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勇者学校の広い一階廊下を、マクスが一人きりで歩いていた。
時刻は三時限目、あとひとつ授業が終わればお昼が待っている時間帯。窓から見える空はほどよく晴れていて、太陽は出ているが気持ちのいい風が吹いて体感温度をさげてくれている。外に出て軽く運動すれば、気持ちよく汗をかくことができそうないい天気だった。
それが理由というわけではないが、マクスが着ている服は普段の長袖シャツではなく、動きやすそうなTシャツ一枚に綿パンツというラフな格好。ただ、どちらもやはり黒系で統一されている。
マクスがこれから受ける授業は、『実践水魔法・三』。
三年生の必修授業のひとつであり、以前ミカヤたちと共に受けた『炎魔法・三』とは違い、教室での講義ではなく、外に出て実際に魔法を使い練習する授業だった。
一年生、二年生の授業で行う魔法にはそれほど大規模なものはなく、危険も少ないため教室内で授業が行われる。しかし三年生以降は、実戦で魔物を倒すために使うような強力な魔法が増えてくる。そのため、三年生以降の実践魔法授業は、全て講義室の外で行われることになっていた。さらに学年が上がると、王都の外に出て授業を行う。
勇者学校には、グラウンドが二つある。北グラウンド・南グラウンドと生徒たちが呼び分けている二つのうち、マクスが向かっているのは北グラウンドだった。
北と南では、後者のほうが面積が大きく、より大勢の生徒が活動できる。正式にはこちらはメイングラウンドという名称だった。北側は第二グラウンドであり、授業で使うことも勿論あるが、生徒たちのクラブ活動などでもよく使われている。メインである南グラウンドを使用するには、学校の許可を得なければならないため、小数人数のクラブ活動で使うには北グラウンドのほうが、生徒たちにとって都合がいい。
マクスは廊下を歩き続け、途中で体の向きを変え、北グラウンドへ繋がっている廊下の扉から外へ出る。その扉からすぐ近くの場所、校舎傍に小さな小屋が二つ建てられており、男女の更衣室となっていた。汗をかいた服のまま他の講義を受けたくない生徒は、ここで着替えをして授業に望む。
共有の更衣室を使わずとも、寮の自分の部屋で着替えれば事足りるマクスは、更衣室をそのまま通り過ぎてさらに歩く。
グラウンドの一角には、既に結構な人数が集まっていた。マクスと同じ、『実践水魔法・三』の講義を受ける生徒たち。天気がいいからか、みな一様に涼しそうな、動きやすそうな服装になっている。
「お、天才さんのご登場だぜ」
嫌味を言い放ってくすくす笑っている一団をマクスは無視、大勢の生徒たちから少し離れた位置にぽつんと立っている一人に向かって、一直線に歩いていく。
マクスが頭の中で幾通りもの会話パターンを考え、それを口にする勇気を胸の中で溜めに溜め、実際に言葉を発するために深く息を吸い込んだところで、
「……あ、マクス君」
「…………。ああ」
近づいてきたマクスに気づいたミカヤから先に声をかけられて、頭の中に浮かんでいた全ての会話が霧となって消えた。
「そっか、マクス君も同じ授業でしたね」
「ああ」
「よかったぁ、タリアとかぶっていない授業のときはいつも気分が重くて……。よかったら、授業のときも仲良くしてください」
こちらこそお願いします末永く仲良くしてください……と言いたかったマクスだったが、
「……ああ、わかった」
と答えるだけに留めた。
ミカヤは普段の修道服のような格好とはうって変わって、身体を動かしやすそうな身軽な格好をしていた。半袖の白い運動着に、マクスがはいているのと同じような綿のパンツ。ただし色だけは陰気な黒ではなく、鮮やかな青緑に染められている。
普段は長袖の修道服に隠れている白い肌の細い腕が露となっていて、マクスの視線が思わず吸い寄せられる……が、強靭な精神力によってなんとかじろじろ見ることだけは避けることができた。
マクスとミカヤは周囲の生徒たちと同じようにおしゃべりをしながら――緊張したマクスはほとんど相槌だけを打ちながら――待っていると、薄い青色のローブを着込んだ大人の女性が近づいてきた。
「皆さん、集まっていますか? 授業が始まるので、そろそろ私語は謹んでくださいね?」
柔和な微笑をたたえながら生徒たちをやんわりと注意したのは、『実践水魔法・三』を担当するベレッタ教諭。艶やかな長髪を持つ美女で、温厚な性格かつ授業もわかりやすいと評判のため、男女問わず人気のある教師だった。
ベレッタ教諭は出席している生徒を確認、何人か顔の見えない生徒がいることに気づきほんの少しだけ顔をしかめたが、
「まぁ、三年生はどうしても中だるみしますからね……。皆さんはまじめに授業を受けてえらいですね」
いない生徒のことは一旦保留し、授業に出席している生徒たちを褒めてから授業を開始した。
「皆さん、前回の授業内容はしっかりと覚えていますか? 今回はその続き、水魔法『アクアドラグーン』を完璧に習得することが目標です。術式の構築と魔力の捻出をきちんと行えないと、三年生以降の魔法はなかなか上手く使うことができません。まだまだ学期の初めです、基本はきっちりとできるようにしていきましょうね?」
ベレッタ教諭の声かけの後、生徒たちは三々五々にグラウンドへ散っていく。
この時間帯の『実践水魔法・三』は三十人ほどが受講している。
南より狭いとはいえ北グラウンドも相当広いため、生徒たちがかなり距離をとってグラウンドに散らばっても、北グラウンドの片隅程度に収まってしまう。グラウンドを見渡せば、少し離れた位置には別の授業を行っている生徒たちもいた。
「さあ、どんな魔法も習得するまでは、手順をひとつずつきっちりとですよ? まずは集中して術式を構築、構築を終えたら発動する術に対応した量の魔力を捻出、魔力が満ち足りたら落ち着いて発動です。わたしは皆さんを見て回るので、時間の許す限り反復練習をしてくださいね?」
ベレッタ教諭があまり大きくない声を上げると、グラウンドに散らばった生徒たちは自分のタイミングで魔法を使い始める。
マクスとミカヤの二人は、どの生徒からも遠く離れた位置にいた。
小さく握った右手を胸の前に当てながら、ミカヤがおずおずと上目遣いでマクスに問いかける。
「マクス君……もしよかったら、見ててくれますか? 何か気になることとかあれば、教えてくれると嬉しいです」
「……ああ、わかった。任せてくれ」
他の誰でもない、好きな女の子からの頼みに、マクスは力強く無表情で頷く。
「ありがとうございます! ふぅ……よぉし」
ミカヤは一度大きく深呼吸をしてから、両手を胸の前で組んだ。そして両目を閉じ、精神を集中させる。
魔法を使うには、二つの才能が必要とされる。
ひとつは、術式の構築。通常の自然法則では起こりえない、魔法という奇跡の力を使うために、自らの身体の中に新たな法則――術式を書き加える才能。
もうひとつは、魔力の捻出。魔法の原動力となる魔力を、身体の奥底からくみ出し、術式を通じて変換する力。
二つの才能のどちらが欠けていても、魔法を自在に操ることはできない。術式を組めても魔力を捻出することができなければ強力な魔法として変換されないし、術式がなければ魔力を捻出できたとしても大したことは起こらない。
二つの才能をバランスよく持っているものが、魔法の才能があると見なされ、魔法学校への入学が認められる。
ミカヤは集中しながら、身体中に文字を這わせるイメージを作り上げていく。『水魔法・三』の授業で学んだ、『アクアドラグーン』の術式を素早く、丁寧に自分の体の中に書き込んでいく。
術式を全て構築し終わり、自分の身体の法則が変化したのをミカヤが確信するまで、およそ五秒。
三年生の始め、まだ教えられたばかりの術式構築にかかる時間としては、かなり早い時間と言える。周囲で練習をしている生徒の中には、二十秒以上の時間をかけて術式を構築する者もいた。
「…………」
術式を構築し終えたミカヤは、ゆっくりと目を開ける。
ぼーっと、焦点の合ってないような瞳をしているのは、正確に術式が構築されて身体の法則が作り変えられた証明。
あとは魔力を捻出しさえすれば、術式を通して魔力が魔法へと変換されるのだが……、
「…………っ」
そのままの状態で、ミカヤは立ち尽くす。
少しずつ顔がこわばっていき、額にうっすらと汗をかき始めた。マクスは苦しそうにも見えるミカヤの様子を、何も言わずにじっと見つめる。
「やったー! できたー!」
ミカヤが黙って立ち尽くしている間に、周囲の生徒たちにはちらほらと『アクアドラグーン』を成功させるものも出てきた。
魔法を使った生徒の目の前から突如現れた大量の水が、ドラゴンの形を成して生徒の思うがままに宙を動き回る。ドラゴンの大きさは生徒によってまちまちだが、おおよそ大人一人分ほど。中には自らの身長よりはるかに巨大な水のドラゴンを顕現させた者もいた。
成功に歓喜している生徒がいる中、ミカヤはやはりこわばった表情のまま魔法を発動させない。だんだんと汗の量が増えてきたミカヤを心配そうに、無表情でマクスは見守り続ける。
「……んあっ」
やがて、緊張の糸が解けたのか息を漏らしながら、ミカヤが魔法を発動させた。
本来であれば大人一人分ほどの大きさで顕現される水のドラゴンは……現れなかった。
代わりに発動したのは、コップ一杯分ほどの量の水が球体となって現れる『ウォーターサプライ』。主に水分補給などに使われる、初歩の初歩、入学時の生徒でも使えるような基礎魔法。
「はぁっ……。はぁっ……」
魔法を発動し終えたミカヤは、膝に両手をあててかがみこみ、苦しそうに肩で息をする。術式を構築した状態で長時間いたことで、精神に疲労が溜まっていた。
基礎魔法しか使えず、その上息を切らして苦しそうにしているミカヤの様子を見かけた他の生徒たちが、くすくすと忍び笑いを漏らす。笑い声が耳に入ってきて、ミカヤの顔が恥ずかしさでほんのり赤くなった。
「ミカヤ……さん」
自分に向けてかけられた声に反応してミカヤが顔を上げると、目の前にマクスが立っていた。普段どおりの無表情でミカヤを見下ろしていた。
「……マクス君。ふぅ……えへへ、やっぱり駄目でした」
ミカヤは照れ隠しのように笑い、息を整え背筋を伸ばすと、自分よりも身長の高いマクスを見上げて問う。
「どうでしたか? 何か気になるところとか、ありましたか? ……といっても、失敗しちゃってるんですけどね」
初めは笑顔で問いかけたミカヤだったが、だんだんとうつむいていってしまう。
使うつもりだった『アクアドラグーン』の形にすらなっていないのに、気になる点だなんてあるわけがない――そんな諦観すら感じられる問いかけだった……が、
「術式構築はとても綺麗だった」
マクスが大真面目な顔で返した答えに、ミカヤは思わず目を丸くした。
「…………えっと?」
「術式自体はしっかりと構築されていた。構築速度も速いし、式も丁寧で、全身によどみなく術式が巡らされていた。あと必要なのは……」
珍しくすらすらと喋りだしたマクスを、
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください」
「……む」
ミカヤは慌てて静止する。待てと言われたマクスは、飼い主に命ぜられた犬のように大人しく口をつぐんだ。
「あの、マクス君……、今言っていたのって一体……?」
「いや……気になるところはあるかと言われたから……」
「あ、ありがとうございます。……でも、まるで、わたしの中に構築された術式が見えているような言い方だったんですけど……」
「……そのとおりだが」
なぜそんなことを聞く? とでも言いたげに不思議そうな顔で首をかしげるマクス。対して、ミカヤの目は大きく見開かれ、口はぽかんと開いてしまう。
「ま、マクス君……。他人の身体に構築された術式が見えるって、ものすごく珍しいことなんですけど……」
「えっ」
マクスは思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。自信満々で隠していた秘密の宝物が、実は親にバレバレだったと気づいた子供のようなショックの受け方だった。
「…………ええと、それは、どの程度珍しい? その、ゴールドランクじゃないとできない、とかそういう……」
なぜかカタコトになるマクスを、ミカヤは心配そうに見つめながら答える。
「いえ、ゴールドやブロンズといった魔法を使う才能ではなくて、それとはまた違った特殊な才能が必要だって授業で習いました。だって、術式って体内に構築するものだから、人の目に見えるはずがないんです」
言われてみれば確かに……と、マクスは思わず苦い顔をする。自分にとってはそれが当たり前すぎて、術式が見えることがおかしなことだとすら思っていなかった。
「マクス君、もしかして……他人の術式が見える才能がどれだけ凄いのか、知らないんですか?」
「……恥ずかしながら」
「じゃあ、教えてあげます! まず本来、術式は個人個人の身体の中で構築されるものなので、これといって決まった形はないはずなんです。魔法使用者のイメージ次第といいますか……だからこそ、人によって得意不得意も出てくるんですけど」
ミカヤは授業で習った内容を思い出して語る。マクスは真剣な顔で耳を傾けていた。
「でも、授業では術式を習いますよね? 教科書に書かれた術式を覚えて、それを思い描きながらわたしたちは術式を構築します。その術式は、一体誰が書いたものなんでしょうか? ……そうです、その人こそ、他人の術式を見る才能を持った人だったんです。その人は正統な魔法使用者……つまりは王族の術式を見て、文字として紙に書き、目で見えるようにした……。人によって形がバラバラのはずの術式を、誰でもわかるように、誰でも使えるように統一しました。個人のイメージによってバラバラなものだったはずの術式が、一目で理解できるようになった……。これによって、魔法学校で簡単に術式を教えられるようになりました」
教科書に書かれている術式を見たことありますよね、とミカヤが問いかける。マクスは入学以来、真面目に教科書を見たことがなかったが、とりあえず頷いておいた。
「文字として書けるようになった影響は、これだけに留まりません。書かれた術式に特殊な技術を加えると、魔法が発動することが判明したんです。この魔法は普通に使うよりも質や威力が落ちましたけど、誰でも……それこそ魔法を使う才能がない人ですら使うことができるようになりました。……ここまで言えば、なんのことかわかりますよね?」
「……魔法道具のことか」
スイッチひとつ押すだけで、火を起こしたり、物を冷やしたり、部屋を明るくすることのできる魔法道具。
いまや魔法の使えない一般人ですら日常的に使っている魔法道具には、どこかしらに文字が刻まれている。それこそが『目に見えるようになった』術式であり、ロクスベルゼ王国がここまで豊かになるまで繁栄できた理由のひとつでもある。
「そうです。そして、この『目に見える』術式――『ルクサ』というのが正式名ですけど、だいたいみんな魔法文字と呼んでいますね――を作った人が、他人の術式を目で見ることができる人だったんです!」
ミカヤの目がだんだんと輝きを増していき、尊敬の念が浮かび上がってくる。尊敬の対象は当然、目の前にいる男子生徒。
逆に、その男子生徒――マクスの目は澱み、困惑の色に染められていた。
「その人の功績によって、ロクスベルゼ王国はここまで発展したと言っても過言ではありません。……つまり! マクス君はそんなすごい人と同じ才能を持っているってことなんですよ!」
マクスは、心底困っていた。
何気ないアドバイスをしたつもりだったのに、まさか自分の特異性の証明をすることになってしまうとは思いもよらなかった。
マクスは入学以来、まともに授業を聞いたことがない。
もともとやる気がなかったのもあるが、魔法なんて適当に感覚で使えば出る――という認識だったため、授業を聞くつもりにならなかったのだ。その上ゴールドランクのクラスに入った二年生以降は、『普通の授業』を受ける機会がなかった。
結果、普通の生徒ならば当然知っているはずの、魔法に関する基本的知識というものが根本的に欠けててしまっていた。
人から聞くこともできただろうが、マクスには友人らしい友人がバーンくらいしかいなかったし、バーンとは魔法に関してあれこれ語るようなこともなかったため、そのような機会には恵まれなかった。近しい大人の中に、気軽に話せる人物もいなかった。
よって、術式と魔力捻出の流れは誰にでも見えるものだと思っていた。
当然、そんなものはマクスだけの常識なので、
「すごいですよ! 術式を見る才能があれば、新しい魔法道具を作ることができるも同然なんです! 魔法道具の開発は王国への貢献度がすごく高い分野ですから、ひとつ開発するだけで爵位をいただけるんですよ! ゴールドのときから見えていたんですか? ブロンズになって魔法が使えなくなっても、術式を見る才能は残っていたんですね! そうだ、もしかしたらこのことを報告したら、ブロンズランクから上に上がることができるかもしれませんよ! それくらい貴重な才能で……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
好きな女の子にチヤホヤされるのは悪い気分ではなかったが、彼女の近くにいたいがために落ちてきたブロンズランクから追い出されそうな流れになったため、マクスは慌ててミカヤを静止する。
「? どうかしましたか?」
「いやその、喜んでくれるのはありがたいが……たぶんブロンズから上に上がることは無いと思う。シルバーランクに所属するためには、必修授業の四属性魔法をきっちり使えることが条件だと聞いたことがある」
四属性魔法とは、現在マクスとミカヤが受けている水魔法、前回四人で講義を受けた炎魔法に、風魔法と土魔法の二つを加えた四つのことだ。
この四つの授業はゴールドに所属していないかぎり必ず受講しなければならない必修授業であり、さらに成績評価においてかなりの比重を占める授業でもある。
「そうなんですか……? でも……」
「それと……」
なおも納得していない様子のミカヤから視線を外し、彼女の背後へと目をやるマクス。つられてミカヤが後ろを振り返ると、
「あっ……」
自分たちを奇異な目で見ているクラスメイトと、困ったような顔で頬に手を当てているベレッタ教諭がそこにいた。
「今、授業中。少し声を抑えてほしい」
「す、すみません……」
自分が相当大きな声を出していたことにいまさら気づいたミカヤは、顔を真っ赤にしてうつむいた。とりあえずミカヤの意識を自分の特異性から外すことができ、マクスはほっと一息つく。
多くの生徒たちが二人を鼻で笑う中、ベレッタ教諭が近づいてきた。
叱られることを予想したミカヤは身体をこわばらせるが、ベレッタ教諭は柔和な笑みのまま話しかけてくる。
「ミカヤさん、見ていましたよ。……失敗しちゃったみたいね?」
「はい、すみません……」
「謝ることはありません。本来、できないことをできるように教えることが教師の仕事なのだから、むしろ私たちが謝るべきだわ。でも……」
「ええ、わかってます」
申し訳なさそうに眉を曲げたベレッタ教諭に、ミカヤは儚げな笑顔を返す。
魔法は才能で全てが決まると言われている。
術式構築の早さや丁寧さ、魔法発動後のコントロールなどは訓練や知識で精度を上げることができるし、自身の持つ魔力量も体を鍛えることで総量を増やすことができる。
しかしそれはあくまでも、使いたい魔法がきちんと発動した場合の話。
魔法を使えない普通の人間がいくら勉強や努力を重ねても、魔法を使えるようになることはない。――同様に、例え基礎魔法が使えたとしても上位の魔法を使う才能がなければ、その人は一生上位の魔法を習得することはできないと言われていた。
過去の勇者学校において、使えなかった魔法が使えるようになった生徒の例はない。ブロンズランクの生徒は、ブロンズランクのまま卒業していくのが今の勇者学校の常識だった。
笑顔を返されたベレッタ教諭はミカヤをいとおしげに見た後、マクスのほうへ視線を向ける。
「えっと……マクスさんは、その後どうですか? 再び魔法を使えるようになったりとかは……」
魔法を使えたのに使えなくなった唯一の例であるマクスは無表情のまま、
「いいえ」
「そ、そう……。ごめんなさいね、先生たちでも原因がわからないので……」
「お気遣いなく」
目つきの悪いマクスに淡々と返事を返され、ベレッタ教諭はぎこちなく笑顔を浮かべた。元ゴールドランク生徒であるため、マクスの扱いは教員たちの中でも微妙なものとなっている。
それでもくじけることなく、ベレッタ教諭は根気よくマクスに問う。
「もしよかったら、一度使ってみてくれないかしら? 何か気がつくことがあるかもしれないわ」
「……かまいませんが」
マクスは二人に背を向けて数歩足を進め、ミカヤとベレッタ教諭から距離を取る。くるりと振り返り身体の向きを変え、魔法が発動しても誰にも被害を与えない方角に身体を向けた。
ふう、とひとつ息をつくと、マクスは両目を閉じた。
(さて……)
マクスは集中しているふりをする。
実際にマクスが『アクアドラグーン』を使おうとしたのなら、このような時間はまったく必要がない。瞬きをする間に術式を構築し終え、息を吸う間に魔力を捻出し終え、息を吐くと同時に魔法を発動できるだろう。
だが、今のマクスはブロンズランクの生徒であり、ブロンズに所属している生徒らしくしなければならない。
具体的には、ミカヤと同じように『ウォーターサプライ』を発動させなくてはならない。さらに言えば、簡単に発動してしまっては疑いの目を向けられてしまうので、『上位魔法を出そうとしたけど基礎魔法が出てしまった』かのように演技をしなければならない。
マクスがブロンズに落ちるため魔法を使えなくなったと教師たちに伝えたとき、教師たちはこぞって『もう一度魔法を使ってみてほしい』とせがんできた。そのたびに演技をしなければならなかったのでマクスは多少後悔もしたのだが、最近は魔法の使用をせがまれることもめっきり少なくなってきた。
今日は久々の、ブロンズランクの演技となる。
マクスはたっぷり、三十秒近く目を瞑ったままその場に立っていた。傍目には術式を構築するのに苦戦しているように見えて、その実ただ単に身体を脱力させたままリラックスしていた。
(そろそろいいか)
頃合を見て、マクスは『ウォーターサプライ』の術式を構築する。一秒すらかからずに術式を構築し終え、ゆっくりと目を開ける。
この瞬間が、演技をする上で一番苦労するところだった。
呼吸するように自然と術式構築・魔力捻出の一連の流れができるマクスにとって『術式だけを構築した状態』というのがよくわからないのだ。
そのためほかの生徒がやっているように、なんとなく目の焦点を合わさずに、ぼーっとその場に突っ立っておく。今のところこれで疑いの目を向けられたことはない。
そして再び、充分な時間をかけて集中しているふりをした後、
「…………」
マクスの目の前に、先ほどミカヤが発動させたのと同じような水の球体が現れた。
とたんに、周囲からどっと笑いが起きた。いつの間にか受講中の生徒全員がマクスの動向に注目しており、魔法の発動に失敗した(ように見えている)マクスは笑いの種となっていた。
「皆さん、授業中ですよ! きちんと練習してくださいね?」
ベレッタ教諭は声を張り上げて怒ったが、あまり迫力はなかった。ひとしきり笑い倒した生徒たちは、にやけた顔のまま『アクアドラグーン』の練習へと戻っていく。
「……ありがとう、マクスさん。そしてごめんなさいね? やっぱり、まだ元には戻っていないのね」
「ええ」
「本当に悪いことをしたわね? あんな風に笑われて……」
「気にしていないので」
きっぱりと言い切ったマクスをどう思ったのか、ベレッタ教諭は一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべ、
「……じゃあ、そろそろ他の生徒たちを見に戻ります。何か困ったことや気づいたことがあったら、すぐに相談してくださいね? ……それくらいしか、できませんから」
そう言って、二人に背を向けた。そして『アクアドラグーン』の練習を続ける生徒たちの元へと歩き出す。
「……いい先生ですよね、ベレッタ先生って」
「……ああ。この学校では珍しく」
ブロンズランクの生徒の教育に関しては学校側も匙を投げているのか、ほとんどの教師は絡んでくることすらない。大人しく授業を受けてさえいればいい……と考えている教師が大半であり、ベレッタ教諭のようにブロンズの力になろうとする教師は数えるほどしかいなかった。
「ベレッタ先生みたいな人と話すと……」
ミカヤが、悔しさを噛み締めているかのように拳をきゅっと握る。
「いつかきちんと魔法が使えるようになりたいって、思ってしまいます。どうしてわたしは普通に魔法を使えないのか……原因は自分でもわからないので、もう殆ど諦めていますけど」
マクスはちらりと、隣に立つ少女の顔を見る。ベレッタ教諭の背中を見つめるその目は、寂しさの色が見えた。
「本当に……なぜなんでしょう。入学試験はパスすることができたのに」
他人の術式構築と魔力捻出を見ることができるマクスは、原因がわかっていた。
ミカヤは、術式構築の才能には問題がない。それどころか、同学年の中ではかなり高い才能の持ち主だった。構築の早さ、丁寧さ、正確さ……どれをとっても、シルバーランク上位クラスの実力を誇っていると言ってもいい。
ただ……魔力捻出の出力が、圧倒的に不足していた。
ミカヤがその身体に内包する魔力量自体は平均にほんの少し届かない程度であり、三年生の魔法を発動させるには充分すぎるほどである。
だが、魔力を体の内から汲み出す才能が、悲しいほどに無かった。
ミカヤの捻出できる限界の量とは、ちょうど基礎魔法を発動できるくらいの量。それゆえ勇者学校の入学試験をパスすることができたのだが――、
「いっその事、魔法の才能なんて無かったほうが良かったんじゃないかなんて……思ってしまいます。初めから使えなければ、こんな風に学校で悲しい気持ちになることもなかったのに……。貴族に生まれたのに魔法が使えなかったら、それはそれで両親を落ち込ませたでしょうけど……うちにはお姉ちゃんがいるから」
わたしが出来損ないでも問題ないです……ミカヤはそう口走りそうになり、慌てて口をつぐむ。
「……ごめんなさい、ちょっとブルーになっちゃいました。マクス君には関係のない話なのに……」
「別に構わない」
自分は関係ないと言われ若干傷ついたマクスだが、じくじくと痛む心の傷を懸命に抑え付けながらミカヤに向き直る。
「俺は、もともと魔法が使えなかった。それに貴族でもなんでもないから、家のことだとか才能のことに関しては、申し訳ないけどミカヤさんの気持ちはわからない」
「はい、そうですよね……。それなのにわたしったら、愚痴ばかり言って……」
「だけど」
再びうつむきそうになったミカヤが、マクスの声に顔を上げる。
マクスは、右手の手のひらを空に向けて、何かを掲げているかのように顔の前まで持ち上げていた。
手のひらの上にあるものは、先ほど発動させた『ウォーターサプライ』。コップ一杯分ほどの水が球体を形作りながらゆらゆらと揺れ、太陽の光を反射させて煌いている。
「魔法の才能が無いほうが良かったってことは、たぶん無いと思う。確かに、基礎魔法で起こせる力は小さな奇跡だけれど……」
マクスは目を閉じる。身体の中に同じ内容の短い術式をいくつも書き足し、身体の法則を書き換える。そして必要な分の魔力を身体の奥底から汲み出し、
「……いくつも重なれば、別の何かが起こせるかもしれない」
マクスは『ウォーターサプライ』を多重発動させた。マクスの手のひらにあったコップ一杯分ほどの球体が見る間に膨れ上がり、ジョッキ一杯分、ボウル一杯分、バケツ一杯分と大きくなっていく。
膨れ上がった水球を、マクスは手を軽くひねることで空高く打ち上げた。砲弾のように勢いよく打ち上げられた水球は、日差しを浴びてきらきらと輝いている。
水球の上昇が頂点に達したところで、マクスは広げた手のひらを水球に向け、グッと強く握り締めた。
「あっ……」
煌く水球を目で追っていたミカヤは、それが一瞬のうちにパッと弾けるのを見た。バケツ一杯分の水球は目に見えないほどの細かい水滴のシャワーとなり、太陽に照らされて乾いたグラウンドに降り注ぐ。
そこに残ったのは、かすかな涼しさ。そして、
「虹……」
太陽光が舞い散る水滴の中を通過し、屈折と反射を繰り返すことで彩られた七色のアーチ。
ロクスベルゼ王国建国以前には、人々に吉報、あるいは凶兆の象徴とされた虹が――勇者学校北グラウンドの空に架かった。
マクスの『ウォーターサプライ』によって作り出された小さな虹は、空中の水滴が地面に落ちていくのと同時に消えていく。
「…………」
ミカヤは虹の消えたグラウンドの空を、ずっと見続けていた。
なんの役にも立たないと思っていた魔法で作り出された虹は……ミカヤの心に、確かなものを残して消えていった。
「マクス君は……やっぱりゴールドですね」
「えっ? いや、だから、それは……」
慌てて訂正しようとするマクスに、ミカヤは可憐な微笑みを投げかける。マクスの背筋に、電撃のような刺激が走った。
「うふふ……そっか、こんな風に魔法を使ってもいいんだ……」
再び、虹の消えたグラウンドの空を見上げたミカヤは、何かが吹っ切れたような清清しい笑顔を湛えていた。曇り空だった心は透き通るほど晴れ渡り、淀んでいた瞳の中にはきらきらと光が瞬いていた。
「…………」
そんなミカヤに見惚れながら、マクスは隣で突っ立っていた。
本当は「魔法を使えることができなかったら君とは出会っていなかった……これもある意味奇跡みたいなものだよね……」くらいの臭い台詞を頭の中に思い浮かべていたのだが、そして結局言えるはずもなく、口ごもっている間にミカヤは一人で悩みを解決してしまったのだが、
「…………」
好きな子が笑っている、その隣に居ることができる幸せの前に、マクスの頭は空っぽになっていた。
時刻は少し戻り、授業前にマクスとミカヤがグラウンドでお喋りをしながら、ベレッタ教諭の登場を待っていた頃。
「……げ」
「げ、とは酷いな。一緒に昼食を食べた仲じゃないか」
『王国歴史学・三』の講義室で、バーンとタリアの二人が邂逅していた。
選択授業である『王国歴史学・三』は、必修授業の大規模な講義室とは違い三十人から四十人程度しか生徒が座れない小講義室で行われる。
講義室後方中央に座っていたタリアの隣の席に遠慮なく腰を下ろしたバーンは、これまた遠慮なくタリアへと話しかけ続ける。
「シュタインズさんて、歴史が好きなの?」
「別に。好きでも嫌いでもないわ。単位が必要だからとりあえず取っているだけ」
「へぇー。そのわりには、ずいぶんしっかりとノートを取っているじゃないか」
「ちょっと、勝手に見ないでよ。……まぁ、一応わたしも貴族だから。王国の歴史くらい把握しておかないと、将来笑いものにされるわ。そういうあなたはどうなのよ?」
無視をしてもいいのに、タリアは教科書の予習をしながら律儀に会話を続ける。バーンはまじめな表情で教科書を読むタリアの横顔を楽しそうに眺めながら答える。
「僕? 僕はまぁ、わりと好きかな」
「へぇ、なんか意外ね。あなたも単位目当ての生徒だと思ったわ」
「そう? 長い長いロクスベルゼ王国の歴史の中で、いったいどこまでが本当でどこからが捏造なのか、そしてその捏造の意図はなんなのか……とか、想像するだけで面白くない?」
「…………。あんまり王都でそういうこと言わないほうがいいわよ。今はほとんど効力を失っているとはいえ、一応不敬罪に当たるから」
「そっか。……まぁでも、確かに歴史が好きな人ってのはあまりいなさそうだ」
バーンは両手を頭の後ろに回して、椅子の背もたれに体重を預けながら講義室内を見渡す。
講義室内に集まった『王国歴史学・三』を受講する生徒の中で、タリアのように教科書とノートを広げている生徒は少数派だった。大抵の生徒たちは椅子に、ときには机の上に座り込んで、授業とは関係のない話をぺちゃくちゃと繰り広げている。
「そもそも、あともう少しで授業だっていうのに、出席率自体悪いじゃないか。こんなに少なかったっけ?」
バーンに問われてタリアも教室の様子を伺い、眉を顰める。
「……いえ、確かもう少し多かったと思うわ」
「ふーん、みんなサボりかな。必修授業と違って、単位数も少ないし……」
選択授業の、しかも魔法とはまったくかかわりのない『王国歴史学・三』の単位数は、必修授業と比べると悲しいほどに少ない。そのため、時間割の隙間を埋めるためにとりあえず取った、という生徒も多く、真面目に授業を受けない生徒の割合が比較的多めの講義ではあるのだが、
「それもあるだろうけど……でも」
タリアはちらりと、講義室の一角を見つめる。
視線の先にいたのは、男子二人。
バーンは心当たりがなかったが、タリアには、そしてマクスとミカヤにも見覚えのある二人。勇者学校の中庭でミカヤに向かって魔法を放とうとした男子三人組のうちの、二人だった。
「……なんとなく、サボりだけが理由ではないような気がするわ」
「なんで?」
難しい顔をしながら言ったタリアに、バーンは椅子をさらに後ろへと倒し、後ろ足二本だけで前後にゆらゆらと揺れながら問いかける。
「バランス崩して倒れても知らないわよ。……あそこの二人組だけど、普段は三人でつるんでいるのよ。おそらく一人は欠席なのでしょうけど、サボりが理由だったらあの二人も仲良く一緒にサボると思わない? 一斉に欠席することに心を痛めるほど、素行がいいわけでもないのだし」
「ずいぶん悪く言うなぁ、その三人と何かあったの? でもなるほど、確かにね。一人で授業を抜け出したところで、大して面白くもないだろうし。いつもつるんでいるのだったら、三人で抜け出して住民街にでも繰り出すほうが自然か……」
バーンは椅子を揺するのをやめ、今度は机の上に上半身を預けると、タリアの指し示した男子二人へと視線を向ける。
なんとなくバーンには、二人が気落ちしているような……そんな印象を受けた。
「もしかしてだけど……」
「なによ?」
「……実は、何かのっぴきならない事件が起きていたりして」
不穏なことをいうバーンに、タリアが意味ありげな視線を向ける。
「……たとえば?」
「そうだなぁ……本当はサボりなんかじゃなくて、行方不明になっていたり」
「王国内で最も安全な都市である王都で、国を守る勇者を育てている勇者学校の生徒が? しかも貴族の息子までが行方不明になっていると? ……もし本当にそうだとしたら、大変なことね」
「おそらく、王国全土を揺るがすような事件になるだろうね。普通の国民ならともかく、貴族が原因不明の失踪を遂げるなんてことが、王城のお膝元で起こっていたとしたら……」
「王城と王都は、ロクスベルゼ王国の平和の象徴よ。恒久の平和が崩れ去った……そんな解釈をしてしまう国民も出てきてしまうかもしれない。……ちょっとしたパニックが起こるかも」
二人は神妙な顔をして黙り込む。
数秒間、教室内で授業の開始を待つ、他の生徒たちのざわつきを耳にしながら口を噤んでいた二人は、
「……はっ」
「ふふっ」
二人同時に、堪えきれなくなったように吹きだした。
「なんてね。貴族子息が行方不明なんて、大それた事件がそうそう起こるわけがない」
「そうね。大方の予想通り、ただのサボりに決まってるわ」
バーンとタリアが愉快げに笑いあっていると、『王国歴史学・三』を担当しているヤナガ教諭が、教室前方側の扉から入室をしてきた。ヤナガ教諭はおしゃべりを続ける生徒を叱り付け、机に座っていた生徒が椅子に着席したことを確認すると、授業を受講しているはずの生徒が妙に少ないことに気づき、
「たるんでる! 君たちはもう三年生なんですよ! 勇者学校で学べる貴重な期間のうち、半分を消費しつつあるということを自覚すべきです! いいですか……」
サボることもなく、きちんと授業に出席している生徒たちに向かって矛先の違う怒りをしばらくぶつけた後、不機嫌そうな表情で授業を開始した。
その日の夜。街の灯がだんだんと消え、あちこちに暗がりができ始める時間。
全ての生徒が下校した勇者学校に、ある貴族から連絡が届いた。
『息子が、行方知れずになった』と。