≪1-30≫ ささやかな勝利
何か柔らかいものがアニスの頬に振れた。
「こら、朝よ」
「んー……んにー……」
フワフワと散漫にただよう意識の中で、アニスは温かく柔らかいものの存在を認識して縋り付いた。
「こーら、起きなさいちびっ子! 私はママじゃないわよ!」
「ふえ?」
先程より大きな声を掛けられて、ようやくアニスは目を覚ます。
アニスはベッドに寝ていた。
見慣れた天井板の節。ここはアニスが下宿している、ヴィオレットの店の二階の部屋だ。
格好は例の戦闘服のまま。ニーハイブーツとケープは脱がされていたので胴体しか隠れていない状態だ。
そして抱き枕のようにアニスが縋り付いていたのは、ジェシカの腕だった。
窓からは朝日が差し込み、鳥が鳴いている。
「ん? あれ? なんでここに?」
「あなた、あの後寝ちゃったのよ。覚えてないの?」
「あー……そうだった、かも……」
「私がここまで運んだんだから。
本当に子どもって、さっきまで元気だったと思っても一瞬で寝るわね。
せめてベッドまで歩いてからにしてほしかったわ」
アニスに抱き込まれた腕を振りほどき、全くしょうがないと言わんばかりにジェシカは肩をすくめた。
まだ半分寝ていた頭が徐々にはっきりしてきて、記憶が戻って来る。
確かに、座り込んだ瞬間に眠ってしまったような気がする。
いや、それはまだいい。あんまり良くないけどまだいい。
それよりも、砂糖菓子のような甘ったるい多幸感に満ちた眠りの残滓をアニスは持て余す。ジェシカの腕を抱きしめた時の不思議な安心感も。なんか信じられないくらい可愛い声を漏らしていたような気もするし。
――なんかだんだんガキの本能に侵蝕されてねーか、俺……
引き攣った笑いが頬に上る。
いい歳したおっさんの魂を年端もいかない少女の肉体に放り込んだ事例などアニスの知る限り過去に存在せず、これからどうなってしまうのか自分自身を実験台にしているような状態だ。
そのうち精神的にも少女化するのだろうか、と考えると、なかなかにぞっとしない話だった。
「よう、起きてたかアニス!」
「アニスちゃん!」
部屋の扉を開けて、普段着のバセルと、いつものエプロン姿のヴィオレットが入ってきた。
ベッドに座るアニスに駆け寄ると、ヴィオレットはそのままアニスをベッドに押し倒しつつ固く抱きしめる。
「本当に心配したんだからね! もう、無茶ばっかりして……!」
「むぐむががむごぎぎぎ」
「今まさに死ぬんじゃないの?」
窒息の危機を感じたアニスは身をよじり、ヴィオレット渾身のハグからどうにか顔だけ抜け出した。
「ぷはっ! ……えっと、今の状況は?」
「朝まで爆睡できたんだから大丈夫に決まってるでしょ。魔物はもう駆除されたわ」
「救援本隊の騎士団と補佐の冒険者が夕方には着いたんだ。後は流れ作業みてーなもんさ。
……ああ、あとなんか知らんがギルドの監査官とかってのが居たな」
「監査官?」
「支部長のこと聞かれたから、たっぷり悪口吹き込んどいたぜ」
バセルはキラリと白い歯を輝かせて親指を立てた。
「妙に早えな……既に別件でやらかしてたか?」
監査官と言えば、ギルド内部の不正や背任を調査する役目の者たち。
内部の手続きもあるのだから一朝一夕に動くものでもないはずで、アニスの報告が上がって動いたのだとしたらちょっと早すぎる。
既に監査は秒読み状態で、緊急事態に際して遅ればせながら急行させたのだろうとアニスはひとまず見当を付けた。
まあ、ちゃんとギルドがアレに対処するのであればそれは良いことだ。
「ヴィオレットさん、生存者の数は……」
「多くないわ。
私の店に避難してあなたに助けられた人たちや、ギルドの支部に避難できた人以外は、ほとんどが殺されてしまった。
……まだ皆で話しあったわけじゃないけれど、この街で暮らしていくのは苦しいと思う」
一欠片の氷を飲んだような、かつての戦いでも覚えのある胸の痛み。
ひょっとしたら自分の会った人たち以外生き残っていないのではないか……
アニスは戦いの最中、既にそう見当を付けてはいたのだけれど、当たってほしくない予想ほど当たるものだ。
街が丸ごと焼かれたわけではないからジャムレの街は形としては残っているけれど、人が減ってしまえば都市として生活を維持することは難しい。
「でも、私は助かった。あの絶望的な状況で、少なくても助かった人が居る。
それはあなたのお陰なのよ、アニスちゃん。ありがとう……」
アニスの気持ちを察したかのように、ヴィオレットは囁くような声で感謝の言葉を述べた。
ヴィオレットはアニスを抱きしめたまま、梳るように髪を撫でていた。ハードな戦いの後なので髪は埃っぽくごわついている。
「俺も俺も! 俺もっすよ!」
「もちろん、お仲間のお二人も」
「チクショウ、二人まとめてかよ!」
「幸い、生き残った中に今すぐ動かせないような人は居なかったから、昼頃からみんなルシャマトへ避難させるんだって」
「なるほど、生き残りが少ないなら向こうへ収容しちゃう方が効率良いか」
今は救援に駆けつけた騎士団や冒険者がいるので、この街は安全だろう。
だが彼らをいつまでも拘束しておくのも難しいわけで、街が独力で暮らしを立てることもできず魔物に対する防衛体制も構築できないなら、生き残った者たちも結局は難民として他の街に収容され、吸収されていくことになる。
つまりジャムレの街は消える。
もっとも、ここは突発的に近くで魔物が増えて襲撃が起こっただけで、人族の生存圏を切り取られたと言えるような状況ではないので、ダンジョン管理を復活させて移住希望者を集めれば、街を再興する望みだけは一応あるのだけれど。
「おい、ヴィオちゃんいつまで……おっ、英雄のお目覚めか!」
開けっぱなしの扉から日の出が、もとい、太陽光線を眩く反射する頭がにょっきり突き出す。
店を手伝っていたアニスも顔見知りになった『常連のハゲ』氏だ。
「どしたのよ」
「鍋が紫色の泡を吹き始めたぞ。あれどうすりゃいいんだ」
「薬草が汁出してるのよ、野菜入れて! って言うかもう私が行くわ」
「ったくよー、客に料理させる店なんて聞いた事ねえぜ!」
ハゲ氏は慌ただしく階段を降りていく。
アニスは何事ぞと視線でヴィオレットに問いかけた。
「食材も全部置いてくことになるからどうせ腐っちゃうし、全部使って料理中なの。
街のみんなにも、折角だから助けに来てくれた皆さんにもお礼として振る舞えないかなって」
「外で壊された家の残骸とか燃やして、祭用のすげーデカイ鍋っての出してんだよ」
無邪気にはしゃいだ様子でバセルも言う。
そう言えば、木材を焚き付けにするかぐわしい香りと、何かが煮えるような匂いがここまでうっすら漂っている。
漂うニオイが食い物であると認識した瞬間、アニスの腹は『ぐぎょろぉ』と酷い音で鳴った。
「もちろん、あなたの分もあるわよ」
ヴィオレットは、若干の母性を感じさせる苦笑を浮かべていた。
――そう言えばルシャマトで昨日の朝飯食ったきりじゃねーか。
しかも、この身体めっちゃくちゃ腹減るんだよな……
丸一日食事を取っていないのだと自覚した途端、耐えがたいほどの飢えをアニスは感じた。
あれだけハードな戦闘もこなしているのだから、育ち盛りの少女の肉体は限界だった。
「もうじきできるから着替えてきなさい。
そのままが良いなら別に無理強いしないけど」
「着替えます。できればこの格好で人前に出たくはないので」
ヴィオレットはヒラヒラと手を振り、飛ぶように階段を駆け下りていった。
アニスは窓から店の前を見下ろす。
戦いでメチャクチャになった店の中ではなく、がらんとしてしまった通りにテーブルと椅子が並べられて、そこに朝食を求める人々が集まり始めていた。
道の真ん中に瓦礫を積んで作られた巨大な即席竈の上に、風呂桶みたいな鍋が置かれてスープを煮立たせている。
生き残った酒を街中から掻き集めているらしい男たちが、酒瓶と酒樽を乗せた台車を牽いてきて野郎どもから歓声が上がった。朝から飲むつもりらしい。
人々の姿をアニスがじっと見ていると、肩に手が置かれた。
バセルが隣で同じ景色を見ていた。
「ま、とにかくお疲れさんだな」
「そうですね……」
アニスはバセルとジェシカの方に向き直り、それから頭を下げる。
「ベストの結果とは言えませんが、わたしは多くのものを守れました。
……わたし一人では無理でした。二人がついてきてくれたお陰です。
二人とも、ありがとうございます」
掛け値無しの気持ちだ。
実際これは命の保証の無い戦いだったのだけれど、バセルはそれを承知で、半ば流されつつジェシカも付いてきた。そして大いなる助けとなった。
そのことにアニスは言葉では言い表せないほどの感謝を感じていた。彼らは責任在る立場というわけでもないのに、アニスと共に戦ってくれたのだから。
磨り減った床の木目がアニスには見えた。
そして静かになった。
窓の外から聞こえる声が遠くも騒がしく響く。
会話の間としてはやや長い時間がそのまま流れて、二人がどんな顔をしているのか気になったアニスが頭を上げるなり、アニスはむにゃりとほっぺを掴まれた。
「うりゃ」
「へうっ?」
バセルはアニスのほっぺを無理やり吊り上げ、痛くなる前にすぐ離す。
「な、なん? ですか?」
「……ンな顔で礼すんなよ。喜べねえ」
二人とも、生ぬるく苦い表情をしていた。
今、自分は果たしてどんな顔をしていたのかと、アニスはつままれたほっぺをむにむに撫でる。
「お前は『これだけしか助けられなかった』って思ってんだろ、どうせ」
「だいたい、何の義理があって見ず知らずの他人のことで礼を言ってるの。何様よアンタ」
二人は半ば呆れた様子だった。
――何様って、そりゃ英雄様だよ。
一度は世界を救ったんだ。そんな俺が甘ったれたこと考えてたら…………
今は無力でも。
このような姿に身をやつしていても。
それでも。
「いいから早く着替えてきなさいよ、あんたが来なきゃ宴会が始まらないわ」
「んだな。面倒なことは飯を食ってから考えりゃいい。
何せ心配事の半分くらいは飯を食ってる間にどうでもよくなる。
残りの半分は酒を飲んでる間にどうでもよくなる」
「それはあんただけでしょ」
ものの喩えに『スライムを棍棒で殴ったよう』と言ったりするが、二人はさらりと話を流す。
全てを背負ったアニスの覚悟も、世迷い言めいたものであるかのように。
「ねえ、私たち、お金貰えるの?」
「まずそこかよ!」
「当たり前でしょ! こんな大変な思いしてタダ働きとかあり得ないわ!」
流石に(特にバセルは)アニスの着替えを見ているわけにもいかぬ。
二人はいつもの調子で話しながら部屋を出て行った。
独りになるなり、アニスは部屋がやたら大きくなったように感じた。
――今の俺が突っ張ったところで、ガキ一匹のきかん気か。
アニスは意味も無くベッドに身体を投げ出す。
小さな少女の身体に、大人用のベッドは大きく、世界は広い。
自由な冒険者たちは己の分を知り、背負えるものしか背負わない。
その結果を含めて受け容れるところまでが彼らの生き様だ。
もちろん冒険者だって個々の差はあるだろうが、おそらくあの二人はそうだ。
それでもジェシカはなんだかんだ言って土壇場で助けてくれたし、バセルはまたこんな戦いがあったとしてもアニスの後についてくるのだろう。
ならば世界を背負う覚悟なんて要らないのかも知れない。
全てを守り救うために、もっと強くならなければ。
――でも、まずは目の前の飯を食うか。
どうやって強くなるかは、その後で考えればいい。
戦塵にまみれた装束をアニスは脱ぎ捨て、ベッド脇のチェストからヴィオレットのお古のワンピースを引っ張り出した。
ここまでお読みくださいましてありがとうございます!
これにて第一部完結です。
他作品を書かなければならないので今後の更新予定は未定ですが、続きを書きたい気持ちはあるので本作品が書籍化するとか、他作品の馬鹿売れ・宝くじ三億円・石油王襲来などによって作者に金の心配が無くなれば続きは生えてくると思います。