8
時はしばし先戻る。
たった一人で丘の捜索に赴き、様々なことに腹を立てながら歩を進めているクリスティアの背後の影が、ふいに不気味な闇へと変貌した。
怒りの感情で頭の中がいっぱいになっているクリスティアは、背後で起きている明らかな異常に気付くことができない。やがて、彼女に付き従うかのようにぴったりと付いている影の中から、ずるりと獣の足が現れる。前足、牙を覗かせる頭部、黒々とした胴体と、少しづつその全貌を露わにしていく。
少しの音も立てずに、一匹の魔物が彼女の背後に降り立つ。黒い霞を纏った、犬のような姿。――シャドウストーカーの鋭利な爪が、クリスティアの身体を引き裂かんと鈍く光り、一息に振り下ろされた。
「…………!」
バヂン、と。突然火花が弾けるような音が、林の中に響き渡る。
「……何? 魔物!?」
火花の音でようやく背後の異常事態に気付いたクリスティアは、シャドウストーカーの存在を確認すると即座に距離を取った。外套の下に隠したレイピアをすぐさま取り出し、ぴたりと魔物に切っ先を向ける。無防備に攻撃されたはずの彼女の身体には、ひとつの傷も見当たらない。
クリスティアを魔物の攻撃から守ったのは、彼女の使う『ヴァーリィ・コート』という魔法だった。ヴァイオレット家の先祖が過去に開発した魔法であり、自らに敵意のあるものが身体に触れようとすると、自動的に電撃を発して魔法使用者の身を守る、鉄壁の防御魔法だ。
先ほどの火花の音は魔物の攻撃に反応した『ヴァーリィ・コート』が即座に電撃を放ち、シャドウストーカーを弾き飛ばした音だった。
『ヴァーリィ・コート』によって自らの命が救われたことに気付いたクリスティアは、苦々しげな表情を浮かべる。……彼女は『ヴァーリィ・コート』を使うことができるが、魔法の理論を完全に理解しているわけではなかった。
この魔法の「敵意のあるものを自動的に攻撃する」という特性は非常に曲者であり、彼女自身が一から術式を構築しようとすると、敵意のあるなしに関わらず触れるものをすべて攻撃してしまう魔法になってしまう。それゆえクリスティアが使っている術式は、過去のヴァイオレット家の誰かが作り出した術式の模倣にすぎない。他人の書いたノートを写しているようなものだった。
自分自身の力を信じているクリスティアにとって、これは屈辱以外の何物でもない。例え『ヴァーリィ・コート』が超高度な魔法であり、術式を模倣することすら並大抵の人間には不可能であり、ヴァイオレット家の歴史上、自分が最も若い年齢で『ヴァーリィ・コート』を使えるようになったのだとしても、そんなことはクリスティアにとって関係がなかった。
「なんだかわからないけども、魔物だっていうなら……容赦しない!」
不意に電撃で攻撃されて怯んでいるシャドウストーカーに向けて、八つ当たりをするようにクリスティアは攻撃魔法を発動する。流れるような術式構築・魔力捻出を経て発動した『ボルトアロウ』は、雷撃の矢となってシャドウストーカーを貫き、激しい閃光と共に魔物の身体を瞬く間に焼き尽くした。
「……何よ、魔物が出るだなんて初耳だわ。王家の管理はどうなってるの」
焼け焦げた魔物の死体を見下し、荒れた息を整えながらクリスティアはつぶやく。魔物特有の、嫌な臭気が周囲に充満していることにようやく気付く。こんなことに気付けないほど、頭に血が昇っていたのか……そう思うとさらにむかっ腹が立ちそうだったが、これ以上立てる腹もないだろうと逆に冷静になっていく。
「……かすかだけど、腐臭がまだある。魔物は、これ一匹じゃない……? だとしたら、他の生徒たちが危ないかもしれない……」
クリスティアの放った『ボルトアロウ』は、決して弱い魔法ではない。並大抵の魔物であれば、消し炭にしてしまうほど強力なものだ。だがこの魔物は、焼け焦げてはいるもののまだ原型が残っている。勇者学校の課外活動で討伐するような、貧弱な魔物ではないとクリスティアは判断した。
「……ああもう、一人で奥まで来過ぎたわ、わたしのバカ。急いで誰かしらと合流しないと……」
クリスティアはひとつ毒づくと、身を翻して今まで来た道を辿っていった。
一人林の中を突き進むクリスティアに、シャドウストーカーが次々と襲い掛かってくる。彼女が魔法を使うたびにシャドウストーカーを呼び寄せていたのだが、そんなことには気づくことなく、クリスティアは襲い来る魔物たちを怯むことなく屠り続けた。
マクスたちと共にいた騎士が、マクスたち四人の力を借りてようやく放った規模の魔法を、クリスティアは苦も無く放つ。彼が術式を構築し、魔力を捻出する時間の半分以下の速度で、クリスティアは魔法を発動することができる。ゴールドランク、そして学年一位の肩書は伊達ではない。
休憩もなしに群れ集う魔物たちをしびれさせ、燃やし尽くし、バラバラにしながらクリスティアは突き進んでいった。ようやく襲撃に一段落つき、息をつくのも束の間、異様な気配が前方から漂ってくるのを彼女は感じ取った。
「……何、この感じ。なんだか、とても邪悪な……」
背筋をぞくりと冷たいものが走る。これまでに感じたことのない気配……だというのに、それが間違いなく危険なものであるということが本能でわかる。
止まりそうになった足をなんとか動かし、恐る恐る気配のほうへとクリスティアは近づいていく。木々に隠れながら慎重に歩みを進めていったクリスティアの目にまず入ってきたものは、美しい泉の傍に折り重なるようにして倒れている、大勢の生徒と王都騎士たち。そして、
「……ッ!」
思わず息を飲むほどに、醜悪な何者かの後ろ姿。ちらりと見える後頭部だけで、それが人間でないことははっきりとわかる。黄土色の気色悪い肌、頭部に生えた奇妙な角のようなもの。ところが、立ち姿はまるで老人のようで、クリスティアには異形のものが人間のふりをしているように感じた。
異形は全身から、強大な魔力を吹き出していた。あれほどまでに邪悪で、禍々しい魔力を、クリスティアは感じたことがない。
身の毛もよだつ光景に、クリスティアは今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。今ならばまだ、あれも自分の存在に気が付いていないようだし、音を立てないよう細心の注意を払えば逃げ出すことも……と、頭の中で算段を立てていると、異形の向こうに誰かがいるのが見えた。
「……! あいつ……!」
そこにいたのは、かつてのクラスメイト。これでもかというほどの実力の差を叩きつけられ、いくら追いつこうとしても追いつくことができず、目標として定めていたにも関わらず勝手に転がり落ちていった……あの男。
彼があの異形と対峙していると分かった途端、萎えていたはずのクリスティアの闘争心が燃え上がった。
――元学年一位のあいつが、力を失っていても他の生徒たちを見捨てずに踏ん張っているというのに、現学年一位のわたしがしっぽをまいて逃げようとしている……?
そんなの、冗談じゃない……!
異形の存在が、片手を天へと向けた。やつの纏っていた禍々しい魔力が、体内へと収縮していくのを感じる。間違いなく、強力な魔法を放とうとしている……!
「させるものですか!」
クリスティアは『ボルトアロウ』を放つ。背後が完全に無防備になっていた異形の存在を、雷撃の矢が貫いた。異形のものは突然の衝撃に体を痙攣させ、やがて崩れ落ちるように膝をつく。
「あっ……えっ?」
「どうしてここに……?」
崩れ落ちた異形の存在の向こうに、女子生徒が二人いるのが見えた。あの男ばかりに目がいって、他の生徒の存在に気付かなかったのか……ということに気が付いて、クリスティアは自らの激しやすさを恥じる。ひとつ息を吐いて頭を冷静にし、ゆっくりと彼らのほうへ近づきながら言い放った。
「……明らかに邪悪な気配がしたから思わず攻撃してしまったけど、よかったのよね」
「よかったなんてものじゃないよ、いやぁ助かったぁ」
バーンが感激するように声を上げて、ミカヤとタリアも賛同するように笑顔をこぼした。マクスだけが、やれやれとばかりにふぅと息を吐く。
クリスティアはマクス達の傍まで歩いてくると、四人の様子をちらりと伺う。四人とも……いや、マクスを除く三人はだいぶくたびれた様子に見えたが、少なくとも重大な怪我などは見当たらない。
「……あなたたち、無事だったのね。黒い犬のような魔物が山のように出現していたから、もしかしたら課外活動に参加していた生徒は全滅しているんじゃないか……とまで考えていたのだけれど」
「僕たちは王都騎士の一人と一緒に行動していたから助かったんだ。かなりの数の魔物に包囲されたこともあったけど、騎士さんの魔法で魔物を倒すことができた。……ただその騎士さんも、さっきの変なやつに騙し討ちにあってしまって……」
バーンが視線を向けたほうを見ると、まるで死んだようにして地面に倒れている王都騎士がいた。こちらも怪我をした様子がなく、よく見ると薄く息をしている。
「死んではいないのね。……もしかして、倒れている他の生徒や王都騎士たちもそう? 一体何が起こっているの」
「わからない……ただ、あいつ自身が言うには、自分は魔王の眷属だとかで」
「……はぁ? 何よそれ」
クリスティアが冷たい視線を向けると、バーンは慌てたように両手を振った。
「いやいや、冗談でもなんでもないんだよ。そう思うのも仕方ないけどさ……」
「そうよ。マクスがあいつを引きずり出したときに、確かにそう言っていたもの」
「……こいつが? 引きずり出した?」
タリアの言葉に、クリスティアの表情はさらに険しくなった。眉間にしわ寄せたその表情を、自分たちの言葉が信じられないのだろうと解釈したタリアが詳しい説明を施す。もともとあいつは男子生徒の身体を乗っ取っていたこと、マクスとバーンが男子生徒を気絶させれば追い出すことができるのではと仮説を立てたこと、マクスが『ウォーターサプライ』を男子生徒に使い窒息させようとしたこと。
それを聞いたクリスティアは目を丸くしたが、
「ふーん……それで、あいつが出てきたわけ。上手くはいったのね、よかったじゃない」
「まぁ、なんとかね。とはいえその後の打つ手がなかったから、クリスティアさんがいなかったら危ないところだったんだけどさ」
「考えなしだったの? ……呆れた」
バーンとクリスティアの会話を隣で聞いていたミカヤは複雑そうな顔をしていた。バーンもクリスティアも、マクスが男子生徒の身を危険に晒したことを咎めていない。
確かに結果的には上手くいったが、男子生徒の身体に影響が残らない可能性は捨てきれない。あんなにも乱暴な方法を取らずとも、何か別の手段があるのでは……という思いが捨てきれなかった。
「……ミカ? 大丈夫?」
「え? ……ううん、大丈夫だよ。ありがとうタリア……」
思えば、タリアもマクスを強く否定してはいない。ということはタリアにとっても、マクスの行動は充分理解できるものなのだ。
(……わたしが間違ってるだけ、なのかな)
ミカヤはマクスをちらりと見る。強く当たってしまった自覚があったので、顔を合わせづらかった。
幸いなことに、マクスはミカヤがいる位置とはまったく別方向を見ていた。何かを注意深くじっと見つめている。
「…………?」
妙に真剣な様子でマクスが視線を注いでいたため、気になったミカヤもつられるように視線を動かす。
「……えっ」
雷撃の矢に貫かれ、地面に崩れ落ちたはずの異形が蠢いていた。全身を強力な電撃で焼かれ、体中から小さく黒煙が湧きたっているが、それでも間違いなく、デパルは生きている。
ミカヤの上げた声に気付いた他の三人も、デパルに視線を向けると皆一様に目を見開く。
「……嘘でしょ?『ボルトアロウ』を直撃させても生きているなんて……」
犬のような魔物も原型を留めてはいたが、全てを一撃で仕留めることはできた。だからこそ、自分の『ボルトアロウ』を食らってもまだ死なない存在がいるとは、クリスティアはにわかに信じられなかった。
デパルはゆっくりと身体を起こすと、ぎろりとクリスティアのほうを睨む。
「ぐ、ぐ、ぐ……。よもや、二度も不覚をもらうとは……! 我が魔王に申し訳が立たぬ……」
「……何よ、まだやる気があるってこと? だったらいくらでもお見舞いしてやるけど」
「……いや、引かせて貰おう。ここまで集めた生贄たちを手放すのは口惜しいが……すべてを失っては元も子もない」
にたりと不気味に笑うデパルに、クリスティアはレイピアの切っ先をぴたりと向ける。
「そこまで言われて、逃がすとでも思っているのかしら。残念だけど、わたしはそんなに甘くないし、弱くもないわよ」
「ふん、逃げられるとも。……簡単にな!」
吐き捨てるように言ったデパルの腹部が、急激にボコリと膨らむ。何らかの攻撃が来るかと身構えたクリスティアに向かい、デパルは口から紫色の煙を大量に吐き出した。一瞬にして目の前が煙に包まれ、デパルの姿が視界から消える。
「煙幕!? 古典的な……!」
苛ついたように声を荒げ、煙を走って抜けようとするクリスティアだったが、
「触れるな! 魔法で作り出された煙だぞ!」
初めて聞いたマクスの大声に踏みとどまる。
「王都騎士が、奴の波動を一度食らっただけでああなったんだ。この煙にも何らかの効果が付与されている可能性がある」
「……そうね、だったら」
クリスティアは風属性の基礎魔法『ウィンドブロウ』を発動させ、煙幕を丁寧に排除していく。倒れている生徒や騎士たちに触れないように煙幕を処理し終えたころには、デパルの姿は消えていた。
「……はぁ、逃がしたかしら。……いや」
先ほどまでデパルのいた場所を注意深く観察すると、踏み荒らされている地面があることにクリスティアは気付いた。おそらくはデパルの足跡……どうやら丘の奥側、森のほうへと走って逃げたようだった。
「無駄かもしれないけど、放置する手はないわね……」
クリスティアはひとつ息を吐く。
「わたしはあいつを追うわ。あなたたちは、倒れてる人たちの様子を見てやって」
「そんな、一人じゃ……」
心配そうな声を出したミカヤに、クリスティアは鼻を鳴らす。
「大丈夫よ、深追いはしないし。それに一人のほうが動きやすいから」
そう言うやいなや、クリスティアは駆けだした。華奢な体躯からは信じられないほどの速度で、林の中を突っ切っていく。あっけに取られたかのように、残された四人はクリスティアの背中を見送った。
クリスティアの背中が見えなくなると、今まで黙り込んでいたマクスが一歩踏み出した。
「俺も行こう」
「えっ? どうしたんだいマクス」
「念のため、だ。おそらく心配はないだろうが、万が一ということもある」
「……そうね、騎士さんは不意打ちでやられてしまったんだし、あれがまた卑怯な手を使わないとも限らない。もしかしたら、一旦引いたことすら罠なのかもしれないし……」
タリアの言葉にマクスは頷く。クリスティアの向かった先を見つめたマクスに、ミカヤは声をかけた。
「……マクス君、その……」
……呼び止めたはいいが、言葉が出てこない。ミカヤ自身、なぜ呼び止めたのかわからなかった。ただ、自然と声が出てしまっていた。
口を噤んでしまったミカヤを、マクスはじっと待ち続けた。
「……気を付けて、ください」
「……無理はしない。様子を見てくるだけだ」
そう返したマクスは、一直線に丘の奥へと駆けて行った。瞬く間にマクスの姿は見えなくなった。
「……ミカ、本当にどうしたの?」
困惑した様子のタリアからの問いかけに、ミカヤは深くため息をついた。
「本当に、どうしたんだろうね……わたし」
クリスティアは走る。魔力を捻出して体中に通しているので、息切れすることもない。地面に残されたわずかな足跡を頼りに、木々の間を駆け抜けていく。
「いたわね……!」
五分もたたないうちに、クリスティアはデパルの姿を見つけた。焦げたローブを身に着けたまま、老人のような姿からは想像できない身軽さで逃げ続けている。
「待ちなさい!」
クリスティアは今一度足に力を入れ、走る速度を上げた。デパルが手負いの身だからか、あっさりとクリスティアは追いつき、再度レイピアを抜いてデパルに突き付けた。
「あんな子供だましの方法で、本気で逃げられるとでも思ったのかしら。残念だけれど、あなたはここで終わりよ。魔王の眷属だとか法螺を吹いていたみたいだけど、魔物の類には違いないんでしょう? それならば生かしておく理由はないわ」
「……舐めるなよ、子供が」
追い詰められたはずのデパルに、焦る様子はなかった。ぎょろりと目玉を剥くと、憎悪の籠った視線でクリスティアを射抜く。様子がおかしいことに気が付いたクリスティアは、半歩だけ下がって身構えた。
「……あのままおとなしくしていれば、命を落とさずに済んだものを……愚かな娘だ」
「なんですって? 命が惜しくて尻尾を巻いて逃げておいて、そんな強がりをまだ……」
「ふん、命が惜しいだと? あの程度の魔法しか使えない娘を、誰が恐れるというのだ」
デパルの発言に、クリスティアは眉をひそめた。確かに『ボルトアロウ』一発では仕留めることはできなかったが、あれ以上食らいたくなかったからこそ、撤退したのではなかったのか。
クリスティアの動揺を笑うかのように、デパルは喉の奥をくつくつと鳴らす。
「わたしがあの場から引いたのは、生贄を無駄にしたくなかったからだ。魔王に捧げる生贄を殺してしまっては意味がないからな」
「……殺すですって? わたしの魔法を食らって、ボロボロになったあなたに一体何ができると……」
デパルは堪えきれなくなったのか、大声を上げてクリスティアを嗤う。
「あの程度の魔法で、本当にわたしが瀕死になったと? 思いあがるのも大概にしろ、今は力を抑えているからこのような貧弱な姿なのだ」
「力を、抑えて……?」
「その通り。わたしが真の力を開放すれば、一度の攻撃であの場にいた人間すべてを吹き飛ばしていた……。それでは生贄の命も奪ってしまうため、仕方なく撤退したのだ。人が死ぬと、人間たちは警戒心を強めてしまう。それは避けたいところだった」
「生贄……?」
デパルの口元が、にたりと嫌らしく歪む。
「その通り。魔王を復活させるための生贄として、勇者を育てているという機関に所属している子供たちを、魔物を使い攫っていたのだ。勇者の血を引いているという者が所有するというこの丘で、勇者となる子供たちを生贄に魔王を復活させる……。そうなれば、世界を覆う絶望はより強力なものとなる! ……ふん、どの子供も勇者を名乗ることすらおこがましいような、貧弱な者たちばかりだったので、数を集める必要ができたことは失策だったがな」
勇者学校生徒の行方不明、これも目の前にいる奴の仕業だったのかとクリスティアは身を固くする。
「だがしかし、そやつらを探しに活きのいい生贄たちが向こうからやってきてくれたのは嬉しい誤算だった。そのうちの一人、いや二人にあらかたの魔物を消し飛ばされはしたが……魔物などいくら消されたところで問題はない。一息に生贄が集まり、わたしは狂喜したものだ。しかし……」
デパルがぎょろりと、目を見開く。
「……魔物を消し飛ばすだけでは飽き足らず、貴様は魔王復活そのものを台無しにしてくれたな。そんな小生意気な小娘だけは、許せぬよなぁ」
デパルの全身から、猛烈な勢いで魔力が吹き出した。
圧倒的な量の魔力放出は衝撃波となり、デパルを中心に爆発が起こったかのように周囲の木々を吹き飛ばしていく。
「な……ッ!」
クリスティアは咄嗟に風の魔法『エアロ・ブラスト』を発動させ、衝撃波を相殺する。直撃することだけは避けたものの完全に相殺することはできず、余波の勢いで退かざるを得なかった。あまりの暴風に目を開けていることすら叶わず、クリスティアは両腕で顔面を隠して耐える。
「なんて強力な……! これは一体……!?」
荒れ狂う衝撃波が収まり、降ろした腕の先に見えたものは、
「――なによ、これ」
クリスティアの身長の、三倍近くありそうな巨体。
巨体を支える四つの足は大木のように太く、後方に伸びる尾は軽く振るうだけで簡単に木々を真っ二つにした。
ぎょろりと大きな目玉、ざらざらとした鱗上の肌……一見、伝説の存在として語られるドラゴンのようにも見える。
だがその実、クリスティアの目の前に現れたのは、巨大なトカゲの化け物だった。
「……この姿に戻れるほどの魔力を取り戻すだけでも、果てしない時間を耐えねばならなかった。魔王が眷属の一人、デパルの真の姿を拝めたこと、誇るがよい」
トカゲの喉の奥から、響くような低い声が聞こえてくる。雷のように鳴り響いたその声を聞いただけで、クリスティアは震えあがった。
「……ふん、圧倒的な力を前に、言葉を失ったか。だがこれで終わりではない。力を抑えた状態だったとはいえ、わたしに一撃を加えたのだ……その罪を償って貰おうではないか。しかし、安心するがいい……わたしは弱者をいたぶる趣味はない」
ぎょろりと目玉を回し、デパルはクリスティアを見据える。
「一瞬で、消し飛ばしてやろう」
ふいに、クリスティアは足元に違和感を覚えた。慌てて顔を下に向けると、両足に黒い影のようなものが這って、クリスティアを地面に縫い付けている。いくら力を加えても全く動かすことができず、クリスティアの額にぶわりと冷や汗が浮かび上がる。
もがくクリスティアを見て、デパルは呵々と笑う。四つ足で巨体をゆっくりと動かし、クリスティアを真正面に見据えると、口をがぱりと開けた。
もしや飲み込まれるのかと嫌な想像をしたクリスティアだったが、さらに絶望的な現実に全身から力が抜ける。デパルの口の前に、邪悪な魔力が集中しているのだ。複雑な幾何学模様を描きながら展開される魔力はやがて一つの円となり、陣の完成と共により強大な力を生み出していく。クリスティアの知る魔法とは、まったく違う理で放たれようとしている魔法に、クリスティアはただ震えることしかできない。
「……さらばだ、自らの力を過信する愚かな娘よ」
デパルの言葉と共に、魔力の陣が最大級の光を放った。太陽の光よりも眩しい魔力は爆発的な勢いでクリスティアに迫る。
「…………あ」
クリスティアは何もしない……できない。自分の力でどうにかできるものではないことを、彼女は本能的に理解していた。
ただただ呆然と、目が眩みそうな光を見つめ続けることしかできなかった――。
「二人はどうして……マクス君を止めなかったんですか?」
クリスティアとマクスが去り、重なって倒れている生徒たちを助け起こして地面に横たえながら、ミカヤはバーンとタリアに問う。二人は手を止めて、神妙な顔つきでミカヤを見返す。ミカヤは首を動かして、横たわっている男子生徒を見ていた。
「マクス君が『ウォーターサプライ』を使って、彼からあのデパルという人を引きずり出したときです。……マクス君は、いい人です。わたしのことをいつも助けてくれるし、わたしが植物の話を長々と話してしまったときも、耳を傾けてくれました。それは危険な目に遭いそうな時にも変わらなくて……実際マクス君がいなかったら、わたしはこの丘で生き延びることができたかわかりません……」
今目の前にいる、昏睡した人々。その中に自分が加わっていることを、ミカヤは容易に想像できる。何もできないブロンズランクである自分は、ただマクスの傍にいただけ……運の良さだけで助かったようなものだ。
「しかも、魔法の使い方もとても上手です。基礎魔法しか使えないブロンズランクであっても、わたしにはマクス君がゴールドランクの生徒に見えました。その上、タリアにも認められるほど剣も強くて……マクス君が戦っている姿を見ていると、心がときめくんです……」
バーンの心臓がどきりと鳴る。これは、もしや。そういうことだろうか。
「……ああ、わたしもこんな風になってみたいって」
バーンがこっそり肩をガクリと下げたことに、気付いた者は誰もいなかった。
「だから、マクス君があんなに乱暴に彼を助けようとしたとき、すごく驚いたんです。マクス君がこんなことするはずない……でも、マクス君は冗談じゃなく、本気で彼を殺そうとしているように見えた――。それで思わず、大声でマクス君を止めようとしたんです」
「ミカヤさん、マクスは別に彼のことを殺そうとしたわけじゃ……」
「そうですね……。でも、もしかしたら何かの間違いで、命を落としてしまう可能性もありませんか? 命を落とさないまでも、何か後遺症が残るとか……そういう可能性はありませんか」
「それは……否定しないけど」
ミカヤは自嘲するように、項垂れながら悲しげに笑う。
「わたし、人のことを勝手に決めつけて、勝手に失望してしまう癖があるのかもしれません。実はタリアのことでも、マクス君に相談したの。タリアがマクス君に斬りかかったことが、どうしてもわたしの中で納得できなかったから……」
タリアは目を見開く。ミカヤがそんなことに思い悩んでいたことにも、そのことを相談するほどにマクスを信頼していたことにも驚いた。
「そのときに決めたの、一人で考え込んでないで、わからないことははっきり聞いてしまおうって。だから二人に聞きます……どうしてマクス君は、人の命がかかっていたのにあんなに平然としていられたの? そしてそのとき、どうして二人は止めようとはしなかったの?」
真剣な目で問われた二人は、目を交わす。やがてタリアが厳しい視線をミカヤに向けた。
「わたしは……わたしがマクスの立場だとしたら、同じことをすると思ったからよ」
ミカヤは胸を打たれたような顔をしたが、かまわずタリアは続ける。
「ミカ……あなたが優しいのは知ってる。だからあの……あなたをいじめていた男子生徒すら助けてあげたいとミカが考えるのも、わたしは理解できているつもり。でも、だからといってそれを実行できるかと問われれば、わたしはいいえと答えるわ。わたしは剣の腕だけは自身があるつもりだけど、剣で救える命は限られてる。わたしたちの命とあの男子の命を天秤にかければ、どうしても彼を見捨てる以外の選択肢はなくなる」
「そういうことだね」
バーンが皮肉気な笑みを浮かべながら言う。
「命の価値は平等だという。男も女も、貴族もそうでない者もね。けれどそれは建前で、各個人にはどうしようもないほどはっきりとした命の基準があるはずだ。僕は他の人よりも自分が大事だと思ってるし、きっと皆そうだろう。それはマクスも同じで……」
バーンは自分を指さし、続いてタリアとミカヤを指した。
「マクスにとって、僕たちの命の価値はそこの彼より高いのさ。僕らが危険に晒されるくらいなら、マクスは彼を危険に晒す。そういう判断をマクスが迷うことは、無い」
まぁ本当は、ミカヤさんの命のほうが僕らより上なんだろうけど……とバーンは内心で笑った。
「ただミカヤさんに勘違いして欲しくないのは、マクスは彼を苦しめることに何も感じないほど……人を守るために感情を捨てられるほど、完璧な人間じゃないってことさ」
ミカヤははっとする。自分はマクスに憧れるあまり、どこか雲の上の存在のようにマクスのことを感じていてはいなかっただろうか。……彼もまた、自分と同い年の男の子なのに。
バーンは振り返るように空を仰いだ。相変わらずの曇天が広がっている空を、バーンはただ眺める。
「確かに、ミカヤさんはマクスのことを高く評価しすぎかもね。僕に言わせれば、マクスなんてそれほど特別なやつじゃない。いつも冷静そうに見えるけど、単に楽しいお喋りが苦手だから黙りこくってるだけさ。確かに魔法は上手いし剣も強いけど、弱点だって多くある。マクスの尊厳に関わるから、僕の口からは言えないけどね。ただそうだな……マクスは隠し事もするし、案外姑息なところもある、とだけは言っておこうかな」
「姑息な……?」
マクスがこそこそと何かを隠したり、その場しのぎの手段を取っている姿を想像ができず、ミカヤは首をかしげた。困惑したようなミカヤを、バーンは笑う。
「普段は見せないように頑張っているけどね、マクスも男ってことさ。……そんな、僕から言わせれば普通の男子と変わらないマクスが、人の命を奪うことに対して何も思わないわけがないんだよ。いつも無表情を張り付けているやつだから、なかなか気づかせてくれないけどね」
「そう……そうなんだ」
「そうさ。……でも、マクスが頼りになるという点では、ミカヤさんの評は当たっているよ」
ミカヤの不安を消し飛ばすように、バーンが親指をぐっと立てた。
「マクスとはまだほんの少ししか付き合いがない仲だけど、それでも数えきれないほどマクスには助けられてきた。マクスが僕の期待を裏切ったことは、一度だって無い。だからさ、マクスを信じてあげて欲しいんだ。僕たちがマクスを信じているかぎり、絶対に期待を裏切らないからさ!」
微笑んだミカヤを見て、バーンは心の中で言葉を続ける。
――特に、君の期待にはね……!
激しい光が炸裂する中で、クリスティアが見ていたのは一人の背中だった。
デパルの放った光線がクリスティアに到達する直前、彼女の視界を遮るように人影が割り込んできた。外套をはためかせている人影は両掌を前方に突き出し、迫りくる光線を遮るようにする。
光線が両掌に触れた瞬間、再度衝撃が迫りくる。
光線が立ちふさがった人影を吹き飛ばし、自らを飲み込むだろうと覚悟し目を瞑りそうになったクリスティアだったが、いくら時が経とうと光が自分に到達しないことに気づいた。――彼の突き出した両掌で、魔力の光線は掻き消えている。
彼は荒れ狂う衝撃を受けても微動だにしない。
ただ黒い髪と黒い外套だけが、風に煽られ暴れていた。
やがて、光の爆発は収まった。クリスティアが周囲を見回すと、嵐が過ぎ去ったかのように森の木々が折れて倒れていた。地に生えた野草はちぎれ飛び、地面はめくれあがっている。……しかし彼の後方、クリスティアの周囲だけは、何事もなかったかのように野草が風に揺れていた。
「……何をした」
デパルがくぐもった唸り声を上げる。クリスティアには、震えているように聞こえた。
「一体何をしたのだ、貴様ッ!」
マクス・ローウェルは、前方に突き出していた両手を下げる。顔を下げて自らの身なりを確かめると、服や外套を両手でパタパタとはたき、付着した土ぼこりを落とす。その後黒髪もはたき終えると、くるりと後ろを振り返った。
「……間に合ったか」
マクスがふいと、宙を薙ぐように右手を払った。
途端に、クリスティアを地面に拘束していた黒い影が消え去った。自由を束縛され、しゃがみ込むことすらできなかった両足が唐突に解放され、クリスティアは力を失ったかのようにへたりと座り込む。
「何者なのだ、貴様は……! 今の一撃、並の威力の魔法では相殺することすらできないはずだ。いや、これは相殺などではない……! 貴様がやったのは……!」
怒り狂ったようにデパルが吠える。耳にびりびりと響く咆哮にクリスティアが顔をしかめると、マクスは眉をほんの少しだけ動かして不快げな無表情を作り出し、くるりとデパルに振り向いた。
「ああそうだよ、消し去っただけだ。……少し大人しくしててくれ」
マクスはそう言うと、人差し指をデパルに向ける。
「消し去るだと!? そんな馬鹿な事がッ……!?」
デパルが驚愕と共に上げた咆哮が、不自然に打ち切られる。クリスティアが顔を動かしてマクスの向こう側を見ると、デパルは何故か口をぱくりと閉じ、がたがたと震えている。……まるで口を紐で縛られ、なんとかこじ開けようともがいているかのように。
「大丈夫か?」
マクスは地面にへたり込んだクリスティアに手を伸ばす。目の前で起こる信じがたい出来事の連続に放心していたクリスティアは、彼への複雑な感情も忘れ、素直に手を握った。
「え、ええ……ありがとう」
マクスにぐいと引き上げられ、クリスティアは立ち上がる。マクスに怪我の有無を聞かれ身体を改めたが、かすり傷ひとつ負っていなかった。
「問題ないようだな」
「ええ、そうね……大丈夫」
極限状態から解放され、脅威であるはずのデパルは何故か身動きが取れなくなっている。じわじわと自分が安全な状況にあるということを実感し始めると、クリスティアは少しずつ冷静さを取り戻していく。
「……一体、あれは何なの?」
「あれ、とは?」
「今ここで起こっている全て、と言いたいところだけど。まず、あのトカゲの化け物よ」
「先ほどの敵が変化した姿のようだな。デパルと言っていたか。自称、魔王の眷属だとか」
「それは聞いたわ。……まさか本当に、昔話の存在じゃないでしょうね?」
「さあな。それは確かめようもないが、ものすごい力を持っているのは確かなようだ。打ち消した光線も、相当な魔力量だった」
「それが、二つ目よ」
クリスティアはびしりとマクスを指さす。
「……何がブロンズランクよ、何が魔法を使えなくなった、よ! この大嘘つき! あなた、今でも魔法を使えるんじゃない、しかも尋常じゃない程強力な魔法をね! 相当の魔力量ですって? それを打ち消したあなたの魔法は一体なんなのよ!」
激しく問い詰めるクリスティアにたじろぐこともなく、マクスは答えた。
「俺にもわからない。俺がそうしたいと思ったら、できるだけだから」
クリスティアは開いた口が塞がらなくなった。
そんな話があるわけがない。やりたいと思ったことを全てできるだなんて、それはもう魔法ではない。魔法とはあくまで、理論化された技術なのだから。それは、いわば――。
「……まあ、どうでもいいだろうそんなことは」
「どうでもいいわけないでしょう! あなたの魔法の秘密が解明されれば、どれほど魔法技術が発展するか……」
「……今はあれをどうにかするのが先だ。違うか?」
マクスがくいと親指を向けた先にいるものを見て、クリスティアは口を閉ざした。巨大なトカゲの化け物へと変貌したデパル……今はマクスが抑えつけているようだが、放置したままというわけにはいかない。
「お前、あれを倒せるか」
マクスに問われ、クリスティアは悔しそうにくしゃりと顔を歪ませる。
「……無理よ。情けない話だけど、わたしの最高火力を叩きつけたところで、あいつを倒せる気がしないわ……。そもそも、どうしたら倒すことができるのかもわからないもの。あんな規格外の力、わたしは初めて見たわ。魔王の眷属という話も、あながち出鱈目な話ではないのかもしれないわね……。だとしたらあいつを倒すことができるのは……勇者と同等の力を持つ者だけよ」
「…………」
クリスティアの言葉を聞いて、マクスは黙り込んでしまった。さすがのこの男でも困ることはあるのかと、こんな状況にも関わらず安堵してしまったクリスティアだが、唐突に切り出してきたマクスの発言に今度は自分が困惑する羽目になった。
「謝らなければいけないことがある」
「……は? 何よ突然……謝られる理由が思いつかないけど」
「名前を憶えていなかったことだ」
ああ、そのこと……と、クリスティアは拍子抜けした。確かに忘れられていたことには憤ったが、冷静に考えればマクスと自分は特別親しかったわけでもないし、こちらが勝手にライバル視していただけでマクス側に罪はない。わざわざ今謝られるようなことではなかった。
「気にしないで……わたしも態度が悪かったわ、気を使わせたかしらね」
「それでも、すまない。……人の名前を忘れるというのは、失礼なことだと言われたからな」
ぴくり、とクリスティアの眉が動く。
「……言われた? 誰に」
「ミカヤさんにだ」
「誰よ、それ」
「さっきいた、女子の一人だが」
「背の高いほう?」
「低いほう」
……あのいかにも気弱そうな小動物感溢れる女子に、この男が叱られた? 自分の中のイメージと目の前のマクスの姿があまりにも乖離している気がして、クリスティアの頭の中はさらなる混迷を極める。
そんなクリスティアの様子には気にも留めず、マクスはさらに切り出す。
「それと、もうひとつ謝らなければいけないことがある」
「何を……」
言いかけて、クリスティアは口を噤んだ。
別に、マクスの様子が特別おかしくなったわけではない。いつもどおりの無表情に、いつもどおりの闇色の瞳だ。
だが明らかに……マクスが纏う空気が、いつもと違う。まるでマクスの周囲だけが歪んでいるかのような錯覚をクリスティアは覚える。クリスティアはふと何故か、子供の頃に父親に叱られたときのことを思い出した。物静かな父親が激怒し、無言のまま威圧感のみでクリスティアを黙らせたことがある。そのときの父親の威圧感を、何十倍も圧縮したような空気がマクスの周囲を覆っているようだった。それゆえ、クリスティアは口を噤んだのだった。
その圧の正体が、マクスから発せられている魔力だということにクリスティアが気付くのに時間はかからなかった。すぐ傍にマクスが立っていたため見えなかったが、マクスが背を向けてデパルのほうへ歩き出すと、彼から湯気のように魔力が吹き出している様子がありありと見て取れた。
「クリスティア……今からお前に見せるのは、まだ誰にも見せたことのない俺の秘密だ。ミカヤさんやタリアはもちろん、バーンにだって見せたことはない。これが初めてだ」
耳に届くマクスの声を、クリスティアはぼんやりと聞いていた。まるで夢の中にいるような感覚……それほどまでに、目の前の光景は現実離れしているように見えた。
マクスは人差し指を天に向ける。つられて空を見上げたクリスティアの目に飛び込んできたのは、空を覆っている曇天が、意思を持ったかのように蠢いている様子。
天候を、操作している――――?
現在のロクスベルゼ王国内に、自在の空を晴れさせたり、狙った地に雨を降らせることのできる者はいない。現在と言わず、過去に遡ってもそれほどまでの実力者はいない。
ただ一人……伝説となっている勇者を除いては。
「こんな……こんなことが」
雲は次第に厚みを増していく。薄く揺らいでいた灰色の雲が徐々に色を濃くしていき、黒雲として形作られていく。時折、黒雲の中で光が爆ぜる――雷が、落ちようとしている。
「トカゲの化け物……お前が何者なのかは知らないし興味もあまりないが、ここで始末させてもらう。放置しておくとまた厄介な出来事を起こしそうだし、それに……」
マクスはすいと、指を振り下ろした。
「あの子に魔物をけしかけたことだけは、断じて許さん」
天から光が降り注いだ。
デパルを飲み込んだ稲光は、雷と呼ぶにはあまりにも強大すぎるものだった。
デパルの放った光線すら霞むほどの眩い光が、轟音を鳴らしながらデパルの巨大な全身を焼き尽くす。クリスティアは眩しさで目が焼かれてしまうような気がして、ぎゅっと瞼を抑えつけた。それでもなお、強烈な光は瞼の裏で暴れ続けていた。
荒れ狂う光の洪水は、ものの数秒で収まった。
クリスティアが目を開けると、雷を打ち下ろした黒雲は消え去っていて、鮮やかな青空が広がっていた。視線を下すと、目の前には更地が広がっている。魔法によって身動きが取れなくなっていたデパルは辞世の句すら残すこともできず、無言のまま肌を焼かれ、肉を崩された。
クリスティアが震えあがるほどの存在だったデパルは……一瞬で、跡形もなく消え去っていた。
目の前に立つ少年――マクスの手によって。
「は、はは……。こんな、こんなの……」
クリスティアの口元に、わけもわからず笑いが漏れる。
……勝てないはずだ、そもそも勝負にすらなっていなかったんだから。
常識の中で己を磨いている自分に対して、彼は既に常識を超えたところにいた。彼が自分のことを覚えていないのも当然だ。一位と二位の間に、どれほど長大な差があったというのだろう。勝手にライバル視して悔しがっていることすらも、滑稽な姿だったに違いない。……例え彼がそう思っていなくとも、知ってしまった以上そう思わざるを得ないのだ。
へたり込んでいるクリスティアに、振り返ったマクスが手を差し伸べてきた。その段階でようやく、クリスティアは頬を涙が伝っていることに気付き、慌てて拭った。
何を言えばいいのかわからない。感謝の言葉? ねぎらいの言葉? どれも違うような気がする。身の程も知らずに敵対視していたことに謝罪でもするべきだろうか。だって知らなかったのだ、これほどまでに力の差があることを。知ってさえいれば、そんな態度を取るはずもないのに……。
――そういえば、なぜ彼はわたしに力を見せてくれたのだろう?
彼がわたしに謝りたいこととは、一体……?
「あいつは、お前が倒した」
「……え?」
マクスがぽつりと呟いた言葉が理解できずに、クリスティアは首をかしげる。雷の轟音で耳がおかしくなったのかと疑い、耳元で音を鳴らしてみるが、特に聞こえづらいわけではない。
「えっと……ごめん、なんて言ったの?」
「お前が、あいつを倒したんだ。そういうことにしてもらいたい」
「……何を言っているの? まさかとは思うけれど、わたしに手柄を譲りたいわけじゃないでしょうね」
「端的に言えば、そういうことになる。もし俺があの化け物を倒したのだと知れたら、おそらく勇者学校は俺をゴールドランクに返り咲かせるだろう。だが、俺はゴールドに戻りたいわけじゃない。できればこのまま、ブロンズランクのままで居たいんだ。だから代わりに、ゴールドランクのお前が倒したことにして欲しい」
麻痺しかかっていたクリスティアの頭に、じんわりとマクスの発した台詞の内容が染みわたっていく。染みわたっていくにつれて、クリスティアはだんだんと頭に血が昇っていくのを感じていた。
「……ふざけないで。理屈はわかったけど、意味が分からないわ。確かにわたしがあの化け物を倒したと言えば、きっと皆納得するでしょうね。あいつの規格外の力を知っているのはわたしとあなただけ、そもそもあいつの存在を知っているのだって、わたしとあなたの友達だけなんだから。このまま帰ってあなたの友達にそう伝えれば、きっとあの子たちは疑わない。……でも、あの魔法は? 天候を操る魔法だなんて、わたしは使えないわ。もしそのことを誰かに聞かれれば、あっという間に嘘がバレる」
少しずつ口調が強まっていくクリスティアの事を、マクスは無表情のまま見つめている。こちらが怒っているというのに表情を一切変えないのにまた腹が立って、クリスティアの語気はどんどん強くなっていく。
「そもそも、わたしがあなたの嘘に協力するとでも思っているの? ただでさえ、嘘をついてブロンズランクにいったあなたには腹が立っていたのに! あなたが使う魔法の秘密が解明されれば、どれほど国の発展に繋がるか! 力を持つ者には義務が伴うものよ。単なる我が儘で義務から逃れようだなんて、そんなことは許されないし、わたしも許す気はないわ。諦めて、真実を語ることね」
一息に言い終えたクリスティアは、マクスの返事を待つ。顔色を伺うが、やはり感情が動いたような様子はない。
それどころか、マクスの漆黒の瞳がさらに深い闇を帯びたように見え、クリスティアは背筋を震わせる。それは、デパルの真の姿を目にした時の恐怖に似ていた。
――強大な力を持つという点で言えば、デパルもマクスもそれほど違いはない。
「どちらも、問題ない」
マクスが静かに語りだす。重々しい物言いに、クリスティアはびくりと肩を震わせた。
「あの魔法は、お前が無我夢中で放った。強力な魔物を前にして、限界を超えた力を発揮したんだ。その反動で、お前は魔法を使った時の記憶が欠落してしまった。だから、他人にいくら詮索されようが覚えていないものを答えることができないし、あの魔法が再現できないのは、極限状態だったから再現しようがないと言うほかないんだ」
クリスティアは困惑した。マクスが語る内容は、まるで拙い物語のようだ。嘘には協力しないと言った自分にそんな話をして、一体どうしようというのだろうか?
「さらに、俺がここにいたということも知らない。俺がここに来た時には既にお前は魔物を倒した後で、気絶したお前を背負って俺は皆の元に帰る。だからお前は、俺が魔法を使えることも知らないままだ」
「ちょっと、さっきから何を……」
「――そういう、ことにする」
ぞわりと、恐怖がクリスティアの全身を駆け巡った。
恐怖を湧き立たせたのは、とある閃き。確かマクスは、自身の魔法について問いただされたときにこう言った……『俺がそうしたいと思ったら、できる』と。
では……もしも。『他人の記憶を作り替える』ことすらできるとしたら……!
自分にとって都合の悪い人間の記憶を消し、辻褄が合う記憶を上書きする。何かを隠匿するのにこれほど強力な手段はない。そんな魔法があるなどクリスティアは聞いたこともないが、やろうと思えばできると言ったのはマクス自身だ。今までも散々常識外れの力を見せつけてきたのだ、できると言われても何も不思議じゃない……!
思わず、クリスティアは身を引いていた。抵抗など無意味だと分かっていても、そうせざるにはいられない。マクスの右手が、クリスティアの頭に迫る――。
バヂリと。火花が弾ける音がした。クリスティアの『ヴァーリィ・コート』が発動したのだ。クリスティアの身を守る、鉄壁の防御魔法。『ヴァーリィ・コート』は、マクスのことを「クリスティアに敵意のあるもの」として認識したのだ。
マクスは電撃によって弾かれた右手を軽く振り、少しだけ眉をひそめる。
「……防御魔法か。解くぞ」
マクスがクリスティアの目の前で、宙を薙ぐように右手を振る。その手の動きは、まるでクリスティアにかけられた透明なヴェールを剥がすように見えた。
「…………嘘」
マクスの右手の動きと共に、自身にかけていた『ヴァーリィ・コート』が消失したことをクリスティアは感じ取った。
使用者自らが解かない限り消えることはなく、触れようとする悪意あるものを悉く弾き飛ばす鉄壁の魔法は……マクスの何気ない手の動きだけで、あっけなく消え去った。
守るもののなくなったクリスティアの頭に、マクスの掌がぽんと置かれる。
「謝って、許して貰えるとは思わない。情けないことも、卑怯で卑劣だってこともわかってる。……でも俺にとっては、これが一番大事なことなんだ」
ブロンズランクでいることの何が大事なのか、クリスティアにはわからなかった。
マクスがブロンズランクにいることで、何か得たものがあるのだろうか? 失ったもののほうが多いはずだ。煩わしい授業に参加し、今まで下に見ていたシルバーランクには馬鹿にされる。同じブロンズランクの生徒と肩を寄せ合いながら、慎ましく学校生活を送ることになるだけなのに。
同じ、ブロンズランクの生徒――。
クリスティアの頭に、何故か一人の少女の姿が思い浮かんだ。
「だから、何らかの形で借りは返すと約束する。その時にお前は何も覚えていないだろうけど……必ずだ。だから今は……すまない」
ふぅっ……と、クリスティアは心地よい眠気に襲われた。今まで感じていた恐怖を、怒りを、悲哀を……あらゆる感情全てを溶かし、飲み込んでしまいそうなほど、強烈な眠気。抗うことなど一切できず、クリスティアの瞼は下がり、目の前が暗闇に包まれた。
クリスティアは不思議な夢を見ていた。
果てしなく続く暗闇の中を、クリスティアはわけもわからず走り続けていた。理由もなく手足を動かし続けることの苦痛に耐えられなくなり、クリスティアの足が止まりそうになる。
その時、誰かの背中が見えた。暗闇の中にポツンと現れた背中が嬉しくて、クリスティアは再び遮二無二走りだす。そうして、あと少しで背中を掴めそうになるところまで追いついた。
だが、クリスティアが背中を掴むことはできなかった。
クリスティアが速度を緩めているわけでもないのに、追いかける背中が遠ざかっていく。どれだけ手足を動かしても、二人の距離が縮まることはない。それどころか、どんどん遠くへ離れていく。
それが悔しくて、悲しくて、クリスティアはいつの間にか涙を流していた。子供のように泣きじゃくり、癇癪を起こして叫び声を上げた。
それでも、誰かが振り返ることはなかった。
背中を向けたまま、暗闇の彼方へと消えていった――。