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 土が平に均された一本の街道の上を、一頭立ての馬車が連なって走っている。

 走る馬車は全部で五両。馬車を引く馬たちはゆったりと、一定のスピードを保ちながら走り続ける。馬たちには荘厳な装飾のついた馬具が装備されており、装飾にちらりと見える文様――四大魔法と両刃剣が象られている――から、馬たちが王都騎士団所有の物であることを示していた。

 馬たちが引いているのは全て立派な幌つきの馬車で、人間が四人、寝転がることができるほど大きい。御者台には王都騎士団に所属する騎士が座っており、馬がぐずついて馬車を揺らしたりしないよう、細心の注意を払いながら手綱を握っている。

 空を見上げると、薄く広がった灰色と白の雲が太陽の光をさえぎっている。まだ天気が崩れることはなさそうだが、もう少し雲が分厚くなればすぐにでも雨が降り出してしまいそうだった。

 馬車の走る街道はなだらかな勾配があり、街道の左右に並び立つ緑の木々によって景色は彩られている。木々の隙間からは時折鳥の声が聞こえ、どことなく穏やかな空気が流れていた。

 そうして一列に並んで走るうちの、後ろから二つ目の馬車の中では、

「あとどれくらいで着くんだっけ?」

「まだまだでしょう。王都を発ってからそれほど経ってないわよ」

「どんなところなんでしょうか? 大変なことになってないといいんですけど……」

「…………」

 四人のブロンズランク生徒が会話を繰り広げていた。

 マクス、バーン、ミカヤ、タリアの四人は、各々がリラックスできる体勢で座りこんでいる。お尻が痛くならないよう、下に布を重ねて敷いていた。

「……しかし、この四人で課外活動をすることになるとはねぇ」

 顔ぶれを眺めながら、バーンが感慨深げにつぶやいた。

 馬車の中では、男子二人が進行方向から見て右側に、女子二人が左側に座っている。マクスの正面にはミカヤが、バーンの正面にはタリアが腰を落としていた。寮の食堂で昼食を取った時と同様に、バーンがレディファーストだと言って女子二人を先に座らせ、ミカヤの正面にマクスが座れるように誘導したのだった。

 しかし当のマクスは相変わらずで、積極的に好きな女子に話しかけることはできず、それどころかいつまで経っても沈黙を崩さないので、結局バーンが水を向けることになっていた。

「そのうえ、この前話していた件がらみでとはね。まさかこんな事態にまで発展するとは……あのときは思ってもみなかったよ」

「この前、ですか?」

 普段どおりの白い服に身を包んだミカヤが、バーンに問いかける。

「ああ。ちょうどタリアさんと授業が一緒になってさ。そのとき、欠席している生徒が多いなって話をしていたんだ。それで、あれこれと想像を働かせていたんだけど……」

「そのとき、もしかしたら行方不明になっていたりして……なんてことを話していたのよ」

 バーンの言葉を、物々しい装備を着込んだタリアが引き継ぐ。普段着ている動きやすそうな装いの上に、丈夫そうな革の鎧を身に纏っていた。

「以前、中庭でミカにちょっかいを出していた男たちがいたでしょ? 三人組のやつらよ。そのうち一人だけが授業を欠席をしていたの。普通、サボるにしたって仲のいい三人でサボって街に繰り出すのが道理じゃない。それなのに、一人だけがいない……しかも残された二人はどこか不安げ……。もしかして、何かのっぴきならない事件が起こっているんじゃないか……なんて、くだらない話をしていたんだけど」

「……くだらないどころか、真実だったのか」

 いつもどおりの黒尽くめに外套だけ羽織ったマクスが、ようやくぽつりと相槌を打った。



 街道を往く五両の馬車には、最後尾の一両を除いて各馬車ごとに五名の人間が乗っていた。一人は馬の手綱を引く王都騎士団所属の騎士だが、残りの四人は勇者学校に所属する学生の集まりだった。

 勇者学校の生徒には、学校に通い授業を受ける以外にもうひとつ、義務が課せられている。

 それこそ、現在マクスたちが挑んでいる、課外活動への参加だ。

 課外活動とはすなわち、ロクスベルゼ王国への奉仕活動のことだ。学生の頃から騎士団や貴族たちが常日頃行っている奉仕活動を経験し、国を守る勇者にふさわしい健全な精神を身につける……という名目で、年に数回参加する必要がある。

 参加する課外活動の内容を生徒が選ぶことはできない。基本的には教師陣によってランダムに内容と生徒が選ばれ、これらの者たちはこれこれこのような課外活動への参加を命ずる……という掲示が張り出される。

 自分にとって得意な分野でも不得意な分野でも、全力で取り組むことが課外活動においてもっとも大切なことである……というのが、一年生のときに初めて課外活動に参加した際に教師たちが語る内容なのだが、

「実際のところ、『参加するだけ』で成績には充分反映されるんだよねぇ。平和なロクスベルゼ王国において、勇者学校の卒業生に求められるのは国を守ろうとする意思じゃない。魔法技術の発展によって得られる恩恵こそ、卒業生に求められるものだ……ってね。となると、魔法関係の課外活動以外は、参加するだけ無駄……とも言える」

 バーンがつまらなさそうに頭をかく。バーンの物言いに、正面に座っていたタリアが唇を尖らせた。

「ちょ、ちょっと。せめてもう少し声を抑えなさいよ……聞こえちゃうでしょ」

「聞こえてるよー、お嬢さん」

 不意に声をかけられて、タリアがびくりと肩を震わせる。おそるおそる顔を向けた先には、国を守ることこそが使命である騎士が、にやりと笑いながら四人を見ていた。

「あ、あの! 申し訳ございません、この男も決して本気では……」

「あっはっは! いいのいいの、真実なんだから」

 恐縮仕切りのタリアに、騎士の男は気持ちのいい笑顔を向けた。タリアはほーっと安堵の息を吐き……考えてみればどうして自分が謝らなければいけないのか、とバーンをきろりと睨んだ。

「確かに、今この国を支えているのは騎士ではなくて、魔法技術の研究者さ。何せ魔法道具は文句なしに便利だからね、技術が発展すればするほど、騎士だって大助かりさ。国民だって、出現頻度が大幅に減っている魔物を退治してくれる騎士なんかより、毎日の生活を潤してくれる研究者たちを支持するだろうよ」

「し、しかし。いざというときに命を張るのは、やはり騎士の方々で」

「もちろんそうさ。だがまぁ、そんな事態にはそもそもならないほうがいいだろ? 騎士なんてのは暇なほうが、国が平和な証拠なんだ。たまにこうして、お鉢が回ってくればそれでいい」

 騎士の言葉に、タリアは複雑そうな表情を浮かべる。自らの憧れる騎士が、国や国民に求められていない現状に満足していることに納得がいかなかったが、彼の言う『騎士が暇なほうが国は平和である』という言葉には同意するほかなく、胸の中で渦巻く感情をどう処理すべきか迷っていた。

 前を向きなおって馬の手綱を握る騎士は、そんなタリアの表情に気づくことなくしゃべり続ける。

「……しかし、こんな任務は俺も初めてだな。勇者学校生徒の集団失踪だって? なんだってそんなことになるんだ?」

『行方不明となった勇者学校生徒の捜索』――それが、現在マクスたちが参加している課外活動の内容だった。マクスたち四人を含め、総勢十七名の生徒が課外活動に参加している。

 ――とある貴族が、自らの息子が家に帰ってこないことを勇者学校に連絡したのが一週間ほど前。当初は単なる家出であり、友人の家や街の宿屋に部屋を取って遊びほうけているのではないかと疑われたのだが、

「貴族の友人は貴族、心当たりのある家なんて数が知れているからね。普段から懇意にしている友人宅へと連絡したが、当然収穫なし。では宿屋かと住民街にある宿屋を徹底的に捜索したけど、こちらも外れ。……何せ貴族の息子だ、住民街でわざわざ宿を取ったりしたらいやでも目立つっていうのに」

 難しい表情で黙りこくってしまったタリアにかわり、バーンが騎士との会話を引き継いだ。

「そうこうしているうちに、そういえば欠席している生徒が多くないかと言い出した教師がいたらしいね。念のためにと生徒の状況を確認してみたら、なんとびっくり。勇者学校はようやく、十人もの生徒が行方不明になっていたことに気づきましたとさ……」

「呆れた話だ。オヤジくさくなるからあまり言いたくはないが、最近の勇者学校はたるんできているな。平和な時代が長く続いているから、気持ちはわからなくもないがね……」

 騎士はふんと鼻を鳴らす。王都騎士団に所属している以上、彼も勇者学校の卒業生である。かつての母校の現状に関して、思うところがあるのだろう。

「でも、どうして十人もいなくなるまで気づかなかったんですか? そんなにたくさんいなくなっていれば、誰かが……たとえばいなくなった人たちのご両親が不審に思ってもおかしくはないと思うんですけど……」

 ミカヤが訳知り顔のバーンに問う。

 問われたバーンは、呆れ顔を隠そうともせず答えた。

「いやそれがねぇ……ミカヤさんの言ったとおり、消えた生徒たちの親は当然、自分の子供たちが家に帰っていないことに気づいていたんだ」

「それじゃあ、いったいどうしてこんなにも発覚が遅くなったんですか? 最初に気づいた時点で探していればこんな大事には……」

「実はね……消えた生徒たちは皆、最後の一人を除いて貴族ではなかったんだ」

 聞いた途端、ミカヤの表情が暗くなる。呆れや諦観の混じった、悲しそうな表情。その表情を見て、正面に座るマクスの目が細まる。

「住民街のほうでは、ずいぶんと話題になっていたらしいよ。息子がもう何日も帰ってこない、いくら街を探しても見つからない……親御さんたちは必死に子供たちの行方を探してた。でも住民街を目を皿にして探しても、まったく手がかりが掴めない。それじゃあやはり、学校のある貴族街にいるんじゃないか、という話にはなったんだけど」

「……そっか、国民の人たちは貴族街に勝手に入っちゃいけないから」

「そういうこと。当然貴族街に繋がる門を守る兵に問い詰めてもみたけど、家出したんだろうの一点張りで話も聞いちゃくれなかったらしい。学校への問い合わせすら拒否されて、途方に暮れていたそうだ」

「……ううむ、ひでえ話だ。今頃勇者学校の教師たちは戦々恐々だろうな」

 騎士が眉根を寄せて、うなるような声を上げる。

「だろうねぇ。家族との連絡方法がなかったおかげで、貴族の息子にまで被害が及んでしまったわけだからね。防げたはずの事態が防げなかったと。……きっと今頃、言い訳と対応策の模索に四苦八苦してるだろうさ」

「違いない。……それにしても君、妙に詳しいな。俺たち王都騎士たちにだって、そんな情報は入ってきていないぞ?」

 バーンがにやりと、不敵な笑みを浮かべながら言う。

「もともと自分たちで話していた、冗談みたいな話が事実だったんだ。不謹慎だとは思うけど、つい面白くなってさ。勝手にいろいろ調べてみたんだよ」

 不遜な態度の後輩に、騎士は苦笑いを浮かべる。

「まったく、感心していいものか悩むところだな……。だがまぁ情報ってのは重要だ、せっかくだから俺にもいろいろと教えてくれよ」

「もちろん。僕に答えられる範囲でならいくらでも」

「ありがとよ。じゃあさっそく質問だが、消えた生徒たちには何か共通点とかはないのか? 例えば、同じ授業を受けていたとか、同じクラブ活動だったとか……。騎士団のほうでは、貴族を含む複数の生徒たちが消えた、としか聞いていなくてなぁ」

 バーンは顎に手を当て、記憶を引っ張り出す。

「僕が調べたかぎりでは、そういう話は聞いていないな。……というより、むしろ完全にバラバラ、授業やクラブでの接点はなかったみたいだ。これもまた、行方不明者の発覚を遅らせた原因なんだけど」

「なに? ……ああ、そうか。同じ授業を受けていたら出欠確認でおかしいとわかるが……」

「バラバラの授業なら、そうはいかない。一つの授業で十人も休みが出たらさすがに教師も異常事態を疑うけれど、十の授業に一人ずつ欠席が出たところで誰も何も気にしないからね」

 ただし、とバーンが人差し指を立てる。

「唯一、共通点があった。消えた生徒たちは、みんな僕たちと同じ三年生だったんだ。おかげで教師たちも、生徒たちが揃って休んでいる事実に対して、それほど危機感は抱かなかったわけさ」

「ああ、なるほどな……」

 ため息を吐きながら騎士は納得したが、二人の話を聞いていたミカヤは首をかしげた。

「えっと……どうして三年生が休んでも、誰も気にしないんですか?」

「ミカヤさんみたいな真面目な学生にはピンと来ない話かもしれないけど……。ちょっとでも耳に入れたことない? 『三年生は中だるみの時期だ』って」

 バーンが声色を変えながら言い放った言葉を聴いて、ミカヤはとある授業での記憶を思い出す。

「……そういえば、ベレッタ先生がそんなことを言っていたような」

「一年生は入学したばかりだし、まだランクも決まっていないからみんな真面目に授業を受ける。二年生でランクは決まるけど、まだ初年度の熱が残っているからか授業にしっかり出席する生徒がほとんどだ。……でも三年生になると、だんだんと勇者学校の仕組みってものがわかってくる」

 勇者学校の卒業生である騎士が、自らの過去を懐かしむようにしみじみと語りだす。

「一度シルバーランクになっちまえば、ブロンズに下がるなんてことは滅多にない。だが、ゴールドに上がるなんてことも有り得ない……ゴールドランクってのは、特別な才能がなければなれないからな。だからどうしても、勉強に熱が入らなくなってくるのさ。シルバーランク内にも当然実力の上下はあるが、成績に残るのはゴールド、シルバー、ブロンズの三段階だけだからな」

「結果、授業をサボタージュする生徒たちがちらほらと現れるわけさ。少しくらい休んだところで、ランクが下がることはない、だったらもっと遊んでいたい、学校という窮屈な空間から抜け出したい……そう考えてね。実際、最後にいなくなった貴族の息子は、サボりの常習犯だったようだ」

「へええ……。授業を勝手に休むなんて、考えもしなかった……」

 ミカヤがどこか感心したようにうんうんとうなづく。思いがけないミカヤの反応に、バーンの笑顔が少し崩れた。

「……まぁ、やっていることは勇者学校生徒が持つ義務の放棄だ。とても褒められた行動じゃないけど……それでもどうしても、三年生になるとそういう生徒は毎年出てくる。さらに言うと……サボる生徒の割合は、貴族よりも貴族じゃない生徒のほうが圧倒的に多いみたいだ」

「それはどうしてなんですか?」

「貴族はやっぱり、メンツというものがあるからね。あんまりサボりすぎて学校側に目をつけられたりしたら、家の名前に泥を塗るようなものだ。だからたまーにサボることはあっても、堂々と何度もサボる生徒というのはかなり珍しい。では、貴族じゃない生徒はどうかというと。……うん、僕にはわからないな」

 引っ張っておいてわからないと答えたバーンを、ミカヤが拍子抜けしたような目で見た。

「いや、期待させておいてなんだけどね、僕も一応貴族だからさ。貴族の考えることはなんとなく想像つくけれど、貴族じゃない人たちの考えってのは正確には掴めないんだよ。……だからそういうことは、貴族じゃない人に聞かないとね」

 バーンがちらりと、自分の隣に座っている黒ずくめの人物に目を向ける。

「え? ……あっ、そうか。マクス君、小さな村の出身だって言ってましたね」

「この馬車に乗っている五人の中で、貴族じゃないのはマクスだけ。そのマクスから見て、貴族じゃない生徒がサボりやすい理由ってなんだと思う?」

 問われたマクスは、ミカヤが自分のつまらない話をちゃんと覚えていてくれたことに心の底から感激しつつ、自分なりの予想を開陳する。

「……おそらくは、平民にとって勇者学校は居心地が悪いからだろうな」

 途端に、馬車の中の空気が凍りついた。



「…………」

 まるで、時が止まったかのようでもあった。

 騎士はひゅっと笑顔を引っ込め、ミカヤは目を丸くし、バーンは笑顔を貼り付けたまま固まった。先ほどまで消えてしまっていたかのように静かだったタリアですら、まるで禁忌に触れた愚か者を見るかのような目で、マクスのことを見ている。

 ただ一人、凍り付いていなかったマクスが、なんでもないように問いただす。

「どうした、突然」

「……いやぁ、その」

 いつもはおしゃべりなバーンが、なんとも歯切れが悪そうに口をもごもごとさせる。友人の珍しい様子に眉をひそめたマクスだったが、

「……ああ、そうか。俺が『平民』と言ったことが気になっているのか」

「……わかってるなら言葉を選びなさいよ」

 タリアがマクスを責めるような目で睨みつける。だが、マクスは涼しい顔でタリアの視線を受け流す。

「今までこういう事を誰かに言ったことがないし、そっちも俺以外の誰かに聞いたことがないだろうが……いい機会だから言っておく。……平民たちは、『平民』と呼ばれることにそれほど抵抗はないんだ」

「えっ」

 マクスを除く全員が、目を見開いて驚愕する。騎士は思わず後ろを振り返って驚き、勢いよく手綱を引っ張ってしまったため馬が嘶いた。騎士は慌てて、馬をなだめすかす。

「――その昔、勇者に魔法を教わり、勇者と共に魔王を討った者たちがいた。彼らは魔王を倒したこと、さらに魔法によって国を発展させた功績により、勇者――つまり王から爵位を与えられた……それが貴族の始まりだ、という話じゃなかったか」

「そう……その通りだ。真偽はどうかわからないけど、ロクスベルゼ王国の貴族制度は、そこから始まったというのが通説だね。……マクスが歴史の話をするなんて、一体どんな風の吹き回し?」

「まあ聞け。……つまり貴族とは、魔法を用いて人々に豊かさを与える者のことを差す。貴族であれば魔法を使えるのは当然で、逆に使えなければ貴族ではないとも言える。だからブロンズランクは辛いんだろう?」

 マクスの問いかけに、ミカヤとタリアは一度目配せをしてから、こくんと頷いた。

「しかし今や、魔法を使える人間は貴族に留まらない。平民の中にも魔法の才能を持つ人間は増え、王国各地に魔法学校が設立されている。……では、今のロクスベルゼ王国において、貴族と平民の差は一体なんだ?」

 馬車の中に沈黙が訪れた。貴族として育った彼らの中に、答えられる者はいなかった。

「魔法を使えることが貴族の条件だと言うのなら、『魔法を使える平民』を貴族として召し上げてもいいはずだ。だが、そんな話はとんと聞かない。未だに、貴族と平民という区分けは純然として存在している。そして貴族も平民も、その差に疑問を持ったりはしていない。貴族たちは自分たちの得ている特権を当然のように享受している……国民はすべて平等な存在だと嘯きながら。平民たちも自分たちが貴族たちより下だということを、無意識のうちに納得している。――だから、平民たちは貴族たちからどう呼ばれていようと、それほど関心はない。平民だろうが、庶民だろうが、一般国民だろうが普通国民だろうが……なんだろうと気にはしないさ」

「いや……でも」

 珍しくうろたえた様子を見せる友人を新鮮な気持ちで見ながら、マクスは問いかける。

「バーン、お前は俺たちのことをよくこう呼ぶだろう。『国民』だとか『貴族ではない人たち』と」

「え、ああ……そうだね」

「それはおそらく、親からそう厳しく言われてきたんじゃないのか? 平民という言葉は差別的な言葉だ、ロクスベルゼ王国の民はすべて等しく国民なのだから、区分けするような名称を使うんじゃない、と」

 バーンは胸を衝かれたような顔をした。

「……そのとおりだよ」

「貴族たちは『平民』という言葉を相当なタブーと考えている。俺が知る限りという狭い範囲だが、平民という言葉を使った貴族は見たことが無いからな。だが実際のところ、平民たちにとってはそうじゃない。そのタブーはそもそも貴族たちが勝手に考えて決めたルールであり、そこに平民の意見は介入していないんだ」

 マクスの対面に座るミカヤとタリアも、呆然とした顔でマクスの言葉を聴いている。幼い頃から教えられていた常識が勘違いだったと教えられれば、このような顔にもなるだろう。

「今まで知らなかったのも、まぁ無理はない。なぜなら、平民側からそんな事実を言う機会はないからだ。いつだったかバーンが言っていたな、平民の生徒はいつもどこか緊張しているから見れば分かると。それは常に、貴族に対して失礼なことがないようにしているからだ。……滅多な事すら言えないのに、自分たちの呼称への不満だなんて口に出せるわけがない。貴族たちがよく言う『貴族ではない国民』という言葉のほうが気に障る、という人もいるようだ。まるで、貴族でないことを責められているように感じる……らしい」

 好きな女の子の、見ようによってはショックを受けている顔を見て、マクスは内心ものすごく焦りながら無表情で言葉を重ねていく。

「……これは別に、俺が貴族を責めたくて言っているわけじゃない。俺自身は平民だろうが、貴族じゃない国民だろうが、好きな様に呼べばいいと思っている」

 マクスは一度言葉を切り、咳ばらいをした。

「――ようするに何が言いたいのかというと、貴族と平民の間には、結構な考えの差があるということだ」

「考えの差……ですか?」

 ミカヤが不安げに問う。

「意識の差、と言った方がいいか? まぁどちらも変わらないか。ともかく、貴族と平民の間には決定的な差がある。だが、貴族側はそれほど大きな差だとは思っていない。……貴族街に勝手に入ってはいけないという、あからさまに大きな壁があったとしてもだ。それは貴族の驕りと言って差し支えないだろう」

 騎士が唸った。腑に落ちるところがあったのだろう、悔しそうに顔を歪ませている。

「しかし平民は、自分たちと貴族が同等の存在であるとは欠片も思っていない。自分たちが貴族たちより下であることを、はっきりと自覚している。そんな平民たちの子供が、貴族街にある勇者学校に通うときの気持ちはどんなものだろう。……バーン、勇者学校に在籍する生徒の、貴族と平民の割合は?」

「……貴族が八で、そうでない生徒が二。魔法学校は王国各地にあるけれど、貴族の割合がここまで多いのは勇者学校だけだろうね。なにせ貴族の親は、どれだけ遠方だろうと勇者学校に通わせたがるから」

 さすがに最南端から来てるのは僕くらいだけど、とバーンは肩をすくめる。

「そういうことだ。それを鑑みると、おそらく平民の生徒にとって勇者学校は、相当に息苦しい環境だと思う。なんとかシルバーランクの成績を残せればまだいいが、もしブロンズに落ちれば地獄の苦しみだろう。シルバーであっても成績次第では馬鹿にされることもあるだろう。平民は貴族と違って家族から魔法のノウハウを教わったりできないから、成績が貴族よりも下回るのは当然なんだが」

「……なるほど。息苦しくて、つらくてたまらない。学校のことを親に相談したりはできない……だからサボりがちになってしまうのか」

 騎士の言葉に、マクスは頷く。

「さらに言えば平民の生徒は、親から期待される。鳶から鷹が生まれたようなものだからな。だから親に向かって、勇者学校を辞めたいとは言えない。だが学校に行くのはつらい……となれば、あとは逃げ出すしかない」

「そういう生徒が毎年のようにいたわけか……俺がいた頃にも」

 騎士は手綱を、ぎゅっと力強く握り締める。

「……いいことを聞けた。ありがとう」



「貴族じゃない子たちがサボりがちになる理由は、これでわかったと。……ゴメン、やっぱりいきなり呼称を変えるのは難しいな」

「気にするな。さっきも言ったが俺は気にしないし、大抵の奴等は気にしていない。それに今は、そこは重要じゃないだろう」

 バーンが気を取り直すように身を起こす。心なしか声に張りがなかったが、それに気がついたのはマクスだけだった。

「そうだね。……じゃあここらで、今回の課外活動についていったん話を整理してみようか」

 バーンはわざとらしく咳ばらいをしてから語りだした。

「時系列で見ると、まず三年生の学生たちが授業をサボり始めた。これは毎年起こりうる出来事で、特別不思議なことじゃない。サボりを実行した学生のうち、貴族じゃない学生の割合のほうが高いこともね」

 バーンが人差し指を一本立てて言い、マクスは頷く。

「……ところが、平民の学生の中から、家に帰ってこない者が現れた。親たちは心配して街中を探したが、手がかりは見つからなかった。学校側へ連絡しようとしたが、貴族街進入禁止のルールによって学校へは連絡が取れなかった。そのときの学校側はサボりの生徒と消えた生徒の判別がつかず、生徒たちが姿を消していることに気づいてすらいなかった……」

 マクスがつまらなそうに鼻を鳴らす。

「一人、また一人と平民の生徒たちは消息を絶っていたが、学校側が気づいたのはつい最近になってから……一人の貴族から学校側へ、息子が帰ってきていないと連絡を取ったからだ」

「貴族の子息が消えたなんて、一歩間違えれば大騒動になりかねないわ。だからこそ学校は、慌てて騎士団に生徒の捜索要請を出した。……ですよね?」

 タリアが騎士に向かって尋ねる。ああ、と騎士は肯定の言葉を返した。

「一週間くらい前から、同僚の何人かが新しい任務だって駆りだされてたな。そんときはどこぞの貴族のボンクラ息子が消えたから探してるって話で、そんな下らない任務に抜擢されなくてよかったなぁなんて仲間内で笑ってたんだが……しばらくしたら生徒たちの集団失踪なんて話に変わってて驚嘆したもんだ」

「そこでようやく、学校側は勇者学校に所属している三年生の生徒十名が、消息不明になったことに気づいたのね。……十人目が貴族でなかったら、おそらくさらに人数は増えていたでしょうね」

「十人で発覚してよかったと喜ぶべきなのかな……」

 ミカヤが複雑な表情を浮かべながらつぶやいた。

「……そして今度は、課外活動として行方不明者の捜索がわたしたちに課された……? 確か、今朝聞いた話では……」

「これから向かう先に、行方不明者がいる可能性が高い……って話だったね」

 バーンが腕を組みながら言った。

 今朝一番、課外活動参加者たちは課外活動にふさわしい服装と装備で、王都入り口に集まるよう指示されていた。

 各々違う格好で入り口付近へ向かった生徒たちを待っていたのは、彼らを輸送する馬と馬車、そしてそれを操る王都騎士団員たち。朝の挨拶を交わした後、騎士たちは目的地を告げ、学校で指定されたグループごとに各馬車へ乗るよう生徒たちを促したのだった。

「……あの、もう居場所の目安はついているんですよね? だからこそこうして、大勢で向かっているわけですし。だとしたら、わたしたちが動員された理由って……」

「……単なるお飾りね。ほとんど解決済みなうえ、ただの人探しなら危険も少ないじゃない? 課外活動の目的としてはちょうどいいもの。それに、勇者学校も行方不明者の捜索にきちんと一枚噛んでいるっていうアピールも、学校側の思惑にあるかもしれないわ」

 ミカヤもタリアも、頭を抱えた。話せば話すほど、勇者学校の情けなさが浮き彫りにされていくような気がしたのだ。

「まぁ、そこは考えても仕方ないよ。今までろくな内容の課外活動なんてした事あった?」

「……魔物退治に、一応参加したことがあるわ。魔法の使えない子供でも倒せそうな、弱い魔物だったけど……」

「えっと、わたしは貴族の手伝いがほとんどですね。……実は、実家の手伝いだったこともあるんですけど」

 バーンの質問に、女子二人が気恥ずかしげに答えた。

「僕もマクスも似たようなものさ。王都在住貴族の家業を見学したり、王都付近の警戒だって言って騎士団と散歩したりね。課外活動がその意義をほとんど失っていることなんて、既にわかりきっていることさ。だから今回の課外活動に僕たちが参加する理由なんて、考えたところで仕方ない。それよりも、僕が気になるのは別なところにある。今度は、僕から騎士の人に質問させて貰いたいな」

 バーンは少し身を乗り出すようにして、騎士の男に好奇の目を向けた。

「それは、どうやって行方不明者たちの居場所をつきとめることができたのかってことさ。僕が調べた限り、失踪したときの目撃証言はほとんどなかったはずだ。……まぁ、王都はとにかく人口密度が高いし、出入りの際に検問のようなことはしていないから、誰が入ってきて誰が出て行ったかなんてわからなくても仕方ないけどね」

 王都はロクスベルゼ王国の中心となる街なだけあり、居住人口も往来する人の数も国内で最大の規模を誇っている。そのため、王都を出入りする人間をひとりひとり検めていては、とてもではないが王都の運営は立ち行かない。また、貴族街から先への検問は敷かれていること、また長く平和が続いていることもあって、検問などは実施していなかった。

「それなのに、わずか一週間で明確に居場所を突き止めることができるなんて、不思議だと思っていたんだ。いったいどんなことをしたら、そんなに早く行方不明者を見つけられたのかな。後学のためにも教えてもらいたいな」

「いったい何の後学のためだか気になるが……まぁいいか。行方不明者を迅速に見つけ出すことができた理由――それは騎士団が優秀だからさ。……と、言いたいところなんだがなぁ」

 騎士の男はため息をついて頭をかいた。

「実際のところは、騎士団の優秀さが際立っていたということもなければ、特殊な魔法を使ったということもない。期待するような面白いことは何一つなくて……単に、運よく目撃証言が見つかったってだけだ」

「目撃証言だって、消えた生徒たちの親はまったく見つけられなかったじゃないか」

「まぁ、そこは捜索規模の違いってやつだ。その上、今まさに目的地に向かっているお前たちに言うのは、少し気が引けるんだが……」

 生徒四人が怪訝な表情を騎士へと向ける。

「実を言うと、これから行く先に消えた生徒たちがいるという保障はまったくない。この事件はまだ、ぜんぜん解決の目処がたっていないのさ」

「えぇ……?」

 誰ともなく、気が抜けたような、もしくは落胆したような声を漏らした。

「目的地までまだまだ時間はありそうだな、せっかくだしどういう目撃証言だったのか話そう。……今朝聞いた目的地に関して、何か知識のある者は?」

 騎士が問いかけると、三人は首をかしげ否定の意思を示す。ただ一人首を振らなかったミカヤが、おずおずと騎士の問いに答えた。

「……えっと確か、王家が管理していた丘だったと思います。緑豊かな丘で、珍しくて美しい植物が自生していて、王家の方々はよく避暑や行楽目的で足を運んでいたとか。野生の動物も生息していますけど凶暴な種はいないので、狩猟をしていた時期もあったらしいですね。今の王様があまり狩猟を嗜まれないので、現在はほとんど出向くことはないと聞きましたけど」

「素晴らしい。さらに言うと、現ロクスベルゼ王はあの丘を一般開放している。つまり、国民であれば自由に入っていいということだ。とはいえ、植物と動物以外は特別めずらしいものはないし、向かうにもこうして馬車を使う必要がある。普通の国民はめったに訪れないし、もともと王家御用達の土地ということもあって貴族も訪問を避ける傾向があるがね」

 ミカヤははっとする。

「そう……そうです。わたしの父が植生調査で訪れたことがありました。そのとき、王様に謁見をしていたことを思い出しました。普段はそんなことしないのに」

「きっと君の親父さんは、まだあそこが王家だけのものだっていう印象が強いんだろうな。……そういうわけで、これから向かう捜索地の丘は長年人の出入りが少ない場所だったんだ。ところが、そこで人影を見た……という目撃証言があったんだ」

 騎士は語りだした。



 人影を目撃したのは、王都へと向かっていた旅人だった。

 旅人は地方貴族の三男で、長男と次男に家のことは任せ、自身は馬車ひとつで王国内を好きなように巡り歩いていた放蕩息子だった。彼は数年前からずっとあてもなく旅をしていたが、偶然王都近くを通りかかったため、たまにはしばらくのんびりしようと思いつき、王都へと足を向けた。

 貴族の三男である彼は、他の貴族の子息たちの例に漏れず、勇者学校の出身だった。入学してから卒業するまでの六年間を学生寮で過ごし、休日には住民街へと遊びに出ていた。そのことを思い出すとふいに懐かしさに襲われ、卒業して以来一度も足を運ばなかった王都に再び訪れるのも悪くないと考えたのだ。

 馬車の向かう方向を変え、王都へと向かっている途中、彼はあることを思い出す。

 ……確か、王都の近くに王家の管理する丘があったはずだ。王家の人間が代々使っている土地で、大変美しい場所であるという噂を学生時代は幾度となく耳にしたことがある。そして彼が勇者学校を卒業し、王都を離れてからしばらくしたあとに、現ロクスベルゼ王がその丘を国民に開放したということを思い出した。

 彼は自然が好きだった。旅の目的もほとんどは自然観光で、珍しい地形や風景があるという噂を聞きつければすぐにでも飛び込んでいって野営を行っていた。彼の自然好きは学生時代から筋金入りで、課外活動で他の貴族の生徒は野外での活動を厭う反面、彼だけはいきいきと野営に勤しんでいた。そしていつかは王家が管理しているという、噂の丘に足を踏み入れてみたいと夢見ていた。

 丘が一般開放されたと初めて聞いたときは歯噛みして悔しがったが、今の自分は自由な旅人だ。そして自分は現在、王都へ向かっている。これは向かわない理由はないとばかりに、彼はまたしても馬車の進む方向を変える。

 だがしかし、うろ覚えの記憶で王家の丘を探し始めたおかげで、当然のように発見は遅れた。あちらでもない、こちらでもないと王都周辺を右往左往しているうちに日は進み、彼が目的地の丘を探し出したのはちょうど日が暮れかけていたタイミングだった。

 今すぐにでも見に行きたい衝動に駆られたが、さすがに太陽が沈んで暗くなってからの移動は危険が伴う。馬にも負担を強いるし、魔物が出現する可能性もないわけではない。それにせっかく美しい自然が見られるのならば、最初は明るいうちのほうがいいだろう……彼はそう考え、すぐに野営の準備に取り掛かる。必要な用意は馬車の中に常備してあるし、常日頃からやっていることなのでテキパキと準備を進め、明日のことを考え胸をときめかせながら彼は寝袋へともぐりこんだ。

 ――彼はその晩、ふいに目を覚ました。

 彼は寝つきも寝起きも良い人間だった。眠りたいときに眠り、起きたいときに起きることができた。おかげで夜明けが綺麗だと評判の風景を見逃したことがない……というのが彼の自慢だったのだが、その日は唐突にぽかんと目を覚ました。彼はとっさに体を起こし、寝袋の近くに控えてあった武器を手に取る。

 彼は旅を続けている最中、なぜだか目を覚ましてしまうということが何度かあった。その原因ははっきりしている……自身に危険が迫っているのだ。

 旅を続けているうちに培われた危機回避能力なのか、それとも勇者学校での経験による賜物なのか……理由は不明だったが、とにかく彼は付近に不穏な気配を感じると、どれだけ深く寝入ってしまっても起きることができた。それはたとえば魔物の出現だったり、凶暴な動物だったり、あるいは強烈な悪天候だったりもしたが、彼にとって突然の目覚めとは悪いことが起こる予兆だった。

 武器を取り、いつでも魔法が使えるように精神を集中させる。勇者学校を卒業した身である以上、そこらの雑魚魔物や動物程度に負ける気はしない。だが、一人旅で怪我などしたらたまったものではないため、しっかりと気を引き締める。眠気はどこかに吹き飛んでいた。

 しかし、どうやら魔物の襲撃などではないようだった。周りは見晴らしの良い場所で、見渡す限り魔物や動物の姿は見られない。空を見上げれば綺麗な星空がため息が出るほど広がっているので、悪天候の類でもない。ではいったいなぜ自分は目を覚ましたのか……と、旅人が頭に疑問符を浮かべたとき、それは現れた。

 丘には木々が生い茂り、林を形成している。……その木々の間を、黒い影がすっと通り過ぎた気がした。

 もしや王家の管理する丘に魔物でも現れたのかと、旅人は驚嘆して目を凝らしたが、夜の闇に包まれた林の中にはすでに影は見られない。あるいは夜行性の動物だろうか……と彼は再度林の中を注視すると、視界の端にまたしても影が躍り出た。今度はしっかりと、その姿を目に焼き付けることができた。

 それは人影だった。頭があり、手足が二本ずつあり、両足で駆けていた。

 だが、そこまでしかわからない。たしかに人の形をしているのだが、彼にはなぜか、それが人の形をした何かのように感じられた。それは人が滅多に寄り付かないと聞いている王家の丘の、それも夜中に人影を見たのがあり得ないことのように思えたからだし、人影の取る動作がどこかぎこちなく、何かの……人間の真似事をしているように見えたからかもしれなかった。

 困惑のままに人影を見ていた旅人は、さらにあることに気づく。

 人影はひとつではなかった。林の手前で黒い影がすっと横切ったかと思えば、今度は奥のほうで何かが蠢いているのが見える。丘の左手側に何かが駆けたかと思えば、右手側から突如として現れる。……月明かりが照らす王家の丘で、得体の知れない人影が不気味な動きを繰り返していた。

 尋常のこととは思えず、彼の背中に冷たいものが伝った。しばらくすると影は消えうせ、丘は元の静けさを取り戻したが、美しく荘厳な雰囲気をまとっていたはずの丘が、彼にはもう異様な雰囲気をまとっているようにしか見えなかった。

 結局その日の夜はもう眠りにつくことができず、夜が明けたあとも丘に立ち寄ることはせずに、荷物をまとめて王都へと馬車を急がせた。王都に着いて宿を取ったころには心も落ち着き、あれは何かの見間違いだったに違いないと思い始めていたが、再び訪れるのはさすがに気が引けたし、かといって王家の丘を諦めてすぐに次の旅に出る気にもならず、うだうだと王都で時間をつぶしていた。

 そんな彼の元に王都騎士団が訪れた。勇者学校の生徒が行方不明となり、彼らの足取りをたどる為、王都に訪れた商人や旅人相手に片っ端から声をかけていたところだった。騎士に尋ねられて初めて、旅人は他人に王家の丘に現れた人影のことを話した。王家の管理する丘に怪しい影が現れたなどという話は、たとえ酒の肴であっても誰かに話す気にはならなかったからだ。

 彼が人影を見かけてから、ちょうど一週間ほど時間が過ぎていた――。



 がたりと、馬車が一度大きく揺れた。

 きれいに均された街道から道をはずれた馬車は、草原を走る。大きく出っ張った地面や大きめの石を踏み潰し、時折音を立てて馬車が揺れるようになる。

「……とまぁ、そういう話だったのさ」

 しばらくの間ひとり喋り続けていた騎士は、手綱を片手で器用に操りながら、空いたもう片方の手で水筒を取り出し一口飲んだ。

「なんだか、不気味な話ですね……」

 ミカヤが両手で肩を抱きながら、不安げな声を出す。

「だろう? かくして、目撃談を聞き終えた騎士団は王家の丘に行方不明の生徒がいると当たりをつけ、捜索を開始したわけだ。もちろん勇者学校にも報告をし、その結果こうして課外活動の目標とされたわけだな」

「なるほど……王家の丘に現れた、謎の人影ですか。それは確かに気になりますね」

 話を真剣に聞いていたミカヤは、ただ事ではなさそうな気配に表情を引き締める。

 だが、ミカヤ以外の三人の反応はあまり芳しいものではなかった。どこか白けたような、気が抜けたかのような表情を一様に浮かべている。

「あれ? みんなどうしてそんな顔をしているんですか?」

「いやー……まぁ、ねえ」

 バーンが言いにくそうにしながら頬をかく。

「たしかに、不気味な話だとは思うよ。王家が管理する風光明媚な丘に、突如として現れた謎の人影……ある意味では、とんでもない事件の可能性もある。だけど……」

「……その人影と、生徒たちを繋ぐものは何もない」

 マクスの言葉に、ミカヤがあ、と口をぽかんと開けた。聞いていた騎士も、苦笑するふうだ。

「そのとおり。旅人が見たってのは、本当にただの人影だ。たとえば、君たちと同じくらいの背格好に見えたとか、胸にバッジが光っているのが見えたとか……そういう『勇者学校の生徒』である可能性を感じられる証言でもあればまた違ったんだろうが、そのような証言は旅人からは得られなかった。彼が見たというのは徹頭徹尾、人影のような黒い影。それだけだ」

「で、でも……王家の丘にそんな影が現れるというだけでもおかしいですよね?」

「確かにな。でも、間違いなくおかしいと言えるほどでもない。なにせ、王家の丘はすでに国民に開放されているんだ。旅人が足を向けたのと同様に、行こうと思えば誰だって入ることができる。夜中に人影がウロウロしているのは確かに変だが、その人影が単に王家の丘を訪れた観光客だった可能性は、決してないわけではない」

「……確かにそうですね」

 あまりにも自分以外の四人が落ち着いているからか、引き締まっていたはずのミカヤの表情がだんだんと緩み始める。

「これでわかっただろう、生徒たちがいる保障がまったくないと言った意味が。騎士団は一応目撃証言を得はしたが、実を言うとこれくらいしかまともな目撃証言がなかったから、目的地を王家の丘にしたというだけなのさ。当てずっぽうと言ってもいいかもな」

 騎士はわはは、と笑い、その後大きくため息をついた。自らの所属する組織の不甲斐なさを憂いているのかもしれなかった。

 わかりやすく首をうなだれている騎士に、タリアは慌てて声をかける。

「……し、しかし、怪しい影が出現するというのは事実なんですよね? もしかしたら魔物が出現しているのかもしれない。だとしたら、騎士の皆様は仕事を全うしているのでは」

「それはそうだが……いまさら騎士が魔物を討伐したところで、感謝されることなどありはせんよ。むしろ今まで王家の丘に魔物がいたことに気が付いていなかったのか、とお叱りをいただくかもしれんなぁ」

「う……」

「確かに魔物を討伐するのは必要なことだが、今回の任務はあくまで行方不明になった生徒の捜索だ。それが果たせなきゃ意味がない。おそらく、また一から調べなおしになるだろうな……」

 馬車の中がしぃんと静まり返る。四人が黙りこくっていることにハッと気が付いた騎士は、大人であり先輩である自分が子供たちに心配されてどうする、と無理やり自らを鼓舞し、努めて明るい声を張り上げた。

「……ま、とにかくだ! この通り大した根拠もなく決まった捜索任務だ、気楽な気持ちで望めばいい。たとえ行方不明だった生徒たちが見つからなくても君たちの責任ではないからな、王家の丘を観光できる……ぐらいに思っておけばいいのさ」

「は、はぁ……」

「訪れる人間が滅多にいないから知らないかもしれないが、王家の丘は本当に美しいところだぞ。俺は別の任務で一度だけ訪れたことがあるが、王家の方々が独占するのも納得の素晴らしい場所だった。咲き誇る草花、澄み切った空気、透き通るほど綺麗な水を称えた泉……どれも一見の価値あり、だ」

 騎士はにやりと、楽しげな笑みを浮かべた。騎士の笑顔につられて、四人の間にも和やかな空気が戻ってくる。

「……ま、そうだね。騎士さんの言うとおり、王家の丘なんて滅多に行ける場所じゃない。課外活動でピクニックができると考えれば、僕たちはかなりついてる」

「あんまり気を抜きすぎないでよ。……でも、そうね。ちょっと楽しみになってきたかも」

「ふふ、実はわたし、一度行ってみたいと思っていたんです。父が植生調査を終えて、ずいぶんと楽しそうにしていたので……」

「…………」

 それから四人は、ミカヤの話す希少な植物の話に耳を傾けたり、泉の傍で昼食を摂ろうと計画したり、今までの課外活動の内容について笑いあったりして移動時間を過ごした。

 馬車の手綱を握る騎士は、ときおり来る四人からの質問には丁寧に返事を返していたが、今まさに学生生活を楽しんでいる子供たちの間にあえて踏み込むことはせず、笑顔を浮かべながら後輩たちの楽しげな声に耳を傾けていた。

 馬車は着々と、目的地へと近づいていく。

 空を覆う雲は、少しずつ厚みを増していた。

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