057
地震関連の話があります。苦手な方はご遠慮下さい。
京ー木津屋橋
江戸ー京都間は通常十二~十三日はみなければならない。しかし流石幕府と言うべきか、緊急時の際には”継飛脚”(つぎびきゃく)という宿場から宿場を馬を乗り継ぎながら、たった三日ほどで駆け抜けるものが存在するのである。
江戸からの使いが後藤家に到着したのは、安藤の決定から約五日後だった。(そのうちの二日間は書面上の手続きやら様々な諸事情があったようである)
江戸城からの突然の使いに後藤善治郎及びハツ以下は、その場で腰を抜かし言葉を発することも出来なかったのは言うまでもないだろう。
「三河小栗家当主、小栗忠順様の御養子として御沙汰が下りまして候ーーー」
淡々と読み上げる役人の口上に、ポカンと口を開けたままの後藤家面々は、役人がその長ったらしい証文を前に押し広げた瞬間、現実に引き戻された。
「お、小栗…様……?」
「小栗様は禄高三千石を有する直参のお家柄。幕閣の方々はもちろん、上様の信頼も厚く、またその才により、現在は外国奉行に任じられておりーー」
そもそも彼らにとって、江戸だの旗本だの上様だの、雲の上の存在なのである。よって自分達が手塩にかけて育てた娘が、いつの間にそんな中枢に身を置いているのか全く想像していなかったのだ。
確かに前の文では、お奉行様の小姓をしていると書かれてはいたが、数ある小姓の一人として、まあ簡単に言えば使用人扱いで日々こき使われているのかな、ぐらいの感覚だったのである。更には長州からの申し出においても、器量良し(親バカ)の怜が、長州藩の田舎侍に見初めらたのか、くらいの思い込みしかなかったのだ。
ところが証文を見れば、そこには安藤信正の署名と花印、小栗忠順のそれもある。つまりこれが全くの冗談ではないことを認めるしかなかったのだ。
「わしらの娘が……」
ポツリと呟いた善治郎。
直ぐ様平伏するハツや長男。
むろん断ることはご法度である。例えそれが意にそぐわなくとも、此方側に拒否権などなく、寧ろ誰もが夢見るであろう名誉ある沙汰に違いなかった。
「よってそなたらのご息女は、徳川旗本八万騎の一翼を担う身分と相成った。これよりは更に国の為、上様の為に邁進いたせ」
「はは!有難き幸せ!我々一同、万事謹んで精進して参りまする!」
善治郎は畳に額が付くほど低頭し、役人らは満足気に頷く。
かくして怜は、またも本人のまかり知らぬところで、小栗忠順の娘となってしまったのであった。
◇◇◇◇◇◇◇
一方久坂と高杉には、藩主より帰藩命令が下っていた。
「おのれ!この大事な時にっ……」
「久坂、落ち着け。今は仕方あるまい」
「大方長井らの差し金だろう!侯も侯だ!何でも言いなりになりよって!」(※侯ー大名及び藩主。この場合、十三代目長州藩主・毛利元親を指す)
「まあまあ。久しぶりに帰郷して奥さんに元気な姿見せてやれよ」
「高杉、そんなに帰るのが嬉しいのか?」
「どうせ怜には後で会えるだろ。先に向こうで待ってようぜ。それに江戸の水(女)は合わねー。まだ京の方がマシだ」
「……京」
久坂はハッと思い立った。
京には怜の実家がある。一度挨拶がてらに立ち寄るのも悪くないと。
「”水”かー。それがしも久しぶりに京の水を飲みに……」
「伊藤、お前はここで留守番だ」
「ええーー!!そりゃないっすよ!」
「さあて帰る準備でもするか」
「ずるいですよ!!」
「残念だったな伊藤。我々は忙しいゆえ、先に失礼する。行こう高杉」
「おう!」
既に幕府が動いていることも知らず、久坂らは海路で京を目指した。品川から大坂、更に淀川から京への船旅である。およそ半月近くかかって入京した二人を待っていたのは、言うまでもなく既に怜が小栗忠順の養女となっている事実であった。
「あらまぁ…お早いお付きで。ようこそいらっしゃいました。後藤ハツと申します」
深々と頭を下げたハツは、久坂と高杉を幕府の御用人か何かだと勘違いしていた。
「某は久坂と申します」
「高杉と申します」
「ここでは何ですから、どうぞ中へ」
「これはかたじけない」
二人は遠慮無く後藤家へ足を踏み入れる。なかなか立派な佇まいの屋敷は、至るところに子どもの物と見られる絵や手習いの書が額に入れて飾られていた。
「……なんだこれ」
部屋に入った早々、目に付いたのは床の間の掛け軸である。殴り書きの達筆で「弱肉強食」と書かれてあった。
「ああ!それは怜が二つの時に手がけたものなんです。なかなか上手に書けてますやろ?」
「「(…二歳で)」」
「さあ、どうぞ。片付けの途中で散らかってますけど」
「申し訳ない」
結構な広さを持つ和室は、怜の物であろう着物が雑多に積まれていた。ハツは二人の前に茶を差し出すと、いつもとは打って変わって上品に居住まいを正す。
「すんまへん。うちの人さっきまでおったんやけど、なんや荷作りしとったら急に寂しなったみたいで、よう世話になっとる寺へ行ってしもて」
「荷作り…?」
「今使いの者を出しましたから、しばらくお待ち頂ければ……」
「あのつかぬ事をお聞きしますが”荷作り”とは」
久坂に問われたハツは一瞬目を丸くした後、口元に手を当てて笑い出した。
「嫌やわぁ。いくら商人の娘や言うても、それなりの支度はさせてもらいます。恥かかすわけにはいきまへんでしょう?ましてやご奉行様の養子となれば、借金してでも」
「ご奉行!?」
二人が思わず身を乗り出すと、ハツは「はて?」と首を傾げた。
「……ご、ご奉行とは?」
「小栗様と仰る方ですけど…」
そして二人はようやく気付いた。
幕府にしてやられたのだという事実に。
自分達が策を講じたあの文は、どんなに小栗が申し開きをしたとしても、慎重で疑り深い公儀が許すはずはなく、むろんまだ幼い子を手にかけることはないにしろ、おそらくは江戸より追放すると睨んでいたのだ。詰まる所、怜を取り込むとは思ってもみなかったのである。
「マズイ事になったな久坂」
「ああ……」
ともあれ、考えればわかることであった。そういう意味では見識の甘さと言っても過言ではないだろう。
「あの……どうかなさいましたか?」
「いや…」
公儀の決定を覆すことは許されない。おそらく怜自身でさえ、何も知らずに仙台へ向かったに違いないのだ。
と、その時久坂の目に何かが飛び込んだ。
それは隅に積まれた怜の着物の、一番上に重ねられた薄い黄色の着物である。その視線に気付いたハツは、フッと悲しげにそれを見やって言った。
「これは怜が赤子の頃着とったものなんですよ」
そう言って丁寧に広げられた着物は、何の変哲もない赤子用のものに違いはなかったが、そこに散りばめられた模様は、一般的には知られていない特殊な模様だったのである。
◇◇◇◇◇◇◇
品川沖を出航した八日目。
神風号は平潟(茨城)、中之作・相馬(福島)を過ぎ、仙台石浜港を目前としていた。
石浜港は仙台藩の外港である。
日本三景の一つ、松島湾湾口部にある浦戸諸島の島嶼郡の内、桂島にある港で、数年後起こり得るであろう戊辰戦争では、榎本艦隊が立ち寄った港としても有名だ。
もっとも怜がそこまでの詳細など知るわけもないが、遠く霞んで見える美しい景色に感嘆の声を上げた。
「”松島や。ああ松島や松島や”」
まるでたった今思い浮かんだように発したが、パクリの上にまだ松島は見えていないとだけ言っておく。
ちなみにこの俳句は、よく松尾芭蕉が詠んだものと勘違いされているが、実際は”田原坊”という江戸末期の狂歌師が詠んだものである。
「俳句か……ちんまいのになかなかのもんじゃのう」
「そやろ?得意やねん」
そうしてたわいない話をしながらも、怜の内心は穏やかではなかった。常に海の状態に気を配りながら、日中のほとんどは水平線ばかりを見つめていたのである。
しかしそれを払拭するかのように常に海は穏やかで、まるでこの航海を後押ししているようだった。故にそんな状態だけに坂本や淀屋らは、怜の"予知夢”などただの”夢”に過ぎないとまで結論付ける有り様だった。
ともあれ、夢であるならその方が良いのだ。もしくは怜がこの時代にいることで、自然という名の歴史すら変わればそれに越したことはないのだから。
むろんそうなれば怜は賭けに負けたことになる。
取り消すことも今更叶わないだろう。ただ中村半次郎に殺されるのが怜の運命ならば、心残りは大いにあれどそれは仕方がないことであり、甘んじて受ける覚悟もあった。(勿論簡単に殺されるつもりもないが)
だからこそ、怜は片時も海から目を逸らさなかった。それは「不安」以外の何物でもない。
張り詰めた大海原。
穏やか過ぎるくらい静かだ。これが嵐の前の静けさだろうか、と怜は沈みゆく太陽に目を細めた。
そして事が起きたのは出発から九日目だった。
山田が何気なく上空を見た先に黒い影の塊が蠢めいている。怜はその指差す方角に視線を向けた。
「カラスや……」
「ほう…こりゃ面白い」
そこには数十羽のカラスが円を描いて飛んでいる珍しい光景があった。
「キョキョォォオォオ」
鈴木君が鳴いた。
いつもより高く伸びるような声。
怜は大声を張り上げた。
「淀屋!!」
「なななんや!?」
「石浜まであとどれくらい!?」
坂本は怜の元へ駆け寄った。
「何かあったがか?」
「なあ!もう着く!?」
「こ、このまま順調に進めば、そうやなぁ、あと一刻ぐらいや。ほら、もう見えとるやろ」
淀屋は前方を指差した。
なんだなんだと集まってきた水夫を押し退け、怜は船首の方へと走り出す。
「怜!?」
船縁から身を乗り出した怜の頬に波飛沫が散る。坂本と淀屋は急いで追いかけてきて、後ろから抱え込んだ。穏やかとはいえ怜はまだ小さい。何かの拍子に波に攫われるかもしれないのだ。
「何じゃ一体!?どかいしたんじゃ!」
「あれが石浜!?」
「そうや。頼むからもう少し我慢してくれっ」
沿岸を進み続ける神風号は、左側に陸を捉えながら桂島を目指している。前方の島のやや右に見えるのが淀屋の言う桂島で、それこそ手が届きそうなほど近くに見えた。
「間に合うやろか……」
「何かじゃ」
「地震やん!」
坂本と淀屋は顔を見合わせる。
怜は二人から逃れるようにその腕を振り解くと、船首を背にむけて声を荒げた。
「さっきのカラスの動きは天変地異の前触れや!だからもうすぐ地震がーーー」
とその時であった。
坂本の背後の大海原が隆起するのを見た。まるで大きな鯨で出てきそうなほど船より高く浮上する。波に押された神風号はぐらりと船体が傾き、甲板の荷物が一斉に横滑りした。
「怜!!」
一瞬の出来事だった。
「坂ーー」
互いに伸ばした手は、ほんの数センチ届かず。
「ーーーーーー怜!!」
小さな少女は海の中へと消えていった。
◇◇◇◇◇◇◇
「どうしたんだ久坂!」
善治郎が帰宅したにも関わらず、急な用事を思い出したと言って後藤家を発った久坂は、追いかける高杉に肩を掴まれた。
「捨て子だったのを気にしているのか?」
ハツの昔話、いわゆる怜の出生は二人にとって勿論初めて知る事実である。しかしそういった身の上の者は珍しいことではない。むしろハツは善治郎の”浮気相手”との間に出来た怜という少女を実母として届けを出しており、書面上も何ら問題はないのだ。
「まさか。そんなことはどうでも良い」
「だったらどうして……」
「お前は気付かなかったのか?あの善治郎という男。全く怜に似ておらぬ」
「はあ?そりゃ浮気相手に似たんだろ?多分」
高杉は久坂の言わんとしていることが全くわからなかった。無論、久坂とて確信を持って発言しているわけではなかったが、あの怜の産着を見て一つの仮説を思い立ったのである。
「あの着物。見覚えはないか?」
「捨てられた日に着ていたというあの着物か?」
「ああ」
「そんなことを言われてもな。何処にでもある産着にしか見えなかったが。……まあ中々良い生地には見えたが」
「生地はさておき、あの紋様だ」
「紋様?」
久坂は高杉だけに聞こえるように、声を低くして唸るように言った。
「あれは”双葉葵”だ」
「……双葉葵?」
双葉葵とは賀茂神社の神紋である。
その名が示すとおり、二枚のハート型の葉がツルから伸びた格好になっている。
徳川家の絶対的家紋は三つ葉葵だが、これは徳川一門しか使用出来ない権威ある家紋である。それに対し双葉葵は賀茂神社の神官は元より、その氏子や信仰する家々の家紋として用いられているのである。
つまりハツの言う通り双葉葵紋が散りばめられた産着を怜が着ていたというのが事実であれば、それは賀茂神社に深く関わる身の上だということになる。
「しかし神に仕える者共が生まれたばかりの子を捨てたりするか?」
「うむ……」
高杉の言うことはもっともである。
例え由緒ある武家生まれの御子であったとしても、怜は女の子であり跡継ぎ問題が発生するわけではない。
「世に出してはならぬ子だったか、それとも他に何か裏があるのか……」
「考え過ぎだろ」
「賀茂神社に行く」
「おいっ」
久坂は踵を返して歩き出したのであった。
◇◇◇◇◇◇◇
仙台沖
「怜!!」
穏やかな海が一変したのは誰しも理解出来ることだった。盛り上がった海面は蛇のうねりのように不気味で、慣れた者でも恐怖を感じる。
転落してしまった怜はそれに飲み込まれてしまったのか、一向に浮かんでこない。坂本は怜が落ちた付近へ飛び込もうと船縁に足をかけた。
「離せ!離さんかい!」
「駄目です!危険です!」
「沖へ出るんや!このままやったら座礁する!急げ!」
数人の水夫と山田に押さえ込まれた坂本は必死で抵抗するが、神風号は意に反して怜の落下地点から離れ、沖へと進路変更した。
「淀屋!怜を見捨てるんか!!」
「そうやない!そうやないけどこれが転覆したら、坊主だけやない!ここにおるモン全員御陀仏や!」
淀屋の言い分ももっともで、船の所有者としての責任がある。一人を助けようと機を逃せば、数十人の命に関わるのは必至だ。
ジリジリと押し寄せる焦燥感。
鈴木君は海面スレスレを飛行し、自分の主人を探している。坂本は拳を握り締め、どんどん小さくなるその影を見つめた。
「死んだらいかん……おまんはこんな事で死ぬガキじゃないがやろ」
いつの間にか自分の中で大きくなった怜の存在。勿論色恋ではない。坂本にとって怜の示す方向はいつも未来への希望、そして光である。
土佐で奇跡が起きたように、今もまたーーー
そう願わずにはいられなかった。
その後神風号は安全な沖に碇泊し、波が収まるのを待った。同じく港を行き交う多数の船も沖で碇泊しており、一帯は数え切れないほどの船舶が漂っていた。
「火事や…」
坂本は対岸から上がるいくつかの煙を見て、戦慄を覚えた。自然災害の余波は今も昔も変わらない。寧ろその広がりは現在よりも過酷と言える。
「淀屋、寄港出来そうか?」
神風号が予定通り石浜港に到着したのは、それから優に一刻半が過ぎたころであった。




