6
話がひと段落ついたマクスたちは、決定どおりに二手に分かれ、王家の丘探索任務を開始した。
王家の丘に入った経験のある騎士から、四人は大まかな地理を聞く。そして、それぞれ左右へ大きく迂回するように丘を進み、森に差し掛かる手前で進路を丘の中心へと変更、中央部付近にある泉で集合するという計画を立てる。中央部に沸いている泉の周囲は木々が少ない平らな土地になっており、よほど方向を間違えなければまず間違いなくたどり着けるということだった。
バーンとタリア、騎士の三人と別れたマクスとミカヤは、林の中を進んでいく。二人は隣り合うように歩いて……はおらず、前を行くミカヤのやや斜め後ろから、マクスが追いかける形となっている。
二人きりになるきっかけを与えてくれたバーンへの感謝と、二人きりになってからいったいどうすればいいのかという苦悩の気持ちがごちゃ混ぜになっているマクスを尻目に、ミカヤはどんどんと前へ進んでいく。
(……どうしてタリアは、あんなことをしたんだろう?)
ミカヤは行方不明者の探索という目的も忘れて、そんなことを考えながら歩いていた。
タリアとはブロンズになってから……つまり去年からの付き合いだ。曲がったことが嫌いで、騎士になるという夢のため常に研鑽を怠らない、素敵な友達。
初めての出会いも、ミカヤがシルバーランクに冷やかされていたことが我慢ならずにタリアが口と手を出してきたのがきっかけだった。彼女は卑怯だとか、姑息だとか……騎士らしくない行動を嫌う。そんなタリアの性格に何度も助けられてきたミカヤだからこそ、今日のタリアの行動には首をかしげるばかりだった。
加えて、タリアに襲い掛かられたマクスが、大して気にしていないふうなのも不可解だった。普通、突然刃を向けられたりしたら、怒って当然なのでは? 一歩間違えば大怪我になったかもしれないというのに、当のマクスはなんでもなかったかのようにタリアを許したようだった。
「……ミカヤさん?」
理解していたはずの親友の不可解な行動と、最近少しずつ親しくなってきた友人の理解しがたい態度が頭の中でぐるぐると回転していたおかげで、自分に声をかけられているとミカヤがようやく気がついたのは、マクスが三度ほど呼びかけたときだった。
「は、はい! なんですかマクス君」
「……いや、そのあたりは木の根元がむき出しになってるから、気をつけたほうが」
「え? ……わぁっ」
マクスの指差したあたりを確認しようと後ろに下がった途端、地面に突出した木の根に足を引っ掛け、ミカヤは後ろへ転倒しそうになる。
「……! ……?」
後頭部への衝撃を覚悟し目を瞑ったミカヤだったが、いつまで待っても痛みは訪れない。かわりに、背中に暖かいものが触れている感覚があった。
ゆっくり目を開けると、すぐそばにマクスが立っていることに気づく。ミカヤが倒れる直前にマクスは腕を伸ばし、倒れそうになる体をその腕で支えたのだった。
「……大丈夫か?」
「……。は、はい」
マクスに抱き起こされる形で、ミカヤは体制を整える。ミカヤが二本の足でしっかりと立ったことを確認するや否や、マクスは不自然なほど素早く、ふっとミカヤの元から離れた。
「えっと……ありがとうございました。それとごめんなさい……ぼうっとしてたみたいです」
「……怪我がないならいいんだ。無事でよかった」
顔を赤らめて身なりを整えながら、ミカヤは己のことを恥じる。
今はあくまで課外活動中だというのに、気を抜きすぎだ。確かに、王家の丘はただ歩いているだけでも気持ちのよいところだけれども、こうして自分自身が装備を身につけていることからもわかるとおり、完全に安全な場所というわけでもない。……なにしろ、正体不明の影が目撃されたばかりなのだから。
物思いに耽る思考を吹き飛ばそうと頭を左右に振ったミカヤに、再度マクスから声がかかる。
「……何か気になることでもあるのか?」
「えっ?」
図星を突かれたミカヤはあたふたと慌てる。
「ど、どうしてそう思うんですか?」
「……馬車の中ではずいぶんと楽しみにしていたようなのに、あまり楽しそうではないから」
「あ……」
考えてみれば当然のことだ。馬車の中で散々植物に関して講釈を垂れていたのに、現地についた途端興味をなくしたようにしていては、誰であっても不審に思うだろう。
恥じ入るかのように、ミカヤは自分の頭をぽこんと叩く。
「そうですね……おかしいな、あんなに楽しみにしていたのに、他のことばかり気になっちゃって」
「……他のこと、とは?」
ミカヤは自分自身でも、なぜこんなにもモヤモヤするのかがわかっていなかった。
タリアが、友人に襲い掛かるという非常識なことをしたことがどうにも引っかかっているのは間違いない。そのことに対して、自分が怒っているのは確かだ。
だが、胸の中にうずまく感情が「怒り」の一文字だけでは、こんなにも思い悩むことはないのではないかとミカヤは訝しむ。何か別の感情が、怒りの感情に混ざりこんでぐちゃぐちゃになっている……イメージとしてはそれが一番近い気がした。……そうでなければ、目の前に立っている少年に対してまで、複雑な感情を抱くはずがない。
「……ミカヤさん?」
黙りこんでしまったミカヤに、マクスが問いかける。何の感情も伺えない無表情ではあるが、自分のことを心配してくれているのだということが、ミカヤにはなんとなくわかるようになっていた。
自分をまっすぐに見つめてくるマクスの闇色の瞳を見ながら、ミカヤはひとつ決心をした。
「そうですね……このまま一人で考え込んでいても何も解決しませんよね。……マクス君、お願いがあるんですけど」
「……なにかな」
「実はわたしにも、よくわかっていないことが多いんです……何がそんなにも頭を悩ませているのか。なので、自分の頭の中を整理するためにも、マクス君にはわたしの話を聞いてもらいたいんです。……いいですか?」
「もちろん、構わない」
妙にかみ締めるようにマクスが言うのがおかしくて、ミカヤは口元に微笑を浮かべる。
「それじゃあ、歩きながら話しましょう」
ミカヤはくるりと体の向きを変え、マクスを手招きした。近寄ってきたマクスが隣に並んだことを確認すると、今度は二人並んで林の中を進みだす。
「わたしがさっきからずっと考えているのはタリアのことです。……それと、マクス君のこと」
「………………俺?」
「はい。タリアたち三人と分かれる前に、タリアがマクス君に斬りかかったでしょう? タリアが突然斬りかかったこと、そしてその後の顛末を見てから、なんだか胸がモヤモヤするんです」
好きな女の子に「あなたのことを考えています」と言われ、思考が停止しそうになっているマクスには気づくことなく、ミカヤは続ける。
「タリアとわたしは友達ですけど……どういうふうに知り合ったかまでは話してないですよね。タリアは、わたしがいじめられていたところを助けてくれたんです。いつだったか学校の中庭で、マクス君も助けてくれましたよね?」
「ああ。……初めて話したとき」
「そうでしたね! ……タリアと出会ったときも、まさにあんな感じでした。二年生に上がってブロンズランクのバッジをつけるようになってから、他の生徒たちがわたしを見る目は明らかに変わりました。その上わたしは引っ込み思案で、特に姉からあれこれと言われていたせいか、男の人は苦手だったから……男の子にきつく言われたりすると、何も喋れなくなってしまうんです。なので、いじめるには格好の対象だったのかもしれません」
マクスはミカヤの姉という存在について様々な思考を挟みながら、相槌をつくようにうなずく。
「そのとき助けてくれたのが、タリアでした。タリアとはまったく面識がなかったんですけど、わたしが男の子たちに囲まれて縮こまっているのを見るや否や、すぐに飛んできて助けてくれたんです。本当にかっこよかったなぁ……。それから、王都貴族の娘同士であったことや、同じブロンズランクであったこともあって、仲良くするようになりました。……思えば、二年生の間はずっとタリアと一緒だったような気がします」
一年生の授業が進むにつれて、自分には並程度の才能すらないことがわかってきた。その事実は時が進むにつれて、ミカヤだけではなく周囲から見ても明らかなものとなり、二年生になりブロンズランクが確定したころには勇者学校に通学することすらつらくなっていた。
絶望しかかっていた自分を救ってくれたのが、タリア・シュタインズだった。同じブロンズランクであっても堂々としているタリアは、ミカヤにとって友人であること以上に憧れの対象でもあった。彼女といればミカヤは肩を小さくして歩くことはなかったし、つらいことしかない勇者学校にも通い続けることができた。
「タリアの夢は、王様とお姫様に仕える騎士でした。マクス君も聞きましたよね? タリアはブロンズランクであってもその夢を口にして、決して諦めていなかった。……もしかしたら諦めきれないだけなのかもしれないけれど、それでも努力は続けていました。可能性が限りなく低いとわかっているのに夢に向かって努力を続けるなんて、よほどのことでないとできません。タリアの姿は、わたしのとっては憧れだったんです」
「…………」
「でも、そんな……騎士を夢見ているはずのタリアがなぜか、マクス君に斬りかかったんです。目の前で見ていたはずなのに、わたしにはとても信じられない光景でした。タリアは非のない人間に対して、手を上げることは決してしない……そういう人のはずなのに」
「それは……」
「ええ、何か理由があるんですよね。マクス君にはそれがわかっているようでした。……もしよかったら、聞かせて貰えませんか?」
ミカヤは林の奥を見渡しながら、マクスの言葉に耳を傾ける。
実力がわからない相手を疑うのは当然であること。
何よりそんな相手に友達のミカヤを任せるのがタリアは心配だったこと。
マクスの説明に、ミカヤは真剣な表情で聞き入っていた。
「……だいたい、こんな感じだ」
「……そうですか。タリアがわたしのことをそんなに大切に思ってくれていたというのは、なんだか恥ずかしいけど嬉しいですね……」
ミカヤは少し顔を赤らめながら言う。だが、すぐに表情を険しくした。
「……でも、だからって友達に剣を向けるというのは、やっぱりわたしには理解できません。それに……」
「それに?」
聞き返したマクスを、ミカヤはまっすぐに見つめた。マクスが少しばかり身を引く。
「マクス君がなぜタリアのことを許しているのかも、わたしには全然わからないんです。どうしてそんなに平然としていられるんですか? もしかしたら大怪我をしてたかもしれないんですよ? 突然斬りかかってきたタリアに、怒りを覚えたりしないんですか?」
マクスは若干戸惑う様子だったが、すぐに気を取り直したのか淡々と答える。
「……本気でないことはわかっていたから。もともと直前で寸止めするつもりだったことは、剣の勢いや相手の覇気を見ればすぐにわかった。寸止めされる前に俺が剣でさえぎったから、ミカヤさんにはあたかも殺す気で斬りかかったように見えたかもしれないが、あれは見た目ほど危ない行動ではなかったんだ。だから、怒る必要もない」
「……本当に?」
ミカヤには、タリアの気が触れたようにしか見えなかった。突然マクスを殺そうとし、マクスが直前で防ぐことができたから凶行を避けることができたのだと。
その認識は、自分が剣に疎かったからそう見えただけだったのだろうか。タリアとマクスにとっては、あくまで相手の腕を信頼した上での行動であったと?
「……本当だ」
様々な気持ちを込めたミカヤの質問に、マクスはぽつりと答える。
その一言に、精一杯の親愛を込めて。
「……そうですか」
今のマクスの言葉に嘘が込められているようには、ミカヤには到底思えなかった。おそらく、彼の言葉はきっと真実なのだろう。
では、胸にうずまくモヤモヤは結局なんなのだろう。自分が剣に疎いせいで実力者同士の世界を理解できず、彼らの行動を勘違いしてしまったことが原因だったのだろうか。タリアの凶行は凶行でもなんでもなく、単に相手の実力を測るためのテストで、そのことをわかっていたマクスは怒る必要もなかったのだと。
(……本当に、そうなのかな)
マクスの言葉にもタリアの行動にも納得がいったというのに、自分の気持ちは納得がいっていない。いつまでも続くモヤモヤを隠し切れず、ミカヤは思わず険しい表情をしてしまう。
「…………」
そんなミカヤを安心させようと、マクスが不器用なりに言葉を重ねる。
「……まぁ、目の前で打ち合ったりしたことは謝る。しばらく気になるかもしれないが、俺もタリアも本当に気にしていないから、ミカヤさんもそんなに深く考えずに……」
「……え?」
気になる単語が耳に飛び込んできて、ミカヤは思わず顔を上げてマクスを直視した。
突然、吸い込まれそうな大きな瞳に見つめられ、マクスはたじろぐ。
「な、なんだ?」
「……いま、タリアのこと……なんて呼びました?」
「え?」
聞かれた意味がわからず、マクスは問い返す。ミカヤは身を乗り出すようにして、再度問う。
「タリアのこと、呼びましたよね。なんて呼びましたか?」
「……タリアだけど」
ふいに、ミカヤは胸のモヤモヤが濃くなったような気がした。口調が思わず、問いただすような強さになっていく。
「えっと……マクス君はタリアのこと、名前で呼んでましたっけ」
「……いや、さっき話したときに、名前でいいというから。じゃあお互いそれでいいかと……」
たじたじと返したマクスの答えにまたしても胸がモヤモヤしてきて、思わずむっとしてしまう。
……どうしてこんなにも、マクスがタリアのことを呼び捨てにすることが気に入らないんだろう?
「……あ」
「え?」
ミカヤの表情の変化に戸惑う様子のマクスを尻目に、ミカヤは得心がいっていた。
それは、天啓と言ってもよかった。
「……そっか、そういうことだったんだ」
「な、何が?」
ミカヤは自分の胸に手を当てる。
そうだ、間違いない。さっきから胸を騒がせるこの感情の正体は――。
「わたし、嫉妬していたんですね。……タリアとマクス君が仲良くなった様子だったから」
「…………」
ミカヤの思わぬ答えに、マクスは言葉を失った。
嫉妬? ミカヤさんが嫉妬?
俺とタリアが仲良くなって、ミカヤさんが嫉妬? 一体何に嫉妬したんだ? 誰に嫉妬したんだ? そもそも嫉妬って……嫉妬ってなんだ? どういう感情の動きを嫉妬と呼ぶんだっけ……?
混乱の極みに陥り、もう少しで気まで失いそうになっていたマクスだったが、
「わたしでは理解できない世界で通じ合っていることが見てて悔しくて……それで嫉妬していたんです。……マクス君に!」
「…………えっ」
続く言葉で、すぐに意識を取り戻した。
「タリアはわたしにとっては憧れで……一番の親友です。でも、全部を理解しているわけじゃありません。わたしは騎士を目指していないし、剣だって上手くないから戦闘とか剣術の話はタリアとしたことがありませんでした」
ずっと思い悩んでいた悩みが晴れたからか、栓が抜けたかのようにミカヤは嬉しそうに語り続ける。マクスが困惑していることなど、まるで気がつかない様子だった。
「そういう、わたしが知らなかったタリアのことをマクス君は理解してて、それをきっかけに二人が仲良くなって親友が取られたみたいに思えて……拗ねていたんです。……子供っぽいなぁ、わたし」
「ああ、ええと」
「ほんとに恥ずかしい、馬鹿みたいです。マクス君だって友達で、二人が仲良くなるのは嬉しいことなのに。二人が仲良くなってもタリアとわたしが疎遠になることはないし、わたしとマクス君が友達であることも変わらないのに」
「…………」
二の句が告げなくなっているマクスに気づくことなく、ミカヤの顔には笑顔が戻る。
ああ、こんな単純なことに気がつかなかっただなんて。
ずっと一緒にいてくれたタリアが自分の傍を離れていくような気がして、寂しかったのだ。
それほどまでに、ミカヤはタリアに依存していた。タリアが自分のほうを向いていないのが不安で不安でしょうがなかったのだ……まるで、赤ん坊に親を取られてしまった幼い兄や姉のように。思っている以上に自分が子供っぽいことに気づいたミカヤは、なんて恥ずかしいことだろうと耳を赤くする。
だが、わかってしまえば心は晴れやかだ。タリアもマクスも何も悪くない。単に自分が子供っぽい癇癪を起こして、勝手に悩んでいただけの話だったのだ。
「ああ、やっとすっきりしました! ごめんなさいマクス君、こんなどうでもいい悩みに付き合わせてしまって……。……これからも、仲良くしてくださいね」
……嬉しい言葉のはずなのに。
晴れ晴れとした太陽のようなミカヤの笑顔とは対照的に、マクスはどんよりとした無表情だった。
好きな女の子の悩みを聞いていただけなのに。というか、最初から一方的に話されて、向こうが勝手に悩みを解決してしまった。そのうえ、なぜだか最終的には「あなたとは一生友達です」と言われたような気がする。それは自分の気のせいだろうか?
なぜこんなことになった。上手く話せる自信はなかったが、少しくらい悩みを解決させる手助けができれば、多少なりとも印象がよくなるかもしれない……という仄かな期待は抱いていた。だが結果として手に入ったのは、自分が最も得てはいけないもののような気がする……。
先ほどまでミカヤの抱いていたものが乗り移ったかのように、マクスは胸をモヤモヤさせる。そんな内心を表には出さないまま、マクスはミカヤの笑顔に無表情で答えた。
「……ああ。任せてくれ……」
悩みが解消されて気分の晴れたミカヤは、浮かない様子のマクスを連れ立って林の中を歩く。
悩みさえなくなってしまえば、王家の丘は本当にすばらしい場所だった。立派に並び立つ木々たちまでもがミカヤのことを祝い迎え入れてくれている気がして、だんだんと気分が上がっていく。
「あ、見てくださいマクス君。この辺りに生えているのはラーキュアといって、不思議な特徴を持っているんですよ。なんだと思いますか?」
「……なんだろう」
「なんと、魔力を流し込むと葉が赤く変色するんです。こういう魔力を込めると姿形が変わる植物のことを魔法植物といって、ロクスベルゼ王国内の各地に生息しています。といっても大量に繁茂しているわけではなく、限られた一部の地域にしかなぜか生えないのです。うわさではこういう魔法植物は、伝説の勇者が国を救ってから出現するようになったと言われていますけど……真実はどうでしょうか。でも確かに、勇者に応えるように生息するようになったのだと考えると、少しロマンチックですよね。勇者といえば世界を救う奇跡のような魔法を使った人、その魔法に影響されて植物が進化していったのかもしれません。実際魔法植物は魔力を込められると姿形だけではなくその性質まで変化することが研究で報告されています。たとえばこのラーキュアだと……」
……ああ、楽しい。
あまりの楽しさに課外活動であることすら忘れながら、ミカヤはマクスに自分の知る限りの知識を披露する。タリアが時折呆れたような顔をするので、人に植物や動物のことについて話をするのは避けていたのだが、マクスは真剣に耳を傾けてくれる。それがまた嬉しくて、ミカヤの口はさらに軽くなる。
タリア以外に気軽に話すことのできる生徒がいなかったミカヤにとって、マクスやバーンと出会ってからの日々は本当に楽しいものだった。
タリアと過ごす日々に不満などはないが、やはりどうしても寂しさというものは集う。特にタリアと違う授業のときは常に肩身が狭く、いつも教室の隅っこで目立たないようにしていた。周囲のシルバー生徒が楽しげに授業を受けているなかで黙々とノートを取っていると、心の中にうすら寒いものが吹きこんできて、たまらなかった。
だが、二人に出会ってからは一人きりで授業を受けるという機会が格段に減った。どの授業にも顔見知りがいるというのは思った以上に気が楽で、タリアと出会った当初のように、勇者学校への通学が楽しみになっていた。
バーンはとにかく喋るのが好きで、自分の姿を見つけると真っ先に近づいて話しかけてきてくれる。線が細く華奢な外見はおよそ男子のように思えず(もしかしたらタリアのほうが男らしいかも……)、他の男子たちのように威圧感を感じることもないのでとても話しやすかった。その上、バーンはやたらと知識が豊富で、ミカヤが知らないこと、ともすれば他の誰も知らないんじゃないかということすら、あれこれと話を聞かせてくれた。どうしてそんなにも知識が豊富なのかと尋ねたときに「生まれつきでね、やめようと思ってもやめられないんだ」と冗談混じりに言っていたことが忘れられない。
マクスは二人と出会うきっかけを与えてくれた男子で、自分を助けようとしてくれた人でもある。ゴールドからブロンズに落ちたという異色の経歴を持ち、今では自分と同程度の基礎魔法しか使えないのにシルバー生徒に毅然と立ち向かっていった様子は、いつかのタリアと重なる。もともと同級生の中では有名人で、話す機会などないのだろうと思っていたので、彼がブロンズに落ちてくれてよかったと不謹慎にも思うことがあった。出会ってすぐのころは本当に口数が少なく、どんな人柄なのかわからない部分もあったが、最近では少しずつ口数が増え、それに比例して親しみやすくもなってきた。今では無表情なだけで心優しい人、というのがミカヤの中での彼のイメージだった。……そんな彼に嫉妬してしまっていただなんて、やはりまだ少し恥ずかしかった。
一気に二人も友達が増えて、こんなに楽しい日々が訪れるなんて、少し前までは思ってもみなかった。しかも、男子二人だ。姉の影響で男子にはどうしても壁を作りがちだったのだが、実際に話してみればマクスもバーンも親しみやすい、いい人たちだった。とても姉が話していたような存在には思えない。
姉はゴールドランクを主席で勇者学校を卒業した天才であり、ミカヤにとって姉の言うことは絶対だった。だが今となってみれば、姉の言っていたことにも間違いがあるのだとわかる。姉は男子のことをなんと言っていただろう。思いやりのかけらもない、荒っぽくて暴力的、自分が世界の中心だと思っている、女に対してだらしなく見境がない、決して二人きりになってはいけない……。
……決して二人きりには――。
「…………」
ふいに思い出された姉の言葉を忘れるため、ミカヤは頭を振った。
……何を考えているんだろう。二人は他の男子とは違う。
バーンは荒っぽさとは無縁の人だし、マクスは心優しい人だ。それはタリアとマクスが仲良くなった件からもはっきりわかることのはず。
けれども……実際にマクスやバーンと二人きりになったことはない。基本的に自分はタリアと一緒にいることが多いし、授業中では他の生徒たちがいる。
姉は正確には、なんと言っていただろう。確か、二人きりになってはいけない、二人きりになると男子は本性を現す……そう言っていた気がする。
マクスやバーンにも、何か隠している本性があるんだろうか……?
「人がいない」
突然後ろから声をかけられて、ミカヤはびくりと背筋を震わせる。振り返ると、マクスが周囲の様子を伺っていた。
つられてミカヤも周りを見渡す。……確かに、周りには誰もいなかった。
この課外活動には十七名の勇者学校生徒が参加している。そこに騎士も加わっているので、二十名以上が散らばって丘の捜索をしているのだが、彼らの姿はどこにも見当たらない。確かに丘は広い場所だが、まさかどのグループとも被らない場所に来てしまっているとは。それとも、そんなに奥深くまで歩いてきてしまっていたのだろうか。
「あはは、本当に誰もいませんね……。ここまで誰もいないと、せっかくの王家の丘も少し寂しく感じちゃいますね。……少し予定が早いですけど、丘の中央にあるという泉を目指しましょうか? そのあたりなら、さすがに誰かが……」
どうしてこんなにも必死になっているのか、自分で自分に疑問を感じながらミカヤはマクスに提案する。ところが、マクスはミカヤの言葉を聞いていないかのように、じっとミカヤのことを見つめてきた。
「あ、あの……マクス君?」
物言わないマクスに、ミカヤは思わず後ずさった。少しずつ無表情にどんな感情を持っているのかわかり始めたというのに、今のマクスの無表情からはいかなる感情も読み取れない。
何かを考えているのか、考えているとしたらそれは何か、自分には理解することのできない何かなのか……考えるうちにミカヤの体はだんだんと後ろへ下がっていき、立っていた一本の木に背中が当たったところでようやく動きを止めた。
「あの、マクス君は……えっ?」
今、何を考えているんですか、と問いかけようとしたところで、ミカヤは目を見張った。
マクスがミカヤへと急激に接近し、彼女に覆いかぶさったのだ。
ミカヤの頭の中には、姉の言葉が延々と木霊していた――。
「はぁ……」
「また大きなため息だね。マクスに斬りかかったこと、まだ気にしてるのかい?」
「違うわよ、そのことはもういいの。マクスにも気にするなって言われたしね」
「ふぅん。それにしても『マクス』ねぇ」
「何よ、なにか問題ある?」
「別に? いやぁいいなぁマクスは、シュタインズさんと仲良くなれて」
「白々しいわね。あなただって好きに呼べばいいわよ。だいたい今さら『シュタインズさん』なんて他人行儀すぎておかしいわ。そんな性格じゃないでしょ、バーン」
「あ、そう? それじゃあタリア、君はさっきから何を気にしているのかな」
「当然、ミカのことよ」
「あれ? マクスのことを信用して、任せたんじゃなかった?」
「……それはそうだけど。でも、今考えるとやっぱり軽率だったかしら……。確かにマクスは剣の腕は信用できるし、わたしの攻撃を冷静に対処したことからも分かるとおり不意な危機にも対応できるでしょう。いったいどんな修羅場を潜ってきたのかしら……まぁ、それはともかく。……男女二人きりにしたのがどうしても気になるわ」
「……はい?」
「ミカは男子が苦手なの。なんでも、お姉さんにずいぶんと吹き込まれたかららしいけれど。だから、あなたたちにだって未だに敬語で畏まっちゃってるでしょう」
「まぁ、そうだね。でも、余所余所しくされてるって感じはしないけどなぁ。あれだけ目つきの悪いマクスに対しても恐れてる様子はないし……むしろ最近はずいぶんと親しげにしてるじゃないか。きっと二人仲良く散策して、さらに友好を深めているさ」
「だからこそよ!」
「……何が?」
「……マクスだって、男でしょう」
「はぁ?」
「ミカは女のわたしから見ても可愛いわ。お姉さんが過保護になるのもわかる。そんな可愛い子から親しげにされたら、男としては行動を起こしたくなるものなんじゃないの? ……マクスが無表情の下で何を考えているのか、わたしにはまだ全部分からないけれど……あのマクスだって、二人きりっていうシチュエーションに流されて何かしでかしたりするんじゃないかしら。……例えばその、あまり人前では口に出せないこととか……。それをわたしは心配してるのよ」
「あっはははは! マクスがミカヤさんを襲うって? ないない、それはないよ」
「なっ……。なんで断言できるのよ、万が一があるかもしれないでしょ!」
「いいや、ないね。これだけは間違いないよ。なぜなら……」
「?」
「マクスにそんな度胸、あるわけがないからさ」
「ひゃうっ……!」
ミカヤは情けない声を上げながら両目を閉じ、顔を両腕で隠すようにして縮こまる。
なんの防御にもなっていない状態のミカヤを、マクスは両腕で抱きしめた。そして、その細腕からは想像できないような力でもってミカヤの体を抱え上げ、ミカヤを凭れ掛かっていた木から引き剥がす。
信じていたのに、やはり姉の言っていたことは真実だったのだろうか……とミカヤが半ば絶望していると、ミカヤを抱きしめていた腕が解かれる。ほんの数秒ののちに、ミカヤは解放された。
何かされるでもない、ただ単に無理矢理場所を移動されただけ。わけがわからず、ミカヤは恐る恐る閉じていた目を開ける。
「あの、あのあのあのマクス君……?」
「前に出るな」
「えっ?」
マクスはミカヤのことを見てはいなかった。ミカヤをかばうかのように背中を向け、鋭い視線を前へと向けている。
マクスが見つめる先はある一点、先ほどまでミカヤが背中を預けていた一本の木だった。
いったい何を見ているのかと、マクスの背中越しにミカヤは何の変哲もないはずの木を見る。
「……ひっ」
ミカヤの口から思わず悲鳴が漏れる。
それは獣の前足のように見えた。鋭利な爪を光らせる前足が木の背後からぬっと伸び、木をかき抱くようにして前へと回されている。そこは間違いなく、数秒前までミカヤが背中を預けていた場所だ。
木の背後から伸びた前足の大きさは尋常ではない。おそらくは人間大、もしくはそれよりも大きな獣の前足だった。どちらかというと犬のものに近いだろうか。そして何よりおかしなことは、鋭利な爪以外……足や腕の部分の輪郭は、ぼやけた黒い影のようにしか見えないことだった。
ミカヤの親は動物や植物の生態調査をしている。そのため家にはロクスベルゼ王国内に生息する、さまざまな動物たちの資料があり、ミカヤは子供のころから絵本代わりにそれらの資料を読んでいた。その中の、王国東部に生息する虎という動物が、大きさ的には一番近いように思える。
(でも、王都の近くには虎みたいに大きくて凶暴な動物は生息していないはず……それに)
ミカヤの鼻をつんと刺激臭が掠め、思わず顔をしかめる。こらえきれないほど強烈な腐臭が、周囲に漂い始める。このような臭いを発する生物は、ひとつしかない。
「……魔物」
魔物の前足が動き、爪ががりりと木の皮を引き裂いた。
いとも簡単に残された巨大な爪痕を見て、ミカヤは息を呑む。……もしあの場に留まっていたら。マクスが咄嗟に抱きかかえてくれていなければ、あの爪痕は自分の体に刻まれていたはずだ。激しく鮮血を流しながら、抵抗もできずに絶命してしまっていただろう。ちらりと想像が脳裏をよぎり、ミカヤの体は小さく震えた。
「絶対に俺の前には出ないでくれ」
マクスの言葉に、ミカヤはうんうんと頷く。前に出ようにも、足が震えて動くことすらままならなかった。
木の影から、黒い巨体がゆっくりと現れる。それはやはり、巨大な犬のように見えた。
だが、間違いなく犬や狼ではない。全身に黒い霧をゆらゆらと纏っており、輪郭がはっきりとしない。頭のように見える部分にも尖った耳や鋭い目は見当たらない。……唯一、人の腕さえも噛み千切りそうな凶悪な牙だけが、なぜかはっきりと浮かび上がっている。
人間ほどの大きさの魔物など、ミカヤは生まれてこの方見たことがない。課外活動で討伐した魔物は子犬に毛が生えたような大きさのものばかりで、恐怖を感じることすら難しかった。
だが今、ミカヤの全身を恐怖が支配していた。これからどうなってしまうのだろう。マクスが言っていたとおり、周囲には誰もいない。魔物が出たら頼るよう言っていた騎士の姿も、いつも頼りにしていたタリアの姿もなかった。
そばにいるのは同じブロンズランクのマクスだけだ。元ゴールドランクの生徒ではあるが、今は自分と同程度の魔法……つまり、基礎魔法しか使えない。剣の腕は確かだとタリアが太鼓判を押していたが、目の前でうなり声を上げる巨大な魔物に対して、彼のショートソードはいかにも頼りなさげだ。
「マ、マクス君……」
どうしよう、と言おうとしたミカヤだったが、マクスが口元に人差し指を当てたのを見て慌てて口を噤んだ。
「ゆっくり後ろへ下がるんだ。場所を移す」
「場所を、って……」
目の前に魔物がいるというのに、そんなことができるのだろうかとミカヤは疑問に思う。
犬のような見た目からして、きっと自分たちが全力で走るよりも早く、この魔物は地を駆けることができるだろう。とてもじゃないが逃げ切れるとは思えない……そう言おうとしたミカヤだったが、続くマクスの言葉を聞いてさらに困惑することとなった。
「こいつを倒すにしても、ここは足場が悪い。さっきのミカヤさんのように、足を取られてしまうかもしれない。できればもう少し平坦な場所がいい」
倒す? ……戦うということ?
理解が追いつかずミカヤが閉口しているうちに、魔物がずるりと動き出した。巨大な前足を曲げて一歩前に進み、足元に落ちていた小枝を踏み潰す。バキリという音が立ち、ミカヤはびくりと震えた。
「俺が合図したら、丘の中心へ向かって走るんだ。平坦な場所についたらコイツをなんとかする。……走れないなら俺が抱えるけど、どうする」
マクスに急に問われて、ミカヤは恐怖に支配され思考が停止しかけていた頭を必死に回転させる。……怖くて足が震えている。でも、走るだけなら。何もできないのなら、せめてマクスの邪魔にならないようにしなければ。
(……わたしだって、勇者学校の生徒なんだから。勇気を出さなきゃ……!)
拳を握り締め、がちがちと鳴る奥歯を押さえ込むかのようにぐっと力を込め、ミカヤは言う。
「……走れます!」
「……わかった、三つ数えたら走るんだ。……一、二、三!」
合図と共にミカヤは体を翻らせ、震える足をがむしゃらに動かして走り出す。
背後で、魔物のうなり声が聞こえた。明らかに何かに動揺しているような声だ……マクスが魔物に対して、何かしたのだろうか?
気になって仕方がないが、今そんなことに気を取られていたら命が危ない。マクスが言っていたとおり、平坦な道に出るまで走り続けなければ。
すぐに追いつかれると思っていたが、後ろに魔物が迫ってきているような気配はない。途中で足音が聞こえたが、これはマクスの走る音だろう。それを確認しようとミカヤは後ろを振り返ろうとしたが、
「こっちはいい。振り返らずに走るんだ」
ちらと視線を向けただけで、マクスから忠告が飛んできたため、ミカヤはあわてて前を向いて足を動かし続けた。
何度か、魔物の声が背後から聞こえてきた。そのたびマクスが後ろで何かをやっている気配はしていたが、マクスの指示通り振り向くことなく全力で走り続け、ミカヤの呼吸は乱れ、目も霞んできた。もつれそうになる足を精神力だけで動かしていたミカヤの耳にマクスの声が届いたのは、走り始めてからどれほどの時間が経ったころだろうか。
「そろそろいいか。……ミカヤさん、止まってくれ」
マクスの呼びかけで足を止めたミカヤは、ぜいぜいと肩で息をしていた。もともと運動が得意でないことと、魔物に追われているという緊張もあって余計に体力を使ってしまったのだろう。少しでも酸素を取り込もうと肺が動くが、そのたびに胸が痛くなる。限界を超えて動かし続けた足は、まるで棒のようだ。
そんなミカヤの様子を知ってか知らずか、マクスはいつも通りの無表情で手早く指示を下してくる。
「ここであいつを仕留める。さっきも言ったが、俺より前には出ないでくれ。剣を振り回すから迂闊に近づかないほうがいいが、何かあったときにすぐ対処できないからあまり離れすぎたりもしないように。それと疲れているだろうけど、木にもたれかかるのは我慢してくれ。さっきみたいにまた襲われるとも限らない。いいか?」
矢継ぎ早に言い渡された指示を、ミカヤは酸素不足の頭に必死に叩き込んでうなずいた。
同時に、やはり不安が胸中に湧き上がってくる。マクスは、本当にあの魔物と戦うつもりなのだろうか? だとすれば、基礎魔法とショートソードだけでどうやって、大きな魔物と戦おうというのだろう。
「……マクス君、本当に大丈夫なんですか? 基礎魔法だけじゃ……」
戦おうとしている人にこれを聞くのは失礼だと思いつつも、どうしても我慢できずにミカヤは問う。
「大丈夫だ」
その問いに、マクスは変わらぬ無表情で答えた。
そして腰に差した剣を抜き、もうすぐ追いついてくる魔物のほうへと向き直って言う。
「せっかくだから、教えながら戦おう。……あれ一匹なら、基礎魔法で充分だということを」
林の奥から二人に追いついてきた魔物は、待ち構えていたマクスを目の前にして動きを止めた。
マクスが剣を抜いたことを警戒しているのか、はたまたミカヤがこれ以上動けないことを見抜いているのか。一息に襲い掛かってくることはなく、じりじりと二人との距離をつめてくる。
低い姿勢でうなり声をあげる魔物に、マクスは気負うことなく向かい合う。右手に順手で持った剣の先をぴたりと魔物に向けながら、マクスはミカヤに言う。
「これから使う魔法だが、実を言うとさっきからずっと使っていた。俺が後ろで何かをしていることは、ミカヤさんも気づいていたと思うが」
「は、はい。……でも、いったい何を?」
マクスはいかなる手段によってか、魔物の追跡を遅らせていた。当然ミカヤもそのことに気づいていたが、どのようにして行っていたかまではわからなかった。
「まず大前提として、俺はミカヤさんと同じブロンズクラスだ。だから基本四属性でも、基礎魔法程度しか使えない。当然、さっきまで俺が使っていたのも基礎魔法だ」
「そんな……それでどうやって」
ミカヤはブロンズランクであるがゆえに、基礎魔法が大した魔法ではないことをよく知っている。
炎魔法『フレイム』。
風魔法『ウィンドブロウ』。
水魔法『ウォーターサプライ』。
土魔法『クリエイト』。
これら四つが、四属性の基礎魔法だった。この四つを使えなければ、魔法学校に入学することはできない。逆に言えば、学校に入学する前の子供ですら使える魔法だとも言える。
マクスは魔物が慎重になっているのをいいことに、話を続ける。
「勇者学校は生徒も教師も、基礎魔法のことを甘く見すぎている。基礎だろうとなんだろうと魔法は魔法、通常ではありえないことが起こせるというだけで凄いことなんだ。起こせる奇跡は小さくとも、その奇跡をどう活かすかは……使う人次第だ」
ミカヤは以前、水魔法の授業をマクスと一緒に受けたときのことを思い出す。ミカヤがただ水を作り出すだけだと思っていた『ウォーターサプライ』で、マクスは虹を作ってみせた。
「一対一の状況において、基礎魔法は思いのほか役に立つ。術式構築も魔力の捻出も短時間で済むからだ。……例えばこの魔物なら、『クリエイト』だけで倒せるだろう」
「えっ? 『クリエイト』……ですか?」
土属性の基礎魔法『クリエイト』は少量の土を操り、造形する魔法だ。
土魔法の基礎中の基礎ではあるが、複雑な造形はできないため、勇者学校の生徒たちには「子供の土遊び」とも揶揄される魔法だった。
実際、魔法を覚えたばかりの子供が遊戯として使う魔法の定番でもある。炎魔法のように怪我をする心配がないし、遊びを通じて魔法の扱いを学べるので親たちも推奨しているほどだ。
ミカヤには『クリエイト』をどのようにして戦闘に使うのか、皆目検討がつかない。どちらかというと子供でも取り扱える無害な魔法というイメージだった。
「まあ、見ていてくれ」
そう言うと、マクスはすっと前に足を踏み出した。
今まで逃げ続けていた獲物が、一転して無用心なほどに近づいてくることを訝しんだのか、魔物はぐるると喉を鳴らした。
だが、威嚇の声にもひるむことなくマクスは少しずつ近づいていく。そのことを認めた魔物は、身をかがめて足に力を溜め、はじかれたように駆け出した。
マクスと魔物との距離はごく短い。魔物が数歩駆けるだけで、マクスに凶悪な爪が届いてしまう――。
「『クリエイト』」
しかし、魔物の爪がマクスを捕らえることはなかった。
「えっ?」
マクスが魔法を発動させると、魔物の足元が突然凹んだ。
いや、凹んだというよりも、穴が空いたと言った方が正しいだろうか。地面の穴は、ちょうど魔物が地に足をつけた瞬間に創り出され、面白いようにすっぽりと前足を嵌らせた。片足を突然拘束された魔物はバランスを崩し、マクスに飛び掛ろうとしていた勢いを完全に殺される。
「ふっ」
動きを止めてしまった魔物の首元を狙い、マクスのショートソードが薙ぎ払われる。頼りなさそうに見えた剣はしっかりと魔物を切り裂き、悪臭を漂わせる液体――魔物の体液だ――を地面に撒き散らした。
傷つけられた魔物は叫び声をあげながら、地面に埋まっていないほうの前足を無茶苦茶に暴れさせる。巻き込まれないようにマクスは再び距離をとり、ようやく片足を穴から抜いた魔物も警戒するように一度下がった。
「あの……『クリエイト』って、土を操って何かを創る魔法じゃ……」
呆然としたミカヤがマクスに問いかける。
「だから穴を創った。……おそらくミカヤさんは『クリエイト』で作り出すものといえば、砂の城や土の動物を想像したんだろうけど」
ミカヤはうんとうなずく。マクスの言うとおり、ミカヤにはそれ以外の想像が思い浮かばなかった。
「勇者学校の入学試験でも『クリエイト』があったな。たしかそこでも、鳥を作れだとか犬を作れだとか、少し複雑なものを形作るのが課題だったから、ミカヤさんが同じような発想しか思い浮かばないのも仕方がない話なのかもしれない。だが……」
マクスはショートソードを軽く振り、刃についた魔物の体液を振り払う。
「この魔法はあくまでも、土を操る魔法なんだ。土を操る……つまり、地面に対して自由に手を加えることができるということ。これは屋外で、特に人間相手に戦う際に非常に強力な力となる。どんなに屈強な人間だろうと、足場が不安であれば普段どおりの力を行使することは難しい。例えば落とし穴や、あるいは爪先が引っかかるほどの出っ張りがふいに足元に現れれば、体勢を崩さざるを得なくなる。そこを狙って攻撃をしかければ……」
魔物が再度、マクス目掛けて駆けてくる。しかしマクスは同じように『クリエイト』で落とし穴を作り出して魔物の体勢を崩し、今度は右前足を切り裂いた。
「多少の体格差は埋められる。……こいつは獣型だから、障害物を作って転ばせるというのは難しいけれど。人間であれば、足元の地面を少し盛り上がらせるだけでも効果的だ。バランスを崩して、戦闘どころではなくなってしまうだろうな」
マクスはミカヤに解説を施しながら、一撃、また一撃と魔物に刃を突き入れていく。いかにも威力なさげなショートソードによる攻撃だが、斬り付けられるたびに明らかに魔物の動きは鈍っていく。
「すごい……」
ミカヤの口から思わず感嘆の声が漏れる。
魔物は完全にマクスに翻弄され、着実に攻撃を重ねられて弱ってきている。遭遇したときに感じた得体の知れない威圧感が嘘のように、弱弱しく息を吐いていた。もう二人に襲い掛かってくるような、気力すら感じられない。ミカヤの全身を支配していたはずの恐怖心は、もうすっかりどこかへ消え去っていた。
そして何より、マクスの華麗とも言える戦い方にミカヤは見入っていた。余裕すら感じさせるマクスの立ち回りは、傍で見ているミカヤに安心感を与えるのに充分だった。
「タリアが言っていたこと、本当だったんだ……」
もはやマクスの剣の腕を疑う理由はない。自分よりも大きな魔物相手に華麗に立ち回り、一撃も攻撃を受けずに圧倒するなど、余程の実力がなければ不可能だ。初めこそマクスの細腕から繰り出される斬撃に効果はあるのかと不安に思いもしたが、刃が閃く度に魔物は苦しそうな悲鳴を上げる。いったいどこから、あんな力が沸いてくるのか……ミカヤには不思議だった。
「……簡単だろう? おそらく、ミカヤさんにだってできる戦い方だ。覚えておいて損はない。さて、もういいだろう……そろそろトドメを刺そうか」
凶暴な魔物相手に一人で立ち向かっていたにもかかわらず、マクスは息ひとつ乱れていない。まるで学校の講義が終わった後のような気楽さでそう言うと、たっと魔物に向かって走り出した。
マクスは走りながら『クリエイト』を発動させる。弱りきって息も絶え絶えな魔物の後ろ足が一本、地面に現れた穴に吸い込まれる。
困惑した様子の魔物の、横っ面をはたくように剣による一撃を叩き込む。魔物が悲鳴をあげ、よろめきたたらを踏んだところで再度『クリエイト』を発動。距離を取ることを許さずに、さらなる斬撃を重ねていく。
顔を、足を、胴体をあますことなく斬りつけられた魔物は、とうとう立ち続けることすら困難になったのか、体を震わせながら、どうと横向きに倒れた。
「や、やったんですか……?」
「いや、まだ完全に殺しきっていない。弱点は……ここか」
マクスは魔物の胸元あたりに目星をつけ、上から一気にショートソードを突き刺した。
「……っ!」
刃が魔物を貫いた瞬間、耳をつんざくような甲高い叫び――魔物の断末魔が周囲にこだまする。
それと同時に、魔物の体に変化が起こった。
犬のような姿だった魔物のシルエットが、狂ったように次々と形を変える。獅子に、蜥蜴に、鳥に……そして人間の姿に。いくつもの姿を形作り、最後に犬の姿に戻ったときには、魔物は息絶えていた。あとに残ったのは黒い犬のようなものの死体と、あたりに撒き散らされた悪臭漂う体液のみだった。
「マクス君……今のは?」
ミカヤは袖で鼻を押さえながら問う。魔物という生き物は総じて腐臭のような嫌な臭いを漂わせているものだが、ここまで強烈なものは初めてだった。
魔物にもっとも近い位置にいるマクスは表情ひとつ変えずに魔物の体から剣を抜き、軽く振って体液を地面に飛ばしてから腰の鞘に戻す。
「おそらく、体を自由に変化させることができる魔物だったんだろう。狙う相手によって姿形を変え、襲い掛かるのかもしれないな」
「……でも、鳥の姿にもなってましたよね? マクス君が落とし穴で戦っていたのに、どうして鳥になって空を飛ばなかったんでしょう」
「魔物っていうのは総じて、それほど頭が良くないんだ。単純、といえばいいのか? 強力な特徴を持っているくせに、それを活かせたりしないことも多い。……たとえばこいつ、おそらく影に潜むこともできたはずだ」
「影……って、この影ですか?」
ミカヤは自らの足元を指差し、マクスが頷いた。
「ああ。ミカヤさんが木の影から襲われたときに一瞬だけ見えたんだが、影が突然どす黒くなって、その中からこいつが現れた。影の中に潜むことができるなら落とし穴なんて怖くもなんともないだろうに、戦い始めるとそれをしない。……魔物っていうのは、そういう生き物なんだ」
ミカヤははぁ、とひとつ息をつく。
何もかも知らないことばかりだ。魔法の使い方、魔物の特性……どれをとっても、学校の授業では知りうることのない知識ばかり。
(……やっぱりマクス君って……ゴールドランクって、凄いんだ)
ミカヤにとってゴールドランクの生徒とは、常人とは違う圧倒的な魔法の才能を持つ人たちのことだと思っていた。それはシルバー以下の生徒から尊敬と憧れを集める傍ら、嫉妬の対象ともなる称号だ。生まれつき持ちえた才能で大きな顔をしている――ゴールドランクをそう非難するシルバー生徒は少なくなかったし、ミカヤ自身もゴールドランクで卒業した姉にコンプレックスを抱いていた。『生まれ持った才能ばかりはどうしようもない』――自身がブロンズランクなこともあり、ミカヤは自身の境遇について、内心でそう言い訳をし続けていた。
だが、目の前の男子生徒は。
自分と同じ、基礎魔法しか使えないにも関わらず、魔法の知識と工夫をもって巨大な魔物を倒してしまった。彼が使った魔法は、どれもこれもミカヤにだって使える魔法だ。それならばなぜ、自分は何も出来なかったのだろう?
(……最初から諦めていたら、できるはずない)
学校の授業は真面目に受けていた。しかし、それ以上のことを、ミカヤはしようとしたことはない。どうせ自分にはできないからと、ブロンズランクを受け入れていた。
――でも、これからは。
隣に彼がいる、これからは。
ミカヤは決意を固めるように、きゅっと拳を握った。
「……できるだけ早く、バーンたちと合流しよう」
マクスが周囲を見渡し、ほんの少し眉をひそめながら言った。
「そうですね、騎士の人に魔物を討伐したって報告をしないと……」
窮地を脱した安心感で気が緩んだか、微笑を零していたミカヤだったが、次のマクスの言葉で再び表情を引きつらせた。
「いや、そうじゃない。……あっちも同じように襲われているだろうから」
「えっ?」
「あの魔物、死に際に姿を変えていたが……その中に人型があった。……ミカヤさん、馬車の中で騎士が話していたことを覚えているか?」
ミカヤははっとする。王家の丘の探索が決定した、発端の話。林の中を複数の人影が蠢いていたという、奇妙な目撃証言。
「おそらくこの魔物が、王家の丘にいたという人影の正体なんだろう。だとすれば、こいつは一体だけじゃない……複数存在しているはずだ」
「そんな! じゃあタリアたちのところにも……」
「現れている可能性が高い。向こうは騎士と共に行動しているから、下手なことは起こらないと思うが……。しかし二十人近くの人間が探索しているというのに、ずいぶん前から丘が静かだ。ほかの生徒たちはどうなっているかわからない」
ミカヤは息を呑んだ。あの凶悪な牙や爪で攻撃されたりしたら……。面識のある生徒ばかりではないが、それでも同じ学校、同じ学年の生徒たちだ。他人事とは思えず、ミカヤは体を震わせる。
「……わかりました、急いで合流しましょう!」
「だいぶ走ったあとだが、大丈夫か?」
確かにまだ足は痛い。呼吸も万全とはとても言えないし、心臓も早鐘のように鳴っている。
だが、それでも。
「……大丈夫です。わたしも、勇者学校の生徒ですから」
「……そうか」
決意のこもった眼差しを受け、マクスはしっかりとうなずいた。再度周囲を見渡し、魔物が潜んでいないかを確認してから、バーンたちと合流するため丘の中心部へと向かい走り出す。
「ふぅー……。よしっ」
ミカヤは大きく息を吐いてから、この丘に来て以来大きく印象の変わったマクスの背中を追いかけ、走り出した。