森の中の出会い
溜息を吐いて、鬱蒼と茂る森を見渡す。この森を抜ければ、魔王城までは後少し―――その筈だった。
羽織ったマントはずっしりと重く、落ち込んだ気持ちと合わさって、肩に食い込んでいた。体力には自信がある方だったが、こうも長旅が続けば流石に限界というものも来る。
「みんな、どこに行っちゃんだろ……」
それは心の底から漏れ出した吐露だった。
私が彼らと逸れたのはほんの数刻前だ。
そもそもこの魔王城付近の森に来るまでが大変だった。いくつもの山を越え、森を抜け、大河を渡り、道なき道を延々と行群したのだから。
この辺りを詳細に思いだそうにも、ただひたすらに「辛い」という二文字しか浮かばない。
それだけ私は必死になって偵察隊の彼らに食いついていたのだ。
途中何度「もう止めよう。もう帰ろう」と考えた事だろう。その度に、薄れかかっている弟の顔が思い浮かび、せっかくここまで来たのだから、どうせなら最後まで行くべきだと思い直したのだ。
そうして町を出てから何か月か経った頃。
いい加減私の体力が底を尽きかけており、ぼんやりと濁った思考で「後もう少し…後もう少し…」と呪文のように唱えていた時だった。
何故だか急な違和感を覚え、ふと顔を上げると―――周りには誰も居なかった。
足音どころか、物音さえ聞こえない。
慌てて声をあげて呼んでみたが、誰ひとりとして応えてくれなかった。
(魔人に襲われたのかな…でもそれなら悲鳴が聞こえる筈だし)
木の根元に座り込んだまま、警戒心を持って辺りを見渡す。
今まではウルや他の仲間達と気を張りながら一生懸命歩いていた。前を見上げる余裕さえなかったのだ。
まぁそれもしょうがない。少しでも隙があれば、たちまち魔人に襲われるんじゃないかと怯え、只管彼等の足取りだけを追いかけていた。
だから、改めて眼前に鬱蒼と生い茂る森を見た時には、今更ながら震えが走った。
ここはもう人間が立ち入れる場所ではない。魔王城の御膝下であり、魔人たちが跋扈する危険極まりない場所なのだ。
辺りは異様な程静まり返っており、鳥や虫の鳴き声すら聞こえない。それはすなわち、「他の生き物が居ない」事を表していた。
足元に生い茂る柔らかな緑を、先端の革が剥げた靴を、私はただじっと見下ろしていた。
しかしこのまま仲間を待っていても埒があかない。いくら待っても彼らは戻ってこないのだから。
ならば、さっさと任務を遂行して速やかに帰った方が得策ではないか。
何度目か分からない溜息を吐き出し、自分のお腹に力を込める。
(まぁ…近くで様子を伺って…しばらくしたら王都に戻ればいいよね)
何も魔王城に乗り込むわけではない。だから大丈夫と自分を奮い立たせ、さぁ、行くかと足を踏み出した時だった。
「誰だ?」
低い声に呼び止められた。
錆びついたゼンマイ人形のようにぎこちなく首を捻ると、そこに居たのは、漆黒の甲冑だった。
頭の上から足元まで黒一色で塗りつぶされており、普通ならば付いている家紋や紋章といった飾りの類が一切無い。
それだけでも異様なのだが、最も目を引くのは甲冑そのものだ。
森に降り注ぐ柔らかな陽光すら吸い込み、全く光沢も輝きも放たない金属。あたかもその甲冑の居る場所だけがぽっかりと抉られているようだ。
そのとてつもない威圧感と異様感を放っている甲冑が、栗毛の馬に乗って此方を見下ろしている。
―――これが魔人か。そう、直感で判断した。
尤もこんなにも魔王城が近いのだ。人間がうろうろしているのもおかしな話だろう。
「あ、えっと、わた…いえ、俺は、エルシュと言います。あの、え、えっと、その、魔王様の城へ、い、行くつもりで、あの…その…」
動揺しながらも、馬鹿正直に「偵察に来ました」と言わなかった自分を褒めたい。
かといって他に疑われなさそうな理由も挙げられず、怪しい事には変わりなかった。
こんな不審人物が現れたら、私ならまず捕えて尋問するだろう。
(やっぱり拷問されるのかな…)
私が嫌な予感と共に、引きつる喉から無理やり搾り出した言葉に、しかし黒甲冑は大きく頷いた。
「城への客人か。驚かせてすまなかった」
そして丁寧に頭を下げたのだ。
ひっ、と声を上げて驚いたのは此方の方だ。
この魔人は、恐らくそこらの騎士よりよっぽど強いだろう。戦いの経験が無いから正確には分からないが、彼には全く隙がなかった。
決してこちらに剣を向けている訳でもないのに、辺りにはぴりぴりと肌を焼くような空気感が漂っている。少しでも下手な動きをすれば殺される。そんな雰囲気が漂っているのだ。
(これは何かの罠だろうか…)
そう思ってしまうほど、何もかもが怪しかった。
ひょっとしてこれは何かの試練かもしれない。間違った回答をした瞬間に切り殺されるとか、拷問にかけられるとか。
だったらどう答えるべきだろうかと思案していると、甲冑が馬を降り、こちらに近付いてきた。
私が逃げ出すべきかと構えていると、甲冑は片手を差し出してきて―――
「私の名はヘルムートだ。魔王城で、親衛隊長を務めている」
と、黒甲冑ことヘルムートは名乗りを上げた。
それが余りにもあっさりとした自己紹介だったものだから、危うく私は最後の一言を聞き逃す所だった。
(―――親衛…隊長…っ!?)
ぶわり、と毛穴から汗が吹き出すのが分かる。
強いどころじゃなかった。
親衛隊といえば、魔王が持つ軍の中でもエリート中のエリートだ。
聞きかじった話ではあるが、魔人とはとても寿命が長く、数千年生きる者もざらに居るという。今の親衛隊は昔の魔人が攻めてきた戦にも出ていたという噂だから、何百歳か…あるいはもっと歳を取っているのかもしれない。
彼等は海を割り、大地を砕く力を持ち、どんな敵であっても一撃の元に切り伏せる。だがそれよりも恐ろしいのが、どんなに切っても刺しても死なないし、魔法すら効果が無いところだ。
親衛隊が別名『不死身の軍団』とも呼ばれる所以である。
さらに噂によれば、親衛隊は大層な嗜虐心を持っているらしく、かつての戦争では無抵抗の老人や女子供を殺してまわったらしい。
あまつさえ、歯向かう者が居れば、肉を剥ぎ、骨を削り、あらゆる拷問をしたという話まで聞かされた。
それほど恐れられ、恐怖の対象となっている親衛隊―――しかも隊長―――が目の前に居る。
何故そんな重要人物がこんな森に居るのか。
親衛隊長というからには、魔王の護衛をしてなくていいのか。
恐怖と疑問が頭の中を渦巻いている間に、ヘルムートはそのままもう一歩、距離を詰めてくる。
何か拙い事でも言ったのか、と身を硬くすると、全く見当違いの言葉が降ってきた。
「これから城へ向かわれるなら、お送りしよう」
「―――へ?」
吐かれた言葉が理解出来ず、思わず呆けた表情を浮かべてしまう。
だがそれを意に介した様子もなく、ヘルムートは馬の手綱を引いてこちらに寄せてきた。
「馬に乗った経験は?」
「……あ、いや…ない、です」
そう答えると、ヘルムートは無造作に私を抱きかかえた。
声を上げるよりも早く、事も無げに私を馬の背に放り投げる。
慌てて馬のたてがみを掴むと、続いてヘルムートが再び馬にまたがった。
「失礼。この方が早そうだったのでね」
「そ、そ、それならそうと、先に言ってくださいよ…!!」
思わず抗議の声を後ろにぶつける。
しかし相手が『恐怖の親衛隊長』だという事を思い出し、慌てて両手で口を塞いだが、ヘルムートは気にする様子も無く微かな笑い声を漏らした。
低い声はとても耳朶に心地良く、艶がある。
こんな状況にも関わらず(良い声だな)などと思ってしまった。それが耳元で聞こえたものだから、ぞくり、と背筋が震える。
これはまずいとお腹に力を入れ直したが、馬に乗っている体勢が良くなかった。
馬の前に私が座り、後ろにヘルムートという並びは、非常に落ち着かない。
さらにはヘルムートがぴったりと私に密着し、片手は手綱を握っているものの、もう片方の腕を私の腰に回しているのだ。時折、お腹を撫でられた気がして身を竦めるのだが、その度にヘルムートが「どうかしたかな?」と尋ねるので、「いいえ」と返すので精一杯だった。
これはひょっとして、すぐ殺すのも勿体無いと思い、どう調理してやろうかと思案しているのだろうか。
嫌な想像に、小さく身震いした。
「そういえば―――エルシュ殿にご兄弟は居るか?」
かれこれ10分は馬に揺られていた頃だろうか。
緊張から背中は強張り、足が痺れそうになっていた私に、唐突にヘルムートが尋ねてきた。
「……は、はい。弟が一人…居ました」
「というと?」
「え…ええっと…ご、5年前に亡くなりまして…」
「そうだったのか。失礼だが、弟さんの名前は?」
「ガルムと…言います」
なんで弟の話を聞きたがるんだろう。
首を捻っていると、ヘルムートは「あぁ」と言葉を続けた。
「私にも兄が居るものでな。何となくエルシュ殿と似ているような気がしたんだ」
魔人に兄が居るのか。
いや、魔人とはいえ生き物なんだから、親や兄弟がいてもおかしくないのだが、人間とは違う『生物』という認識だった為、なんとも奇妙な感じがした。
「そ、そんなに似てます?」と思わず自分の頬をぺたぺた触ってみる。
彼は一度も甲冑を脱いでいないので、全く顔が分からない。
すると、ヘルムートは手綱を強く引いて馬の足を止めた。
「いや、顔の事ではない」
言って、ヘルムートは私の頬にそっと手を当てた。
柔らかく後ろを振り向くように押されたので、促されるままに顔を向けた。
―――そして、後悔した。
ヘルムートは甲冑の目に当たる部分を押し上げていたが、そこから覗いたのは想像しているような顔ではなかった。
皮膚を溶かし、肉を削いだ、白雪のような骸骨がそこにあった。
その後ろにはどろりとした闇が広がっている。
あたかも密度の濃い煙を押し込めているが如く、甲冑よりもさらに禍々しい色をした塊が、うねるようにして漂っていた。
ふぅ、と遠のきそうになる意識を辛うじて捕まえて、馬のたてがみを強く握り締める。
「私は鎧の魔人でね。御覧の通り中身は骨しかないのだが」
「そう……ですか……」
だったら何が似ているというのか。
そう怒鳴りつけたい気持ちを察したのか、ヘルムートは肩をすくめて、
「君と兄は雰囲気がそっくりだ」
と朗らかに笑い声をあげた。
これには私も力なく笑うしかない。
乾いた笑いが、夏も近くなった湿り気のある空気に流されていった。
そういえば笑ったのなんて何時振りだろう。
弟が居た時には、下水道に戻ればいつだって笑い合ってた。
たった一人で取り残されてからは、元より誰とも交流しなくなっていた為、いつしか話す事さえしなくなっていた気がする。
硬くなった表情筋が機能しているのに驚きつつも、まだ自分が―――脱力した挙句のものだが―――笑えている事に驚いた。
「笑った顔も似ているな」
ヘルムートに言われて、甲冑に表情があるのか、と振り返りそうになった。
私には分からないだけで、魔人同士ならば見分けられるのかもしれない。
…どちらにしろ、骸骨にそっくりと言われて嬉しいかと言われれば微妙なところだが。
相反する思いを抱えた二人を乗せ、馬は緩やかな足取りで、ゆっくりと魔王城へと近づいていった。