068
三味線の軽やかな音色が響くとそれを合図に賑やかな宴会が始まった。坂本と高杉は上座で長唄を歌う芸妓に夢中で、淀屋と熊谷は楽しげに話し込み、山田は食い気に走っていた。
坂本らが隣り同士に着席する向かい側に、怜と久坂が並んで座っていたが、怜はチラチラと隣りを気にしつつ、溜め息をついては箸を置き、また溜め息をついては煮魚をつついていた。
「伊勢海老をあげよう」
「キョキョ~ン」
「お前は芋が好物か。良し良し」
「ブヒヒ~ン」
「…」
鈴木君と佐藤君は久坂を挟んだ反対側で、あろうことかすっかり餌付けされてしまっている。怜の気持ちなどお構いなしだ。
「なあ二人とも?そろそろ寝た方がええんやない?」
「ギョギョ!」
「ブォーン!」
「あ、そう……」
怜の目論見は容易く砕け散った。
「怜」
「へい」
「小栗忠順の養子になったそうだな」
「あああアレはですね、……勝手に決められたとゆーか……私の一存で拒否することは、まあ不可能でしてハイ」
「だろうな」
久坂は箸を置くと怜に向き直った。
真剣な表情である。マジマジと見ればかなりの男前で、今まで会った男の中では四番手だと思った。
「先生残念です。ベスト3までは薩摩が独占状態です」
「何の話だ?」
「あ、……いえ。何もありません」
久坂はググッと酒を飲み干した後、怜の両手を握った。
「お前が養子になったと聞いた時は、少々腹立たしくもあったが、まあ仕方がないだろう。それよりもこれからのことなのだが」
「これからのこと?」
「うむ。私とお前の今後のことだ」
「先生と?今後?」
何を言っているのか怜はわからなかった。ただ久坂の頬が桃色に色付いているのを見て、妙な寒気がした。
「”今直ぐ”というわけではない。いずれ時が来たら……そうだな。六、七年後、お前が十二になったくらいがちょうど良いだろう」
「えー…と」
「私とお前の祝言の話だ」
その言葉に怜は驚きと言うより、怪訝な表情で手を振り解いた。
「先生……本気やったん?」
「勿論だ」
「奥さんおるやん」
「妻は妻。お前はお前だ」
「イヤイヤイヤ!妾とか勘弁なんやけど!」
「気にしなくても良い」
「するし!それに先生が夫とか地獄やん!」
「地……」
「だって毎日修行みたいなもんやもん!」
「修……」
「それに先生はーーー」
怜は大きく口を開けたまま、動けなくなった。まるで雷が落ちたみたいに電気が走り、何故か胸が締め付けられたのだ。
「怜?」
現実から逃げようとしていたわけではない。あまりに非現実で忙しい毎日だったから忘れていたのだ。
(.....みんなおらんなるんやった)
ここにいる誰もが明治維新を見られず死んでしまうという歴史的事実。久坂は自害。高杉は労咳による病死。そして坂本は暗殺される。
「どうした?」
怜は周囲を見渡した。
けれど、今彼らはちゃんと生きている。血だって通っている。それなのに数年後にはいなくなる。
短いなりの様々な思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
「先生……」
ぐらりと世界が横揺れして、怜は何かに掴まろうと小さな手を伸ばした。
「…なんかしんどい」
久坂の驚いたような顔を見て、怜は不思議な感覚に襲われたのだがーーーーーそれも一瞬。
視界と共に閉ざされた。
◇◇◇◇◇◇◇
次の日
坂本は武市から預かった書簡を久坂に手渡した。
「これがアギから預かった文じゃ」
元々武市は、土佐勤王党を結成する以前に、江戸で久坂や高杉と面識があった。その時互いに意気投合し、昼夜に及んで議論を交わしたのだが、特に武市の久坂に対する評価は非常に高く、思想そのものに共感している。
「”勤王党”……成る程。此処も状況は同じだな」
久坂の意に反して長州藩が開国・公武合体に舵を切っているように、それは土佐藩も同様である。吉田東洋を筆頭に、急速に推し進められる藩政改革は、武市のような保守派にとって、至って厳しい状況に陥っているのだ。
「武市さんはまだ江戸に?」
「薩摩が動き出したっちゅうて、まあ様子見じゃの」
薩摩でも樺山三円ら一部の尊王攘夷派がいるが、藩の意向は公武合体である。ただ幕府・長州藩が”開国派”に対し、薩摩藩は「攘夷派」であり、同じ公武合体ではあるが、必ずしも両者が一致しているわけではない。
「薩摩が動いているというのは、こちらの耳にも入っている。どうやら兵を率いて島津久光自らが動き出しているとか」
「攘夷の為の上洛っちゅう噂じゃ」
「おそらくそういうことだろうな」
現段階で”倒幕”の意思を持たない薩摩藩だが、彼ら”尊王攘夷派”はその思惑など知らなかった。それこそ長州、土佐は元より水戸などの同志士は、”島津久光”を希望の光とばかりに期待していたのである。
「武市さんにお伝え願いたい」
武市の文は、共に連携し、それぞれの藩論を攘夷に覆し、藩主入京を目論んで幕府に攘夷を迫ろうという提案であった。
「私も同じ気持ちです。身分にも藩の枠にも囚われず、我々が奮起して立ち上がり、攘夷の義挙に出る以外に道はない。さすれば新しき時代が切り開けるでしょう」
まさにそれは吉田松陰の「草莽崛起」(そうもうくっき)の教えであり、久坂の中に深く浸透する信念そのものであった。
この時坂本は、久坂玄瑞という若者にいたく感心し、数ヶ月後それをきっかけに脱藩する。それこそ何にも囚われず、我が道を突き進むという信念と、列強の脅威から日本を守るという決意が「坂本龍馬」という男を確立したのである。
◇◇◇◇◇◇◇
怜は高熱で三日間寝込んでいた。やはり寒空の京で、川に入ったのが悪かったのだろう。
次に目覚めた時、長土会談はとっくに終わっていて、坂本は高杉や久坂以外にも様々な長州藩士らとの密な関係構築に大忙しだった。
「怜さん!気が付きましたか!」
「稀勢◯里君…」
「山田です。大丈夫ですか?」
「なんか気分がええわ」
身体中の毒素が全て放出されたような爽快な気分だった。怜は上半身だけ起こして、大きく伸びをする。
「おお…身体が軽い」
「まだ寝てて下さい。お茶を持ってきます」
山田がいなくなると、反対の縁側に大きな黒い影が映る。「佐藤君?」と声をかけると小さく応える声が聞こえ、怜は布団から這い出て障子を開けた。
「ブォオォオォ」
「鈴木君は?」
「ブヒヒブヒヒ」
どうやら鈴木君は坂本のお供をしているらしい。ご馳走にありつけると考えているのだろう。抜け目のない夜鷹だ。
しばらくすると山田が戻り、怜は手ずから茶を貰う。「熱いですよ。気をつけて」の言葉を聞き終わる前に一気に飲み干した。
「ブオホ熱チィィイ!!」
「だから言ったのに」
怜は涙目になりながら山田を睨んだが、「あ!」と声を上げてキョロキョロと周囲を見渡した。
「私、どうしたんやったっけ」
「凄い高熱で三日も寝ていたんですよ。でもお医者様曰く、ただの風邪だろうと」
「三日も!」
「大変だったんですから。特に久坂さんが」
「え?」
「自らお医者様を連れて来て、この二日間ずっと付き添ってくれたんです。流石に倒れられたら困るので、僕と交代したんですけど」
「先生が……」
そういえば虚ろな意識の中で、誰かの声が聞こえた気がした。あの大きな手の温もりは、父・善治郎だと思っていたが、あれは久坂だったのだろうか。
「この着物は?」
真新しい水色の浴衣に、怜は視線を落とした。
「それはっ……あ、あの」
「まさか先生が?」
「いやっ……その……」
「怜!」
と、そこへ運悪く久坂が入って来た。
「熱は」
「大丈夫です」
久坂は怜の額に手を置き「うむ」と頷くと、安心したのか足を崩して胡座をかいた。
それをジッと見つめる怜。
「ぬ?」と見つめ返す久坂。
山田はその様子を交互に見ながら、ハラハラと焦っている。怜がぶん殴るのではないかと心配しているのだ。
「彼方此方と動き回っていたから疲れが出たのだろう。しばらく養生しなさい」
「……」
「坂本さんは明後日ここを発ち江戸へ戻ると言っているが、お前も行くのか?」
「いえ、まだ行くつもりは…」
「肥後か?」
「そうです……って、なんで知っとるんですか?」
「全部調べはついている」
久坂はさらりと言った。
「肥後に行った後、江戸へ行くのか?」
「多分。一回くらいは顔出しとかなあかんし」
「しかし江戸へ行けば、今までのような自由は無くなるぞ。お前はそれに耐えることが出来るのか?」
確かにそうである。
もう町娘ではないのだ。軽々しい行動など出来ようもない。京の脱出劇では坂本を誘拐犯として仕立て上げたものの、実際は怜自身の策であることはバレているはず。ということは、この一件が小栗は元より、下手すれば安藤らも周知している可能性が高い。奉行所の役人をほぼ総動員で動かし、大勢の民衆をも巻き込んだのだ。そう考えるのが自然であった。
「それは……困る」
これでまた逃げ出そうなどしたら、いくら小栗が庇いだてしようとも、今度こそ中央の怒りに触れ兼ねない。引いては後藤家のみならず、小栗家存続の危機に晒される可能性も捨て切れなかった。だとすれば、名目上このまま誘拐されたことにして、久坂の言うように自由に行動した方が最も最善である。
「家に来なさい」
怜はその言葉に瞠目した。
「は?」
「お前の面倒は責任を持って私がーー」
「ちょちょ!?」
「案ずることはない。幕府を敵に回すなどたわいもないことだ」
六歳のガキに惚れたというわけでもないだろうに、何故久坂がそこまで自分と関わりを持とうとするのか。様々な葛藤と共に導き出した結論は、怜の中でたった一つであった。
「また利用しようとしとるん?」
前のようにまたも自分を長州の為に働かせるのではと疑ったのは当然である。しかし久坂の表情は怜の想像とは正反対だった。一瞬呆気に取られた後、声を上げて笑い出したのだ。
「クララが立った…」
”久坂が笑った”のである。
「お前が間者に不向きなのは承知している。人の言うことを聞かぬことも」
久坂は姿勢を正して、またしても前のように怜の両手を握り締めた。
「私はただお前をーーー」
怜が、前世(未来)で一度でも本気で恋をしていたら、この不思議な感覚に即座に気付いたに違いない。
しかし不運にも六歳の少女は理解出来なかった。何となく異なる視点から”久坂玄瑞”を見て、突発的に言葉を発していたのである。
「先生!」
怜は深々と頭を下げた。
「三年後!」
「……三年後?」
「先生と私が生きてまた会えたら、結婚しましょう!」
「怜さん!?」
三年後。怜はまだ九歳か十歳である。
しかし怜の中で、年齢などどうでも良かったのだ。
「よろしくお願いします!」
畳に顔を擦り付け、僅かに震える怜を見て、久坂はフッと口元を緩めた。
「しかと承った」
この瞬間。
かつてない密約が成立したのであった。




