007
大坂の港といえば特に天保山が有名である。もっと西へ行けば兵庫津(神戸港)があるが、さすがにそこまでの距離を五歳の子どもが行けるわけがない。それに怜は大坂の街を知らない。右も左もわからないのだから、行きようがないのだ。
そこで怜は旅籠屋に行く事にした。沢山の旅行客や武士が宿泊するそこならば、怜の望む情報が得られると睨んだのだ。
大坂の街はまだ賑やかで、店に掲げた掛行燈のおかげもあり、夜だというのに明るかった。加えてこの辺りは、京(大坂)街道が通っているのも賑やかな理由の一つなのだろう。
怜は京から舟で大坂へ入ったが、陸路の場合はこの街道が活躍する。京伏見から淀、枚方、守口を経て高麗橋までの道のりである。高麗橋は東横堀川にかかる橋で、ここから近い場所にあった。
「ガキがなんしよる。こん夜更けに」
酒臭い男が赤い顔で怜に近付いた。
「おっさん蛸の末裔なん?」
「なんやと!?」
「先生、もうええ加減にせんと。子どもなんかほっときぃ」
隣りの女は、男の腕に絡みつき、ちらりと怜を見た後、気位の高いお姫様のようにツンと背を向けた。
(アレが大坂の遊女か?なんやケバケバしいな。さすが豹柄の発祥地や)※諸説有り
怜は流行っていそうな旅籠屋を目指して、また歩みを進める。しばらくすると、突然遠くから女の悲鳴のような声が聞こえた。
「なんや今の悲鳴。事件か?」
「行ってみるか」
怜は、通りかがりの数人に紛れ、声のする方へ走った。近付くにつれ、誰かの怒鳴り声と女の啜り泣きが人集りの中心から聞こえた。
「離さんかい!」
「お母ちゃん!!」
「すんまへん!この子は堪忍して下さい!必ず返しますから!」
見たところ、チンピラのような髭男が十歳ほどの少女の腕を掴み、その少女の母親らしき女性が、男の足元に縋りついていた。
「返すんやったら十両、今直ぐ耳揃えて返せ!」
「じゅ、十両やなんて、そんな」
どうやら髭男は金貸しらしい。
怜はこのみずぼらしい親子を不憫に思った。つぎはぎだらけの着物はさることながら、二人とも顔色も悪く痩せこけている。周りに集まった人々も「可哀相に、、、」と言葉を漏らすが、自分に降りかかるのが怖いのだろう。誰も助けようとはしなかった。
「借金の肩や。悪く思わんといてや」
「嫌や!!」
「どうか娘だけは」
「邪魔じゃ!退かんかい!」
「お母ちゃん!」
ゴツッと鈍い音がして、女性の額から血が流れた。足で力一杯蹴られたのだ。それを見て、怜の怒りが頂点に達した。
「ちょい待ちやオッサン」
「あーん?」
怜はスタスタと髭男の前まで行き、キッと睨み上げる。
「なんや糞ガキ。文句でもあるんか」
「あるもないも大有りや」
「ほう、威勢はええみたいやの」
「その薄汚い手離してもらおか」
怜は娘の腕を取り、無理やり引き剥がすと、髭男の顔がみるみる変わった。
「誰にモノ抜かしとるんじゃ!その娘返せ!それとも何か?お前が借金返してくれるんか!」
怜はニタリと笑い、上目遣いに髭男を見た。
「な、なんやその目は」
「そうやな。借りたもんは返さなあかん。それが世の中の常識や」
「そ、そうや!その通りや!わかっとるやないか!」
「そやから私がこの人の借金返したるわ。ーー誰か紙と筆持ってきて」
その声に「よっしゃ待っとけ」と、近くに店を構える店主が走っていった。怜はそれを見送って、また男に向き直ると荷物袋を地面に降ろす。一瞬男は呆気に取られたものの、次の瞬間笑い出した。
「チビのくせに気前がええやないか!そやけど十両やぞ?お前みたいなガキがそんな大金持っとるんか?」
「そんなもんはした金や」
怜の言葉に周囲はどよめいた。
「言うやないか。そんなら今直ぐ払っ」
「そやけどなあ、オッサン」
「あん?」
「それじゃあオモんないやろ?」
怜は間髪を入れず続けた。
「私な、京から来たんや。知り合いの話では、大坂人ってみんな裏表のないサバサバした明るい人ばっかりで、太っ腹で気前が良くて、正義感に溢れてる男前ばっかりって聞いたわ」
説明するまでもないが誇張である。もしそんな大坂人がいたらお目にかかりたい。
しかし髭男を含む周囲も、何故かそわそわと顔を赤らめて照れ始めた。
「そ、それがどないやっちゅうねん」
「そやからな」
怜はその場に正座した、
「お、おい!土下座で許されると思ったら、、」
「そうやない。一度口に出した約束は守るんが礼儀や。そやけどそれは私に勝ったらの話や」
「アホ言うな!そんなん」
「まあ、最後まで聞き」
ちょうど店主が戻り、怜の前に紙と筆を差し出した。怜は筆を取り、字が見えないようサラサラと滑らせると、乾いたところで小さく折り結んだ。
「この紙に私の好きな数字を書いた。オッサンにもこれから好きな数字を書いてもらう。その数字がバッチリ符合したら、借金帳消しでどうや」
「帳消しィイィ!?」
髭男の雄叫びを無視し、誰かが声をかける。
「もし、符合しなかったら?」
フンと馬鹿にしたように鼻で笑った怜は、金子の入った巾着を地面に叩きつけた。
「借金の金額、倍にして返したるわ。耳揃えてな」
静まり返った周囲を見て、怜はゆっくりと立ち上がる。
「誰か私が書いた紙無くさんように持っといて」
「私が預かろう」
スッと一人の男が歩み出て、それを渡す。
怜はくるりと髭男に向き直った。
「ほなオッサン。この紙に好きな三つの数を書くんや」
「三つ?」
「ほら早く。同じ数はあかんよ?」
「お、おう」
言われるままに髭男は筆を走らせる。
「その三つの数を逆の順にして、下に書いて」
「”九八五”やから”五八九”ってことか」
「そうや。頭ええな」
「ま、まあな」
「それを大きい数から小さい数を引いてみ」
「えーっと”九八五”引く”五八九”は、、、」
「三九六や~!」
野次馬の一人が叫ぶ。
「わかっとるわ!外野は黙っとれ!」
髭男は負けじと言い返した。
「ほな、さっきと一緒や。”三九六”をまた逆にして、今度は足すんや。それで出た数がオッサンの数字っちゅうことや」
「三九六足す六九三は、、、千八十九や!」
髭男は「千八十九」と書かれた紙を怜の眼前に突き出した。
「千八十九か、、」
怜が大袈裟に溜め息をつくと、髭男は興奮したように声を荒げる。周囲からも野次が飛んだ。
「オイ!お前の紙見せんかい」
「ええよ。さっき預かってくれた人、オッサンに見せたげて」
「よし」
さきほど紙を受け取った男は、結びを解いてそれを広げた。
「!!」
その表情は困惑そのものだった。
「な、なんや?俺にも見せろ」
男は紙を上下に持ち替え、周りに良く見えるように前へ突き出す。
「嘘やろ、、、」
怜が書いた紙には、大きく”千八十九”と書かれていた。
「オッサン」
水を打ったように静まり返る一群。
「”帳消し”やな?」
怜の言葉と共にワッと歓声が上がった。
「坊主の勝ちや!!」
「ようやった!ようやった!」
「なんや興奮したわ!」
この不思議な計算は、どんな数だったとしても、必ず「1089」になるのだ。それは怜が、テレビで知った情報であった。ズルといえばズルだが、この親子を助ける為には、それしか思い浮かばなかったのである。
◇◇◇◇◇◇◇
「ホンマにありがとうございました」
「気にせんといて」
深々と礼を言う親子は固く手を繋いでいた。怜は仲の良い親子の姿に、京を思い出した。
「あの、おばさん?失礼を承知で聞くけど、旦那さんはおらんの?」
あまり首を突っ込むのは駄目だと思いながらも、聞かずにはいられなかった。
「お恥ずかしい話ですが」
旦那は病で半年前に他界したらしい。借金をしたのはその治療費や薬代を捻出する為だった。朝から晩まで働いてはいるものの、利子だけを返している状態では元金は全く減らない。それでも何とかここまでやってきたが、今度はこの女性が過労で倒れてしまい、仕事もクビになってしまったという。
「ホンマにもう情けない母親なんです」
「お母ちゃんは情けなくなんかない!ウチの為にいつも頑張ってくれてるんやから!」
深い絆で結ばれた親子を目の当たりにし、怜は胸に滾る悔しさを覚えた。
この世は真面目に生きる者ほど、不幸になるのだろうか。
「あのなおばさん。差し出がましいとは思うねんけど、良かったら私の兄の家に来えへん?」
「え?」
「部屋いっぱい余ってんねん。住み込みやったら借家代もいらんやろ?借金も帳消しにしてもらえたし、そこで再出発したらええ」
「そ、そやけど」
「紹介状書くからちょっと待ってな?」
勝手なことばかりして、三男には怒られるかもしれない。しかし困っている人を見捨てることなど怜には出来なかった。
(兄ちゃんなら、わかってくれる!)
「もし嫌やったらしゃーないけど、気が向いたらこの紹介状持って、下に書いてる住所に行ったらええから」
唖然とする二人を尻目に、やや押し付け気味にそれを渡すと、怜はくるりと方向転換し、また夜の街を歩き出す。
(これであの親子は救われる。兄ちゃんと幸子姉ちゃんが、ちゃんと面倒見てくれるやろ)
何となく晴れやかな気分だった。
「ちょっと君」
ほんの五メートルを歩いたところで肩を掴まれた。振り返ると数字の紙を預かってくれた男だった。
「あ、さっきはおおきに」
「いや。なかなか面白いものを見せてもらったな」
「そうかな。は、、」
先ほどは夢中になっていたので、ちゃんと顔を見ていなかったが、こうして目の前でマジマジと見つめると、頭の中の様々な画像が急流のように流れ込んで、ある一人の人物と合致した。
「あーーーっ!!」
小柄で姿勢の良い痩せ型のその男は、大阪経済界に大きく貢献した実業家として余りに有名だ。むろん幕末の今はまだ一介の武士ではあるものの、やはり他とは違う異才のオーラを放っている。
(嘘やろ!まさかこんなとこで!)
「な、なんだ?」
「あ、あんたっ!!」
「え?」
「ごだっ」
「ごだ?」
ーーーーー五代友厚、その人でだった。
「いご、天皇、、、?」
「んなわけあるか!」
(あ、危なかった!また桂君の二の舞になるところやった!)