052
「怜早く!先生が待ってるよ」
「あ、忘れ物!直ぐ追いかけるから先行っといて」
講義のあと大事な手紙が懐に無いのに気付いた。
今朝、京の両親から送られた文だった。帰ってからじっくり読もうと思って帳面に挟んで置いたのだが、それごと芙蓉の間に忘れてきてしまったのだ。
「キョキョ」
「あー!良かった!無くしたと思た」
怜は大事そうにそれを胸に抱き締め、落とさないように巾着に押し込むと再び部屋を出た。
「待ちな」
背後からの声に振り返ると勝が不敵な笑みを浮かべて立っている。怜は顔が引きつった。
「ちょっと来てもらおうか」
「な、なんでですか?」
「お前さんには色々聞きたいことがある」
いつもと違う口調に少々驚きつつも、勝海舟と言えばバリバリの江戸っ子だということを思い出す。
「聞きたいことって?」
「全部だ。たった五歳のガキにしては知り過ぎていると思わねえかい?」
「あ、あれは小栗先生の受け売りです」
「そりゃ...嘘だな」
怜はぐっと言葉に詰まった。
全てを見透かす視線にも耐えられず、思わず目を逸らしてしまう。勝は勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「急いどるから失礼します!」
「話はまだだ」
きっぱり言い切られ首根っこを掴まれた怜。ジタバタと暴れようにもたかが五歳児。大人の力に勝てるはずもなかった。
「お待ちください」
そこへ小栗が現れた。
「先生!」
「私の小姓を何処へ連れて行くつもりですか?」
「……少々話しを聞かせてもらいたくてね」
「断りも無しに勝手なことをされては困る」
小栗は手を伸ばして怜の腕を掴むと自分の後ろに隠した。しばし睨み合う両者。しかしさすがに無理は出来ぬと悟ったのか勝は肩を竦める。
「……まあいいでしょう」
フンと鼻を鳴らして去っていく後ろ姿に、怜はあっかんべーをした。
「先生。おおきに」
「ああ。それより怜…」
「はい?」
小栗は怜と目線を合わせるようにしゃがみ込むと真剣な眼差しで怜を見つめた。
「お前は自分をわかっていない。もう少し用心せねば命を狙われることだってあり得るんだ」
「…はい」
「噂や情報はいつも誰かによって世間に広がり、徐々に拡大するんだ。わかるかい?」
小栗が何を言わんとしているか怜にはわかっている。散々小松や東郷に言われてきた言葉だ。忘れてなどいない。しかし目の前に何か守りたいものがある時、その心配は怜にとって邪魔でしかなくなってしまう。
「先生……私、仙台に行かなあかんのです」
「仙台?」
「し、親戚に会いに…」
「親戚?」
「もうあんまり時間がないから…」
小栗はその言葉に眉を顰めた。
「それでお金を貯めていたのか……」
小栗は盛大に勘違いをした。
つまり怜の親戚が、病により死の瀬戸際だと思ったのだ。
「その文は?」
小栗は巾着からはみ出した文に視線をやった。
「あ。これは京の両親から……まだ読んでないけど」
「急を要することかもしれない。早く見てみなさい」
そんなことはないだろうと思いながらも、怜は文を取り出すとそれを広げた。
「お父ちゃん……」
懐かしい父親の字。
思わず涙が出そうになる。
ズズッと鼻をすすり、ゆっくりと目を走らせたのたが……
「……は?」
怜の瞳が点になった。
「どうした?まさか親戚に……」
文がハラリと下へ落ちる。小栗はそれを拾いあげて目で追った。
「………怜、これは一体」
そこには京の実家に突然の訪問客があり、怜への縁談話が舞い込んだこと。怜自身も了承していると告げられた両親の困惑と事実確認などが事細かく書かれていた。
そして何より驚いたのは、そのお相手である。
それは怜のよく知る人物。
長州藩のあの男だった。
「ギョギョッ!?」
「なななんで私が…」
声が震えた。さもあろう。自分のまかり知らぬところで勝手に縁談を了承しているのである。しかも良く見れば、それなりの身分の他家へ養子に出された後、縁談を勧めるらしいとも書き記されていたのだ。
「お前は女子だったのか……!?」
「そうみたいです…」
「えっ」(何言ってんのこの子)
怜は文を引ったくり再び目を走らせる。しかし何度読み返しても内容は変わらなかった。(当たり前だ)
「嫌や…よりにもよって……」
「この者は厄介だな」
「先生知ってるんですか!?」
「そりゃ色々と有名だからね」
「あー…」
「長州藩が分裂してるのは知っているかい?」
「長井雅楽と……」
「そうだ。この者は反対勢力の中心人物と言ってもいい男だ」
小栗は怜の肩を掴んだ。いつもとは違う、真剣な眼差しである。
「長州藩とお前はどういう関係なんだ?」
「それは……」
怜が迷っていると後ろから声がした。
「先生。僕が説明します」
「五郎…。そうだな。取り敢えず屋敷へ帰ろう」
◇◇◇◇◇◇◇
時は遡ること前日。
長州藩下屋敷ではいつもの面々と、プラス伊藤俊輔も加わっていた。
「準備は整った」
高杉は自身ありげに笑みを浮かべた。
「長井殿は信じたのか?」
「ああ」
彼らは怜を取り戻す為に長井雅楽を利用することにしたのだ。同藩でありながら犬猿の仲である長井に、"後藤怜"というこちらの息がかかった者が幕府内に入り込んでいる、という匿名の文書を送りつけてたのである。それが明るみになれば怜は捕らえられる。薩摩側が匿う恐れはあるが、幕府が引き渡しを要求すれば断る術はない。だがどちらにしろ大人しく捕まる子どもではない。
「本当に来るんですかね?」
「それはわからんな」
「だがこちらには餌がある」
預かった金子は押入れに仕舞い込んだままだった。
逃走中の身となれば必ず必要になり、上手くいけば自分の方からやって来ると睨んだのだ。
「まあ、あとは成り行きに任せるしかない。ーーーーーで、話はついたか?」
「まだだ」
「某は桂さんが良いと思いますよ?」
「却下」
桂小五郎は即座に拒否した。
「歳が離れ過ぎている」
「それだけが理由ですか?」
「私には無理だ。……色々と」
「だったらやっぱり高杉さんか吉田さんが良いと言いと思います!」
「しかし吉田はまだ帰藩しておらぬし」
「じゃあ伊藤で」
「ま、待って下さいよ!高杉さん!某はもう直ぐ縁談を控えているんですから!」
「ならば高杉だな」
「嫌だね」
高杉はきっぱり言い切って久坂を見た。
「あいつの責任者は誰だ」
「責任者?」
「そうだ。責任者が責任を取るのが筋だろ?思わねーか?桂さん」
「うむ。確かに一理ある」
「責任者……」
三人は久坂を見ている。
しかし久坂は目を逸らす。
それを高杉が無理やりこちらを向かせたが、久坂は空中に目を泳がせ、誰とも目を合わそうとはしない。
「あと数年もすればイイ女になるかもしれねーぞ」
「.......」
「ひょっとしたら久坂さんの大好きな”巨乳”になるかもしれませんよ?」
「希望的観測に過ぎぬ」
「久坂」
「……なんですか」
桂が肩を叩いた。
「”自分好みの女に育てる”なんてどうだ?ーーーかの光源氏のように」
久坂の目が大きく見開いた。
「お前だけの”紫の上”」
「私だけの紫の上………」
「そうだ。”お兄様”を慕う小さな幼女」
「お、”お兄様”と……小さな…」
ニヤリとする高杉と伊藤。
「実家は金持ちだし逆玉じゃないっすか!」
「”お兄様ぁ大好きぃ”なんて言われちゃったりなんかしてさ」
「うっぷ……う、うらやましい…ォェ」
「そういや桂さん。養子の件はどうなった?」
「.....オエッ....あ、ああ、久保さんに頼もうかと思ってな」
「そりゃいい案だ」
”事”は順調に進みつつあった。
むろん今直ぐ祝言を挙げるというわけではない。”一”に必要たるは家柄の良い長州藩士と怜の養子縁組。
怜は商人の娘であり、苗字はあれど身分では格差がある。一先ず怜を久保家へ行儀見習いとして奉公させ、ある程度の年齢に達したら久坂と祝言を挙げさせるということである。
「紫の上か……ふむ…」
久坂の脳内に美しい鐘の音が響き渡った。
◇◇◇◇◇◇◇
「これは陰謀や!」
怜はキーッとなって頭を掻きむしった。
久坂玄瑞と結婚など怜にとっては悪夢である。好き嫌いの問題ではなかった。今における「長州藩」の流れが公武合体に進んでいるのは周知の事実であるが、それは束の間に過ぎず、数ヶ月後には完全に久坂ら主導の元に”攘夷””倒幕”へとひたすら突き進むのだ。
だからこそ、その嵐に巻き込まれたくはなかった。
自分の今の立ち位置が幕府側なのは重々承知だが、怜にとって”攘夷”や”倒幕”など他人事なのである。現代の若者が政治に無関心なように、それは怜も例外ではなかった。自分が何か動く時は個人に対してだけであって、全体を見ているわけではないのだ。
しかし、世の中はそう上手く運んではくれない。
それに限っては自分の見識の甘さという他はないだろう。未来の知恵を出せばこうなる運命は少なからず予想出来たのだから。
「先生。申し訳ありません」
東郷は今までの経緯を小栗に説明し、自分が主人(小松)の命令によって怜の警護をしていることも明かした。
「頭を上げなさい。五郎」
「はい」
「謝ることはない。私も大体はわかっていたからね」
「良かったなあ!五郎君!」
怜はバンと背中を叩いた。
「しかし怜。お前が長州の間者というのは聞き捨てならないな」
「そうだよ怜。いつの間にそんな危険な契約をしたんだ?」
怜はぎくりと肩を揺らした。
「そ、それはしゃーないことなんよ!私だって好きでやったわけちゃうもん!もしやらんかったら問答無用で”切腹”って言われたんやもん!!私は脅されてたんやから!」
けして「金の為に」とは言わなかった。言えば二人とも呆れ返ると思ったのだ。
「こんな小さな子どもに切腹!!?なんと酷い奴らだ!」
「本当ですよ!しかも女の子なのに!」
「なんと不憫な」
「...うぅ...う」
怜が両手で顔を覆うと小栗はヨシヨシと頭を撫でた。
ちなみに嘘泣きである。
「大丈夫だよ怜…僕が一生守るから」
「ぐすん……おおき…に」
上手く切り抜けた怜。心の中でほくそ笑む。そんな心中も知らない小栗と東郷はあーでもないこーでもないと打開策に頭を巡らせていたのだが、ここへきて、またも新たな不運に見舞われた。
『長州藩を侮ってはならない』
これはある種の戒めである。
”後藤怜包囲網”は本人の知らぬ間に二重三重に張り巡らされていたのだ。
「旦那様。江戸城よりの使いの方がいらっしゃいました」
「!?」
使用人の声に三人は顔を見合わせた。
たった今帰ってきたばかりで使いの者が来るということは、よほど急ぎの用であるに違いないのである。
「客間にお通ししなさい」
「はい。只今」
東郷はそっと縁側を出て庭から間口へと消えて行く。ほんの二分ほどであろうか、音も立てずに戻ってきた。
「城番の与力衆が十二名ほど」
東郷の言葉に小栗は眉を顰めた。
「……二人共、支度をしなさい」
「ど、どういうこと?」
「おそらくお前の素性が江戸城に知れ渡ったに違いない」
「素性って……」
「”長州の間者だ”と」
「でもそれはっ」
小栗は片手で怜の口を塞いだ。
「一度疑われたら無実であってもそれを証明するには時間がかかる。お前は仙台に行かねばならないのだろう?ならばここで足止めされるわけもいくまい」
「先生…」
「五郎。私があの者達を引き止める間に出発し、築地の軍艦操練所へ向かいなさい」
軍艦操練所は講武所内にある幕府が海軍士官の養成のために築地に設置した教育機関であり、井伊直弼によって閉鎖された長崎海軍伝習所に代わり海軍教育の中核となった施設である。
「そこに"榎本武揚"という男がいる」
榎本武揚といえば後の戊辰戦争において主戦論派の中心として「蝦夷共和国」の総裁になった人物である。むろん今はまだ幕府海軍の指揮官にすらなっていないが、軍艦操練所の教授という立場だった。
小栗は箪笥から金子の入った袋を取り出し、それを東郷へ渡す。そして直ぐに紙に筆を走らせ、怜に持たせた。
「この書状を渡したら、後は彼が何とかしてくれるだろう」
「…でも、先生は大丈夫なん?一緒に行く?」
怜を逃したことで小栗が罰せられるのは何ともしても避けたいと、思わず仙台行きを誘った怜であったが、小栗は首を横に振った。
「私が逃げれば認めたことになる。そうなれば家族も親戚もこの屋敷の者まで処罰されてしまうだろう。私は知らぬ存ぜぬで通し、お前達には逃げられたことにするから心配しなくていい」
「……先生。ありがとうございます」
「さあ。あまり待たせると不審がられる。早く発ちなさい」
小栗はスッと立ち上がり、襖に手をかけた。
「また会おう」




