065
「キョオォオォオオォ」
甲高い声を上げた鈴木君に反応し、坂本は瞬時に山田を抱え、地面を蹴った。何処からともなく放たれた轟音は、たった今二人がいた場所に煙を吐く。
「まさか…」
それが矢でも弓でもなく、銃だという事実に気付くのに、そう時間はかからなかった。
「さ、坂本さん……」
「本気じゃの……」
身を屈めたまま欄干の方を見ると、馬に乗った男・大久保一翁がいる。銃口を真っ直ぐ此方に向ける姿は、よほどそれに慣れているのか、全く微動だにしなかった。
「ありゃあ何者じゃ」
「さっぱりわかりません…」
一際偉そうな身なりと、周囲の畏る様子を見れば、相当権力のある指揮官だと推測出来る。
「えらいの敵に回したんかもしれん」
坂本はニヤリとほくそ笑み、山田の制止を振り切ってその場に立ち上がった。
「お役人さーん!ちぃと過激過ぎやせんかー!」
大声で馬上の一翁に声をかけると、ひと息ついて野太い声が返ってきた。
「おぬしが”坂本龍馬”か……?」
「俺の名なんぞどうでもええがやろう!んなことより、その物騒なもんこっちに向けんちょってくれんかのう!」
坂本はすかさず両手を振った。自分が丸腰であることをアピールする為である。しかしその要請は、またも放たれた一発で完全に拒否された。
「名を、聞いておるのだ」
「……いかにも。俺は坂本龍馬じゃ」
その一言で全包囲する役人らは次々に臨戦態勢に入る。ゲベール銃を構える数名は瞬時に照準を合わせ、他の者も皆それぞれに坂本らに刃先を向けた。
「……怜は何処だ」
「さあ、何処じゃったか。俺にはさっぱり」
「貴様!我らを愚弄するつもりか!」
「娘を何処に隠したのだ!」
血気盛んな役人は矢継ぎ早に声を上げる。それを一翁が制した。
「あの娘とおぬしはどういう関係か。何を企らんでいる」
怜や坂本の思惑など知らぬ一翁は、まるで繋がりが無い両者が何ゆえに行動を共にするのか不思議で仕方がなかった。とは言っても怜に関しては「子供らしからぬ良からぬ物事」つまり「金儲け」でも企だてているのだろうとある程度予測出来たが、坂本に関しては全く想像がつかない。
ただ問題なのは怜に利用価値を見い出し、それが幕府の仇となれば、結果的に由々しき事態とならざるを得ない。それこそ怜のそこはかとない知恵を知る一翁の、懸念する所為なのである。
「ほりゃあ……」
坂本はガリガリと頭を掻いた。どう切り抜けるか思案する際の、彼の癖である。
「簡単に言うたら、……”アレ”じゃ」
「”アレ”…とは?」
「”アレ”っちゅうたら”アレ”しかないがやろう!なあ山田。おんしもそう思わんか?」
「さ、坂本さん……」(こっちに振らないで下さい)
「はっきり申せ。”アレ”とは何だ」
身振り手振りで訳の分からぬ説明を開始する坂本。一翁のこめかみに青筋が立った。
「つ、つつつまり”アレ”っちゅうのは、……怜の、なんじゃ。えーと……」
「キョキョキョーキョ」
「おお!そうじゃった!思い出した!」
鈴木君の援護で坂本の表情はパッと明るくなり「いやあスマンスマン!忘れっぽい性分でのう」と低姿勢に謝罪した。同時に草履を脱いでそれを懐にしまい込む。
「怜はの…」
シンとした空気が流れ、坂本は真っ直ぐ背筋を伸ばした。
「俺の許嫁じゃぁああ!」
「ーーー!?」
澄んだ空気を割って、周囲一帯をこだまする。そのまさかの発言に、一翁は時間を一秒ロスした。因みに、鈴木君はしたり顔で坂本の頭上を旋回し、水中の佐藤君は「アンタ…命知らずやな」という尊敬の眼差しだった。
「撃てーー!!」
坂本は「飛び込め!」と山田に命ずると自分も川へと身を投げる。二人は針金のような体毛をしっかり掴んだ。
「ブオォオォオオォ!」
「思いっきり息を吸い込め!」
「はい!!」
怒号と共に土手を滑り降りる何十もの役人。弓や銃弾が次々と二人目掛けてと飛来する。佐藤君は大きく息を吸い込むと、巨体を真下へ向け潜水を開始した。
「逃すなーー!」
「何としても捕らえろ!」
真っ黒な水面に浮かぶ欠けた月。放たれた弓矢や弾丸が幾つもの波紋を広げる。
「許嫁……」
「偽りに決まっておろう」
池田の呟きに一翁は鼻で笑い、手綱を操って馬の向きを変えた。ここは任せて次の目的地に行こうとしているのだ。
「街道は封鎖したか?」
「は。東は大津、西は枚方まで。宿場にも役人を投入し、聞き込みを開始しております」
「では我々も先回りするぞ」
「どちらまで…」
「八幡……いや、楠葉で待ち伏せする」
楠葉といえば楠葉台場が有名である。
今の段階ではまだ存在していないが、数年後には、あの勝海舟が奉行となって西洋式の砲台が設けられるのだ。
普通台場というものは、海岸に建造されるのが通説だが、楠葉台場は河岸に建造されたもので、対岸の高浜台場と共に、非常に珍しい台場である。一般的には異国対策の一環として、淀川から京に攻め込まれないよう建造されたのだが、実際には長州藩などの反幕府勢力や過激派などを入京させない為の砦のようなものだった。
「伝令を出せ!奴らは宇治川から下坂するつもりだ!けして先に行かせてはならぬ!」
もう一つ一翁が楠葉に狙いを定めたのは理由があった。京から流れる木津川・宇治川・桂川が合流して淀川へと続くまさにその三川合流地帯が、八幡~橋本・楠葉一帯なのである。むろんそこには船番所が設けられている為、出入りする船の監視にはもってこいだったからだ。
「けして逃しはせぬ」
一翁は自信たっぷりに口角を上げたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇
江戸・小栗邸
「ムフ…」
柱から身体半分の格好で立っているのは、小栗家当主・小栗忠順である。視線の先には庭で洗濯物を干す妻の姿。
道子は京から送られてきた怜の肌着や着物などを、自らの手で洗い直しているのだ。
「そんなことは使用人に任せとけば良いのだよ」と気を使ってはみたのだが、「養子とはいえ自分の娘になるのだから、一度くらい母親らしいことをしたい」と言われ、仕方なく好きなようにさせているのだった。
「今日は風があるので、夕方には乾きますわ」
「そ、そうだね」(気付いていたのか!)
「雪が降らなければ良いのですけど」
見上げた空は晴天で、その気配はない。しかし風は冷たく吐く息も白かった。
小栗は庭に出ると道子の前に立った。道子は「?」と不思議そうに小首を傾げ、大きな瞳を潤ませる。
小栗の胸がキュンとした。
「て、手が冷たくなっているよ」
道子の白い手を両手で包み込み、そこにフゥと息を吹く。ふんわりと暖かい空気を感じ、道子は頬を染めて笑みを浮かべた。
「片付けが終わったらお茶にしましょう」
「そうだね。私も手伝うよ」
久方ぶりに手を繋ぎながら怜の部屋へと移動する。大量の荷物はもうほとんど片付けられ、二つほどの衣装箱のみだった。
「これは幼き頃の思い出の品ばかりだと文に書いておりました」
「ならば一先ず押入れに仕舞おう」
「そうですわね。お手伝い致します」
「ああ、私が一人で運ぶから大丈夫だよ」
夫らしいところを見せなければ!という小栗の心境など露知らず、道子は心配そうに衣装箱に手を置いた。
「でも結構な重さですわ」
「なあに。これくらいどうってことないよ」
小栗は自信満々に「そおれ!」と衣装箱を持ち上げた。ところが思いのほか重かった為、尻餅をついてひっくり返った。
「うわっ!?」
「あなた!!」
道子は下敷きになった夫を助けようと、「おらよっと」と婦女らしからぬ声を上げて、衣装箱を軽々と放り投げた。
「なぬっ!?」
「あなた!お怪我は!?」
「あああ………だだ大丈夫だよ…」
絶対に敵に回したくないと小栗は思った。
「すまない。余計に仕事を増やしてしまったようだ」
「あら…」
放り投げた衣装箱は、蓋が取れて中身が散乱してしまっている。道子は「皺になったら大変」と一枚ずつ丁寧に畳み始めたが、現在の怜には到底着られないような乳児用の小さな肌着を手に持って、くすりと笑みを漏らした。
「ふふ…こんな物まで」
見れば小さな産着の他に、抱っこ紐のような長い綿生地の布まである。
「実家の母も、私の幼き頃の着物を今でも大事にとっていますわ。どこの親も同じですわね」
「そうだね……」
手際良くそれらを畳みながら、ふと道子の手が止まった。
「まあ、これは珍しい模様ですわ」
「ん?」
「生地も良いですし」
「ああ。それは双葉葵唐草の文様だね」
「御存知ですの?」
「そりゃあ知っているとも。かの天璋院篤姫様しか使用出来ない特別な……」
突如、衝撃が走った。
愕然とした夫を見て「あなた?」と道子が口を開いたが、小栗の耳には届かなかった。
「馬鹿な……」
小栗は一歩一歩近付いて、道子の手から産着を奪い取る。
「いかがなすったの?」
何度となく生地を伸ばして、何かを確認するように裏を返す。血の気の引いた顔に道子は不安になった。
「あなた……一体…」
「この事は誰にも言ってはならないよ」
「え……?」
小栗はしばし考えた後、「やり残した仕事がある」と言って部屋を出ていく。残された道子は、訳がわからず呆然と見送った。
動揺など無縁の小栗が、手が震えるほど狼狽するのは滅多にないことであった。
「あり得ない……」
何度見返してもその文様が変化することは当然あるわけがない。寧ろ見れば見るほど、ある”事実”が確信に変わっていくのだ。
「まさかこんなことが……」
小栗がその産着を見たのは、今回で実に二度目だったのである。
◇◇◇◇◇◇◇
京→大坂
「この辺りは?」
「橋本っちゅうとこや」
「ふうん。めっさ賑やかやな」
桂川から三川合流地に到着した一行は、”橋本”という京都八幡と楠葉の中間地点にいた。
「ほう……珍しいこともあるもんや」
陸地を見れば多数の灯りがひしめいて、一筋の行列を作っている。それはユラユラと揺らめきながら、西の方向へ向かっていた。
「大名行列みたいや」
「この時間帯にそれはないわ」
「お祭りやろか」
「いや、聞いたことないな」
「んー…ほんなら悪人でも追っとるんかな」
「ああ。それはあり得るな」
「私らやったりして」
「アホか。ハハハ。シャレならんわ」
「ホンマやね。あはは」
怜と淀屋が仲良く笑い合っていると、直ぐ先から大きな声がした。
「皆に協力つかまつる!京より幼き娘が、悪しき者共によって攫われた!現在逃亡中の由!先の船番所にて、東町(奉行所)主導による、立ち入り検査を致す!」
二人の顔から笑みが消えた。




