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幕末スイカガール  作者: 空良えふ
第一章
44/139

044




「っ……けほっ…」


東郷が苦しげに息を吐き出すと、飲み込んだ川の水が口端から零れた。


「東郷君!」

「おお……!」


周囲から安堵の声が沸き立つ。


「い、生き返った……」

「息を吹き返したぞーー!」


怜は左手で少し頭を上げ袖口から手拭いを取り出すと、濡れた顔を拭きながら自分の身体が震えていることに気付いた。


無理も無い。彼を失うことは確実に歴史が変わってしまうのだ。あの有名な日清・日露戦争において、その勝利に大きく貢献したのは紛れもなく”元帥海軍大将・東郷平八郎”なのである。


特に日露戦争では日本海海戦において、世界屈指を誇るロシア海軍バルチック艦隊を大胆とも言うべき戦法で一方的に打破し大勝利を収めている。それにより彼は「東洋のネルソン」(※)と称えられ「英雄」とされたのだ。


怜は震えを抑えるように東郷の手を握る。

薄っすら目を開けた東郷は「怜…?」と漏らしたが、襲いくる吐き気に声を詰まらせた。


「全部吐いて!」


怜は顔を横に向け、小袖を剥がして濡れた身体を拭いた。早朝の冷たい川は体温を全て奪っていくのだ。まだ冬では無かっただけマシである。


「彼はもう大丈夫なのか?」

「命には別状ないです。けど一応医者に診てもらった方が」


怜はようやく小栗に気付く。


「先生も医者に診てもらわな」

「え?私は大丈夫だよ」

「頭のネジが一本多いようやから」


怜なりのわかりにくい褒め言葉である。

小栗はにっこり頷くと、立ち上がった。


「皆さん、少年を上まで運ぶので手伝ってもらえますか?」

「へい!もちろんでさ」

「オイ!みんな手伝え!」



その後、東郷は近くの診療所に運ばれ、同じく小栗もそこでしばらく休むことになった。怜はというと、もちろん休む間も無く二人分の着替えを取りに屋敷に行ったり、川沿いに置き去りにしていた荷物を探しに行ったり、結局丸一日潰れてしまったのである。



◇◇◇◇◇◇◇



「さあ、乾杯だ」


小栗邸ではささやかな宴が繰り広げられていた。むろん主役は”東郷仲五郎”である。


「ありがとうございます。助けていただいた上に、こんなご馳走まで」


東郷は礼儀正しく頭を下げた。

すっかり回復した東郷は、その日の内に退院し小栗の誘いのままに屋敷へやって来たのだ。ちなみに鈴木君は懐かしい友を堪能するかのごとく頭の上から離れなかった。


「いやいや。良いものを見せてもらってこちらの方が感謝だよ」

「「良いもの?」」


怜と東郷は同時に声を発した。


「いやあ若いって素晴らしいね!うふふ」

「……東郷君。この人ちょっとコレやねん」


怜は頭の横で人差し指をくるくると回した。


「照れなくてもいいんだよ。今の世の中、男同士の色恋など珍しくもない。ただ私は他人の口付けなど初めて見たものだから……ふふ」

「口付け!?」


東郷はギョッと目を見開いて怜を見た。


「……んーと、あの時は仕方なく……いや、口付けちゃうから。あれは……」



しかし、誰も話など聞いてなかった。

東郷は真っ赤になって固まってしまい、小栗にいたっては座布団を抱き締め、自分が飛び込んだ辺りからの再現劇を始める。


「ーーーでね?……少年はパタリ!すると小さな少年が血相変えてやってくると、ブチュウゥウウゥ!」

「ま、誠ですか!?」

「嘘などつかないよ!私はこの目で見たんだから。最初は誰かが泳いでると思ったんだ。ところが様子がおかしい。それで私は」



怜はそっと襖を閉めた。


「全く!私の苦労も知らんと……」


だがいくら人口呼吸と言えど、怜にとっては初めてのキスである。


「レモンの味っちゅうんは嘘やね」



怜のファーストキスは”川魚”の味であった。



それにしてもよくよく考えたら、海軍大将にもなろうお方が川で溺れるとは何事かと、怜は少しずつ怒りが湧いてきた。


「まさか泳がれへんのちゃうやろな」


天下の東郷平八郎が実はカナヅチでした。などという史実は聞いたことがない。川で遊ぶにはもう時季外れであるし、何故あんなところで溺れたのか甚だ疑問だった。


「怜。入っていい?」


悶々と考えあぐねていると、ちょうど東郷の声がしてスッと襖が開いた。


「あ、あのさ……」

「東郷君」

「は、はい?」

「ちょっとここに座り」

「う、ん」


東郷はそろそろと前に座ると挙動不振に目を泳がせた。


「なんであんなとこで溺れとったん?海軍の上に立つ人物の行動にしては軽率やと思うんやけど」

「海軍?」

「あ、いや、あの、そやから薩摩海軍に配属されるかもしれんのに、っていう意味や」


東郷はフッと笑みを浮かべた。


「泳げないわけじゃないんだ。あの辺りで休んでたら足を滑らせて落ちちゃって」

「意外と鈍臭いんやね」


少々呆れ気味に言うと東郷は怜の手を握った。


「ずうっと探してたんだよ?長州の奴らに囚われたのかと気が気じゃなかったんだ」

「長州…?」


怜は自分が薩摩の人間に張られていたことにようやく気付いた。ともあれ鈴木君がそれに気付かないわけが無いから、こうして知らぬふりでいるのを見ればさほど重要ではないのだろう。


「顔。綺麗になったね」

「痣?うん。すっかり。……いや、そんなことはどうでもええねん。ほんで?私に何か用事でもあったん?」

「用事というか、護衛だよ」

「……護衛?」


怜は目をパチクリさせた。


「護衛って、……命でも狙われとるん?」

「そういう意味じゃなくて。いやそうなる可能性も捨て切れないし、……つまり怜がタコなんて焼いて食べたりするから……ぶつぶつ」


怜は「ははーん」と腕を組んで頷いた。


「小松君の差し金やな」

「小松さんは心配してるんだ。前に言われただろ?覚えてる?」


東郷の言葉にふと何かが舞い降りたような感覚に囚われた。小松の真剣な表情が脳裏に浮かび、また父や兄の顔もそこにある。



『何事も見据える目を持つのは悪いことではないが、世間を侮ってはいけない。弱い人間ほど他者を恐れ、亡き者にしようとするんだ。敵を作っては世の中は渡れないんだよ』



簡単なようで厳しい教訓。

一生つきまとうであろう重い言葉だった。


「うん……わかっとる」


これは誰との戦いでもない。自分との戦いなのだ。頭で理解出来ているからこそ、また難しいのである。


「もし怜を狙う奴らが他にもいたら危険に晒されるのは怜だけじゃないんだ」

「え…?」


ドクンッと心臓が音を立てた。


そうだ……

何故思い及ばなかったのだろう。

自分だけなら良い。だがもし京にいる家族が狙われたら、もし自分を恨む誰かに殺されたら……


怜は浅はかな自分に言葉を失った。


「家族…」


驚いたのは東郷である。

またいつものように生意気に言い返してくるのかと思ったら、全く逆の反応を見せたからだ。


「れ、怜……」

「……っ…」


ポロポロと零れ落ちる大粒の涙は、降り止まぬ雨のように小さな五歳の少女の心さえも濡らしていった。


「怜...」


自分にとって何が一番大切なのか、それはこの日本でも西瓜でも金でもなく、家族なのである。


自分のせいで何かあったとしたら。

想像しただけで全身が震えてしまう。

脳裏に浮かぶ家族の顔。その笑顔を一生見ることが出来ないなど怜には考えられなかった。



「怜、泣かないで」


東郷は怜を抱き締め、ヨシヨシと頭を撫でた。


「東郷、……君……ズビッ……」

「ん?」

「わ、私のお母ちゃんな……グス…」

「うん」


怜は頭を上げた。


「めっさ強いねん」

「……!」

「やられたら350倍にして返す人なんよ」

「そ、そうなんだ……」

「前なんか、髪結い料ぼったくられたことに腹立てて、その糞ジジイ丸坊主にしてん」


東郷はゾッとした。


「……でもさ」

「うん。わかっとる」


怜はゴシゴシと涙を拭いた。


「あんまり調子に乗らんようにする」


東郷は怜が理解をしてくれたと安堵し、ホッと息をついた。東郷とて何も意地悪で言ったわけではない。これは小松からの忠告であると共に、怜の身を案じてのことである。


「しばらく一緒におってくれるんやろ?」

「あ、うん。さっき小栗様に頼んだら二つ返事で了解してくれたんだ」

「そう。ほんなら安心や」


にこりと微笑む怜に東郷は嬉しくなった。

自分は必要とされていると思ったのだ。


「東郷君がおってくれたら怖いもん無しや」

「そ、そう?」


だが彼は怜の思惑に全く気づかなかった。

この少女を普通の五歳児だと思ってはならない。

思ってはならないのだ!


「ところで、お金持ってる?」

「え……?」

   


◇◇◇◇◇◇◇



小栗はご機嫌であった。


優秀な小姓がやってきたのだ。無理もない。

朝起きて庭へ出ると既に一汗掻いた少年が姿勢正しく素振りをしており、小栗に気付くなりその場で正座し「先生、おはようございます」と一礼した。


「おはよ…う……」

「どうなされたのですか!?」

「目にゴミが…」

「お待ちを。桶に水を用意致します」


忍者のごとくササッと消えた東郷。

小栗は満面の笑みでそれを見て、庭に面した怜の部屋に視線を移した。


「まだ寝ているのか?」


ガラリと板戸を開けると、怜は高いびきで爆睡している。隣りの鈴木君も同様だ。


「一度ならず二度までも……」


小栗はスウーと息を吸った。


「曲者が来たァァァアァ!!」


静寂な朝に響く男の怒声。

使用人は「いつものこと」で慣れきっているが、怜達には初めてのことである。



「オラァァァア!!命知らずのアホはどこじゃい!!出てこい!!」

「ギョォォオォォオォ!」

「曲者は僕が成敗する!!」



小栗は木の陰にそっと隠れた。


※ホレーショ・ネルソン(1758~1805年)

アメリカ独立戦争などで活躍したイギリス海軍提督。有名なトラファルガー海戦でも、フランス・スペイン連合艦隊を破って勝利。イギリス最大の英雄。

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