≪1-7≫ 誰でもない者②
店の二階。空き部屋に物を詰め込んでいるうち、成り行きで半物置と化したらしい部屋で、ヴォルフラムは鏡台と向き合っていた。
「この服を着るのか……」
薄汚れたずぶ濡れの服を着ていたもので、まずはそれを着替えるようにと、ヴォルフラムは古着を渡されていた。元はヴィオレットのものだったのかも知れない。
くすんだ赤色で、腰回りだけがちょっとタイトな構造の、何の変哲も無い庶民的ワンピース。そしてその上に身につける白い(……白かったのだろうが使い古してくすみ、何かのシミらしき痕もある)エプロン。それから下着とヘアバンドだ。
『冒険者になりたい?』
『はい。それも……近日中に』
ヴォルフラムは不快に濡れた服を、ひとまず脱ぎ捨てる。
露わになった肉体は肉が足りず骨張ったものだった。
「はは……細っけー身体だなあオイ……
アバラ浮いてんじゃねーか」
身につけているのはズロース一枚きり。
鏡に映る痩せた身体を見て、ヴォルフラムは苦笑する。
そして桶に張ったぬるま湯で、雑巾かタオルか微妙だがどちらかと言えばタオルであるものを絞り、身を拭った。
『知ってるとは思うけど……冒険者って魔物と戦うのが仕事なのよ。
危ないし、ほとんどの人はそんなに儲からないし、いつまでも続けられるような仕事じゃないし』
『分かってます。
……下級の冒険者は、アルバイトで補助収入を得ながら身の丈に合った依頼を受けて力を付けていくのが定石だと聞きました。だから、お願いしたいんです。冒険者試験を受けるだけでもお金が必要ですし』
『って言うか、あなた戦えるの?』
『これでも魔法の知識があります』
一通り身体を拭うと、ヴォルフラムは渡された下着を広げる。
言うまでもなく女物だ。
胸から下を覆う白無地のシュミーズ、そして肌に密着する構造の下履き。
「……この布地が少ないペラペラの下着……いざ自分が履くとなると意味分からんな。
今履いてるズロースならまだしも男物に近いんだが……」
女性の下着姿くらい当然見た事はある。
が、こんな下着を自分が身につける日が来ようとは終ぞ考えた事が無かった。
問題の下着は、男性用の下着には必須の股間の突起物を収める余裕が無く、異様な密着圧力を感じた。
『どうして、そうまでして冒険者に……あなたみたいな子どもが』
『わたしには目的があるんです。そのためには力と、地位と、できれば資金も、できるだけ早く手に入れないといけないんです。
冒険者になるのが一番近道なんです。遠回りをしている時間は、残念ですがありません。リスクは承知です』
ワンピースを頭から被ったヴォルフラムは、しばらく格闘してどうにか頭を出す。
「んー……足下がスカスカして落ち着かねー。
服を着てるのに生身の内股が擦れ合うってのがすげえ違和感……」
術師向けの防具として使われるローブ類も構造としては似たようなものなのだが、野外活動を四六時中行う冒険者や、それと似たような事をしていたヴォルフラムは、もっと動きやすい格好をしたり、仮にローブを着るにしても脚部の保護(つまりズボンなどの着用)を欠かさなかった。
スカートの中で無防備になる足の感覚が新鮮で違和感だった。
『目的って?』
『それは…………言えません。でも、誓って悪いことじゃありません』
濡れた金茶の髪を乾いた布で拭き、手櫛でほぐして後ろへ流す。
そしてヴォルフラムは、ヘアバンドでそれを留めた。
丸出しになったおデコが輝いた。
「あーあー……可愛くなっちまったもんだなあ、俺……
元々他人の身体だけどよ……」
応急処置程度の身繕いだが、それでも鏡の中の少女は見違えるように魅力的になっていた。
小さくて可愛らしいのは言うに及ばずとして、秀でたデコは小賢しい知性を、燃ゆる焔のように赤い目は負けん気めいた意志の強さを感じさせる。
それでいて夢見がちな少女の面影もどこかに残る。……あるいはそれは、世界の救済などという大それた目標を見据えるヴォルフラムの心根が表出したものか。
『お願い……できますか?』
『……一つ、約束して。断りも無く勝手にどこかへ行っちゃったりしないって。
あなた、なんだか……ある日どこかへ消えていって、二度と戻ってこないんじゃないかって気がして、それがなんだか怖くて心配だから……』
鏡の中の少女は微かに皮肉の色も混ぜて、戦闘的に微笑んだ。
「よう、ガキんちょ。俺ぁ諦めねーぞ。
お前との約束……絶対に果たしてやる」
ヴォルフラムはレティシアに誓う。
一度は願い、諦めた。
だが結局のところヴォルフラムは、再び英雄になろうとしている。
この気持ちを思い出させてくれたレティシアに誓って、心折れることは二度と無いだろう。
レティシアは、その命の瀬戸際にさえ世界の救済を願った。
まあそれは結局、世界なんて大層なものではなく、生き別れの母を想ってのことだったのかも知れないが、だとしても。
無力な少女でさえそうなのだ。一度は英雄とまで呼ばれた己がその願いを捨てて何とする。
『あなたのお名前は? 私はヴィオレット』
『……アニス。アニス・アニマです』
身支度を終えたヴォルフラムは……アニスは、部屋を出る。
軋ませ軋ませ階段を降りていくと、階下で待っていたヴィオレットはにこりと笑った。
「あら、よく似合ってるじゃない。サイズが合って良かったわ」
「はい……ありがとうございます」
* * *
早くもその晩からアニスは働き始めることになった。
日も暮れて『ヴィオレットのキッチン』は賑わいを見せる。
どことなく船室を思わせる内装の店内は、油のランプと魔力灯によって半々ぐらいで照らし出される。
ある者は数人で賑やかに、ある者は一人で静かに酒と料理を楽しみ、酒場から酒場へ渡り歩く流しの詩人が陽気に弦楽器を奏でる。
カウンター内でアニスは、一心不乱にナイフで芋を剥いていた。
魔王討伐のために旅をしていた頃は、野宿をして自分で料理をすることもままあったし、その後の20年に至っては森の中で一人暮らしだ。料理の下ごしらえぐらいお手の物だった。
「アニスちゃん、これ一番奥のテーブルのハゲに持って行って!」
平べったい鍋と格闘していたヴィオレットが、鍋をひっくり返すように料理を盛り付けて大皿を差し出した。
「分かりました!」
「おいコラ、ハゲはねえだろヴィオ!」
「お待ち遠様です!」
抗議する禿頭の男にアニスは、鶏肉と野菜を胡麻油で炒めた料理を出して一礼する。
「ヴィオちゃん、ドラゴンエールおかわり!」
「持って行きます! お代も貰っときましょうか?」
「お願い!」
酒棚から細い瓶を引っ張り出したアニスは、それを抱えてテーブルに走る。
客が財布から出した銅貨と小ミスリル貨を素早く計算し、エプロンのポケットからお釣りを出した。
なにしろ行きつけの店だったのでメニューの値段も頭に入っている。
「あの子はなんだい、あんたの娘か?」
「バカ。私、あんなおっきい子が居るように見える?」
カウンター席の常連客とヴィオレットが、感心した様子でアニスの働きぶりを見ていた。