お風呂に入ろう
「さて…と。えーっと、お風呂に入っておけって言われてたんだっけ…」
一通り荷物を整理した後、魔王に言われていた言葉が頭に蘇る。
確かに家を出てから全く風呂に入っていないから、相当汚い。
魔王城へ行く道中では水浴びをする機会もあったが、女だと分かると困るので、仲間が寝静まった深夜に頭や身体を軽く清めた程度だ。多少汚れは落ちたものの、それでも不快感は残っている。
自分では分からないが多分臭っても居る筈だ。そんな姿で夕食に出るのはいくらなんでもまずいだろう、という気持ちも良く分かった。
あてがわれた客室にはトイレからバスルームまで備え付けられていたが、単なるバスタブしか置かれていない為、どうやって使うのかさっぱり分からない。
恐らくお湯を誰かに用意して貰って入るのだろうが、こんな事で女中さんの手を煩わせるのも躊躇われた。
ここはお城だし、恐らく皆が使用するような共同浴場もあるだろう。
そう目星をつけて、私は着替えと下着、それにタオルを鞄に詰め込んで客室を抜け出した。
『どちらへお出かけですか』
かけられた声に、私は飛び上がるほど驚いた。
慌てて振り返れば、ドアの裏側―――丁度部屋から出ると死角になる位置に女性が立っていた。
人参色をした短い髪が無造作に跳ねており、翡翠に似た瞳は細められている。低いが形の良い鼻筋に、固く引き結ばれた口が印象的だ。
魔王並みとはいかぬが、彼女もまた美人の部類だった。
簡素な黒のドレスに白いエプロン、襟元から覗く黒いチョーカーの装いから、彼女が女中だろうかと当たりをつける。
「あの…お風呂を頂きたいなと思いまして…」
と言葉を漏らすと、彼女は小さく頷いた。
『でしたらお湯の用意を致しますが』
「い…いえいえ! お手を煩わせてはいけませんし、皆様が使われているような公衆浴場があればそこで十分なので!」
『そうですか。でしたらご案内致します』
女中はもう一つ頷くと、私の先に立って歩き出した。
その動作には無駄がなく、しなやかな豹を思わせる優雅さがある。静かな空気に耐えきれず、私は考えもなしに口を開いた。
「えっと…こ、このお城って僕以外にも客人っているんですか?」
『いいえ。エルシュ様だけです』
「そうなんだ… あれ? 僕名前言ってましたっけ」
『いいえ。先程、魔王様より「エルシュと言う客人が滞在するので最大限もてなせ。どんな願いがあっても必ず叶えるべし」とお達しがあったからです』
なんだその無茶な要求は。
いくら客人とはいえ好き勝手振る舞われて良い物じゃない。
ここの魔王は寛大でもてなすのが好きなようだが、それにしたって限度というものはあるだろう。
「あの…あなたのお名前をうかがっても良いですか?」
何となく女中さんと呼ぶのも気が引けて尋ねると、眼前の彼女はくるりと振り返り、
『私に名前はありません』
と返した。
ぽかんとした表情の私が不思議だったのだろうか。女性は表情も変えずに首をかしげてみせた。
『私は自動人形です。この城では何百という自動人形が働いており、全てが意識と感覚を共有しております。いわば個であると同時に集合体でもあります。それゆえ、各々を識別するような『名前』を持ち合わせておりません』
息つくことも無く言い切ると、再び彼女は歩き出した。
自動人形。そういえば聞いたことがある。
かつて大戦時には、何千何万という自動人形が人間たちを襲ったそうだ。彼らには痛覚がなく、与えられた命令を忠実に遂行する。
知能がないから『自ら考えて戦う』事は出来ないが、だからこそ懐柔も翻弄もできず、非常に戦いにくい敵だったと聞く。
私は噂を聞いたことしかなかったので、漠然と顔の無い木偶人形を想像していた。しかし実物がこんなにも人間に近い造形だったとは思ってもいなかった。
言われてじっくり眺めてみたが、それでもなお、彼女は普通の人間にしか思えない。
「で…でも、名前が無いと呼びにくくないですか?」
『自動人形に能力の差はありません。どの自動人形を呼びつけても、ご期待通りに働けます。ですから、私たちを区別する必要などありません』
ぴしゃりと言い放つ彼女の背中は、それ以上聞くなと拒絶しているようだった。
これ以上深入りすれば返って私の身が危うくなりかねない。私は首をすくめて、黙ったまま彼女の後ろについていった。
それから暫く長い廊下を歩き、階段を下り、石畳の回廊を抜けて行った。豪華な内装は徐々に質素になり、堅実な装いへと変わっていく。
どうも城内で生活する人達向けの区域へと移ってきたらしい。
飾り物はおろか、碌に装飾もしていない壁が延々と続いており、シャンデリアの代わりに簡素なランプがぶら下がっている。辺りには酸化した油と薄っすら埃の匂いが立ち込めていた。
長年下水道で暮らしていた身としては、あの豪華な客室よりもこちらの方がよほど落ち着く。
やがて壁沿いに大きい引き戸が現れ、女中はその前でぴたりと止まった。
『こちらが共同浴場になります』
「今の時間からでも入れますか?」
『はい。お湯は一日中管理されており、どの時間帯でもご入浴できます。源泉掛け流しの天然温泉となっていますので、疾病や怪我にも効能が御座います』
尋ねると女中は誇らしげにとくとくと語る。
どうも彼女にとってこの施設は自慢の一品らしい。
「へぇ、凄いな…あ、それと今の時間帯って、他の人が入ってたりします?」
『いいえ。皆様は終業後に使われますので、夕方までは無人です』
「分かりました。有難う御座います」
ぺこりと頭を下げると、彼女は少しだけ眉を下げる。
彼女には他の仕事に戻ってくださいと伝えると、『ではお部屋の片づけをして参ります』と長い廊下を戻っていった。
一人取り残された私は、大きい引き戸を開けて暖簾をくぐる。
まず目に入ったのは広い脱衣所だ。
扉の無い棚が壁一面に置かれ、中央には長椅子、入口から正面には鏡の付いた洗面台が並んでいた。
(ふぅん。さすが魔王城だけあって、町にある風呂屋とは違うなぁ)
細かな飾りや贅沢な宝石などは飾られていないが、壁や床に使われている木材は、継ぎ目もなく木目も鮮やかで艶がある。
ほんのりと柔らかな木の香りが漂っている所から、高級な材木を惜しげもなく使っている事が想像できた。
そもそも風呂を備え付けているのは金持ちしかいないため、一般市民は入浴施設を使うのが常だった。
概ねどこの町にも一つはあり、交流と憩いの場でもある。
脱衣所・洗い場・浴槽が揃っており、石鹸とタオル、そして僅かな入浴料を持っていけば誰でも気兼ねなく利用出来た。
私は大抵、風呂屋が閉まるぎりぎりの時間にこっそりと利用していたが、その際は弟も一緒に行っていた。
不思議な事に、どんなに早く入浴を済ませても、必ず弟の方が先に風呂屋を出て待っている。それが申し訳なくて、いつも「ゆっくり入ればいいのに」と愚痴を零していたものだ。
「お姉ちゃんを待たせたくないから」と弟は言っていたが、恐らく風呂場で誰かにじろじろと見られるのが嫌だったのだろう。
過去の事を思い出しつつ、私はさっさと服を脱いでタオルだけを巻き付けた。
洗い場へと続く引き戸を開けると、ふんわりとした湯気に包まれる。こちらも脱衣所に習ってか豪勢な作りになっていた。床も壁も石作りで、表面はつるりと磨き上げられている。
どこから切り出したのか分からないが、これもまた高級品のようだ。
壁際と洗い場中央にカラン(蛇口)が並べてあり、その向こう側に湯船が見える。カランは全部で20個あり、そこからも分かるように、浴場全体はとても広い。町の公衆浴場2つ分以上はある。そのカランの一つで手早く髪と体を洗い、煙を潜り抜けて湯船に飛び込んだ。
ぱしゃん、と跳ねた水音も心地良く、私は久方ぶりにほっとした。
ゆるりと息を吐いていると、突然その静寂を破る音がした。
からからから。
振り返るまでもない。脱衣所の境目にある扉が開かれたのだ。
まずい、と私は湯船に浮かんでいる岩の陰に隠れた。
他の女性が私を見たら、痴漢か変態かと間違われるだろう。よしんば誤解を解いたとしても、今度は男装しているのがばれる。
どちらにしても良い結果にはならない。
よし、隙を見て逃げよう。
そう思い立って、そうっと岩から洗い場を覗く。
―――結論から言えば、私は黄色い悲鳴をあげられる事も、痴漢扱いされる事もないのがわかった。
ただ、もっとそれ以上にまずかった。
(……何でここに男が居るわけ?)
洗い場で座っていたのは、体長2m以上はあろうかという、大男だった。短い頭髪の間から二本の角が出ており、濃い赤銅色の皮膚には無数の傷跡が走っている。
魔族の中でも、抜きんでて体力と力に優れた鬼の一族だろう。
俊敏性は無いが、その有り余る腕力でどんな敵をも捻じ伏せられる。
その分知能は低いと言われるが、残虐性は他の魔族にも引けを取らず、まるで赤子が玩具で遊ぶが如く、人間をいたぶったと聞く。
鬼には男女居るが、何故私が男だと分かったのか。
何のことはない。鬼が風呂場に入ってきた際、素っ裸だったのだ。
まぁ、その何だ。もちろん、男の象徴もばっちり見えてしまった。いや、でもこれは不可抗力である。決して見たくて見たわけではない。
鬼はどっかりと腰を下ろして身体を洗っていた。丁度湯船とは反対側を向いており、なおかつ、脱衣所の扉からも離れた位置に座っている。
これはチャンスだ、と私はそろりと岩場から移動する。
ゆっくりゆっくりと動き、鬼に注意を払いつつ、脱衣所へ向かう。
後10m。後5m。じりじりと近づく出口に、私は少しばかり気が抜けていたのかもしれない。
「――――ッ!!?」
ぐらり、と視界が動いた。
声を上げる間もなく、次いで胸部に強い痛みが走る。つまりは、私の足先が濡れた地面の上を滑ったのだ。
盛大な音を立ててすっころんだ私は、余りの痛みに動く事も出来なかった。
早く逃げなくては。私はその思いで顔を持ち上げると、
「大丈夫ですか?」
ばっちり鬼と目が合った。
鬼は思ったよりも整った顔立ちで、ウルとはまた違った強面である。眉根の間に深いシワが刻まれており、やや角ばっては居るが、好みの女性は多いであろう。
色恋沙汰には疎い方だが、それでも人間ならばモテるであろうなと容易に想像がついた。
―――そう。人間ならば。
「ひぁっっ!!?」
奇妙な叫びをあげ、私は急いで起き上がった。
すると、何故だか鬼は目を丸くした。強面が驚く様はなかなかに滑稽である。
「えっ、あ、えっ? ええええっ!?」
「……ん?」
鬼の狼狽ぶりにすっかり気が削がれ、私は思わず首をかしげた。此方が怯えこそすれ、鬼が人間にビビる事など有り得ない。
むしろ「誰だ貴様は」とか言って殴られそうな場面である。
鬼が視線を私の顔ではなく、胸元に注ぐものだから、釣られて自分も下を見た。そこには私の唯一女性らしいと言える胸と、最近割れつつある腹筋が、湯気を纏いながら見えた。
そういえばタオルを羽織ってなかったな、とぼんやり思い出す。
「あの! すいません、僕見てません! 見てませんから!!」
「え?」
「て、て、てっきり、あの、男湯だと思ったので、すいません! すぐ出ますから!!」
「あ、ちょっ…」
何やら叫びながら鬼は急いで立ち上がる。
だが、相当慌てていたらしい。起き上がろうとした私と接触し―――
そして、私は吹っ飛んだ。
「うわぁああっ!?」
運が良いのか悪いのか。湯船に頭から飛び込む形になり、洗い場からは「ええええ!?」という、何とも間の抜けた鬼の声が聞こえてきた。
ぴちょん、と水道から水が滴る。
私と鬼はなぜか向かい合う形で湯船に浸かっていた。
危うく溺れかけた私を救い上げ、どこか怪我はしてないかと何度も聞かれたので、とにかく大丈夫ですと言い張った。
すると鬼が浴場から出ようとしたので、「いやそれは申し訳ない」と私が押し止める。かといって私が出ていこうとすると「そんな訳にはいきません」と今度は鬼が私を浴場にとどまらせようとする。すると必然的にお互いが湯船に浸かったままになったのだ。
もちろん私の体にはきっちりとタオルが巻かれている。
「あの…も、申し訳ありませんでした!!」
風呂の中で土下座しそうな勢いで頭を下げる鬼に、私は首を振ってみせた。
「いや、僕…私もここが男湯だと知らずに入ってたわけだし、気にしてませんよ」
「そ、そんな訳には…! それに先程の件も申し訳ありません。あの、お怪我はありませんでしたか?」
「お湯の中だったし大丈夫です。それより、さっき打った胸の方が痛くって」
へらりと笑ってみせると、何故か鬼は気まずそうに目線をそらしてしまった。
なんだか聞いていた鬼のイメージと全く違う。
極悪非道に見えないし、人間をいたぶったりしそうもない。それどころかやけに弱気で下手に出ている。
彼が私を殺す気ならば最初の段階で殺しているだろう。だから、私は不思議と怖くなかった。
そんな態度に戸惑っていたのは鬼の方だ。彼は恐る恐る尋ねてきた。
「あの…貴方は人間ですよね? …お客様なんですか?」
「はい。自己紹介が遅れました。私はエルフェ・ウルデリッヒと言います。国から魔王城の偵察隊に来たんですけど、何だか成り行きで泊めてもらうことになりまして…」
そう言うと、今度は鬼の方が首をかしげた。
「なるほど…でも客室に浴室が付いているんじゃないですか? 何でわざわざこちらに…?」
「私の為にお湯を用意してもらうのも悪い気がしまして…それにここなら24時間入れるそうですし」
「……今度から用意してもらった方がいいですよ。女性用の大浴場もありますけど、客人はまず使いませんから」
何故だか肩を落としながら言われた。
しかしそう言われても、客人という立場はどうにも慣れない。誰かに頼んでやってもらうよりも、自ら出来る事はする性質なのだ。それに魔王城で私のような位も称号も持たない平民が、風呂に入りたいなどと頼んで良いものかどうか。
怒られるだけならまだしも、痛い目には遭いたくない。
出来れば今度は女性浴場を教えてもらって―――と考えた所で、私はふと思い出した。
「あぁ、そうだ。すいません。私が女だってこと秘密にして貰えませんか?」
「え?」
「偵察隊になる為に男装してエルシュと名乗ってるんですけど… もしここで女とばれたら何が起こるか分かりませんから」
単に叩き出してくれるなら構わないのだが、もしも女なら価値があると思われ、凌辱の限りを尽くされたり売り払われたりしても困る。
だから頭を下げてお願いすると、鬼は困ったように頭をかいた。
「それは構いませんけど…でも、大丈夫ですか?」
「ええ。どうせすぐに此処を出ていきますから、ほんの少しの間だけ内緒にしてくれれば助かります」
私は出来る限りの笑みを浮かべてみせる。
ここで初めて、私は自分に魅力がない事を大いに残念に思った。外見で頼みごとの効力も大幅に変わる。これは私が長年の経験から学んだことだ。
悲しいかな、私のような女性の魅力が欠片も無い人間では、男性はなかなか答えてくれないものだ。動物の本能からすれば尤もな反応なのだろうが、それでも(一応)女性としては、悲しいものである。
そんな私の意を汲んでくれたのか、鬼は神妙な顔つきで「分かりました」と頷いてくれた。
思ったより素直な反応に此方が戸惑ってしまう。ひょっとしたら「交換条件にヤらせろ」などと言われるかとも思っていたのだが。
……まぁ、私に襲うほど価値がないだけなんだろうけども。
お風呂からあがると、私は髪もろくに乾かさずに着替えた。
鬼は気を使ってか始終私の方を見ず、今も後ろを向いたままでシャツと皮のパンツを身に纏っていた。
…鬼って服着るのか。まぁ確かに全裸だとおかしいとは思うけど。
そんな失礼な事を考えていると、鬼はお詫びだと言って飲み物を渡してきた。透明な瓶の中には牛乳が入っており、良く冷えている。
一気に飲み干すと、火照った身体が幾分か冷めていくようだった。
「そういえば、あなたの名前を伺ってなかったですね」
私が行儀悪く口元を拭いながら尋ねると、鬼は此方を見ないまま頷いた。
「僕はフォクトって言います。…敬語なんて使わなくて良いですよ。あなたはお客様ですし」
「でもフォクトさんだって敬語じゃないですか」
「気にしないでください。僕は敬語が癖みたいなものなんで」
「はぁ…」
ここで頑なに敬語を使ってもフォクトの気分を害しそうだし、彼相手ならばもう少し気楽に接せられるかもしれない。
じゃあ遠慮なく、と私が断ると、フォクトは苦笑を浮かべた。
「エルシュさんは不思議な方ですね」
「そう?」
「ええ。普通、人間の方は僕を見たら怖がると思いますよ」
確かにフォクトは怖いと言えば怖い。
並みの人間より数倍は体格が大きいし、威圧感だってある。黙って睨み付けられたら大抵の男は泣き出すんじゃないかっていうぐらい凶悪な顔つきでもある。
ただそれよりも彼がやたらと腰が低く、先程の出会い方からして私の方が驚くタイミングを失ってしまったというのもある。
「まぁあんな出会い方だったし…それにフォクトさんは怖いってタイプじゃないよ。いや、見た目は厳ついと思うけど」
どちらかといえば「わんこタイプ」だな、と内心で付け加えたのだが、その回答が予想外だったのだろう。
フォクトは私をまじまじと眺めて、「…そう言われたのは初めてです」とぼそりと漏らした。
顔色は全く分からないが、どことなく照れているような雰囲気だ。
そんな態度をされるとは思わず、こちらも急に気恥ずかしくなって、慌てて別の話題をひねり出した。
「あ~…そ、それより親衛隊隊長の方がよっぽど怖かったな。フォクトみたいに話しかけやすそうな雰囲気もなかったし」
と、大袈裟に肩をすくめると、フォクトは「会ったことあるんですか?」と食いついてきた。
「会ったというか…森に居た私を城まで送ってくれたの。生きた心地がしなかったけど」
「そうでしょうね。隊長は厳格で気難しいって噂ですから。…それにしても親衛隊に送迎してもらうって、凄いですね」
「うーん。偶然じゃないかなぁ。たまたまあそこを通りがかっただけとか…」
その後たわいない会話をフォクトと重ね、彼が第13大隊の副隊長である事、城に努めてまだ2年である事、今は魔人の住む領地も非常に平和で安定しており、魔王が人間の居る領土を攻める気は無いであろうことを教えてくれた。
代わりに私が今までの経緯を簡略ながら話すと、彼は顔をしかめて「それは大変でしたね」と大いに同情してくれた。
その態度に嘘は感じられず、とても大真面目に対応しているように見える。
私に人を見抜く能力など無いが、それでも短い会話の合間からでも彼の真面目そうな人柄が窺えた。
気配りは細やかだし、私の生い立ちについても気を使って言葉を選びながら話してくれているのが分かる。
これで見かけが優男なら、さぞかし女性にモテるであろう。
―――いや、鬼ならこの厳つい外見の方がモテるのかもしれないけど。
そろそろ部屋に戻らねば、魔王も私の様子を見にくるかもしれない。
その事に気が付いた私は牛乳を棚に置き、御馳走様と声を掛けて先に脱衣所から出た。すると、脱衣所から出てすぐ脇の廊下に、見覚えのある黒甲冑が佇んでいた。
「えーと、ヘルムートさん…?」
いまいち確信が持てずに声を掛けると、のそりと甲冑は身を起こす。良かった。当たりのようだ。
しかし彼が居るだけで、廊下が一回り小さくなったのかと錯覚してしまう。体躯もそうだが隙のない雰囲気が、彼をより巨大に見せているのだろう。
「……自動人形から大浴場に行ったと聞いてな。風呂に入るのだったら、客室の―――」
そこまで言った所でヘルムートは唐突に言葉を切った。
私の後からフォクトが出てきて、「手ぬぐい忘れてますよ」と声を掛けたからだ。私が振り返ると、フォクトとヘルムートはばっちりと目が合ったらしい。
「……何故貴様が此処に居る?」
低い声でヘルムートが問うと、フォクトから擦れた悲鳴が漏れた。
身長だけ見れば同じくらいなのに、纏う気迫はヘルムートの方が何倍も大きい。
私の後ろに隠れるようにして―――それでも全く隠れていないが―――、フォクトは「きょ、今日は非番でして…」とかぼそぼそと呟いていた。
ヘルムートはその答えに納得がいかなかったらしく、殺気がさらに膨れ上がる。あたかも見えないガラスの破片が体中に降り注いだかのごとく、皮膚に無数の痛みが走った。
私に向けられているのではないが、結果的に私にもその気が当てられ、風呂から上がったばかりだというのに、だらだらと冷や汗が噴出してきた。
寒くもないのに足は震え上がり、喉奥がきゅうと締め付けられる。
「まさか…共に入ったわけではあるまいな?」
何処に、とは私もフォクトも尋ねない。
ここで素直に答えれば、血を見るであろうことは何となく察しがついた。
フォクトは歯の根も合わぬまま、
「あ、あの、だ、だ、脱衣所に、えるしゅ、さんが居て、その、そ、そこですれ違っただけ、で、でして」
私もつられてこくこくと頷くと、ヘルムートの気配が幾分か和らいだ。
「…なるほど、では第13大隊の副隊長フォクト。後で私の部屋まで来い、いいな」
吐き捨てるように言うと、ヘルムートは踵を返してどこかへ行ってしまった。
―――いったいあの人は何しに来たのだろうか。
まさか私を追いかけてきたとは思えない。かといって呑気に散歩している様子にも見えなかったのだが。
私は緊張の糸が切れたのを境に、肺に貯めていた息を盛大に吐き出した。
ふと背後に目をやると、赤い顔を死人のように白く染めたフォクトが居た。
「…呼び出し…!? 死ぬ…いや絶対に殺される…!!」
「い、いやそうと決まったわけでも…」
「エルシュさんも感じたでしょう!? 隊長のあの殺気!!」
「あぁ…うん…」
「…い…一体僕が何をしたっていうんだ…!?」
背中を丸めておいおいと泣き出したので、私は思わずフォクトの背中を撫でながら「大丈夫ですよ」と何の慰めにもならない言葉をかけていた。
もはやすっかり鬼に対する恐怖心は無くなった。代わりに湧き上がってきたのは、親衛隊への畏怖である。
ヘルムートは初めて会った時から「ひょっとしたら見かけと違って優しい魔人なのかも?」と思っていただけに、先程の怒りには心底驚かされた。
―――と、いうか怖かった。
もちろんあの短い道中で彼の全てを知った気にはなれないが、紳士的な態度から漠然としたイメージを抱いてしまったことも事実だ。
それが音を立てて崩れると共に、フォクトの言っていた噂もあながち間違いではないのだと確信した。
くれぐれもヘルムートの地雷を踏まないようにしよう、とひっそりと心に誓った風呂上りだった。