009
水車のように水を吐く外輪の音と、微かに鳴る波の音で怜は目覚めた。
「くしゅん」
最初の揺れは止んでいたが、断続的な振動は続いている。この薩摩行きの船は蒸気機関の低音が響く、西洋から輸入された個人所有の商船であった。
黒船来航以前まで、”大船建造の禁”により五百石以上の軍船商船は、朱印船を除き全て禁止であったが、海外の脅威によりその必要性に気付き、禁令は撤廃される運びとなった。ちなみに商人が西洋商船の所有を許可されたのはつい最近のことであり、当然のことながら、怜が乗ったこの商船の所有者も相当財力のある商人であることは間違いだろう。
怜は誰もいないか確認した後、蓋を押し上げてそろりと顔を出した。今は何時だろうと空を見上げれば、煌々と夜空に輝く満月。まだ真上まで到着しておらず、約45度の角度から21時頃だと推測する。
気温は日中の暑さと打って変わって冷える。口の中は潮を食べているみたいに塩辛くて、喉もカラカラだ。限界を感じた怜は、藁籠に耳をくっ付けて外の様子を伺った。
(誰もおらんな)
そうっと藁籠から出ると、グッと身体を伸ばす。いくら子どもといえど同じ体勢は苦しいのだ。何度かラジオ体操の真似をしながら、ようやくいつもの調子を取り戻すと、草履を脱ぎ、足音を立てないように船の前方へと歩いていった。
改めて周りを見れば、少し怖いくらいの大海原だ。船の後方は積荷が満載で、中ほどは操舵室、船首の方は灯りがいくつも見えた。
「どっかに水ないかな」
少々音を立てても見つかる心配はないものの、見つかったらどうなるか、怜は想像がつかなかった。この時代、密航は大罪であり”死刑”が当たり前なのだ。ごく稀に特別減刑される場合もある。
吉田松陰などは黒船への密航を企てた一人であるが、ペリーの嘆願書によって死刑を免れ、長州に強制送還され投獄された過去がある。怜の場合、海外渡航ではないし、まだ子どもであるという理由から死刑までは行かずとも、家族に迷惑をかけることにはなるだろう。
それは怜にとって、最も避けなければならないことであった。
「ここにありますよ」
薄暗いの中をヌッと竹筒が出てきた。
怜は「おおきに!」と礼を言うや否や、ゴクリゴクリと一気に流し込む。口の中の塩分がスッーと消えて、潤いが体内を循環していくようだった。
「ぷっはぁ!生き帰ったわ」
「それは良かったです」
「じゃ!また!」
怜は竹筒を返して、そのまま立ち去ろうとしたが、ふと思い出した。
(この声、、出航した時に船酔いで怒られてた人や)
貧弱そうな線の細い小男だとばかり思っていたが、想像とは真逆で、超が付くほど巨漢のがっしりとした体格の大男である。座っているのに怜より大きかった。
「お相撲さん?」
「鋭いですね。でも昔の話です」
大男はサッと目を逸らした。
「ふーん。ほんであんたこんな所で何しとるん。まだ船酔いか?」
「船酔いはマシになりました。ここで見張りをしていたんです」
「めっちゃ空気やん」
「よく言われます」
大男はどっこいしょと立ち上がった。
「奈良の大仏みたいやな。まあ頑張り。私はお腹空いたから食糧調達に行ってくるわ」
去ろうとした怜であったが、大男に頭を掴まれた。
「あ、一応捕縛対象なんで」
怜は大男を気絶させる為の部位の選択について悩んだ。今、ここで捕らえられるわけにはいかないのだ。
「頭と金◯マどっちがええ?」
「どっちも嫌ですよ」
しかし操舵室の手前まで連れていかれたところで、船首の方からどよめきが起こった。
「子どもが落ちたぞー!!」
「縄梯子をかけろー!」
危険を知らせる鐘が響くと、操舵室から数人が飛び出し、二人を押しのけて走っていく。
「退け!邪魔だ!」
「あ、あのっ密航者が、、」
「新入り!お前も手伝え!」
「は、はい!」
怜は「助かった」と思った。落ちた子どもには悪いがこれだけ人がいるのだ。誰かが助けるだろう。そう思い、今のうちにとごった返すデッキを抜け、中へ続く階段を一歩降りた。しかし背後で「鮫だーー!」という水夫の声に足が止まった。
「幸太朗!」
父親であろう男が身体半分を海に突き出し、子どもの名を叫んでいる。今にも飛び込みそうな勢いだが、それを水夫らが制していた。
「危ない!危険だ!」
「息子を助けてくれ!頼む!」
しかし、皆動けずにいた。水夫とはいってもただの雑用係みたいなものだ。泳ぎが長けていたとしても、鮫のいる海に飛び込む勇気などないのだろう。
「もっと松明を持ってこんか!」
誰かが叫んだ。
海面は月の光があるだけで船上の灯りはわずかしか届かない。怜は皆を押しのけ、手摺りに手をかけて身を乗り出して下を覗き込んだ。見れば停止した船の外輪より、少し離れたところに子どもがいる。手足をバタつかせ、必死で頭を上げているようだ。そして周回するように鮫の背びれが見えた。
怖いなど考える暇も無かった。怜は着物の裾を持ち上げ、腰辺りでキツく結ぶ。それに気付いた隣りの男が手首を掴んだ。
「危ないぞ!」
「邪魔や!」
怜は男を一睨みすると、手を振り払って、そのまま海に飛び込んだ。
「ーーーー待たんか!」
思いの外、冷たい海だった。怜の身体は一瞬大きく沈んだ後、反発するように海面へ飛び出す。
「もっと左じゃ!」
その声に左側を見ると、子どもの頭と手が見えた。怜は無我夢中だった。鮫がどこにいるのかもわからない。それよりも、子どもが海底に沈んでしまったらおしまいだとそればかりを考えていた。
「来よったぞ!逃げろ!」
「槍持ってこい!」
「縄梯子を下ろせ!」
そんな声を上空に捉えながら、怜は沈みゆく小さな腕を掴んで、力一杯自分へと引き寄せた。
「早よ戻れ!」
「鮫が近付いとるぞ!」
怜よりもひと回り小さい身体だった。
子どもは怜の肩にくたりともたれ、気を失っている。
怜は何度か海水を飲みながらも、船の方へと向かった。しかしなかなか前に進むことが出来ない。水を含んだ着物の所為で、体力だけが消耗されるのだ。さっきまで気にならなかったのに、少しの安堵から気が緩んでしまったのかもしれない。徐々に感覚が鈍り、前に進んでいるつもりなのに、後退しているような不思議な錯覚。人々の声すら聞こえなくなっていた。
「逃げろ!!」
「来るぞ!」
次の瞬間、大きな波が襲った。
口を大きく開いた凶悪な牙が、怜の瞳に映る。
(お父ちゃん)
頭に浮かんだのは善治郎の顔。
(ごめんな、、、)
そして一瞬で目の前が真っ暗になった。
◇◇◇◇◇◇◇
眼前に広がるのは西瓜畑。地平線のずっと先まで続いている。まん丸で艶やかな縞々模様。甘い香りが漂っている。
(すごーい!)
怜は歓喜に震えた。自分の求める西瓜が溢れんばかりにあるのだ。当然だろう。
(これで私も億万長者や!ヒャッハー!)
怜は声を上げて笑う。最高の気分であった。
「おい、大丈夫か」
その時、誰かに肩を揺すられた。
(今ええとこなんや!邪魔せんといて!)
「こ、コイツ笑っとる」
(笑いもするやろ。こんなに西瓜があるんよ。西瓜糖”作り放題やん)
「夢見とるんか?」
(そうや。夢みたいな気分夢や、、夢、、夢!?)
ハッと目を覚ました怜は、勢い良く飛び起きた。
「おお。やっと起きたのう」
「西瓜は!?」
「西瓜?、、、やっぱり寝惚けとるな」
怜はがっくり肩を落とした。
「なんや夢か」
「そんなにええ夢やったんか?」
「そりゃもう、、」
と、言いかけて声の主を見た。
「しかし、おまん子どものくせになかなか勇気あるのう。たまげたぜよ」
「坂本さんこそ凄いですよ。鮫に食われかけた二人を、槍で助けたんだから」
「あほう。この子に勇気をもろたんじゃ」
その男はニカッと笑い、痛いくらい怜の頭を撫でた。怜はこの男を知っている。いや、知らない人などいないのではないのだろうか。幕末で最も素晴らしい功績を残したとして、知名度から人気度まで常にトップというカリスマ的存在。
(坂本龍馬や!!!)
まさかこんな場所で会うとは思っていなかった怜は、しばらく口を開けたまま動けなかった。




