046
早朝は奉行所、昼前に江戸城通いが続く日々。
いやでも顔を合わせなければならないのが、勝軍団である。
彼らと出くわす度に小姓らが睨みをきかせてくるのだ。というのもこの前の「わんわん事件」が原因ではなく大久保の所為であった。
「聞きましたよ。この少年は元々大久保さんの小姓だったらしいじゃないですか」
勝は東郷を顎で差した。即座に否定しようとした東郷であったが怜に止められた。
「あまりに優秀な小姓だったもので、無理言って譲ってもらったんです」
「ほう。確かに大久保先生も稀に見る奇才だと申されておりましたが」
「まあこんな子どもには滅多にお目にかかれないでしょうね(色んな意味で)」
「それは将来が楽しみだ」
先日とは打って変わって和やかな雰囲気の二人に見えたものの、後ろに控える小姓団からは凄まじいほどの嫉妬のオーラが漂っている。
その小姓団は皆十~十四、五の少年であり、東郷と変わらぬ歳の頃であった。
「小姓」と一言で言っても様々である。大抵は出自のきちんとした者達で、元服前の武家の嫡子または子弟であったり、知人の紹介や親族といった場合もある。
また自分の主人が有能であればあるほどある種の「自慢」だったりするので、水面下では礼儀正しく振る舞いながらも内心は互いに牽制し合っているのだ。
そして彼らが目下嫉妬に狂っているのは、勝海舟は元よりその上司とも言える大久保までもが褒め称える「少年」に対してだが、もちろん怜のことではなく「東郷」のことであった。
「人は人を見て成長するんよね」
怜はしみじみと言った。
二人は小栗の使いで芙蓉の間(勘定詰所)を出た後、長廊下を歩いていたのだが、すれ違いざまに彼らに睨まれたのだ。
「だけど、あんな風に殺気立つのは”小姓”としてはまだまだだよ」
「そうやね。感情を殺すことが出来へんのは致命傷や」
「まあそれも修行の一つだからね。自ずと身につくものだよ」
「東郷君はどれくらいかかった?」
「僕は半年くらいかな。怜は?」
「私は腹立った瞬間にはもう行動しとるもん」
「だろうね」
とその時、鈴木君が「キョー」と突然怜の頭から飛び立ち、廊下の奥へと消えていった。
「鈴木君?」
「マズイよ怜!あっちは御用部屋の方だ!」
御用部屋とは老中や若年寄などの執務室であり、奥祐筆以外立ち入り禁止である。つまりいくら城詰の役人と言っても小栗すら立ち入れない場所であり、むろん怜など以ての外であった。
「東郷君、先行っといて」
「ええ!?ちょっ」
怜は書類を押し付け走り出した。
◇◇◇◇◇◇◇
色白の気品溢れるその男は、一見「女」とも見間違うような顔立ちであり、また華奢で小柄な出で立ちが病弱な薄幸の美少年といった雰囲気だった。
「お前は天からの使いなのか」
「キョキョ」
「ようやく予を迎えに来てくれたのだな」
少年が腕に乗る鳥を撫でているとドタドタと足音がし、突き当たった廊下からひょっこりと小さな男の子が現れた。
「あー。こんなとこおったん!」
「キョキョ……」
「そなたは…「お腹空いたん?」
「何者…「巨大ミミズ取りに行く?」
「キョキョ!!」
「あっ…」
鳥は一瞬で飛び立ち、小さな男の子の頭に乗っかった。
「兄ちゃんごめんな!上様には内緒にしとってな!ほなバイバイ!」
呆然と見送る美少年。彼の名はーーー
"江戸幕府十四代将軍・徳川家茂"である。
「ばい...ばい....?」
突風のように過ぎ去ったひと時。
何故か嫌な感じはしなかった。
「上様ーっ!!」
「いずこにおわすか!」
地震のような轟きと、側衆や小姓らの叫びにも似た声が耳に響く。家茂は短く息をついて、声のする方へ向き直った。
「騒ぎ立てるでない。予はここにおる」
「上様!!」
「勝手にお出になってはなりませぬ!」
「上様ともあろうお方が供も無しで表へお出になるなど前代未聞でござりますぞ!」
「目を離した小姓は誰ぞ!」
「も、申し訳ありませぬ!」
「事は万死に値する事態!この上はその身をもって…」
何処へ行くにも誰かがいる。
けして一人の時はないのだ。
いつから感情も表に出せなくなったのか。
いつから言葉を紡ぐことさえ、恐ろしくなってしまったのか、家茂はその「理由」すら見出せなかった。
「やめよ」
家茂の一言にぴたりと場は静まった。
「……予が気まぐれにここまで来たのだ。悪いのは小姓ではない」
「上様…何という慈悲深いお言葉」
自分の行動が罪も無い人々の命を左右する。そうしているうちに無機質な生活が思考回路を停止させていくのである。
家茂は後ろを振り返った。
むろんそこには誰もいない。
「あの鳥は…」
「は……?」
「……戻る」
「ははっ」
あの鳥は「夜鷹」に違いない。と彼は思った。小さい頃から鳥や鯉などが好きで、以前は小鳥を飼っていたこともある。何故この江戸城に夜鷹がいるのかわからないがあの小さな子どもが飼い主なのは間違いない。
「何やら楽しいことでも?」
(あの子どもはどこの者であろうか…)
礼儀も無く無礼な物言いであったが不思議と腹も立たなかった。
「いや」
家茂。十五の秋であった。
◇◇◇◇◇◇◇
芙蓉の間は今日も賑やかだった。
廊下にも聞こえるほどの笑い声で、通り行く人々が驚くほどである。
その原因は小栗忠順の小姓、怜である。
勘定詰役人やその小姓、合わせれば数十人に及ぶ大所帯が怜の談義に耳を傾けているのだ。
「子の刻には妖が解けてしまうのです。灰かぶり姫は急いで城から逃げました。しかしその時、切子草履を片方だけ落としてしまったのです」
「なんと!」
怜はシンデ◯ラを日本版に改変し披露していた。
初めて聞く物語に皆が皆夢中になって耳を傾けている。元々は小栗が「仕事ばかりだと気が滅入るから何か面白い話を聞かせてほしい」と二人に言ったことから始まったのだが、いつしか独壇場となっていた。しかも彼らは怜に談義の礼として金子まで払ってくれる。むろん小栗は断ったのだが団結したお役人は聞く耳を持たなかった。
「ーーーお殿様は国中の若い女人を城へ呼びました。その切子草履を履いてぴったり寸法が合った姫と祝言を挙げるとおっしゃったのです」
「愛ゆえの執念であるな」
「うむ。それほどに美しい姫君だったに違いない」
「皆様、お待ち下さい」
「おや、いかがなされた小栗殿」
小栗は苛立っていた。何故なら自分より怜が注目されているからである。東郷は小栗の手から分限帳をぶん取り、文机の下に隠した。
「皆様方、姫の正体が判明致しました」
「しょ、正体とな?」
「先ず切子草履と申しますが、薩摩切子か江戸切子か、それだけで話は大きく変わってきます」
「え」
「薩摩切子は美術品として名高いものですが、江戸切子は伝統工芸品。江戸の民が生み出した誠の愛ある一品なのですよ!つまり切子草履は江戸の庶民が作り出した幻の一品!」
「なるほど!灰かぶり姫は江戸庶民の一人であると!そう申しておられるのですな!?」
「さすが小栗殿じゃ!」
「よっ!江戸の茶柱!」
「おやめくだされ~」
「……また先生の悪い癖や」
「またそんなこと言って」
「だっておもろいもん」
怜はググイと小栗を押し退けた。
「まだ話の続きがあります!」
「おお!そうであった!聞こうではないか!」
「み、皆様っ私の…」
小栗は脇に置いやられた。それを見た他の小姓も書類を隠す。
「とうとう自分の番となった姫は薩摩切子草履を履きました」
「なぬっ!?」
「先生!?」
「もちろん自分の薩摩切子草履なのだからぴったりの寸法です。お殿様はとても喜び、二人は祝言を挙げていつまでも幸せに暮らしました。おーわーり」
頭を下げた怜に惜しみない拍手が送られる。
「今日も愉快な一日であった!」
「明日も楽しみにしておるぞ怜殿」
「これはほんの気持ちだ」
「ありがとうございます!」
怜は襖の前で金子の入った壺を持ち、一人一人頭を下げて礼を言う。さすが城詰の役人は金持ちだとつくづく思った。
「これやったら直ぐにお金貯まるかもしれんな。さすが江戸城や」
しかし怜が江戸城で有名になりつつある反面、快く思わない者も多数存在する。
「お偉い方々に取り入って、何を企んでおるのか」
勝小姓団である。
「どこの馬の骨かもわからぬ小童が」
「噂では小栗様の妾腹だとか」
妬みというものはどこの世界にも存在するが怜は慣れきっている為、特に気にする様子もない。それが余計に恨まれる元となるのだが。
「自分より小さいもん虐めるとか、兄ちゃんらどういう教育されてきたん?」
「虐めているのではない!世を知らぬ小童に教えてやっているのだ!」
「生意気だぞ!」
一番背の高い小姓が怜の胸ぐらを掴んだ。
「プライドが高いのは身の破滅やよ?」
「ぷ、ぷらいど?」
「自尊心のことや。多少のそれは持っといた方がええけどな、あまり高過ぎると邪魔になるしな?」
怜はニヤリと笑みを見せた。
「お前…私達を誰だと思っている…」
「家系が立派なんは、あんたらの実力やないやろ。それはご先祖様の力や」
ぐうの音も出ない小姓団に、舌も乾かぬ内に畳み掛ける怜は、もはや鬼だった。
「かわいそうやな。顔も頭も凡人以下。我が家では家族から足蹴にされとる”部屋住み”の身分。何とか脱却しようとコネで小姓にしてもろたものの、特に秀でた取り柄も無く、お先真っ暗」
小姓団は怒りに震え出した。
要は「図星」だったからである。
彼らは次男三男といった、いわゆる「穀潰し」などと虐げらた身の上の者だった。つまり兄が嫡男として家を継いでいる為、我が家なれど居候している身分なのだ。
長兄が病気持ちであれば予備としてある程度丁寧に扱われるが、そうでもない限り、結婚も出来ず、疎まれて生きていくしか術がない。ゆえに皆武芸や勉学に励み、塾などを開いて独立して生計を立てるか、商人などの養子になったりするのである。
「お前に何がわかる…」
小姓の一人が絞り出すような低い声で唸ったものの、
「でも、安心しぃ」
この怜の一言に、皆目が点になった。
「……は?」
「私があんたらを鍛えたる」
「き、鍛え?」
「頭を鍛えたるんよ。有り難く思いや?」
「……どういう意味だ」
「これから三時から四時の半刻だけ私の部屋においで。芙蓉の間や」
(※芙蓉の間は怜の部屋ではない)
怜は踵を返した。
「あ、ちょっと待て」
「待たぬぅ~」
「キョキョゥ~」
怜(と鈴木君)はブィーンと飛行機のように両手を水平にして走り去っていった。
◇◇◇◇◇◇◇
長州藩上屋敷
「あのアホウ!!」
久坂は怜からの文をグシャグシャに握り潰した。
「どうした久坂」
「か、桂さん」
「これは…」
桂は久坂の手から文を捥ぎ取ると、それを広げた。
【数多の人が集う金の成る木。かの貧乏藩とは格段の差なり!各々方に告ぐ。
”永久にさようなら” 後藤怜】
「まさかの寝返り!?」
ちらりと見た大木の枝には鈴木氏がいたが、まるで汚いものでも見るようにこちらを睨んでいた。
「ハハハッ!」
そこへ高杉が笑いながらやって来た。
「ガキのくせになかなかやるじゃねーか」
「感心してる場合か!」
「落ち着け」
桂は久坂を制した。
「怜があちらに付けば、我々の敵と言うことになる。しかもあれは只の子どもではないからな」
「かくなる上は攫ってでも…」
「いや、それは危険だ」
「要は自分からこっちに来させればいいんだろ」
高杉の言葉に二人は顔を見合わせ探るような視線を送る。そしてしばらく考えた後、一つの結論に至った。
「……ふむ。そうだな」
「手荒な真似は好まんが」
「いざとなれば仕方ない」
「今は泳がせておけばいいだろ」
「覚えておれ!怜め」




