082
中村が植木村に到着したのは次の朝だった。人里離れた佐吉の家はシンと静まり返り、何の気配もない。中村は馬から飛び降りると、小走りで家の外縁へ向かった。
「……ふむ」
開け放した襖の奥は布団が1組敷かれてある。中村はその大きさから子供用だと認めると、草履を脱いで中へと入った。
この時まで彼は単に再び怜の警護の任に就くよう命じられていただけである。つまり何も知らないままにこの地へ赴いたのだ。ゆえにこれがいつものことなのか、或いはそうでないのか判断がつかなかった。
「……」
文机には数枚の紙。硯の上には筆が置かれ、墨は乾ききっている。更にその下には怜の巾着が転がっていた。ざっと見ても特に荒らされた形跡などなく、向かいの襖も隙間無く閉められている。
しかし、異様だった。
この時間帯に物音一つしないのだから当然である。皆揃って出掛けたにしても、部屋を開けたままにするだろうか。布団を敷きっぱなしにするだろうか。
……いや、そうではない。
そもそも布団に入った形跡すらないのだ。
中村は内側の襖を開けた。古く軋む長廊下は左右に別れ、太陽の光が射し込む玄関側とは逆の薄暗い右側へと進む。更につき当たりを右折して足を止める。両側には継ぎ接ぎだらけの襖。やはりきちんと閉められており、物音は皆無であった。
「失礼致す」
スパンと襖を開けた中村はぐるりと部屋を見渡した。そこは昔ながらの板の間に、箪笥が二つ並んでいるだけのどこにでもある質素な部屋だ。中村はズカズカと足を踏み入れ、更に続きの間への襖を開けた。
「……!」
と、そこには目を見張る光景があった。
中央に並ぶ二組の布団には男女が横たわっている。その姿はいかにも不自然で、仰向けで直立不動の姿はおろか、首元まできちんとかけられた布団は動いた様子もない。
人形のようであった。
中村は大股で二人に近付くと、男の首元を手で触れた。
身体は暖かい。息もしている。
女の方も同じだった。
「……眠薬か」
でなければ、このような状況はあり得ない。中村は少し考えた後、スッと立ち上がる。
”何か良からぬ事が起きた”
それだけは明白であり、変えようのない事実である。中村は他の部屋も一通り確認した後、再び外へ出た。
「……くそっ」
やはり無理を言っても自分が用心棒を勤めるべきだったと、中村は今更ながら後悔した。犯人がおそらく内部者であると考えたからである。それは怜と行動を共にした者、つまり小松が差し向けた用心棒の仕業に他ならない。
もしも怜が逃げる為に及んだ行動ならば、自分の持ち物(特に金子の入った巾着)は必ず持って行くはずで、置いていくなどあり得ない。しかも敵でもない二人をわざわざ眠らせる必要もないのだ。
それだけではない。もしも用心棒が犯人でないとすればその者達は一体何処へ行ったのか。例えばこの家に不審者が現れたとすれば争いになって当然である。室内は血の海と成り果て、その辺りに誰かの死体が転がっているだろう。
ところが全くその形跡がないのはどういうことか。
そこから導く答えは一つ。
その用心棒こそが犯人であり、邪魔をされないよう二人を眠らせた後、怜を攫っていったとしか考えられないのである。
「……ョ…」
背後から小さな音がした。
中村はその気配に後ろを振り返る。
「……お前は"いけめんらんきんぐ”とやらの1位」
少し離れた木の下に夜鷹の姿を捉えた。
忘れるわけがない。つい先日のことだ。中村は大股で近付いて、ハッと息を飲んだ。
「…キョ……」
振り絞るような音は”声”というより”呻き”のようだつわた。自分の翼を動かそうと必死で地面を這う夜鷹を中村は見下ろした。
「一体何があったのだ?」
手を伸ばしかけた中村であったが、背後から凄まじい殺気に気付き、瞬時に抜刀して後方へ退いた。
「ブオォオオオォ!!」
「なっ…」
巨大猪は針金の体毛を逆立て、中村目掛けて突進する。血走った眼は”怒り”しかなかった。
二人の距離は20メートルほど。
中村は刀を上段に構え、相手を見据える。ビリビリと緊張した空気が摩擦し、土煙が足元を覆い隠した。
「ドリャアーー!!」
「ブオォオオン!!!」
と、次の瞬間、巨大猪が視界から消えた。
「な、にっ…?」
刀は弧を描いて空気を裂き、同時に中村の頭上に暗い影を落とす。ハッと見上げれば目の前には猪の膨れ上がった腹。瞬時に身を屈めた中村は、地面を蹴って前方へ一回転した。
「貴様…っ…!」
振り返った中村は直ぐ様攻撃体制に戻った、
が、ーーーー
「キョオーキョキョ!」(何処ほっつき歩いとったんじゃ!)
「ブヒィ、ブヒブヒ……」(筍がな、筍が遊びに来たんや……)
「キョオキョオ!」(来るか!アホウ!!)
唖然とする中村をよそに喧嘩を始める夜鷹と猪。中村は刀を鞘に収め、遠慮がちに仲裁に入った。
「これ、喧嘩はやめるでござるよ」
その後、三人は力を合わせて怜の捜索を開始したのだった。
◇◇◇◇◇◇◇
長崎
幕府の洋式船”千歳丸"はいよいよ上海へ向けて出航の合図を待つばかりであった。
この船は幕府と清における貿易の試験用とされたものである。乗船者は、船長・沼間平六郎以下幕府役人、佐賀藩、大村藩などの諸藩士、更に長崎の商人など合わせて六十余。そこに十六名の外国人船員が加わり、水夫や小姓なども含めれば、かなりの大所帯である。
その幕府船を一目見ようと集まった人々は、作業する水夫や甲板にいる船員らに激励の声を上げる。また港だけでなく近隣の地区もお祭り騒ぎであった。
この上海渡航は、日本が清に公式訪問するという実に二世紀ぶりの歴史的瞬間であり、また幕府の権勢を諸藩に見せつける意味合いにも大いに役立ったと言えるだろう。
乗船する役人らは、我が身がまるで英雄にでもなったつもりで胸を張り、誰も何も気付かなかった。
この時、千歳丸に積み込まれた小さな木箱に、一人の少女が眠っているなど。
◇◇◇◇◇◇◇
真っ暗……
目を開けているのか閉じているのか、それすらわからなかった。頭はぼんやり煙りのように身体は鉛のように動かない。
夢か現実か。
怜の思考回路は完全に停止した状態だった。
ただ自分は一つも動いていないのに、身体だけは上下に揺れている。赤ん坊の頃、優しく抱っこしてくれた父の腕の中にいるようだった。
「……お…父ちゃ……ん」
後頭部をスーッと引っ張られる感覚が怜を襲う。同時に父の顔が少しずつ薄れていく。「待って」と声にこそならずも、怜はかろうじて重い腕を伸ばした。
その指先はコツリと硬いものに触れる。その瞬間、様々な記憶が頭の中で蘇り、突如怜は覚醒した。
「鈴木君!!ーーー痛っっ!?」
起き上がった途端天井に頭をぶつけ、涙目で後頭部を押さえる。自分が狭い空間にいることに気付いて、それを確かめるように辺りを触った。
「な、なんや…ここ……」
閉じ込めらた箱は、立ち上がることもできないほど狭い。座った状態でも頭を天井にぶつけてしまうのだ。ただ横幅はあるようで、足を伸ばして確認すると怜が寝転べるほどの大きさはあった。
「まさかの棺桶……?」
大体のことは驚かない怜だが、流石にこの時ばかりは動揺を隠せなかった。とりあえず四つん這いになり天井を押し上げるように腕を伸ばす。ギギッと板の軋む音がしてほんの1センチほど隙間が確認出来た。しかしそれ以上は上がらない。ただ押し上げる度に鈍い金属音がするのを聞いて、鍵がかかっていることは理解した。
「一体誰が…」
怜はそう呟いて、ハッと思い出す。
鈴木君に触ろうとした瞬間、衝撃の後に意識が遠くなりかけた時、あの男が確かにいた。
「ピ◯太郎……」
そう。吉川彦太郎である。
「あいつ……」
小松から派遣された男。となればもちろん薩摩藩士ということだが、その名に覚えはない。いやそもそも小松が自分を攫うなどあり得ないわけで、むしろ薩摩藩士であることすら疑わしい。
つまりは偽名の可能性が高かった。
では一体誰が自分を攫ったのか。
一番に思いつくのは、やはり.....
「一翁…?」
しかし、あの男がわざわざこの様なセコイ真似をするだろうか。怜は「うーん」と頭を悩ませ、ふと僅かな振動に気付いた。
緩やかに上下する小さな身体。
全体がフワリと浮き沈む。この感覚、
何度となく体感したことだ。忘れるわけがない。
「………船ェエ!?ウギッ!!!」
怜は思わず立ち上がりかけて、またも天井で頭をぶつけた。しかし頭の痛みなど気にする余裕もない。むしろ背中を上にくっ付けて、中腰の姿勢のまま押し上げた。
「水葬とか嫌や!!せめて火葬、いや土葬……どっちも嫌や!!私はまだ生きとる!」
押し上げる度に隙間から漂う潮の香り。同時に暖かい風が箱の中に流れてくる。怜は必死で壁を叩き何度も叫んだ。
「誰か!助けて!!」
叫んだ声は反響して自分自身に返り、ただうるさく感じるだけである。更には板壁も同様でどんなに叩いても叩いても鈍い音を成すだけで、直ぐに手が痺れて力尽きた。
「あかん……もう終わりや」
人生最大の危機に陥った。
脱力と共に、ホロリと一粒の涙が頬を濡らす。
よくよく思い出せば、いつも誰かに助けられている。土佐の海では坂本に、仙台では佐藤君に。いやそれだけではない。今まで散々と過酷な状況に陥ってきたが、必ずしも一人で切り抜けたわけではなかったのだ。どんな過酷な危機に陥ってもいつもどこかに救いの手があり、いつも誰かに支えられながら生きていたのだ。
「運が強い」
単純にそう思っていた怜は、自分を責めるように頭を叩いた。
鈴木君は死んだ。ということは、佐藤君は既にこの世にいない。(※それはそれで彼に失礼だ)無論佐吉や千香は戦力にもならず、一撃でやられているはずである。
小松が助けにくるとしても、それは自分が死んだ後の話であり、時既に遅し。怜は暗闇をごろりと横になり、体を横向きにうずくまった。
「……みんな」
自分のせいでみんなが死んでしまった。
吉川が何処の者かは知らないが、怜を狙っていたのは必然で、それに巻き込んでしまった現実は変わらないのだ。
「ごめん…」
と、怜が小さく呟いたその時だった。
「えー、と。どれだったっけ」
ズカズカと大股で歩く足音と、男の声がした。怜は一瞬声を上げそうになって、寸前でとどまった。敵かもしれない。そう思ったのである。
「赤い印……赤い印……」
男は何やら探している風だ。
壁越しの声はくぐもってはいるが、若者の話し方である。一翁の落ち着いた喋りでないことだけは確かだが、それが何者かなどおよそ判別はつかなかった。
時折ギシギシと箱を動かしているような音がしたり、また何かを投げる音もする。怜は身じろぎ一つせず息を潜めた。
足音は少しずつ、でも確実にこちらへ近付いてくる。怜はギュッと目を閉じて息を殺した。
「あっ、あったあった!」
男の明るい声。と同時にガチャガチャと金属の音がする。それが直ぐ側で聞こえた時、男が探しているものが、まさに怜の入ったこの箱だと認識した。
「(この声……)」
怜は壁一枚隔てた向こうの主に、ある一人の男を思い浮かべた。
「(まさか……)」
カチリと鍵が開く。
真っ暗な空間に一筋の光が差し込み、小さな少女の背に当たる。
「れーいちゃん」
ゆっくり起こして振り向けば、手燭の火がゆらゆらと揺れて、その顔を照らしている。
「久しぶり」
怜はゴクリと唾を飲み込んだ。
「高杉…晋……作」




