5
朝方に王都を発ち、街道を抜け、草原をがたがたと進み続けた五台の馬車が目的地に着いたのは、昼時より少し前といった頃だった。晴れていれば太陽が高く昇っていただろうが、空は相変わらず厚い雲で覆われている。
どこまでも続くかのように平らだった草原は、とある地点を境に緩やかに傾斜を上げていき、やがて木々の生い茂る、こんもりとしたシルエットを形作る。
そこが王家の丘だった。傾斜自体は歩くのが苦にならない程度のものだが、その分範囲は大きく広い。小山と言ったほうがイメージとしては近いのかもしれなかった。
現在でも王家の手で管理されているからか、雑草などで荒れた様子はまったくない。かといって手を加えすぎて不自然になっているということもなく、自然を堪能するのに適度な美しさを湛えている。
丘の手前側は、背の低い木々が並び立つ林となっている。丘の手前側ではぽつりぽつりと生えている樹木は、奥に進めば進むほど空を覆う葉の範囲を広げてゆき、丘の奥側では巨大な森が形成されていた。森はさらに奥へ奥へとその範囲を広げており、やがて丘の向こう側に聳え立つ緑豊かな山へと合流していた。
「よーし、お疲れさん。ようやく到着だ」
馬車を止めた騎士が、マクスたち四人に声をかける。四人は馬車の中では外していた装備を身につけると、各々馬車から降りていく。
馬車後方の幌を開け、まずマクスが、続いてバーンが飛び降りた。
「うおっ、とと」
思いのほか馬車から地面への高低差があったせいか、それとも単なる運動不足によるものか、バーンは着地した衝撃で少しよろめく。
男二人に続いて、タリアが降りた。危なげなく着地する様子が妙に様になっている。そして最後の一人であるミカヤは、
「ミカ、ほら」
「ありがと、タリア」
タリアに手を引かれながら、ぴょこんと飛び降りた。
「……普通ああいうエスコートは、男がやるべきだと思わないかいマクス」
「俺に、ミカヤさんの手に触れろというのか? ……そんなことができると思うか」
「……別にガラス細工じゃないんだ、そんなに怖がらなくても」
情けない男子二人は、その様子を黙って見つめるだけだった。
マクスたちは各々違った装備を身につけている。
マクスは片手でも扱えそうな、軽めのショートソードを腰に下げていた。勇者学校が懇意にしている武具屋が用意したもので、一年生のときに買って以来ずっと使い続けている。特に気に入っているというわけでもないが、壊れない限り買い換える必要もないだろうとマクスは考えていた。
バーンはマクスのものよりもさらに短い短剣を、なぜか二つも腰にぶら下げていた。
「二本持っていれば二倍の強さ……だなんて、さすがに思っていないわよね? 二つも持っていても、使いこなせなきゃ意味がないわよ」
あまり使い込んでいなさそうな二本の短剣を見て、タリアが厳しい言葉をぶつけたが、
「実を言うと、一本でも使いこなせなくてね。打ち合ったりしたらすぐ取り落としちゃうんだよ。だから事前に予備の剣を用意しているのさ、かしこいだろ?」
バーンのまるで悪びれない様子に、ため息をつく。
そのタリアはといえば、いかつい両刃剣を持っていた。体に纏った革の鎧と合わせて見れば、騎士のように見えなくもない。未だ騎士になる夢を諦められないタリアの心中が表れている装備だった。
最後にミカヤは、小さなナイフを持っていた。決まりだから一応用意しました、というふうなのが見て取れる。実際、ミカヤがナイフを抜き構えても、今から料理をするようにしか見えないだろう。
「いちおう、戦闘訓練の授業で武具の扱いは一通り習いましたけど……実戦で使える気はしないです。授業でも散々な成績だったし……試験は合格しましたけど」
「まぁ、勇者学校の方針としては、魔法で戦うのが正道だからねぇ」
バーンがするりと短剣を抜き放つ。いかにもおぼつかない様子で、見ている側がハラハラする手つきだ。
「勇者は魔法をもって奇跡を成し、魔物を祓い、魔王を退けた。……ということで、魔物を追い払うのに一番最適なのは魔法とされているし、実際そうだ。今ロクスベルゼ王国内に出現する魔物たちの大半は、僕ら三年生か一つ上の四年生で習得する程度の魔法――まぁブロンズの僕らは使えないけど――があれば、楽に撃退できる。……というか、逆にやりすぎなくらいだよ」
「やりすぎ……って、どういう意味ですか?」
「退治するだけなら、四年生で習得する魔法は強力すぎるのさ。本当のところ、魔法で魔物を倒す必要なんて無い。最低レベルのショボイ魔物だったら、頑丈な棒で滅多打ちにするだけでも倒すことはできる。……でもやっぱり、魔法を使ったほうがいいとされてるね」
「それは何故なんでしょう」
ミカヤの問いに、バーンが皮肉げな笑みを浮かべた。
「ま、奇跡の力で悪を討ったほうが、見栄えとして悪くないからかな。普通の国民では扱うことのできない、奇跡の力を行使できるんだっていうアピールも含まれているんだと思うよ」
「ああ、そういう……」
ミカヤが少しうつむく。馬車の中での会話を思い出したのだろう。
貴族とそれ以外の国民、両者の間を隔てている壁。今まで見えていなかった壁に気がついた途端、それがいかに分厚く、高く聳え立っていたのかということを実感する。そしてその壁は、貴族側が一方的に作り出している――。
「おいおい、確かにそういう一面もあるだろうが……魔法で魔物を倒すというのはそれだけが理由じゃあないぞ」
ミカヤが顔を上げると、林の中の一本に馬をくくりつけた騎士がこちらへ歩いてくるところだった。光り輝くような鎧と美しい装飾の鞘に収められた長剣を身につけ、すっと背筋を伸ばしている様は、いかにも王都騎士団らしい凛々しさを誇っていた。
騎士は腰に手を当てながら言う。
「魔法ってのは、遠距離攻撃が基本だろう? つまりその分、こちらが被害を受ける可能性が減るということさ。確かに魔物は棒で叩いたり剣で斬っても倒せるだろうが、そうするためには奴らに近づく必要がある。凶悪な爪や凶暴な牙、もしかしたら醜悪な毒などを持っているかもしれない魔物に……だ。確かにここ最近現れる魔物たちは雑魚ばかりだが、過去には一度攻撃を食らっただけでも致命傷になるような強力な魔物だって確認されている。……そんな奴らをできるだけ迅速に、安全に倒すためには、やはり遠距離から強力な魔法で一掃するのが一番なんだよ」
騎士の言葉にミカヤは納得し、タリアは感心し、バーンは少しバツの悪そうな笑みを浮かべ、マクスは無表情のままだった。四者さまざまな後輩たちの反応に騎士は苦笑すると、林の一角を指差した。
「さ、準備ができたのならみんなと合流しよう。……まったく、こんなところでだべっているもんだから、最後尾の生徒が降りてきちまったぞ?」
最後尾の馬車には、他の馬車とは違い一人しか生徒が乗っていなかった。なぜ生徒一人に馬車一台などという待遇が与えられているのかといえば、
「お。……マクス、君の元クラスメイトじゃないか」
マクスはこっそり見つめていたミカヤから目を離し、馬車から降りてきたゴールドランクの生徒のほうへ視線を向ける。
降りてきたのは艶やかな長髪の女生徒だった。色白なミカヤよりもさらに白い肌を持つ美人だったが、切れ長の鋭い目がどこか冷たい印象を与えている。とはいえマクスのように目つきが悪いわけではなく、眉間にしわを寄せているのは単純に機嫌が悪いからのようだった。
彼女はひらりと馬車から飛び降りると、マクスたちのほうへ向かってずんずんと歩を進めてくる。白いシャツに黒のネクタイをつけ、同じく黒のスカートを履いて、マクスが着ているのと同じような外套を上に羽織っていた。外套の隙間からちらりと見えた慎ましやかな胸元に、ゴールドランクであることを示すバッジが光り輝いていた。
「マクス、久々に会ったんだし挨拶でもしたらどうだい?」
バーンはにやにやと笑いながらマクスのことを茶化したが、
「……誰だ?」
マクスの思わぬ言葉に、そしてその言葉を聞いてより一層眉間のしわを増やした女生徒に肝を冷やすことになった。
「……冗談だろ、マクス? 仮にも去年一年間、同じクラスだったんだろう? しかも、確か彼女は……」
「そう言われても、覚えていないものは覚えていないぞ……」
いったい何のことだったら覚えているんだとバーンは内心毒づいたが、好きな子のこと以外頭に入らない哀れな友人のため説明する。
「……彼女は、クリスティア・ヴァイオレット。ゴールドランク生徒で、現在三年生では学年トップの成績を誇っていると言われてる。つまり……」
すぐそこまで迫ってきているクリスティアをちらりと見ながら、バーンは唾を飲み込んだ。
「……君がゴールドにいた去年までは、学年二位だった子さ」
マクスにはあずかり知らぬことだったが、クリスティア・ヴァイオレットがマクス・ローウェルに対抗心を燃やしているという事実は、彼らの学年ではかなり有名な話だった。
――王都の有力貴族であるヴァイオレット家。その一人娘のクリスティアは学年トップの座をマクス・ローウェルに掠め取られたことを根に持っており、虎視眈々と逆転のチャンスを狙っている……いや、あわよくば命をも狙っていると、生徒たちの間ではまことしやかに噂されている。
命云々という噂の審議はともかく、クリスティアがマクスのことを睨んでいる光景はしょっちゅう目撃されていたし、マクスとクリスティアの実力差は誰の目から見ても明らかだったため、学年トップの座をかけて、マクスとクリスティアが対立関係にあるのは間違いないと言われていた。
ところが当のマクスが、争っていたはずのクリスティアのことを知らないと言う。聞き方次第では、クリスティアのことなど眼中になかったと捉われても仕方のない発言であり、さすがのバーンも内臓が縮むような思いだった。
クリスティアは変わらず険しい顔でずかずかと近づいてくる。騎士も、ミカヤも、タリアもバーンも無視して歩を進めてきたクリスティアは、マクスの目の前で立ち止まりぎろりと彼を睨んで一言、
「どいて」
とだけ言い放った。
「ああ」
マクスの背後には、この課外活動に参加している生徒たちが、任務の説明を騎士から受けるため一つ所に集まっている。彼らに合流しようとしているクリスティアの進路を塞いでしまっていると気がついたマクスは、特に何かを言い返すこともなく素直に道を空けた。
「……ふん」
クリスティアはつまらなさそうに鼻を鳴らすと、マクスへ視線を向けることもなく生徒たちへと合流していった。心なしか、足取りがさらに荒々しくなっていたが、マクスは気にも留めなかった。
「……勘弁してくれよマクス。寿命が十年は縮むかと思った」
マクスが声に振り返ると、バーンが心臓を押さえながら大きくため息をついていた。
「何をそんなに緊張してたんだ?」
「……マクスのことだし、噂のことなんて興味もなかったんだろうけどさ。それにしたって、仮にも学年トップの秀才だよ? もし怒らせたりしたらどうなるか……ゴールドランクがいかに優遇されているかを知らないわけじゃないだろう? ……もしかして知らない? いや、例え知らなかったとしても、去年まで同じクラスだった子を覚えていないなんて言ったら、どれだけ怒られても文句は言えないだろう」
バーンの説教を聞きながら、あんな女子いただろうか……と本気で考え込んでいたマクスだったが、
「マクス君」
「えっ、はい」
むっとした顔で低い声を出したミカヤに驚き、思わず背筋を伸ばして返事をした。
「バーン君の言うとおりです。クラスメイトの顔を忘れちゃうなんて、とっても失礼ですよ」
「…………」
好きな子に睨まれてぐうの音も出ないマクスに、ミカヤはさらに畳み掛ける。
「もしかして、マクス君は来年になったらわたしのことも忘れちゃうんですか?」
「い、いや! そんなことは」
「もしそうだったら……わたしは凄く寂しいです。きっとクリスティアさんだって、寂しい気持ちになると思います。そうじゃないですか?」
「……はい」
「だったら、ちゃんとクリスティアさんに謝らないと。この課外活動中にもう一度会いに行ってくださいね。約束ですよ?」
「わかった……」
目つきの悪い男子を、背の低い女子が叱っている光景を、騎士とバーン、タリアが見守る。
「……なんだい、彼女は怒らせると怖いのか? まるで母親と子供みたいだな」
「まぁ、マクスが実は子供みたいだってのは認めるけど。だけど、ミカヤさんがあんな風に怒るなんて知らなかったな」
騎士はあきれた様な笑顔を浮かべ、バーンは実に愉快そうにくつくつと笑った。ただ一人タリアだけが、ほんの少し複雑そうな顔をしていた。
「……確かにミカは無礼とか、不正とかを嫌うところはあるけれど。でも、他人にあそこまで強く言うことなんて滅多にないわ」
「へえ? じゃあ、あれってどういう意味なのかな」
無表情で平謝りするマクスと、敬語での説教が延々と続いているミカヤを指差して、バーンがタリアに問いかける。タリアはやけに楽しそうな彼をじろりと睨むと、小さな声でぽつりとつぶやいた。
「……それだけ、心を許してきてるってことでしょ」
課外活動のため王家の丘に集まった十七名の生徒たちは、貴族の子息たちを前にしてガチガチに緊張した騎士から説明を受ける。
任務の目的は行方不明となった生徒たちの捜索であること。騎士たちも生徒とともに丘を捜索するので、何かあった場合は近くの騎士を呼ぶこと。特に行方不明者を見つけた場合は、速やかに報告に来ること。万が一魔物や凶暴な動物に遭遇した場合も、無理せず騎士を頼ること。暗くなる前には撤退するので、夕方には入り口まで戻ってくること。……それ以外、特に決まりはないこと。
最後の説明を聞いて、班毎に分かれていたはずの生徒たちは気の合う生徒同士で勝手にグループを作り、三々五々に林の中へと散っていった。中には明らかにカップルと思われる二人組もおり、どうやら勇者学校の活動の一環であることを完全に忘れているようだった。
「……というわけで、僕らも二手に分かれない?」
散って行った生徒たちを見て、突然そんなことを言い出したバーンを、タリアが責めるようにねめつける。
「何がというわけで、よ? あなたまで学校の活動であることを忘れて、ピクニック気分になっているんじゃないでしょうね」
「忘れてないさ。……ただ、別に僕ら四人で固まっている必要はないんじゃないかって言ってるんだ。馬車の中から見たときも思ったけど、実際に着いてみてはっきりわかった。相当広いよここは」
バーンは両手を大きく広げて、王家の丘を表した。
確かにバーンの言うとおり、王家の丘は小山のように大きく、広い。丘の手前側からでは、どれほど奥まで広がっているのか見通すことすらかなわない。そのうえ並び立つ木々が視界を遮っているため、実際の広さよりもさらに深く感じられた。
「だったら、少しでも捜索範囲を広げるために、二手に分かれるのは良い手だと思わない?」
これは当然、建前だ。
バーンは恋する友人のため――半分は単にそうしてみたら愉快そうだからという、自分本位な理由でもあったが――マクスとタリアを二人きりにするお膳立てをしたかっただけにすぎない。
ただ、意外とバーンの意見が刺さったのか、タリアは真剣に考え込んでしまった。
「う……確かにそれは一理あるわね。でも、わたしたちはブロンズなのよ? 何かあったとき咄嗟に身を守ることが難しいんだから、あまりバラけるのは良くないと思うけど」
「その点は問題なし」
そう言うと、バーンはマクスの背中を押してミカヤの隣に立たせる。どぎまぎしているマクスときょとんとしているミカヤをその場に放置すると、今度は御者をしていた騎士の腕を無理矢理引っ張ってきた。
「僕とタリアさん、マクスとミカヤさんのチームにすればいい。そして僕らのチームは、こちらの騎士さんの傍にいればいいのさ。これなら何が起こっても、すぐに騎士さんに助けを求められるから安心だろ?」
「……わたしたちはね。ミカたちはどうなるのよ? 別の騎士の方を引っ張ってくるつもり?」
バーンが軽く人差し指を振って、タリアの言葉を否定する。
「まさか。マクス一人で充分ってことだよ」
「え? でも……」
「マクスは今でこそブロンズランクだけど、腐っても元ゴールドランクだよ? 強力な魔法自体は使えなくなったけれど、実戦で魔法を扱うことに関しちゃそこらのシルバー生徒よりも上手い。それにこう見えて、マクスは結構剣の腕が立つんだ。魔物に遅れを取ることはないよ」
自信満々な様子のバーンに、タリアは面食らった顔をした。バーンがここまではっきりとマクスのことを評価したのを見たのは、これが初めてだったからだ。
「ふうん……」
タリアはちらりと、ミカヤの傍に立つマクスを見て眉根を寄せる。マクスは相変わらず何を考えているのかわからない無表情で、こちらを見返してきた。以前ならその目つきの悪さで、理由も無く悪印象を与えられたが、顔を見慣れてしまったせいか今ではそれほど嫌な気はしない。
だが、タリアは他人の評価を鵜呑みにしてしまうほど、素直ではなかった。
「……ごめん、試させて」
タリアが素早く、剣を抜き放った。
物心ついたころから今に至るまで、日夜続けている訓練によって身についた、淀みの無い動き。そのまま何の遠慮も容赦も無く、刃をマクスに向けて振り下ろした。
バーンもミカヤも、目の前でタリアがマクスに斬りかかったことにしばらく気がつかなかった。あるいは、何か冗談を見ているような気分だった。タリアの動きがあまりにも自然体であり、何の前触れもなかったせいかもしれない。二人が目の前で何か起こったことに気がついたのは、金属同士がぶつかった嫌な音が周囲に響いたときだった。
「……!」
タリアは驚愕に目を見開く。
タリアの振り下ろした刃は、マクスの抜き放ったショートソードによって、その勢いを完全に殺されていた。
マクスは左腰に差していたショートソードを逆手で抜き、そのまま体の前でタリアの両手剣を受け止めていた。不思議なことに、それほど体格がいいわけではないはずなのに、左手一本の力だけでタリアの両手剣による斬撃と拮抗している。
――ひと言あったとはいえ、完全な不意打ちだったはずだ。実際、バーンやミカヤでは反応することすら適わないほどの鮮やかな攻撃だった。……もし刃によって止められていなければ、間違いなくマクスを両断できていたほどの。
だがマクスは攻撃を見切り、的確な動作でタリアの攻撃を防いでいた。
まるで、出来るのが当然であると言わんばかりの涼しい顔で。
「タリア!?」
親友がマクスに斬りかかったことにようやく気がついたミカヤが、悲鳴じみた声を上げる。その声を聞いてタリアははっと我に返り、マクスに向けていた剣をゆっくりと収めた。
「い、いったい何をしたの? どうして……」
「……試そうとしたの、本当に彼が強いのかどうか」
慌てたように問いただしてくるミカヤから顔を背けながら、タリアは答える。
タリアは、バーンによるマクスの評価が、どうしても信じられなかった。体つきもそれほど鍛えているようには見えないし、剣を振っている姿だって見たことが無い。タリアの父や兄はいずれも剣術が達者だが、そういった人々には何かしら特有のオーラのようなものをタリアは感じていた。だが、彼らのような強い者の雰囲気すらも、マクスからは感じられなかった。
だから、いつものバーンの冗談だと思ったのだ。それを証明するために、普段であればやらないようなことを行った。不意打ちで彼を攻撃し、当たる直前で剣を寸止めすることで、マクスが急な危機には対応できないことを証明しようとしたのだ。「ほら、やっぱり弱いんじゃない。これならわたしがミカと組んだほうがマシね」――そんな風に、言い放つつもりだった。……当然、そうなると思っていた。
タリアは自分の強さに、それなりの自信を持っている。父や兄とは幼い頃から共に訓練をしていたし、今現在でも常に修練は欠かさない。男子生徒を投げ飛ばしたという恥ずかしい噂が広まっているのは少し気になっていたが、自分の強さの証明でもあると思っていた。
しかし目の前の男は、そんな自分の攻撃をいとも簡単に受け止めてしまった。完全にタリアの攻撃に反応し、対応したとしか思えなかった。そんな存在が急に目の前に現れたことに、タリアは心底驚き……彼の強さを見抜けず、浅はかな考えで卑怯な攻撃をしてしまった自分を恥じていた。
「試そうとしたって……、もし当たってたらどうするつもりだったの? 大怪我じゃ済まないじゃない!」
ミカヤの悲痛な叫びに、タリアは顔をうつむかせる。
……親友の言うとおりだ、たとえ寸止めしようとしていたとはいえ冗談でやっていいことではない。まして、騎士を夢見ている自分が、同級生に向かって剣を向けるなど……!
(……腕を試すにしても、もっとやり方があったはず。わたし、どうしてこんなことを……?)
自分自身のことがわからなくなってしまったタリアは、みるみるうちに顔を俯かせていく。
「まったくもって、そのとおりだな……っと」
タリアの頭の上に、こつんと拳が振り下ろされる。タリアがそろりと顔を上げると、騎士が憮然とした表情で隣に立っていた。
まだ何か言いたげだったミカヤのことを遮って、話はこれで終わりとばかりに騎士は言う。
「お嬢ちゃんはもう少しお利口だと思っていたんだがなぁ、これじゃ危なっかしくて目を離していられん。わかった、提案どおりお嬢ちゃんとおしゃべりな君は、俺と一緒に行こう。腕の立つ君は、そっちの子を頼む。これで決まり」
「すみません……」
消え入りそうな声で言ったタリアの頭が、今度はやさしくぽんと叩かれた。
「謝る相手は俺じゃないだろう?」
「あ……」
タリアはマクスのほうを恐る恐る見た。侮蔑するような目で見られても仕方が無いと覚悟していたが、マクスは相変わらず目つきが悪いだけでそういった感情は伺えない。というよりいつもの無表情であり、どんな感情を浮かべているのかすらわからない。
心をざわつかせながら、タリアはマクスに近づいていく。
「あの……」
「どうだった?」
「……えっ?」
突然の問いに、タリアは何のことだかわからず困惑する。マクスは若干眉を上げ、もう一度問いかけてきた。
「俺を試したんだろう。合格だったか?」
タリアは口をぽかんと開けた。……確かに、試させてとは言ったけれど。
まさか非難や罵倒の言葉ではなく、そんな言葉をかけられるとは全く思っていなかった。
「……あの、怒ったりしないの?」
「何に?」
「急に斬りかかったりして……」
「少し驚きはしたが、本気じゃなかっただろう。だったら怒る理由が無い」
寸止めしようとしていたことすら見抜かれていたのか。タリアは再度、マクスという男子の評価を改め、深々と頭を下げる。
「……それでも、ごめんなさい。自分自身、どうしてあんなことをしたのか分からなくて……。だとしても勇者学校の生徒として、最低な行いなのは確かだわ……」
「気にしないでくれ。……あいつの発言が信用ならないという気持ちはわかるからな」
……今のはもしかして、マクスなりの冗談なのだろうか? どちらなのか判別がつかず、タリアは思わずきょとんとした顔をする。
「それに、実力がわからないやつにミカヤさんを任せることが心配だったんだろう? ……友達を心配に思うのは当然のことだ、何も恥ずかしいことじゃない」
タリアは目を瞬いた。確かにそういう側面もなくはなかったが、そんなことまでも見抜かれていたのだろうか。ひどく自分が矮小な存在に思えて、タリアは苦笑しながら小さくため息をつく。
「……なんだか、いろんな意味で負けた気分だわ。しかも、まさか剣で負けるなんて……」
「ただの一度、攻撃を受け止めただけだ。勝ち負けなんて話にはならないだろう。……今のだって運がよかっただけで、あんまり買いかぶることもないぞ」
何かをごまかすように視線を逸らしながら言うマクスの様子が妙に子供っぽい気がして、タリアは含み笑いをこぼす。
「……どうした?」
「ああ、ごめんなさい。……でも、買いかぶるだなんてとんでもないわ。あなたは間違いなく強いもの」
「いや、だから……」
「謙遜しないで。……本当の実力を隠されているというのは、あんまり気分のいいものじゃないわよ?」
一瞬、マクスが胸を突かれたような顔をした気がして、タリアは目を凝らした。……見返したところでいつもどおりの無表情しかなかったので、タリアは気のせいだったかと結論付ける。
「……肝に銘じておこう。ありがとう、シュタインズさん」
「? どうしたしまして」
……これを言うのは、酷く勇気が要った。しかし、ここ以外言うタイミングはないとタリアは勇気を振り絞る。
「……それに他人行儀に呼ぶ必要もない。わたしのことは、タリアでいいわ」
「……そうか、ならば俺もマクスでいい」
「! ふふ、了解」
タリアの表情が、暗いものからぱっと和らぐ。
学校の中庭で初めて対峙し、一緒に授業を受けて食事をして、バーンやミカヤを交えて会話をするようになっても……タリアはどこかマクスのことを受け入れきれないでいた。
もともとゴールドランクだったこと、ミカヤを時折意味深な視線で見ていること、いつまでたっても無表情から顔色が伺えなかったこと……理由はいろいろとあるが、結局は「よくわからないヤツ」だから、なのかもしれない。何か重大な秘密を抱えている……そんな風にすら思っていた。
(……駄目ね、頭が固くて)
マクスを大げさに捕らえていた過去の自分を、タリアは内心で笑い飛ばす。
たとえ元ゴールドランクでも、今は同じブロンズランクの仲間だ。彼自身、自分が元ゴールドであることを気にする様子は一切無い。結局、タリアのほうが勝手に意識していただけの話だった。ミカヤへの視線だって大して意味は無いものかもしれないし、無表情の中にも何かしら違いがあることを最近ようやくわかってきた。
単に、人柄を理解するのに少し時間を要するタイプなだけだったのだ。
それがわかったきっかけが剣の腕だというのが自分らしくて、タリアは一人自嘲する。あの剣筋は、一朝一夕で身につくものではない。マクスも自分と同じように、見えないところで努力をしていた人間だった。……そう理解した途端に、マクスに対する拒否感が心の中から消えていった。
彼は、信用できる人間だ。
「ミカのこと、よろしくね。……友人としてお願いするわ、マクス」
……勝手に苦手意識を持っていたくせに、こんなことを言うのは図々しいかもしれないけれど。
タリアはそう言わずにおれず、マクスに向かって手を差し出した。
「…………」
差し出された手をマクスはしっかりと握り返し、決意を固めた無表情で答える。
「ああ。……命に代えても」
「……えっと、そこまで気負う必要は無いのよ?」
マクスたちの様子を、離れた位置から伺っている生徒がいた。
彼らが四人で話し合い、途中で騎士を引き連れてきて、突然女子生徒がマクスに襲い掛かり、かと思えば妙に親密な様子に変じていくところまでを見届けてから、彼女は踵を返して林の中へと一人で入っていった。
彼女……クリスティア・ヴァイオレットは腹が立っていた。
まず、この課外活動に参加しなければならないことに腹が立っていた。
彼女はゴールドランクの生徒であり、シルバーランク以下の生徒たちが受けるような必修授業を受ける必要が無い。退屈な通常授業という楔から解き放たれている彼女ではあるが、しかし課外活動参加の義務からは逃れることができなかった。例えゴールドランクの生徒であっても、こればかりは免除されないのだ。
貴族である自分が、なぜ今更学校で奉仕活動について学ぶ必要があるのか。国への奉仕心などというものは、幼いころから両親に耳にタコができるほど聞かされているし、自分の中できちんと消化してもいる。こんなくだらない活動に参加するくらいなら、学校で魔法の研究をしていたほうがよっぽど国への奉仕となるはずだ。……そう主張しても教師が取り合ってくれないことに、また彼女の苛立ちが募るのだった。
二つ目に、課外活動の内容に腹が立っていた。
行方不明となった生徒の捜索。仮にも国を守る勇者を目指している勇者学校の生徒が行方不明になっているという事実に情けなさを覚えるが、彼らを助け出すことに関しては否定的な感情は持たない。彼らの大半は貴族ではない国民であり、それならば彼らを助けるのは貴族として当然のことだからだ。
ところが一人、貴族の生徒が混じっているのだという。その上、彼はサボタージュの常習犯だったらしい。
無能な貴族が多すぎる、と自分の父親がよくこぼしていたことを思い出す。実際、勇者学校に入学してさまざまな貴族の子息たちを見て、彼女自身も実感していた。高尚な思想もなく、親に言われるがまま入学し、まともな努力もしていない貴族の子供たち。貴族としての自覚が無い生徒を何人も見かけるうちに、そんな跡取りしかいない家など、取り潰してしまえばいいのだと彼女は考えるようになっていた。それほどまでに、情けない貴族が勇者学校には多かった。
クリスティアにとっては存在する価値さえ見出せない貴族の生徒……そんな生徒を助け出せと、学校は言う。常々消えてしまえと思っていた存在を、彼女自身に助け出すよう、学校は指示を出したのだ。……そんな指示に彼女が納得いく筈も無く、クリスティアの頭には血が上るばかりだった。
最後に……あの男に、どうしようもなく腹が立っていた。
クリスティアは勇者学校に入学し、あの男……マクス・ローウェルと出会うまで、およそ敗北というものを知らなかった。同年代の子供たちに運動や勉強で遅れを取ったことはないし、魔法の才能も抜きん出ていると誰もが彼女を誉めそやした。勇者学校に入学すれば、常に学年トップのまま卒業するものだと、本人も周囲の人間も当たり前のように考えていた。
だが、突如現れたマクス・ローウェルに、彼女は敗北というものを教えられた。誰がどう見てもマクスはクリスティアよりも優秀で、自分自身がそれを一番感じ取っていた。今までの当たり前が崩れ去り、クリスティアは泣いて悔しがった。
しかし、クリスティアはそれなりにタフな精神の持ち主だった。泣いた翌日には、いずれはマクスを追い抜いてやると、今まで以上に努力を重ねるようになった。マクスとの差は歴然であり、ちょっとやそっとの努力ではとても実力をひっくり返すことなどできない。だが彼女は、ひたむきに努力し続けた。もしかしたら、本来は追いかける立場であるほうが伸びる性格だったのかもしれない……そう思わせるほどに、クリスティア自身の実力も、一年のうちにみるみる伸びていった。
一年生が終わり、マクスもクリスティアも当然のようにゴールドランクの称号が与えられた。目標とする人間が常に近い場所にいる環境で己を高めることができる……負けっぱなしであるという悔しさ以上に、クリスティアはそのことが嬉しかった。卒業するころには成績を逆転させてやる……いつの間にか、それがクリスティアのモチベーションとなっていた。
ところが、クリスティアが望んでいたはずの学年トップの座は、彼女が望まない形で手の中に転がり込んできた。マクスは突然ブロンズランク程度の魔法しか使えなくなり、事態を確認した勇者学校は、二年生の途中であるにも関わらず、マクスをブロンズランクへ降格させた。隣にいたはずの目標が突如として消え去り、クリスティアの胸にはぽっかりと穴が開いたような空しさのみが残された。それからはマクスの顔を見る気にもなれず、そもそもゴールドとブロンズでは受ける授業が違うため、三年生になってから一度も会っていなかった。
それが今日、課外活動への参加で偶然出会うことになったのだが、
「……誰だ?」
自分がマクスにとって、ライバルにすらなっていないことは重々承知していた。だがしかし、彼の口から転がり出た発言を聞いて、クリスティアの頭の中にかっと熱いものがこみ上げてきた。
……自分からトップの座を差し出しておいて、忘れてるんじゃないわよ!
当然、マクスにはそんな意図はない。彼は別に、クリスティアにトップを譲るためにその座を退いたわけではないため、完全にクリスティアの八つ当たりだった。だが熱くなった頭では、そこまで思考が回るはずもない。自分に対して何の感情も抱いてなさそうな無表情に、彼女はとにかく腹が立った。
加えて、同じブロンズランクの生徒とのほほんと会話していることにも憤りを隠しきれなかった。
てっきり、魔法を失って意気消沈しているものだと……そうでなければ失われた魔法を取り戻すため、無我夢中で努力を重ねているのだと思っていた。
ところが本人のどこにも、気落ちしている様子がない。それどころか、ゴールドランクにいたころよりも、どことなく楽しそうですらある。やたら親しげな男子と凛々しい女子、小動物みたいなかわいらしい女子の三人とのんびり親睦を深めている様子は、まるでクリスティアが嫌う無能な貴族のようだった。ゴールドランクにいたころは、同じゴールドランクのクラスメイトとすら不必要に会話をしない、ストイックなやつだったのに……! 様変わりしてしまったマクスの様子に、クリスティアの怒りは頂点に達したのだった。
腹が立つ。ああ腹が立つ……!
自分自身なぜここまで怒りがこみ上げるのかわからないままに、彼女は足を動かした。
クリスティアは憤怒の形相を浮かべながら、王家の丘を奥へ奥へと進む。時折すれ違う生徒たちが、彼女の顔を見て恐れをなして逃げていったが、そんなことは気にも留めなかった。
……こんな課外活動、さっさと終わらせてしまおう。行方不明者がいるのなら速やかに救出し、いないのであれば即座に帰還し、魔法研究の続きを進めるのだ。……かつて隣に存在し、今では彼女の記憶の中にしかいない目標に、少しでも近づくために。
歩を進めるうちに、少しずつ木々が増えてきた。王家の丘の奥側、森の広がる地帯へと差し掛かっているのだ。
密度を増した森の木々によって、地に映る影はその濃さを増している。ほとんど真っ暗にも見えるその影のなかに、クリスティアは足を踏み入れた。
――瞬間、クリスティアの背後の影が、不気味な闇へと変貌する。
まるでその一点だけが奈落に続いているかのように、クリスティアの背後の影だけが漆黒の闇へとその色を変貌させた。明らかな異常事態であるにもかかわらず、一人きりかつ怒りで思考がいっぱいになっているクリスティアは、背後に作り出された闇に気づくことができず、不用意に森の奥へと進んでいく。
クリスティアの歩みに追従するように、闇がずるりと動き出す。彼女の背後にぴたりとつき、彼女が歩幅を緩めればその動きを緩め、動き出せばまた同様に動き出す。
動き続けるうち、闇はその大きさを広げていく。初めはクリスティアの影程度の大きさだったのが、今や彼女の体をそっくり飲み込んでしまえるほどの大きさへと成長していた。
――ずるり、と。なんの前触れもなく闇の中から、一本の足が現れた。
それは、獣の足だった。揺らめく闇が毛皮のように、足を覆っている。一本が音もなく地面に足を降ろしたかと思えば、同じようにもう一本の足が闇の中から現れる。……まるで巨大な獣が、闇の中から外へと這い出そうとしているようだった。
二本の前足に続いて現れたのは、犬のような頭だった。ただし目や耳は見受けられない。ぼやりとした輪郭に、するどい牙とだらしなく垂れている舌だけが存在を主張している。影の犬は人の背丈もありそうな巨大な図体をしているというのに、まったく音を立てずにクリスティアの背後に這いずり出てきた。
周囲に突如、つんとした臭気が充満する。
腐臭のように強烈な――魔物の臭い。
影の犬は大きな口をばかりと開け、後ろ足に力を込めると、クリスティアへと飛び掛る。
――クリスティアは未だ、背後の異常に気づいていない。