088
聞いたこともない言葉を喋っている。
何処の国の子供だろう。
朝鮮人か?それとも蒙古人か?
見た目は自分達と大差ないが、豪然たる態度はあの小男すら萎縮させる堂々っぷりだった。
「あんた、話聞いてんの?」
変わらぬ歳であろうその子供が装いから雰囲気まで全く自分と正反対だという現実に、小麗は打ちのめされた。
(神様は不公平だ……)
酷く自分が滑稽に見えて、同時に名も知らぬ異国の子供に憎しみすら覚える。
『な、なにアルカ?何を言っているアルカ』
「ちっ……キャンユースピークイングリッシュ?」
『イングリッシュ……イエスアル』
西洋街近くに店を構える清人の多くは、片言であるが英語を話すことが出来る。主な商売相手が西洋人であることは明白だ。
『この饅頭、毒入ってないやろな?』(※以下英語)
『毒など滅相もない!』
『私の言う”毒”は不衛生かどうかで決まる。つまり黄浦江の水で作ったんちゃうやろな?』
『ウチの饅頭はこの街から一里離れた山奥で作っているんだよ。水は中腹の湧き水を使用しているから問題ない。この辺りの店は殆どがそうだ』
曰く金持ちの観光客や西洋人相手に、間違ってもそのような対応をすれば己の首が飛ぶことになるらしい。寧ろ「同胞相手なら悪しき商売をしても許される」という意味不明な理論を展開した。
『ほんなら一つ貰おか』
子供が人差し指を立てると、その後ろから二人組の男が割り込む。
「自分だけ狡いぞ」
「私も頂こうかな」
はぁと息を漏らして店主に向き直った子供は、更に指を三本に立てた。
『三つちょうだい』
『ま、毎度あり!』
銭を支払い、横並び歩き出した三人を小麗は身を潜めて睨む。中央の子供は左側の人相の悪い男をチラチラと見ながら饅頭を頬張っている。右側の整った顔立ちの男は、子供を愛おしそうに見つめ、時折頭を撫でていた。(が、即座に振り払われていた)
(いいな……)
ゴクリと喉を鳴らせばお腹が一際大きく鳴る。
小麗は慌ててその場にしゃがみ込んだ。
「悪くないな」
「40点」
「怜は手厳しいね」
「オッサンのせいでマイナス20や」
徐々に近付く足音と楽しげな笑い声が、自分を嘲笑している。
そう思った瞬間、勝手に身体が動いていた。
◇◇◇◇◇◇◇
まだ小麗が言葉を覚えて間もない頃、亡くなった母が幼い手を握って、村で一番美味しいと言われていた屋台で包子を買ってくれた。羊の肉が一杯詰まった包子は、口に入れた瞬間じゅわりと肉汁が広がり、こんな美味しい物がこの世にあったのかと小さいながらに感動したものだ。
あの頃は幸せだった。
父は小麗が生まれて直ぐ他界してしまったが、大好きな母がいたから気にもならなかった。
それに何も知らなかった。
世の不条理も人々の冷酷さもーーー
「あ、起きた」
薄っすらと瞼を開けると、子供の顔が目の前にあった。びっくりして飛び起きようと体を起こしたが、隣りの男に押し留められる。
「大丈夫。まだ横になっていなさい」
微笑んだ優しげな顔にさっきの家族だと気付き、そして思い出した。
あの時自分はこの子供の饅頭を何が何でも奪おうと走っていったのだ。しかし手を伸ばせばあと少しの所で、力尽きた。急に目眩のような感覚に襲われ、視界が暗闇に包まれたのだ。
「あんたの名は?」
「……?」
「ネームやネーム。私は”レイ”わかる?”レイ”」
子供は自分を指差し「れい」と何度も言う。小麗は「なるほど、自分の名を教えてくれているのだ」と理解した。
「あんたの名は?」
そして次は小麗を指差す。
それも直ぐに理解した小麗は、一瞬躊躇った後、掠れた声で言った。
「シャ…オ、リー」
「リーちゃんか。成る程な」
「リーちゃん?」
「小は名前に愛称付けする時に使うんよ。リーは多分漢字で書いたら”李”か”麗”やと思うけど.....李は苗字で使われる感じするし......うーんーーーー多分麗の方かな」
「へえ、そうなんだ!ということは同じ名前だね。怜と」
「ほんまやー運命やー」
何を話しているのか小麗には全くわからなかったが、それを考えることすら億劫だった。とにかく今は眠りたい。何もかも忘れて……
小麗は再び夢の中へ入っていった。
「よほど疲れているんだね…」
五代は憂い帯びた目で小麗を見つめる。
枯木のように細く干からびた腕を隠すこともせず、落ち窪んだ瞳は光を失っていた。まだ幼子なのに全てを諦めてしまった表情だった。
「親に捨てられたか、もしくは天涯孤独なんやろうね。多分私と変わらん歳やと思うけど……」
「怜。どうするつもりだい?」
「ん~。しばらく安静にさせるしか仕方ないけど、まあ高杉君がお医者さん連れてきて、ちゃんと診察したその後で決めるわ」
怜の胸中はざわざわと音を立てていた。
日本でも乞食くらい見たことはあるが、その比ではない。着ている服はその役割を果たさず、帯の無いぼろぼろの着流しにその下は薄汚れた布を巻きつけているだけだ。加えて悪臭とも言える生臭い匂いが身体中に染み付き、部屋に充満していた。
「体拭いてあげた方がええな」
「そうだね。風呂を頼んでこよう」
五代が部屋を出た後、怜はまじまじと小麗を見た。埃まみれの顔には所々に黒いシミがあるが、おそらく煤だろう。体も垢と埃の所為で地肌の色も判別出来ないが、元の顔立ちは悪くないようである。
「いや、どっかで見た顔やな……」
怜は腕を組んで考え込んだ。
何処で見たのだろう。
……というか、最近見た気がする。
何とも馴染みのある顔というか、親近感が湧く顔立ちというか。
「あ、わかった!」
怜はポンと手を叩いた。
「私に似てるんや」
◇◇◇◇◇◇◇
怜達は”宏記洋行"という旅館の一室にいた。ここは清国人が経営しており、オランダ商館の隣りに位置している。清に滞在する間ここを幕府の拠点としていた。
「運命やな」
落ち窪んだ目、痩けた頬、血色の悪い肌。今の小麗はまさしく栄養失調を絵に描いたような姿だった。無論怜はその真逆の状態と言えるが、一つ一つのパーツはよく似通っていた。つまり、もし小麗が同じように健康的であったなら、見分けがつかないほど瓜二つに見えるかもしれない。
世の中には同じ顔の人間が三人はいるというが、まさかこんな場所で会えるとは思わなかった。きっと神様の思召しに違いない。怜はそんな風に瞑想しながら、いつの間にか笑みがこぼれたが……
「良からぬ事を考えているな?」
高杉の低い声にハッと我に返った。
「閣下!」
「医者を連れてきた」
現れたのは恰幅の良い西洋人、そして中牟田と小柄な男の三名である。
「さあ入ってくれ」
高杉は時間が惜しいというように西洋人医師を促した。
「このオッサンは?」
「通詞だ。日本語は出来ないが、蘭語と英語は得意らしい」
紹介された清国人通詞はやや不機嫌そうに怜を一瞥した後、ドカドカと小麗の傍に近付いて乱暴に肩を叩いた。と言ってもこの清国人が特別乱暴者というわけではない。お国柄と言うべきか、大体中国人はせっかちな一面を持っている。
「此方の方はオランダ商館お抱えの医師ですから心配はありません。さあ後は彼らに任せましょう」
中牟田に促され、怜達は部屋を後にした。途中、五代も合流し一階の応接室へと向かう。広々とした室内は日本人だらけで、給仕を請け負う清国人がいそいそと動き回っている。高杉は一人の男に茶を持ってくるよう命じ、六人掛けのテーブルに腰を下ろした。
「あの子、これからどうなるん?」
「そりゃ役人が何とかするんじゃないか?」
「そうだね。両親から届けが出ているかもしれないし」
「どう見ても乞食やろ」
「ま、まあ見た目はアレだけど……」
高杉は溜め息を吐いて怜に向き直った。
「俺達は他国の子供を保護する為に来たんじゃない。可哀想だとは思うが、これは清国の問題だ」
「でも清の役人が何もせんから、あんな小っさい子供が不幸になっとるんやよ?そんなん許されることちゃう!」
「不幸な子供は清だけじゃない。日本にだってそこら中にいるさ。だが、いちいちキリがないだろ」
高杉は面倒臭そうに頭を掻いて、ハッと思い立ったようにテーブルを叩いた。
「お前まさかあのガキを日本に連れて帰ろうなんて思ってないよな?」
「無理?」
「……簡単に言うな」
その言葉に、中牟田がギョッと眼を見張る。
「まさか!ここで我らが何かすれば、国際問題に発展する!たかが子供一人でも、それこそ幕府が許すはずはないでしょう!」
五代がそれに続いた。
「高杉君や中牟田さんの仰る通りだよ。心苦しいが、今回ばかりは私も君の味方は出来ない」
「ふうん。わかった」
あっさりと引き下がった怜。
もちろん諦めたわけではない。
第一小麗が拒否した場合、無理やり日本に連れていくのはまず無理だ。本人が希望するなら全力で何とかするつもりだが、今はまだ時期尚早。一先ず意思疎通を図るのが先決である。
時間はたっぷりある。
別に焦らなくて良いのだ。
三人の疑惑の目から逃れるように、怜は表情を引き締めたまま、一気に茶を飲み干したのだった。
オランダ人医師は疲労、栄養失調と診断し、また清国人通詞の聞き取りでわかったのは、小麗はやはり天涯孤独の身であるらしく、字を書くことも出来ず、自分の苗字もわからないということだった。ただ母親からいつも”小麗”と呼ばれていたので、それが自分だと単純に理解しているだけで、それ以上は何もわからなかった。
粥を綺麗に平らげた小麗は再び眠りにつき、隣に付き添っていた怜も安心したようにうつらうつらと舟を漕ぐ。
それを見て五代は腰を上げた。
「私は一度船に戻らねば」
高杉や中牟田と違い表向き水夫の五代は、船で宿泊する身である。今は外出許可を得ていたのだが、そろそろ交代の時間であった。
「では私も同行しましょう」
「じゃあ俺も」
高杉はヒョイと怜を持ち上げると、隣りの寝台へ寝かせる。薄っすら瞼を開けた怜だったが、よほど疲れていたのか丸くなってスウスウと寝息を立てた。
「口さえ開かなければ、普通の子供なのに……」
「ああ……」
◇◇◇◇◇◇◇
江戸城・大奥
和宮が輿入れをし、早半年が過ぎようとしていた。姑という立場である天璋院篤姫だが実際は身分が下であり、互いの関係性は必ずしも良好とは言えない。
それは二人の生きてきた世界が、全くもって違うからである。
「あの子は?」
「本日は双六などを……」
篤姫のこめかみに青筋が立った。
「一昨日は貝合わせ、昨日はお人形遊び……今日は双六」
徳川家に嫁いだとはいえ、公家の世界しか知らない和宮。大奥では浮いた存在だと言えるかもしれない。いや、篤姫が憤りを感じるのは、そんなちっぽけなことではなかった。
「私も仲間に入れてもらおうかしら」
「……本気でございますか?」
「先触れをお願い」
「畏まりました」
今日こそ、あの娘にハッキリと物申さねばならない。泣こうが喚こうが知ったことではないのだ。徳川家に嫁いだ以上、至極当たり前のこと。今までは慣れない土地での生活だからと遠慮していたが、そうものんびりしてはいられない。
篤姫は決意したように立ち上がった。
意志の強い眼は、見えない相手を睨むように襖の向こうを差し、固く結ばれた口元は微笑を浮かべていた。
◇◇◇◇◇◇◇
「うちの勝ちやぁ」
「まぁ…さすが宮様や。また負けてしまいましたわ」
「ほんなら次はお人形さんで遊びましょ」
「今度はどちらのお人形さんにしはります?」
和宮はゆったりとした動作で首を傾げ、続きの間に並んだ京人形に目をやった。これらは和宮が輿入れする際に京より持ち込まれたのである。真っ直ぐの黒髪は艶やかに肩まで流れ、切れ長の涼しげな目元や、紅を差した上品な唇はまるで和宮そのものであった。
「そうやなぁ……」
幼いころから大切にしていた古いものから真新しいものまで様々だが、どれも最高級品ばかりである。
「今日はあの子や」
そう言って手を伸ばしかけた和宮だったが、ふと表の騒がしさに手を止めた。
「勝手なお振る舞いはお控え下さいませ!」
「お待ちを!」
長廊下に響く侍女達の声に、"桃の井"という老齢の女官が眉をひそめた。
「一体これは何事や。絵島」
「は…見て参ります」
彼女らは和宮の輿入れと共に京から伴った公家出身の女である。幼きころより皇室に仕え、和宮が最も信頼している者達であった。
「宮様。御簾の奥へ」
桃の井は恭しく和宮の手を取り、目配せをする。侍女達は慌てて片付けを始めた。
「待ちや。そのお人形さんはこちらへ」
ただ和宮に限っては、いつも通りの調子である。侍女から受け取った人形を大事そうに両手で抱え、御髪を整え始めた。
「も、桃の井様」
そこへ動揺した絵島がやって来た。
「どないしたんや」
「は…実は天璋院様が宮様に御目通りを、と」
桃の井は不機嫌さを隠しもせず、絵島を睨み付けた。
「宮様は昨日からお体調が優れぬゆえ、御目通りは次の機会にと」
「ええ、ええ。そう申したのですが」
和宮がこの大奥の女性の中で一番高貴な身の上であるのは周知の事実。身分の序列で言えば、家茂の「正二位」に続いて和宮が「三品」という立ち位置である。天璋院は家茂が将軍に就いた際従三位に叙されているが、言わずもがな和宮より下位であった。
「なんと無礼な…」
桃の井が低く唸った。
思い起こせば、京から一歩たりとも出た事がない和宮。幼き頃から立派な婚約者がいたにも関わらず、世の流れに押されるまま武家へと嫁いだ。こうして何事も無いように振舞ってはいるが、その心痛は如何許りか。そもそも彼女はこの政略結婚に反対であった。いや、桃の井だけではない。絵島もその他の女官も、更には共に随行した和宮の生母"観行院"も同様だ。
せめてもの救いは、家茂が和宮を謹厚してくれるという一点のみであった。
「桃の井」
「宮様、御心配召されるな。この桃の井が…」
言い終わらぬ内に、和宮は微笑を湛えたまま手で制した。
「天璋院は私の御義母上でもあらせられる。せっかく来て頂いたのやから、おもてなしするのが筋というものや」
「し、…しかし」
「案じなさいますな」
「み、宮…様ッ…!」
「ほんに桃の井は心配性や」
くすくすと和宮が笑うと、侍女達もホッと息を吐く。それだけで浄化するように空気が和んだ。
「赤さん赤さん思うてた御人が、いつの間にやら立派な貴婦人になりはって」
「うちには味方が沢山おるから。一番は家茂はんや」
「まあまあ宮様ときたら…ほほほ」
「そういえば今日は家茂はんが、何やらお土産を持ってきて下さる言うてはったけど」
「ほな、いつ頃御渡りになられるか、今から近侍の者に聞いて参りましょう」
「あ、あの…桃の井様」
絵島が恐る恐る割り込んだ。
「何や?其方、顔色が悪いようやけど」
「あ、いえ。そうではなく…ッ…」
ハッと息を飲む絵島。
数人から成る衣摺れの音が、背後でぴたりと止んだのだ。同時におどろおどろしい気配が漂っている。しかし、それに気付く者は彼女以外なかった。
「絵島は働き過ぎや」
「何とお優しい宮様…!絵島に代わり、この桃の井が感謝の意を!」
"そんな茶番を演じている場合ではない"
もしも無礼を許されるのなら、声を上げて言いたかった。
「絵島ッ」
桃の井の声に絵島は我に返った。
「は、はい!宮様…勿体無き御言葉にございます…!」
和宮はニッコリと微笑んだ。
「そんなことより、絵島も一緒に遊びましょ」
「え…」
「なんと其方!宮様からの直々のお誘いを断わろなどと」
「め、滅相もございません!」
「ほな絵島もこちらへ来て」
「は…」
絵島は焦った。
背に突き刺さる視線。暖かい春の陽気のはずなのに、感じる温度は零下である。
「うち、やっぱりあちらのお人形さんにしよかしら」
「観行院様から頂いた"菊姫"様でございますね」
「ああそうや。御母上もお呼びしましょ」
「名案でございまする。早速使いを出しましょう。絵島」
「は…」
「其方、急ぎ観行院様の元へ参られよ」
「え…っ」
絵島の顔色は青を通り越して真っ白になった。
無理もない。ほぼ真後ろに天璋院がいるのだ。
「…天璋院様…出直しましょう」
侍女に気遣われる天璋院。
身の内に沸々と怒りが湧く。
何が気にいらないと言えば勿論全てだ。しかし何より許せないのは、誰も気付きはしないどころか、自分の御目通りは「無かったこと」にされているという点であった。
天璋院はスーッと息を吸い込み、貴婦人らしからぬ大声を張り上げた。
「天璋院様の御成ーりー!!」
「えっ!!?(自分で言った!!)」
「なっ!?(恥ずかし過ぎる!)」
数多の女人が集まる大奥で、自ら口上を述べた人物は、天璋院ただ一人である。




