7
シャドウストーカー。――影に潜み、自在に姿を変化させることのできる魔物。
本来の姿は犬のようなシルエットだが、狙う獲物によって自身の体を様々な形に変えて襲い掛かる。変化できる姿は多岐にわたり、千差万別、どんな姿にでも変化できるとまで言われている。ただし、変えることができるのはあくまでもシルエットのみであり、どんな姿であっても全身が黒い霧のようなもので包まれているのは変わらない。そして鋭い牙と爪だけは、どの姿であっても露わになる。
彼らは普段、影の中に潜んでいる。木陰でも、物陰でも、人陰でも……影であればどのような場所でも、まるで水の中に潜るかのようにとぷりと音もなく沈み込む。いくつもの影を渡り歩き、獲物を見つけるとひっそりと獲物の影に潜み、獲物がひとりになったところを狙って襲い掛かる。シャドウストーカーが姿を現すとき、彼らが潜んでいた影は闇のように黒く染まるという。
数週間前、彼らは王都に潜んでいた。薄暗い路地裏や人通りの少ない場所から、建物や人の影を渡り歩き、獲物を虎視眈々と探し回っていた。そして獲物――肩を落としながら一人寂しく歩いている、勇者学校の生徒を見つけ出すと、生徒が誰の目からも見られていない一瞬の隙を狙って襲い掛かり、影の中へと連れ込んでいた――。
シャドウストーカーがまた一匹、林の影の中から姿を現す。
滑り出るように、音もなく地面の影から飛び出した犬型の魔物は、四つ足で地面を蹴る。一直線に狙うは、三人の中で一番弱そうな獲物。
「ほらっ、バーン! またそっちに来てるわよ!」
「うわわっ!」
黒い魔物がまっすぐにこちらへ向かってきているのを見て、バーンは悲鳴を上げた。一応剣を構えてはいるが、まったく様になっていない。
バーンをかばうように、タリアが一歩前に出る。魔物は前に出てきたタリアに目標を変え、尖った爪で八つ裂きにしようと前足を勢いよく振り下ろした。
「はぁっ!」
タリアは両手で持った剣をすくい上げるように振り、魔物の前足を弾き飛ばした。両手に力を込めて剣を握りなおすと、渾身の力を込めて袈裟斬りに魔物を叩き斬る。
「これなら……!」
タリアの刃は完全に魔物を両断したかのように見えた。だが、
「……これでも駄目? どれだけ体力があるのよ……!」
魔物は叫び声を上げ、タリアから距離を取った。動きを止めるような様子はなく、再びタリアたちに襲い掛かろうと様子を伺っている。
「助かった……ごめんタリア、ありがとう」
「どういたしまして! ほら、さっさと構えを取る! 次が来るわよ!」
「二人とも! 離れすぎるな! お互いをかばいあえる距離を保つんだ!」
油断なく剣を構えた騎士が声を張り上げた。バーンとタリアは慌てて騎士の元に戻り、お互い背中を合わせるようにして周囲を警戒する。
彼らの周囲を、数多くの魔物が取り囲んでいた。少し見渡しただけでも五匹以上、林の中に潜んでいるのか、姿が見えないだけで、気配だけならさらにいるようだった。犬のような姿で、全身を黒い霧のようなものが覆っている。牙と爪だけを剥き出しにして、いかに三人を引き裂こうかと舌なめずりをしていた。
「クソッ、なんなんだこいつらは。こんな魔物、今まで見たことがない」
「ちょっとバーン、あなた物知りなんでしょう。何か知らないの?」
「あいにく魔物のことは専門外なんだ、悪いね。伝説の勇者の時代にいた魔物だったりして」
「……笑えない冗談だわ!」
バーンたち三人はマクスとミカヤの二人組と別れた後、予定通り丘の捜索を開始した。二人が騎士にあれこれと質問をしながら林の中を進み、もうしばらくしたら奥の森に差し掛かりそうだという位置まで来たとき、騎士が異変に気付いた。
周囲に腐臭が充満している。魔物との戦闘経験がある騎士の反応は早く、即座に腰の剣を抜き放った。あっけに取られている二人の背後に魔物が現れたことを悟ると、剣の一振りで追い払い、距離が離れたところで魔法を撃ち込み、撃退することに成功した。
ひとつの危機が去り安心するのもつかの間、三人は魔物が人や獣に姿を変えながら息絶えたのを見て息を飲む。これが丘で目撃された人影の正体だったのか。それならば、丘にはまだ複数の魔物が存在しているはず……。
ミカが危ない、と叫んだのはタリアだった。とにかく別れた二人と合流しなければと丘の中央を目指しているとき、再度魔物に襲われた。しかも今度は複数で、その上戦っている間に次々と数が増えていく。気が付くと、三人は多くの魔物たちに包囲されていたのだった。
「まずいな……このままの調子で増え続けたりしたら、さすがに耐えきれないぞ」
「なんとか数を減らさなきゃ……魔法でなんとかならないんですか?」
「さっきからそうしようとしてるんだが……」
騎士は思わず舌打ちする。
最初に倒した一匹の体力から考えて、自分が使える最大の魔法を撃ち込めば周囲の魔物は一掃することができるはずだ。早い段階からそのことに気付いていた騎士は、何度も魔法を使おうとした。
だが騎士が魔法を使うために精神を研ぎ澄ますたびに、なぜか魔物たちの攻撃は騎士に集中する。タリアたちに襲い掛かろうとしていた魔物までもが、途中で向きを変え騎士に飛び掛かってくるのだ。一斉に襲い掛かる魔物たちを必死に追い払っているうちに、集中力が途切れて魔法が撃てない。そんなことをさっきから何度も繰り返していた。
「魔法を使おうとするものを優先して攻撃する魔物……? 馬鹿な」
そんな魔物は聞いたことがない。そもそも、どのようにして魔法を使おうとしていることを察知しているのだろう。術式構築か魔力捻出に反応しているとでも言うのだろうか。
「……ありえん」
騎士は再び、魔物たちを一掃せんと精神を集中し、最大火力の魔法を使おうとする。
「……ぐっ、やはりダメか!」
騎士は咄嗟に術式を切り替える。遠目で様子を伺っていたはずの魔物たちまでもが一斉に騎士のほうへと向かってきたのを見て、すぐに発動できる簡単な術式の魔法へと切り替えたのだ。
放たれたのは、騎士が初めに使おうとしていたものよりも大幅に火力の落ちる魔法。風の刃がどこからともなく現れ、魔物たちを切り刻んでいく。だがやはり、決定打にはなっておらず、魔法に切り裂かれた魔物たちは叫び声を上げるものの、再び距離を取って三人の様子を伺いだした。……未だ、一匹たりとも討伐には至っていない。
(せめてもう一人、戦力がいれば……)
騎士はちらりと、二人の生徒を見る。
少年……バーンはどう考えても争いごとに慣れていない様子だ。本人自身もそう告げていたし、そもそも騎士でも目指していない限り、勇者学校の生徒であっても戦いに慣れている生徒というのは少ない。加えてブロンズランクであれば、彼が戦力にならないのは仕方のないことだった。
少女……タリアのほうは騎士を目指しているというだけあって、剣筋と立ち回りには目を見張るものがあった。彼女がこれほどまでに強くなければ、三人のうち誰かはとっくに大怪我を負うか、もしくは命を落としていただろう。探索を開始した当初は二人まとめて守ってやるつもりだった騎士にとって、これは嬉しい誤算だった。魔法が使えなくとも、彼女は自らの培った実力だけで魔物たちに立ち向かうことができていた。
だが、タリア一人だけでは足りない。この場を打開する唯一の方法は、騎士が強力な魔法で周囲の魔物をまとめて一掃することのみ。魔物たちが魔法使用者を狙うことが分かった今、騎士が魔法を使えるようになるまで誰かに時間を稼いでもらう必要があるのだが、その任を二人に背負わせるのは、少々荷が重すぎる。
(何か突破口となるものはないか……、うっ!?)
なんとかこの戦力で時間を稼ぐ方法はないか……と考えこんでいた騎士の虚を突くかのように、一匹の魔物が騎士に向かって襲い掛かってきた。反応が遅れた騎士は攻撃こそ剣で防いだものの、大きく体をよろめかせ、地面に倒れこんでしまう。
「……! 騎士さん、大丈夫……」
「だ、駄目だ! 後ろだ!」
騎士の倒れた音に振り向いて隙を見せてしまったバーンに、魔物が飛び掛かった。
倒れこんでいる騎士はどれだけ早く動いても撃退は間に合わず、タリアも騎士に気を取られて反応が遅れてしまったのか、かばうことは不可能。――騎士の頭の中に、血に塗れたバーンのイメージがよぎった。
「……なっ?」
だが、実際に血を……体液をまき散らしたのは、魔物のほうだった。
魔物の背中に、一本のショートソードが突き刺さった。突如飛来したそれは、頼りない刀身からは想像できないほどの威力でもって魔物の体を深く貫いた。
さらに追い打ちをかけるように、魔物に向かって黒い影が飛び掛かる。
「…………マクス!」
外套をはためかせながら疾風のように飛び込んできたマクスは、魔物に突き刺さったショートソードを掴み、何かを探るように乱雑に、ぐりぐりと魔物の体をえぐった。腐臭と体液をまき散らしながら、暴れる魔物をえぐり続けていると、やがて魔物が甲高い叫び声を上げた。同時に次々とシルエットを変化させていき、最後に地面に倒れ伏せながら絶命した。
「弱点を突いたのか? 一体どうやって……」
魔物の体内には弱点という、文字通り急所の部分が必ずあると言われている。弱点はいわば魔物にとっての心臓や核のようなもので、それを正確に攻撃することで魔物の体に甚大な被害を与えることができる。……とはいえ強力な魔法で薙ぎ払えば弱点ごと魔物を葬ることができるし、近年ロクスベルゼ王国内に出現した魔物は弱点など気にしなくとも倒せるような雑魚ばかりであったため、弱点を意識して戦う者は少なかった。
魔物の死体から離れたマクスは、周囲の魔物に睨みをきかせながら遠くで見守っていたミカヤを手招きした。息を切らしながら駆け込んできたミカヤを、マクスはバーンとタリアの傍へとエスコートする。
「ミカ! 無事だったのね……よかった」
「うん……タリアも無事でよかった」
喜色を顔中に溢れさせたタリアは再度剣を強く握り直し、周囲への警戒を強める。マクスが一匹減らしたとはいえ、まだ魔物は目を光らせながら自分たちを狙っている。
「マクス……あなたを信じてよかったわ。ありがとう、ミカを守ってくれて」
「……頼まれたからな。それより、状況はどうなってる」
地面から立ち上がり、剣を構えなおした騎士にマクスは問うた。
「……どうもこうも、見ての通りとしか言えん。魔物に包囲され、脱する手段がなかった。……よく突破してこちらまで来られたな?」
「なぜだか知らないが、魔物たちはそちらに夢中になっていたみたいだったから。隙だらけだったんだ」
おそらく、魔法を使おうとした騎士に反応していたのだ。一人納得するように、騎士は頷く。
「そうか。しかし、弱点がわかっているのか。それならば話は違ってくるぞ……どこがやつらの弱点なんだ?」
騎士は期待を込めてマクスに問いかけたが、対するマクスはそっけない様子だ。
「動物で言えば心臓のあたりだが、若干ずれていて教えるのが難しい。俺は一度貫いているからなんとなくわかるが、見ての通り体中を黒い霧で覆ってるような魔物だから、一目でわかる目印のようなものもない。……素直に魔法でやってしまったほうが早いと思うが」
「……そうしたいのはやまやまだが。こいつら、魔法を使おうとする人間を優先的に襲ってくるらしいんだ。おかげでデカい魔法を使おうとしても、魔法が完成する前に邪魔されちまって全然うまくいかん。君たちが包囲を抜けてきたときに魔物が隙だらけだったのも、魔法を使おうとした俺に気を取られていたからだろう。……まったく、こんな魔物は初めてだ」
騎士の言葉を聞いて、ミカヤは首をかしげた。マクスから聞いた話だと、魔物という生き物は頭があまりよくないらしい。だが、強力な魔法を使おうとする人間を優先的に狙うというのは、知性を感じる行動に思えてならなかった。
ミカヤがマクスの顔色を窺うと、マクスも若干訝しげに眉をひそめていた。しかし深く考え込むようなことはせず、すぐさま騎士との会話に戻る。
「……となると、魔法を使えるまでの間、あなたを守る必要があるということか」
「話が早くて助かるよ。タリアと君……マクスか? 二人いれば充分時間を稼げると見たがどうだい。……君たちを守るはずの俺が守られなきゃならないってのは、なんとも情けない話だがね」
「どの程度時間を稼げばいい」
「五秒もいらん。どうだ?」
マクスがタリアに目配せをすると、タリアは頷きを返してきた。そのことを確認すると、今度は自分自身が騎士に向かって頷いた。
「バーン。魔法が発動するまでの五秒間、ミカヤさんを頼めるか」
「……戦いには自信ないんだけど。まあ、体を張って盾になるくらいはするさ」
「そんな事態にはならないように努力する。……ミカヤさん、さっき俺が教えたことをやってみる気はないか」
ミカヤははっとしてマクスを見た。教えられたこと……『クリエイト』を使って魔物を翻弄する方法。あれができるのであれば、剣を使えないミカヤであっても、多少は時間を稼ぐことができるかもしれない。
「……でも、わたしじゃあ」
「できるさ。……俺にもできるんだから」
マクスはそう言って、くいと自分の胸元を引っ張って見せた。そこに光っているのは、ブロンズ色のバッジ……ミカヤの胸元についているのと同じもの。
確かに『クリエイト』ならば、ミカヤにも使える。マクスが見せてくれたような落とし穴を作った経験はないが、単純な構造の落とし穴ならば作れないとは思えない。ただ、魔物相手に……戦いの最中で魔法を使ったことがないだけだ。
――本当にわたしにも、できるだろうか……?
「大丈夫だ。ミカヤさんは俺の見立てでは、少なくともバーンよりは魔法が上手い」
「あ、酷いなマクス。間違いないだろうけど」
学校にいるときのような二人の軽口に、ミカヤは思わず吹き出してしまった。魔物に囲まれた危機的状況だというのに、どうしてこんなにも普段通りでいられるのだろう?
「……やります。やってみます」
成功する自信はない。なにせ、自分で自分が信用できていないのだから。
でも彼が……マクスが大丈夫だと言ってくれるなら――!
「……決意は固まったかな、少年少女。合図したら魔法の準備に入る。ほんの数秒でいい、なんとか持ちこたえてくれれば、必ず魔物を一掃してみせる! 三、二、一、……行くぞ!」
騎士は掛け声を上げると、自身が扱える最強魔法の術式を体内に構築していく。この戦いだけで幾度となく挑戦し、そのたび邪魔をされてきた。だが今回こそは完成させてみせる……!
騎士の術式構築開始と同時に、魔物たちが動き出した。標的はやはり、魔法を使おうとしている騎士に集中している。周囲に散らばる魔物たちがこぞって体の向きを変え、地面を蹴って駆けだした。
「……はぁっ!」
騎士の掛け声と同時に一匹の魔物に狙いを定めていたミカヤは、その魔物が走り出さんと足を曲げたのを見計らって『クリエイト』を発動させた。
術式構築には秒もかかっていない。『クリエイト』の術式の構築であれば、ミカヤは精神を集中させるまでもなくできる。
――学校の授業に、周りの生徒についていくことができず絶望するたびに、本当に魔法を使う才能があるのか確認するかのように、家では基礎魔法ばかり何度も繰り返し発動させていた。発動させることができて安心するのもつかの間、今度はその魔法の頼りなさに落胆した。基礎魔法ばかり上手になっていく自分自身に、失望した。
――こんな小さな奇跡で、一体何ができるというの……?
「……やった!」
その小さな奇跡は、いま間違いなく自分たちの命をつなぐ力となっている。
地面に空いた穴に足を取られ、もがきながらうめく魔物を見て、ミカヤは歓声を上げた。
「……上出来」
ミカヤの魔法が成功したことを横目でちらりと確認したマクスは、同様に『クリエイト』を発動させる。複数の位置へ――マクスからは見えないはずの背後を含む全方向だ――同時に穴を作り出し、遠目の距離にいた魔物を根こそぎ足止めにしたマクスは、最も近い位置にいた魔物に近づき、剣を突き出した。
(やはり、より強力な魔法を使おうとする人間を狙うか……)
魔物はマクスではなく、魔法を使おうとしている騎士に牙を向いている。マクスのことは眼中にないのかと思われるほど隙だらけになっている魔物の弱点を、マクスはショートソードで正確に突く。これでもう三度目だ、寸分の狂いもなくマクスの攻撃は弱点を貫いた。騎士の最強魔法が完成するまでもなく、一匹の魔物は息絶えた。
「……っ、はぁぁ……!」
騎士の合図と同時に、タリアは静かに息を吸い込み、重く強く吐き出した。
鍛錬のたびに使っている、精神集中のための呼吸。これをするのとしないのとで、体の動きがまるで違ってくる。
……武術や体術であれば、こんなにも簡単に体は言うことを聞いてくれるのに、とタリアは疑問に思うことがある。――タリアは術式を構築することが、極端に苦手だった。
精神が研ぎ澄まされ、澄み切った頭で状況を見る。稼ぐ時間は数秒でいい、その短い時間のうちに騎士にたどり着きそうな魔物は……自分の視界からは二匹だけ。ほかの魔物はマクスがなんとかしてくれると信じて、この二匹さえ足止めすれば、騎士の魔法が発動するはず……!
(だったら……!)
タリアは握っていた剣を捨てた。自由になった両手で握り拳を作ると、構えを取りながら一匹の魔物に向かって肉薄する。その速度は、魔物たちが騎士へと飛び掛かる速度よりも速かった。
「はぁぁぁぁぁぁッ!」
魔物の懐へと踏み込んだタリアは、渾身の力を込めて魔物の脇腹を蹴り飛ばした。
「……ええっ?」
すぐ傍で見ていたバーンは、蹴り飛ばされた魔物が重みが無くなったかのように勢いよく吹き飛んでいった光景を見て、思わず間の抜けた声を上げる。吹き飛ばされた魔物はもう一匹の魔物へとぶつかり、その魔物も巻き込んで地面へと倒れ伏した。
「……魔物を蹴り飛ばす人なんて、初めて見たよ」
「だが、おかげで時間は稼げたな。行くぞ! 巻き込まれるなよ!」
マクスたちの稼いだ数秒間で、術式構築と魔力捻出を終わらせた騎士が叫ぶ。マクスたちは身を寄せ合うようにして、できるだけ騎士の傍へと固まった。
騎士が両手を体の前へとかざすと、周囲に暴風が吹き荒れた。
逆巻く風は刃と化し、まるで生きているかのように魔物だけを狙い、黒い体を切り刻んでいく。魔物に邪魔をされたときに咄嗟に使った魔法とは、まるで威力の違うこの魔法――『ストリィ・ボーグ』は、黒い霧に包まれた魔物たちの体を、弱点ごとなます斬りにしていく。
風は騎士たちを包囲している魔物を切り刻むだけでは収まらず、林の中を縫うようにして吹き抜けていく。林の中に潜み、じわりじわりと包囲を狭めていた魔物たちは、突如吹き荒れた風によって悲鳴を上げる暇もなく細切れにされていく。
やがて暴風が収まるころには、周囲はかつて魔物であった残骸だけが、点々と散らばっていた。
吹きすさぶ風で魔物特有の腐臭も吹き飛び、さわやかな空気が辺りを包んでいた。
「お、終わったんですか……?」
ミカヤが恐る恐る問いかける。きょろきょろと辺りを見渡しても、もう黒い影は一切見当たらない。
「ああ、これでもう安心だ。……時間を稼いでくれて助かったよ。ありがとう」
騎士はマクスとタリアに礼を言うと、手に持っていた剣を鞘に納める。
騎士に続いて、マクスとタリアも装備を収めていく。ようやく戦闘が終わったことを実感したミカヤとバーンは、力が抜けたかのようにその場に座り込むのだった。
「二人とも、大したもんだ。動きに迷いがないし、武器にもしっかり魔力を通している。今年騎士団に入った新人よりも、もしかしたら優秀かもしれないな」
マクスとタリアを褒めたたえながら、騎士は地面にへたり込んでいるバーンに手を貸す。同じく座り込んでいたミカヤも、タリアに腕を引かれてようやく立ち上がった。
「えっと……魔力を通すって?」
「魔力捻出の副作用みたいなものよ。魔法が術式構築と魔力捻出で発動されることは、ミカなら当然知っているわよね。じゃあ、どちらか片方だけをすると?」
そんなことは考えたこともなかったミカヤは首をかしげる。
「術式は構築したところで特に意味を為さないわ。けれど、魔力は捻出して体中に行き渡らせると、本人の身体能力が上がるのよ」
へぇ、とミカヤは意外そうな声を上げて驚く。何度も魔力を捻出したことがあるにも関わらず、自身の身体が実は強化されていたという話は、実感があまり湧かなかった。
「……まあ、普通は魔法を発動させるほうに魔力を回すからね。術式を構築せずに魔力だけを捻出する経験がなければ、はっきりと身体能力の向上を感じたことはないかもしれないわ。でも効果は間違いなくあって、王国の騎士であれば戦闘の際は必ず用いているし、わたしだってそう。……たぶん、マクスもやっているはずよ」
タリアの言葉に、マクスはこくりとうなずいた。
「……わたしが以前、大勢の男子生徒たちを投げ飛ばしたっていうのも、実はそういう仕掛け。あれはわたしが強すぎたんじゃなくて、魔力を体に行き渡らせているのといないのとで差があっただけなの。男子生徒たちも同様に魔力を行き渡らせていれば、一方的にわたしが勝つようなことにはならなかったでしょうけど……運動するときや戦うときに魔力を捻出するのが習慣づいている生徒なんて、そうそういないから」
「そうだったんだ……」
「もちろん、多少は武芸の心得の差はあったんだろうけど。……それで、武器に魔力を通すっていうのは、魔力捻出における能力の向上を、武器にも適用させる技術のこと。身体に魔力を行き渡らせるのと同じ仕組みで武器に魔力を通すことで、その武器が強化されるのよ」
ミカヤはようやく合点がいった。マクスの持つショートソードが見た目よりも強力かつ頑丈に見えたのは、気のせいなどではなくマクスがショートソードに魔力を通していたからだったのだ。
タリアの解説に、何も言うことはないと騎士は頷く。
「魔法を習得することが目的の勇者学校では、武器に魔力を通す技術なんて教えないだろうからな。……何せ魔法を使えさえすれば、身体能力を向上させる意味などない。一発撃って、それで終わりだ。……さて、それはともかく、これからの話だ」
いつになく真面目な表情の騎士に、四人も顔を引き締める。
「俺たちが倒したこの黒い魔物……こいつがおそらく、目撃証言にあった人影の正体だろう。正直ガセネタだろうと思っていたが、残念ながら真実となってしまったわけだ。こうなると、もう課外活動だとか言っている場合じゃない。君たちが命じられたのは行方不明になった生徒たちの捜索で、王家の丘に現れた魔物の討伐ではないからな。ここから先は騎士の仕事であり、関係のない君たちには危険なこの場所から、今すぐ退避することを勧めたいところだ。だが……」
「……退避しようにも、もはや安全に丘から出ることすら難しいでしょ」
呆れたように言うバーンに、騎士は苦々しげに頷いた。
「そういうことだ。相当数の魔物を倒したと思うが、あれで全部かどうかはまだわからない。加えて、だいぶ前から丘の中に人の気配を感じられない。俺以外にも王都騎士が来ているはずだが、戦闘音は聞こえてこない。……となると、騎士たちが魔物たちにやられてしまった可能性もなくはない」
そんな、とミカヤは小さく悲鳴を上げた。
「騎士たちが無事でないなら、戦うことに慣れていないであろう生徒たちが無事である道理はない。……王家の管理する丘なのだから安全な場所だろうと過信して、自由行動にしてしまったのが仇になった。これは問題になるだろうな……」
「はいはい、後処理のことは助かってから考えてよ。まずは僕たちがどうするかでしょ」
「ま、そうだ。……俺としては、君たちの命が最優先だ。ほかの生徒たちを見捨てる形になってしまうが、君たちだけでも連れて丘から出ようと思う。あとどれだけ魔物が潜んでいるかは分からないが、五人いればさっきみたく戦うこともできるから、丘を出るまではなんとかなるだろう。丘を出たら急いで王都へと戻り、騎士団を率いて生徒並びに騎士たちを救出する……どうだ」
それしかないか、とタリアやバーンが納得する中、ミカヤがポツリと呟いた。
「あの……騎士団が救出に来るまで、どれくらい時間がかかるんですか?」
「……早ければ、明日。あるいはもっとかかるかもしれん。騎士団を動かすというのは、それなりに手間がかかるものだからな……」
「その間、助けを待っている人たちは……」
騎士は答えなかった。騎士の言いたいことを察して、ミカヤはうつむく。……騎士を含む自分たち五人が、たった数秒間を耐えぬくだけでも必死だったのに、一晩を生徒たちだけで耐えられるわけがない。残される生徒たちは、おそらく……。
「ミカ……」
「うん、タリア……わかってる」
これは我が儘だ。だから口にすることは許されない。
できれば他の皆を救いたい、だなんて……考えるだけでもおこがましい。ミカヤは自分一人では、自分の身すら守れないのだ。
同時に、「この五人ならば助けられるかも」とつい考えてしまう自分に嫌悪した。五人といえば聞こえはいいが、実際のところミカヤは他の皆におんぶに抱っこの状態だ。自分以外の四人を危険に晒す権利など、ミカヤにあろうはずもない。
マクスに助けられ、マクスの戦う姿を見て、勇者学校生の名に恥じない生き方をしようと新たに決意を固めた。だが、現状がまだ単なる力不足のブロンズランクであることは変わりない。自分の非力さが悔しくて、ミカヤは両手をぎゅっと握る。
「……まあ、まだ全員が襲われたと決まったわけじゃない。途中に助けを求める生徒がいれば、当然保護して連れて帰るさ。ただ、情けない話だが、俺一人の力では君たちを守るだけで精一杯……いや、魔物が複数現れればそれさえも危ういくらいなんだ。他の生徒を見捨てたくない気持ちはわかるが、ここは理解してくれ」
「……はい」
自己嫌悪に苛まれ、うつむきながら返事をするミカヤをマクスは見つめる。何か声をかけるべきなのか、かけるとしたらどのような言葉がいいのか……マクスにはわからなかった。
――彼らの耳に、つんざくような悲鳴が聞こえてきたのは、その時だった。
聞こえてきた悲鳴は男の声だった。騎士のものか生徒のものかは判別がつかなかったが、助けを求めていることだけははっきりと分かる声色だった。
聞こえてきた方角は丘の中央側、丘からの脱出を考えると反対方向だ。はじめ動くことを躊躇う様子だった皆だったが、
「行こう」
珍しく力強く言ったマクスの一言で決意を固め、五人は丘の中央部分へ向かって走り出した。
しばらく走り続けると、木々の少ない開けた場所へとたどり着いた。ぽっかりと穴が開いたように、曇り空が顔を覗かせている。空の下にあるのは、澄み切った水を湛えた泉。――まさに丘の中心部だ。
そこで彼らを待っていたものは、
「ああっ!」
「うっ」
泉の脇に重なるようにして倒れている、大勢の生徒と王都騎士たちの姿だった。
地面にぐったりと倒れている彼らは、まるで死んでいるかのようにぴくりとも動かない。魔物に殺されたのかとミカヤは最悪の事態を想像したが、不思議なことに外傷のある人物は見渡した限り見つけられず、周囲には血の匂いも、死臭もしなかった。
折り重なって倒れている人々の間に一人だけ、頭を抱えて座り込んでいる男子生徒がいた。おそらく彼が、先ほどの悲鳴を上げた張本人なのだろう。
「あの人……?」
ミカヤ、そしてタリアにも見覚えのある人物だった。いつだったか、学校の中庭でミカヤに向かって魔法を放とうとしていた男子生徒、そのうちの一人。今回の課外活動が行われるきっかけとなった人物。――行方不明となっていた、貴族の息子だった。
「なんてこった、行方不明になっていた奴らまで見つかるとはな。それにしても、倒れている皆はどうしたんだ、魔物にやられたのか……?」
異様な光景に騎士は剣を抜き、周囲を警戒する。剣を鞘から抜き放った音でようやくこちらに気付いたのか、男子生徒は頭を上げた。
「た、助けて! 助けてくれ!」
「落ち着け。今からそっちに行くから……」
「ま、魔物が! 魔物がいるんだ! 魔物に無理やりここまで連れてこられたんだ! いつまた襲い掛かってくるかわからない! 早く助けて……!」
男子生徒はパニックを起こしているようだった。絶え間なく涙と鼻水をたらし、枯れそうな声で叫び続けている。尋常でない様子の男子生徒を少しでも落ち着かせようと、騎士は足早に彼に近づく。
「大丈夫だ、魔物がいることはわかってる。黒い、影から出てくる魔物だろう? それなら、俺たちは倒したことだってある。いざとなれば俺が魔法で、何匹来ようとも倒してみせるさ。だからまずは落ち着いて……」
「――――待て!」
突然辺りに響いた怒鳴り声の主がマクスだと気が付いたのは、バーンだけだった。
マクスが声を荒げるところを初めて聞いた他の三人は、声の主は誰なのかと、一瞬男子生徒から意識を外してしまう。
――その一瞬をつくかのように、男子生徒の手から魔法が放たれた。
「ぐおっ……!?」
男子生徒から放たれた紫紺の波動は、すぐ傍まで寄ってきていた騎士を飲み込んだ。突然のことに防御することもできなかった騎士は、魔法の波動を全身で受け、後方へ弾き飛ばされた。
「騎士さん!」
受け身を取ることもせず地面に倒れこんでしまった騎士に、タリアとミカヤがすぐさま駆け寄る。
「あっ!?」
「えっ……」
二人は思わず絶句する。
騎士の顔は青ざめ、もはや蒼白と言っていいほどだ。……まるで死んでいるかのように。
「そ、そんな、嘘……」
魔法の直撃で死んでしまったのだろうか。彼は仮にも王国を守る王都騎士、強さは折り紙付きのはずだ。それがこんなにも、簡単に……?
「ま、マクス君……。騎士さんが……!」
ミカヤは震える声でマクスを呼ぶ。近寄ってきたマクスは倒れこんだ騎士の顔を覗き込むと、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「まだ死んでいない」
「えっ……? どうしてわかるんですか」
「……息をしてる」
マクスが指さした騎士の口元を改めて見ると、確かに呼吸をしているのが確認できた。自分たちが早とちりしていたことに気付いたミカヤとタリアは、安心と恥ずかしさでふうと息をつく。
だがよく見ると、騎士の呼吸はごく薄い。二人が気が付かないのも不思議ではないほどの、今にも途切れてしまいそうな頼りない呼吸だった。
「まだ死んではいないが、いつまでもそうとは言えない。どうやら体内の魔力が枯渇しているらしい。大方、あの紫色の魔法の効果が敵の魔力を吸い取る効果なんだろう。……長時間放置このまま放置してしまうと、何らかの悪影響が出るのは間違いないだろう」
「魔力が枯渇って……それこそどうして、そんなことがわかるのよ?」
タリアのもっともな問いかけにマクスが口をつぐむと、
「マクスは他人の術式や、魔力の動きを見ることができるのさ。特殊な才能ってやつ」
代わりにバーンが答えを明らかにした。見るからに胡散臭そうな表情をしたタリアだが、そんなことよりとバーンが指を指した方向を見て顔を引き締める。
「あの男子生徒のほうが問題だろう?」
「た、助けてくれ!」
男子生徒は変わらず助けを求め続けていた。騎士を攻撃しておいて変わる様子のない男子生徒の態度に、タリアが憤る。
「何を言っているのよ! 自分が何をしたのかわかってるの?」
「違うんだ! 何かが、俺の体の中にいるんだよ! 俺に近づくやつを勝手に攻撃して、攻撃されたやつらはみんなこんな風に倒れこんでしまうんだ! 頼む、信じてくれよ! 助けてくれ!」
男子生徒の表情は、必死そのものだった。ひたすらに助けを求める声にも、いつ何が起こるかわからない恐怖に怯える目にも、タリアは欺瞞を感じ取ることができない。では、この男子生徒の言う通り、得体のしれない何かが彼に乗り移って、近寄る敵を片端から攻撃し続けているのだろうか……? だとしたら、彼は単なる被害者だ。
「もう、どうすればいいのよ……!」
思わずタリアは悪態をつく。
頼りになる騎士が気を失ってしまい、自分たちの身を守るのが精いっぱいの危険な状態だというのに、今度は何者かに体を乗っ取られた男子生徒が現れ助けてくれと言う。正直な話、自分には荷が重すぎると投げ出したくなるような状況だが、とはいえ彼を目の前にして見捨てるというのは信条に反する。……だが彼を助けようにも、近づく人間は無条件に攻撃されてしまうわけで……。
だんだんと難しい顔になっていくタリアの肩が、優しく叩かれる。
「そんなに頭を悩ませる必要はないよ、タリア」
「……バーン。そうは言うけど、もし彼が本当に危険な状態だというのなら、見捨てるわけには……」
「ああ、大丈夫大丈夫」
いつになく気安い調子で、バーンは困惑するタリアに言い放つ。
「彼は嘘つきさ、間違いなくね」
バーン・ブラウリーは勇者学校入学後、同学年の生徒たちから「こいつはブロンズランクで間違いない」と最も早く悟られていた生徒だった。
基本四属性である火、水、風、土の基礎魔法ですら入学当初の実力から一向に上達する気配がなく、魔法に関する造詣も深くなく、また戦闘技術に関しても優れた点は見当たらない。そして何より、本人に実力向上の意欲が見られなかった。
入学当初は整った外見と笑みを絶やさない態度で声をかけられることがあったものの、彼の実力が明らかになるにつれ、だんだんと孤立するようになっていった。現在の勇者学校において、魔法の実力以上に重視されるものはない。いくら体裁がよかろうと、魔法を碌に使えない生徒と仲良くしようとする物好きはいなかった。
しかし、孤立をするようになっても、彼の柔和な笑みは崩れなかった。次第にそのことについて陰口を叩かれるようになり、時折面と向かって言われるような事態も起こったが、それでも彼の笑顔は崩れなかった。
――彼は、孤立することに慣れていた。
それは、基礎魔法すら碌に使えない、戦うことすらまともにできない彼が唯一持つ『魔法』の力によって、常に孤独の淵に立たされていたからだ。
「ぐおっ……!?」
男子生徒から予告なく放たれた紫紺の波動に、騎士が吹き飛ばされる。力なく倒れこんだ騎士に女子二人が駆け寄り、小さく悲鳴を上げた。
「これは……一体」
バーンには、目の前で何が起こったのかさっぱりわからなかった。助けを求めていたはずの男子生徒……しかも前情報によると、授業をサボりがちだったという不良生徒が、王都騎士団に所属する騎士を一撃で倒してしまった。なぜそんな力を持っているのか、そもそもなぜそんなことをしたのか……何一つとして理解が及ばない。
「バーン」
混乱する彼に声をかけたのは、マクスだった。顔を向けると、マクスは深い闇色の瞳でこちらを覗き込んでいる。やがて、くいと顎を動かし、折り重なった生徒や王都騎士の中に座り込んでいる男子生徒のほうを指した。
「! ……了解、任せて」
バーンはマクスの言わんとすることをすぐに悟ると、自らを孤独に追いやった、半年ほど前までは忌み嫌っていた魔法を起動する。
魔力を捻出すると同時に、体内に刻まれた術式が動き出すことがわかる。やがて、聞こえるはずのない声が聞こえてきた。
(フフフ……騎士といってもやはりこの程度。残るは子供が四人、これならば造作もない)
その声は、怯えた表情で座り込んでいる男子生徒のほうから聞こえてくる。だが、男子生徒は震えながら歯をかちかちと鳴らすばかりで、喋ってなどいない。さらに、不穏な言葉が聞こえてきたというのに、ミカヤやタリア、マクスでさえも反応する様子がない。
(さて、子供四人ならばどうとでもなるが……下手に抵抗されても面倒だ、同じ手で行くとしようか)
マクスたちが反応しないのも当然だ。――バーンが聞いているのは、心の声だった。
バーンの体内には、一つの巨大な術式が刻まれている。術式は本来、魔法を使うたびに構築しては、使い終えると同時に消えるものであり、常に体内に術式が刻まれているということはあり得ないものだった。
しかし、バーンは体内に術式が刻み込まれている状態で生を受けた。彼の意識とは関係なしに刻み込まれていた術式は、彼がいくら望もうと消えることはない。さらに、予め巨大な術式が体内に存在していることが影響しているのか、バーンは他の魔法の術式構築が満足にできない体だった。
バーンに許された唯一の強力な魔法――体内の術式が司っていた魔法は、他人の心の声を聞くことができるというものだった。生まれつき人の心の声を聞くことができたバーンは、それが当然のことだと勘違いをしていくつもの問題を抱えてきた。結果、彼は孤独を背負うこととなり、生まれた地から遠く離れた勇者学校へと通うことになり――マクスと出会うまで、自らの身体に刻まれた術式を呪い続けて生きてきた。
(よし……たまには役に立たないとね)
だが、今の彼は違う。親友の頼みを受け、バーンの心は久々に熱く脈打っている。
「魔力が枯渇って……それこそどうして、そんなことがわかるのよ?」
ミカヤに呼ばれたマクスが倒れこんだ騎士の所感を伝えると、タリアからもっともな質問が飛ぶ。
(どう見ても死んでいるようにしか見えないわ……。でもマクスの言うことだから、なんの根拠もないってことはないだろうし、もちろん生きていてほしいけど……。そもそも魔力の量が多い少ないなんて、見てわかるものなの? 他人の術式が見える人がいるという話は聞いたことがあるけど、でも……)
バーンの頭の中に、タリアの心の声が響く。バーンの魔法は特定の人に狙いを定めて、当人の声のみを聞く魔法ではなく、周囲の人の声を無差別に聞いてしまう魔法だった。案外冷静なタリアとは対照的に、
(ああどうしようどうしよう魔力の枯渇ってなんだろうどうすれば解決できるんだろうマクス君は術式を見ることができるから魔力の量も見れるのかなああそんなことは今は気にしている場合じゃ)
ミカヤさんは見事に混乱しているなぁと、バーンは内心でひとりごちる。友達の心の声を勝手に聞いて申し訳ない気分になりつつも、どう返答していいか困惑しているマクスを手助けするため、タリアに声をかけた。
「マクスは他人の術式や、魔力の動きを見ることができるのさ。特殊な才能ってやつ。……そんなことより、あの男子生徒のほうが問題だろう?」
バーンは再度、男子生徒へと視線を向ける。意識を集中し、男子生徒の心の声を聞き逃すまいとする。
(魔力を奪ったことに気が付いたのか? ……だがまあ、だからどうした。わたしが男子生徒の身体を乗っ取っていることなど、気付くはずもない。このまま油断させ、一度に仕留めてやろう)
浮かべた表情とは真逆の声を心から発しながら、男子生徒は再び助けを求めて叫び始めた。タリアの憤りの声に、自分は被害者であると訴え、彼女の良心を揺さぶりにかかる。
かわいそうなほど動揺した心の声を出すタリアを安心させるため、バーンは優しく彼女の肩を叩いた。
「そんなに頭を悩ませる必要はないよ、タリア」
「……バーン。そうは言うけど、もし彼が本当に危険な状態だというのなら、見捨てるわけには……」
「ああ、大丈夫大丈夫。……彼は嘘つきさ、間違いなくね」
困惑するタリアを尻目に、バーンはマクスに目配せをする。マクスはすべてを承知したかのように、こくりとうなずいた。バーンはにやりと笑うと、大仰に語りだした。
「君の中に何かがいて、勝手に攻撃するだって? とてもじゃないが信じられないなぁ。だったらどうして、騎士が助けに来てくれたときに注意をしてくれなかったんだ?」
「そ、それは気が動転していて……」
「そもそも、一体何が君の体の中にいるというんだ? 人の身体に入り込む魔物だなんて、僕は聞いたことがないけどな」
(フン、魔物と我ら魔王の眷属を一緒くたにされるとは、否が応にも虫唾が走る……)
聞こえてきた心の声に、バーンの眉がひくりと動く。
(おいおい、魔王の眷属だって? そりゃ昔話の話だよ……)
男子生徒の身体に潜むものは何なのか、そして今の状況を切り抜ける方法はあるのか……それを探るため、相手の心の声を聞きだすためにわざと大声で語り掛けていたのだが、思っていたよりも大それた答えが返ってきてしまった。
魔王といえば、はるか昔に勇者に倒されたという悪の親玉だ。ロクスベルゼ王国に住むものであれば、誰でも聞いたことのある物語だし、実際に王家の人間は勇者の血筋を引いているとされる。バーンの通う勇者学校も、魔王を討伐した勇者本人が設立したと言われている。
だが、バーン自身はその物語の大部分は作り話だと思っていた。かつて魔王とともに人間を襲ったという魔物自体は王国各地に現れるものの、人を脅かしたとされるにはあまりにも弱弱しい存在だった。こんなやつらがいくら群れようと、大した問題にはならないだろうし、勇者なんていなくても充分なんとかなるはずだ。だったら勇者の存在自体がそもそも怪しいものとなる……そんな風にバーンは考えていた。
とはいえ、魔王の存在の是非は、今は問題ではない。現状を切り抜けるためのヒントが聞こえてくることを期待し、バーンは気を取り直して口を動かし続ける。今度は、マクスと相談しているような素振りで話す。
「しかし、もしも彼の身体に何かが潜んでいるという話が本当だとしたら、彼を助けるためには、なんとかして彼の身体に巣くっている何かを取り除かなければいけないね……。何かの魔法を使ったり、彼には悪いけれど、ある程度痛い目を見たら出て行ったりするのかな?」
(フン、この状態を解く方法などないわ。わたしから出ていかない限り、この人間が自由になることなどない。攻撃をしようが、わたしも傷つくがこの人間も同様に傷つくだけよ)
バーンのこめかみに冷や汗が流れる。心の声を聞く限り、男子生徒と彼の中に潜むものは、完全に一体化しているように思える。彼を攻撃すればダメージは通るようだが、彼の中の何かを倒すころには男子生徒自身も悲惨な事態に陥っているだろう。
おいおい、それじゃ解決法は無いも同然じゃないか……と、バーンは頭が痛くなるのを感じながら、知りえた事実をそれとなくマクスに伝える。
「もしも無理やり取り除く方法がなかったら……彼の中にいる何かが出ていこうとでもしない限り彼を助けられないんだとしたら、どうする? マクス」
ある種の期待を込めて、バーンはマクスのことを見つめる。
初めて出会ったあの日、バーンが心を覗いたことを瞬時に見抜き、即座に魔法を打ち消したマクス。そんな人間がいるだなんて、バーンは思ってもみなかった。あの衝撃は、今でも忘れられない。
その上、マクスからの協力を受けて、バーンは生まれて初めて魔法をコントロールできるようになった。これまでは常に聞こえていた心の声を、シャットアウトすることができるようになった。他の魔法は相変わらず使えないままだったが、そんなことは気にならない程にバーンの心は救われた。
相手のことを少しずつ理解していくことがこんなにも楽しいだなんて、知らなかった。
雑音の聞こえない世界がこんなにも美しいだなんて、知らなかった。
魔法を使いこなせるようになると、以前のように魔法を……自分自身を忌み嫌うこともなくなった。学校に通うことも苦ではなくなったし……何より、初めて心を読んだとき以来一切心を読めなくなったマクスの傍にいることが楽しかった。
――マクスは、再びあのときのような驚きを与えてくれるだろうか。
この状況を解決する方法を、自分たちに与えてくれるだろうか。
バーンからそのように期待を寄せられているなどとは気が付くことなく、マクスはしばらくの間黙り込んで考えると、ふうと一つ息を吐いて言った。
「……まあ、なんとかなるだろう」
ミカヤが、タリアが、男子生徒の身体に潜む者が……同様の心の声を響かせる。そして唯一声を聞くことのできたバーンもまた、同じことを考えていた。
「なんとかって……いったいどうするんだい、マクス」
「ようは彼の中にいる何かが、体から出ていかなければならない状況を作ればいいだけだろう。それなら、俺だけでもどうにかできる」
バーンは、マクスがミカヤと居たいがために実力を隠していることを知っている。確かにマクスが本気を出せばどうにかなるかもしれないが、しかし少なくともミカヤの前では実力を発揮しないということも分かっていた。もし真の力を見せようものなら、マクスは再びゴールドランクへ逆戻りとなり、彼の望む日常を送ることができなくなるからだ。
とはいえ、今は非常事態でもある。マクスにとってミカヤの安全が全てであることも、バーンは理解していた。もしや、隠していた実力を白日の下に晒すつもりなのだろうか。
しかし、マクスの口から出た言葉は、バーンの予想とは全く違うものだった。
「……もっと言えば、別に俺じゃなくてもいい。何も難しいことはしない……基礎魔法ひとつで事足りるだろう」
驚きで目を剥いているバーンたち三人を尻目に、同じく驚愕の表情を浮かべた男子生徒に向かって、マクスはついと人差し指を向けた。
「彼の言ったことを信じるならば、彼に近づかない限り攻撃されることはないらしい。……申し訳ないとは思うが、ここから彼を気絶させよう。彼が気を失えば、体の中に潜んでいる何かも、こちらに対して何もできないだろう。そうして何もできなくしてから、なんとかして騎士を起こして王都に連れて帰ればいい。王都になら、彼の中の何かを追い出すことのできる人もいるだろうさ」
「……中の何かが、自動的に攻撃を加えてくる可能性はないのかな?」
「おそらくあるだろう。だが、例えそうだったとしても、それが魔法を使っての攻撃ならば俺にはすぐにわかる。……他人の術式や魔力が見えるというのは、貴重な才能らしいじゃないか」
「ああそうだとも、ミカヤさんに聞くまで知らなかったのがマクスらしいね。この前聞いて、思わず笑い転げたよ。……それで? 具体的にはどうやって彼を気絶させるんだい?」
マクスはちらりとミカヤのほうを見た。急に視線を向けられて、ミカヤは思わず姿勢を正す。
「……ミカヤさんには話したが、基礎魔法というのはそれほど役に立たないものじゃない。特に対人戦においては、勝負を決定づけるものにもなりえる。例えばこうして……」
マクスは魔法を発動させた。男子生徒の顔付近に、それは現れた。
「……!?」
男子生徒は苦悶の表情を浮かべる。だが、声は出ない。――出せない。
「……『ウォーターサプライ』を多重発動させて顔面を覆うだけで、相手を溺れさせることができる」
男子生徒の顔全体を、マクスの魔法によって作られた水球が覆っていた。
まるで見えない水槽をかぶっているかのような見た目になった男子生徒は、呼吸のできない息苦しさに酸素を求めて口を開くが、残り少ない肺の中の空気を吐き出すばかりだった。
やがて彼は、両手を使って水を撒き散らそうともがき始めた。だが、顔を覆っている水は魔法によって作られ、マクスの手によって操られて彼の顔面に位置を固定されており、彼がいくら水を跳ね上げようと無くなることはない。しばらくの間、男子生徒は暴れていたが、いよいよもって酸素が足りなくなってきたのか、全身から力が抜け始め、顔色が見るに堪えない色に変色し始めた。
「ま、マクス君! このままじゃ死んじゃいます!」
たまらず、ミカヤは悲鳴を上げた。訴えかけるような目でマクスを見つめるが、当のマクスはミカヤのほうを見返すことなく、油断なく……冷たささえ感じられる視線で、男子生徒を見据え続けている。
「すぐに死ぬことはない。気を失うまで呼吸を奪うだけだ」
「でも、それでも……万が一ということはあります! もしあの人に何かがあったりしたら、マクス君はどうするつもりですか!?」
ミカヤの必死の問い詰めに対して、マクスはあくまでも冷ややかに答えた。
「どうもしない」
「な……」
「例え彼が死んだとしても、彼の中にいる何かを追い出すことはできる。あるいは、彼と共に命尽きるかもしれない。……それでも、一応の解決にはなる」
マクスの歯に衣着せぬ物言いに、バーンは深くため息をつき、タリアは神妙な顔つきで様子を伺っていた。ミカヤだけはきっと眉を吊り上げると、マクスに近づいて声を荒げる。
「……やめてください」
「駄目だ、まだ完全に気を失っていない」
「やめてください! マクス君が、そんな酷いことをする必要はありません! お願い、やめて!」
ミカヤがいくら叫んでも、マクスは魔法の水を解こうとはしない。もはや意識が朦朧とし始めていた男子生徒は、ついに目をぐるりと回して白目を剥き、腕をだらりと下げて地面へと倒れこみ――
「……ようやく出たか」
ばしゃりと、水球が割れて飛び散る。その一瞬前に、男子生徒の身体から黒い影が躍り出るところを、マクス達四人は見た。
黒い影――あの魔物とは別種のものだ――は、地中に飛び込んだかと思うと、地表を走るように移動してマクスたちから距離を取った。地に移る影だけが地面を走る光景はなんとも奇妙で、悪い夢でも見ている気分にミカヤは駆られる。やがて黒い影は充分な距離を取ったかと見るや、ずるりと地表から飛び出して真の姿を四人の前に現した。
「うっ……」
四人の中の誰ともなしが、思わずうめく。
魔物とも人間とも区別のつかない、異形の存在がそこにはいた。
姿かたちは人間に近く、黒いローブを着て腰を曲げた姿は一見老人のようにも見える。だが、ローブの端から覗く肌の色は人とは似ても似つかない黄土色をしていた。顔をよく見ると爬虫類のようなざらざらとした皮膚をしており、髪が生えていない代わりに角のような触覚が二本生えている。ぎょろりとした目玉は不自然に大きく、白目と黒目が逆だった。
現れた異形の存在は苦しそうに肩で息をしながら、マクスを睨みつける。
「き、貴様……!」
「乗り移った存在と、完全に一体化していたらしいな。あのままでは自らも窒息死してしまうから、たまらず出てきたんだろう」
「ふん……! 小賢しいやつめ、一杯食わせたつもりか? この私、魔王が眷属の一人、デパルの姿を見て、生きて帰れると思うな……!」
魔王の眷属、というおとぎ話じみた台詞に、ミカヤとタリアは一瞬拍子抜けしたかのような表情になったが、
「……ひっ」
デパルがその身に宿す魔力を放出するのを見て、思わず竦む。
全身から炎のように邪悪で黒い魔力が吹き出し、周囲の空気が震えだす。
本来魔力というものは、体内に留まり外へ溢れ出ることなどない。それが目に見えて体外に現出したということはつまり、デパルの力が尋常でないことの証明でもある。すべてを飲み込んでしまいそうな暗黒の魔力に、ミカヤたちは怯えを隠すことができなかった。
「この場では殺さず、魔王復活のための生贄とするつもりだったが……生贄ならば倒れている者たちで充分だろう。……貴様たちは今すぐ殺してやる。圧倒的な恐怖を与え、怯え竦み、悲鳴を上げるがいい。その悲鳴をもって、魔王に捧げる贄としてやる……!」
デパルはカッと目を見開くと、片手を天へと向ける。すると同時に溢れだしていた魔力がデパルの体内に収縮していく。マクスの目を用いずともわかる、強力な魔法を放出する前兆だった。
(これは……どうするんだいマクス!?)
明確な命の危機に、バーンは思わず助けを求めるようにマクスを見た。この状況を脱するには、今度こそマクスが本気を出すしかない。基礎魔法の使い方次第でどうにかなるような規模の攻撃が、間違いなく来るはずだ。
デパルはにやりと、恐ろしい顔を歪めて笑う。
マクスは考える。ミカヤを、タリアを、バーンを……そしてデパルのほうを素早く観察し、さらに周囲に広がる林の中へも視線を巡らせる。
そして、ある一点を見据えて固まった。それはデパルの背後から急速に近づく「何者か」だった。
「食らうがいい! 魔王より給いし究極の……ッ!?」
デパルの口上が途中で遮られる。
突如として、目をくらますような眩しい光がマクス達四人の目を覆った。
それは、稲光だった。激しい電撃……いや雷撃がデパルの背後から襲い掛かり、デパルは衝撃のあまり放とうとしていた魔法を霧散させてしまう。雷撃はまとわりつくようにデパルをしびれさせ続け、やがてデパルは体中から煙を上げながら、脱力するように片膝をついた。
「あっ……えっ?」
「どうしてここに……?」
ミカヤとタリアは、跪いたデパルの背後を見て目を見張る。
「……明らかに邪悪な気配がしたから思わず攻撃してしまったけど、よかったのよね」
この課外活動に参加していた唯一のゴールドランク生……クリスティア・ヴァイオレットは、デパルとマクス達四人を見比べながら、ポツリと呟いた。