでだよ!

 あんな事しておいて、なんでそんな何でもない顔ができるんだよ!


 俺はこれでも見てくれは悪くは無い。どちらかといったら芸能人の若手俳優にでも居そうな顔だと言われた事もある。

 あの美形そうろうのアキラには負けるとは思うけれどそれでも寄ってくる女は後を絶たなかった。

 それでも。

 高二の時のあの経験がトラウマになっているのか、どうにも恋愛っていうのは苦手だった。

 上っ面で付き合うのは簡単だ。

 しかし、真剣に人を好きになったりはした事がなかった。どうしても心にブレーキがかかるのだ。

 そう。今までは。


 土曜の夜のあの出来事は俺にそのトラウマを思い出させた。

 ただ違うのは、あの時の俺は、高野さんの時の俺は、それが嫌だと思わなかったのだ。

 違うな。

 迂闊にも、甘露な甘さに酔ってしまったかのように、心が奪われて。落ちたのだ。



 終業時間を過ぎて溜まった仕事も終わらせて。そろそろ周囲も帰路に付く時間になりそろそろ俺もと帰り支度を始めた。

 とうとう今日は最後まで素っ気ない態度のままだった高野先輩は夕刻より客先に出向きそのまま直帰と連絡があった。


 あれはやっぱり酔った上での過ちなのだろうか?

 ふざけただけなのだろうか?


 俺はこんなにも心が乱れ、そのことばかりが頭を離れないというのに。

 高野サンはそんな事微塵も思い出さないのだろうか。

 それが悲しかった。

 会社を出て歩く。

 なんだかまっすぐ駅に向かう気にはなれずまだ開いている店を歩いて見て回った。

 時間はまだ7時だ。充分早い。

 晩飯はどうしようかと思ったけれど家に帰れば袋麺の買い置きがまだある。


 今月の給料日までまだ十日もある今の状況で買い食いはありえないかとおもいつつ、それでも惣菜や弁当の投げ売りでもないかと見て回った。

 普段400円の弁当が半額ならそれをゲットして、とか考えつつ歩いて。


 駅前はそろそろ冬の装いをしはじめた。

 そこら中に電飾が灯り、モールがひらひらと風に揺れている。

 まだ冬って気がしないんだけどなとか呟きながらその電飾を見て回った。


 今年はもう十一月だというのに上着一枚で充分過ごせるくらい暖かい日が続いている。

 街を彷徨っているあの頃はこの時期ともなれば悴んだ手をポケットに突っ込まなきゃやってられなかったけどな、とか。

 何故か今日はそんなことばかりを思い出していた。


 少々センチメンタルにでもなっているのか。

 そんな気持ちを頭を振って否定して。

 いや、俺は。

 今までもずっと一人で生きてきたじゃないか。

 それなのになんだろう。この心に空いた穴は。

 過去を思い出して、それが寂しいなんて、そんな気持ちを持つなんて。

 誰かがそばにいてくれる、そんな普通を欲しがるなんて。

 今までの俺じゃないよ、そんなの。


 でも。


 あんな風に求められるのは、初めてだった。


 俺も……。


 いやいやいやありえない!

 男同士でそんなのは絶対にありえない!

 もしかして、俺のそんな葛藤が顔に出ていたのだろうか?

 だから先輩は、無かったことにしてくれたのだろうか?

 なら仕方がないな。

 俺も、忘れなきゃ、だ。


 そんな風に心を決めて駅まで戻ろうとした所で弁当屋で半額弁当を見つけてゲットして。

 ほくほく気分で帰ろうとした時だった。

 何気なく見たショーウインドウの向こう側に高野先輩の姿を見つけた。

 でも。

 隣にはアキラ。

 それも綺麗に着飾った、女にしか見えない衣装のアキラが先輩の隣にはべって居た。


 二人は楽しそうに笑顔を見せあって、何か、宝石のようなものを選んでいた。



 ※※※※※



 嫉妬と後悔。



 呆然としたまま帰りの電車に揺られ帰った俺。

 半額で買った弁当をつまみに酒を飲む予定だったのがそんな気分ではなくなっていた。

 買い置きのラガーが冷えているからそれで、って思ってほくほくしていたのはほんのついさっきなのに。

 家に帰り着くとそのままベッドに倒れ込む。風呂、入らなきゃなぁとか思うけれど身体はいうことをきかなかった。


 あの、楽しそうな笑顔の高野サン。

 あんな顔、俺には見せてくれたことは無い。

 隣にいたアキラはまったく女装には見えず。どこをどう見ても本当の女性にしか見えなかった。

 あれであの声ならリードされることも無いだろうな。そんなことも思う。

 羨ましい。

 って、俺は一体何を考えている!?

 羨ましいのはどっちだ?

 高野サンに対してか?

 それとも、アキラに?

 俺が嫉妬しているのはどっちに対してなのか。


 そうだ。認めよう。俺は嫉妬している。

 この感情はそう。

 羨ましいのだ。


 あの笑顔もああやって二人で仲良く商品を選んでいる姿も。


 結婚とかは考えた事が無かった。

 俺はずっと一人で、そう思ってはいたんだ。


 でも。


 そばに誰かにいて欲しい。そんな気持ちが俺にもあったんだな。そしてその相手には、やっぱり俺を好きでいて欲しい。そう思うのだ。思ってしまうのだ。

 贅沢な悩みだな。そうも思うけれど。

 だけれど。

 心の中にポッカリ空いたその場所を埋めて欲しい。

 もしかしたら、彼にはそれを期待できるんじゃ無いか。

 そんな事も頭をよぎったのだ。あの時。


 ああ。


 せっかく差し出して貰えた手を、俺は握り返す事が出来なかった。


 そうだよ!


 強がって見せてもほんとは欲しかったんだよ。俺は。


 無条件で与えられる、キスを。


 無条件で与えられる、好きを。


 それを……。




 俺がもっと素直になっていればもしかしたら貰えたかもしれなかった好き、が、掌からこぼれ落ちていくのを黙って見ていた。

 いつのまにかそんな夢を見て。


 枕が涙で濡れていた。



 ※※※※※



「何やってるんだ! ここのところケアレスミスが多すぎるぞ! シャキッとしろシャキッと!」

 課長のそんな怒鳴り声を聞きながら俯いて。さも反省してる風にすみませんと小声で吐き出す。


 資料の作り直しを命じられ席に戻る時心配そうにしてこちらを見る高野サンの視線に気が付いたけれど、それもまた苦痛だった。

 肩を落としてパソコンの画面を見つめる俺にさりげなく通り過ぎながら肩を叩き、気にするなよ、っと声をかけて事務所を出て行く高野先輩の後ろ姿をチラ見して。

 だから、そうやって俺に優しくしないでくれ。

 そう恨みがましく思う。


 先輩は悪くない。そんな事はわかってる。

 彼が優しい人なのも、そんな当たり前の事も充分理解はしているんだ。

 だけれど。

 俺のわがままな感情だって事は充分承知の上で、それでもこの感情が抑えられない。

 優しくされればされるほど、辛くなる。

 いっそ冷たくされた方がどんなに気が楽だろう。そうすればちゃんと諦めもつく。

 期待してしまう事も無くなるだろうから。


 今日は週末で高野サンは客先からの直帰か。

 やり直しの資料作りに手間取った俺が仕事を終えたのはもう9時を回った時間だった。


 あのあと、今週はずっとほうけたように何も集中出来なかった俺はなぜか毎晩の酒に逃げる事も出来ず家に帰るなりベッドに直行していた。

 そのままうだうだ考えて、気がついたら朝になり。なんとかシャワーを浴びて出勤する。その繰り返しだった。

 寝られない日々が続き寝不足でふらふらして。結局こうして会社でも集中できずたったこれだけの仕事にこんなにも時間を使って——

 情けない。

 俺はもっとさっぱりした人間だと思っていた。

 こんなにうじうじ悩むのは性に合わないはず。

 今日こそは酒を飲んで。

 そしてこんな感情はすっかり捨ててやろう。


 財布の中身を確認して給料日まで残り数日そして残り諭吉一枚。

 明日の事はもう考えなくてもいいや。

 今夜はぱーっと飲むぞ!

 そう決意して繁華街に足を運ぶ。


 どこで呑むかと考えつつこんな夜は喧騒の激しい居酒屋では無しに落ち着いたスナックやバーが良いなと店を探して。

 何度か行ったあそこがいいか、それともあっちがいいか。そんな風にふらふらと歩いていたらいつのまにか目の前にあったのは先週高野さんに連れられて来たCAT’sだった。


 ここに来るつもりじゃ無かったんだけどな。

 頭ではそう思うけれど足がいつのまにかこちらに向かっていたのか。

 逡巡し、そして決意する。

 そうだよ。もう何もかも忘れる為に呑むんじゃないか。

 諦める為に、酒で全てをリセットするつもりで呑むのだ。だったらここではいけない理由は無い。

 今日の高野先輩の仕事は遅くまでかかりそうだった。場合によっては接待呑みになるからと言っていたのも聞こえてた。

 だったら、まあいいか。ここで。

 アキラの顔を拝みながら呑んでやるさ。

 そう決めて扉を開ける。


 カラン


 中を覗くと客は一人も居なかった。ほっとしながら中に進むと「あらりょうちゃんいらっしゃい」とアキラ。

 店内にはアキラ一人。営業用? のスマイルで出迎えてくれて。

 カウンターに座るとおしぼりを手渡してくれるアキラの顔をまともに見れないまま、とりあえずビールで、と、声をかけた。

 ダメだダメ。諦めるんだろう? 俺。

 恋敵だろうがなんだろうが逃げちゃダメだ。

 冷えたグラスに注がれたビールをぐぐっと一気に飲むと、やっと一息ついた。

 アキラはグラスにビールを注ぎながら、俺の顔をじっとみる。


「ねえりょうちゃん。高野サンと何かあった?」

 と聞いてきた。


「何か、って……?」

 さりげなくお通しを俺の前にすっと出し、


「うーん。その調子だとまだなのかなぁ?」と、そう。

 意味深な言い方のセリフ。


 ふふふと笑うその笑顔は綺麗で人懐っこくて。たぶんそのケのある男ならコロッといかれてしまうんだろうな。そんな風にも思う。


「今夜は待ち合わせでもしてるの?」

「いや、俺は今日は一人だよ」

「そっかー。約束通り通ってくれる気になってくれたってことよねー。ありがとう大好きよりょうちゃん」

 そう笑顔を向けるアキラ。

「まあね」

 いつものような軽口は出ない、か。やっぱりまだ本調子じゃ無いな。


 俺は二杯三杯とビールをあおり、早く酔わなくては、ってなんだかそんな気持ちに陥っていた。

「もうじき来るわよ高野サン。そう聞いてるから」

 何気ない会話の途中、さりげなくそんな事を言うアキラ。

 ああ。やっぱり。そういう仲なんだな。と、そんなところにもまだ俺の心は痛む。

 叶わぬ恋などさっさと振り切ろうと思って呑みにきているのに、まだ呑み足りないのか?


 しばらくしてアキラの言った通り来店した高野サン。ちょっと一瞬驚いたような顔をしてそれから破顔した。

「涼! 来てくれてたんだな。今夜も一緒に飲めると思って無かったから嬉しいよ」

 そんな風な社交辞令を聞きたいわけじゃ無い。


 当然のように俺の隣に座り。

「最近調子悪いみたいだったから、心配してたんだ」

 そう耳元で優しく囁く高野サン。


 ああ。ダメ、だ。

 忘れよう諦めようと思っていた筈なのに。

 元どおり、普通の関係になろうと思っていた筈なのに。

 ダメだ。感情が抑えられない。


「俺にそんなに優しくしないでください高野サン……」


 そう、声が漏れた。


「期待してしまうから、俺は……。俺じゃダメだったんでしょう? だったらこれ以上、俺に構わないでくれ!」


 何言ってるんだ俺。


 こんなこと言いたいわけじゃ無い。

 誰か。誰か俺の口を塞いでくれ!


 はう! 


 高野サン、俺の顎をくいっと持って、そのまま俺の唇を自分の口で塞ぐ。


 突然の彼の行為に、俺は……。


「涼。お前が好きだ」


 唇を離し、そう甘い声で囁く彼。


「だって、アキラは? デートしてた、だろ?」


 俺は泣きそうな声を絞り出しそう言った。




「お前にこれを贈りたくて」

 そう言って指輪のケースをポケットから取り出す高野サン。


 俺の目の前に差し出すようにしてケースを開けると、そこには銀のリングがあった。

 でもまさか。俺、指のサイズなんか測った事、無い。


「覚えてないか?」と、高野サン、俺の目を覗くように見つめて。


「先週の夜、アキラとお前、身体のサイズとか指のサイズとか比べっこしてただろ? 双子のようにそっくり一緒で盛り上がってたんだけどな。覚えて無い?」


 覚えて……、ああなんとなくそんな事があったような気がしてきた……。


 指のサイズもその時。アキラの指輪を借りてして見せて、全くサイズが一緒なのに驚いたっけ。

 身長体重も腕の太さもアキラと一緒って言われて俺はけっこう憤慨してみせてたんだったっけか……。


「それに、アキラは弟だからな」

「嫌だ兄さん。もうじき妹になる予定なんだから弟は無しでね」

 へ?

「あたしの本名は高野晶たかのあきらっていうの。十九歳ね。来年には手術して戸籍も変わる予定だからそこのとこよろしくね」


 あは。ははは。


 なんだかあんなに悩んだのが嘘みたいにどこかに行ってしまった。

 この高野サンを好きでいても良かったんだ。そう思うと心が軽くなる。

 思いっきり笑い出した俺に、高野サン。


「で、涼。返事を聞かせてくれないか? この指輪、貰ってくれるのかくれないのか」

 そう縋るような目で俺を見た。


「ありがたく——頂きます。ありがとう高野サン」


 人生は、どうなるかなんてわからない。


 男同士で好きだの嫌いだの。そんなのが世間でどう思われるかとかそんな事だって、もうどうでもいいや。

 俺は、この人が好きだ。それでいいじゃ無いか。


 そう。どうせ人生は全てケセラセラ。


 なるようになるさ、ってそんな気持ちで今まで生きてきたけれど。


 たぶん、人生は全て自分次第。自分の気持ちの持ちよう一つで幸せになれるんだ。なんとかなるんだ。と、そう思う。



「高野サン。好きだよ。こんな俺だけど、いいの?」


「ああ。俺はお前が欲しいんだ。涼」



 たぶん今の俺は、今までの人生でいちばん最高な笑顔でいるとおもう。涙は流しているけれど、さ。それでもきっと——




   END



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