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幕末スイカガール  作者: 空良えふ
第一章
43/139

043




「お前を手放すのは惜しいからのう。柴田とは話がついているから問題ない」

「問題ないどころか大有りです!」


もとより当初から決まっていたはずだ。

小姓の役目は一時的なもので、その後は再び元へ戻る予定だと。


「本来ならば大坂に連れて行きたいところだが」

「それはもっと無理です!」

「うむ。石川から打診があったのだ。ならば小栗殿に預かっていただいた方が儂も安心出来る」

「全く私は運が良いようです」

「近頃の若い者は忍耐を知らぬ。その点”コレ”はなかなか気がつく性分でして、きっと貴殿のお役に立てるかと思いますぞ」


つまり算学教授の石川は小栗とも懇意にしており、その会話の中で怜の話題になったようだ。小栗はちょうど小姓を探していて、逆に一翁は怜の預け先を探していた。よって互いの思惑が一致した形である。


「良いな?怜」


突然の話に怜は考え込んだ。


むろんここまで来てまさか大坂に戻るわけにはいかなかった。久坂の元へ逃げ出す選択肢もあったが、小栗の小姓となれば、幕政に関わる情報は一翁よりむしろ小栗の方が収集し易いかもしれない。


「くっくっく……」


怜はイヤラシイ顔付きで含み笑いをした。


「…大久保殿。やはり今の話は無かったことに」

「さて準備をせねば。では失礼致す」


バンピシャリ


「大久保殿ォォオ!!」



名実ともに怜は「小栗忠順」の小姓となったのであった。




◇◇◇◇◇◇◇



長州藩上屋敷



「くっくっく……」


そしてもう一人、含み笑いをする男がいた。


【小栗忠順の小姓になりました。大久保の元で働いた日当はいつ貰えますか?出来れば早急に欲しいです。後藤怜】



「おい高杉!久坂が笑ってるぞ!雪が降るんじゃないか!?」

「……落ち着けよ桂さん」

「いやいやこうしてはおれん!今すぐ火鉢を用意せねば!!」


久坂は二人に気付くと、ひらひらと文を振って見せた。(頭の上には鈴木君)


「怜からの文だ」


高杉は文をぶん取るとニヤリと口角を上げる。


「小栗忠順か。相手に不足はないな」

「さすがは私の小姓。仕事が速い」

「この前までアホアホ言ってなかったっけ?」

「気のせいだ」

「キョキョ」

「おお。そうだ。ミミズの時刻だったな。よしよしスーちゃん。今日は沢山採ってやろう」

「「スーちゃん!!?」」


久坂はミミズの隠れ木へと向かう。今にもスキップしそうなほど喜びに溢れた足取りであった。



「しかしあれだな。女にしとくのは勿体ねーな」

「うむ。男であれば養子に欲しいところだ」

「だったら誰かと結婚させるか」

「例えば誰とだ」

「市とか」

「山田か。あいつは十七だったな。一回り違いか。まあ悪くはない」

「桂さんも独身だよね」

「勘弁してくれっーーーならお前が怜と結婚しろ!」

「新婚だから無理。だったら吉田でいいんじゃない?」

「吉田と怜か……」


二人は妄想してみる。

瞬時に浮かんだのは吉田と怜が接吻するところであった。


「おぇえ…」

「うっぷ」


失礼な奴らだ。

と、そこへ久坂が真っ青な表情でやって来た。


「い、今の話は誠か……?」

「え?」

「怜が……」

「ああ。冗談冗談。まだ五歳だからな」

「違う!!」


久坂は二人に詰め寄った。


「れ、れ、怜が”女”というのは……」

「あれ?言ってなかったっけ?」


その瞬間、ドォオオオォンという大音響と共に、巨木(久坂)が大の字に倒れる。


「おい!!?久坂!?」

「大丈夫か!??」



久坂玄瑞は、生まれて初めて自分の愚かさを思い知った。小さな女の子を藩の為に利用し、危険な橋を渡らせようとしている現実。


『女の子は弱い生き物だから優しくしないとダメよ?』


亡き母の言葉が響いた。



◇◇◇◇◇◇◇



小栗忠順の屋敷は江戸城北、神田駿河台にあった。屋敷そのものはなかなかの広さで、こちらもまた大久保邸に負けず劣らず質素で、庭の隅々まで行き届いた武家らしい雰囲気である。


「お帰りなさいませ」

「ただいま。紹介するよ。私の新しい小姓だ」

「後藤怜言います。宜しゅう」


小松の屋敷には三人の使用人が住み込みで働いていた。皆四十代から五十代の男女で、先代から続いているという。


「君の部屋は前の小姓が使っていた部屋にしよう」


長い廊下を小走りで追いかけていると、ふと気付いたのは幾枚もの紙が壁に貼られていることだ。怜は思わず立ち止まってマジマジとそれを見た。


「ああ、それはね。江戸における犯罪人の似顔絵だよ。毎日見ていると自然に頭に入っていくんだ」

「……仕事熱心なんですね」

「バッタリ遭遇することもあり得るからね」

「この女の人も犯罪人ですか?」

「ああ。それは妻だよ」

「!!」


「妻の顔覚えとらんのか!?」と怜は思った。が口に出すことはしない。何故なら小栗が寂しそうな表情を見せたからである。


「今夜はゆっくり休みなさい」

「あの、奥様に挨拶せんでええんですか?」

「……妻は実家に帰っているんだ」

「あー、やっぱり」

「どういう意味かな?」

「いえ何も。では失礼します」

「あ、これを」


小栗は懐から紙を取り出し、怜に渡した。


「目を通しといてくれ。ではおやすみ」


廊下の奥に消えていく後ろ姿を眺めた後、充てがわれた部屋へ入った。庭に面した六畳ほどの部屋である。怜は空のリュックを放り投げ、ゴロリと横になった。


急遽決まった引っ越し(?)にほとほと疲れ果てていたのだ。


「くしゅん……良からぬ噂をしとるな…長州か薩摩か……おそらく………長州や」


外はもう真っ暗でヒヤリとした風が吹き抜けている。庭先からやって来た鈴木君は、怜の傍にピタリと横付けし目を瞑った。


「先行きが不安で仕方ないんやけど」

「キョキョ」


怜は翻弄されていく我が身を省みた。

「急がば回れ」と言うが急ぎ過ぎて全て空回りしているように感じているのである。自分がこれからどうなるか予想出来ないのは自分自身の問題であり、この展開を打破するには起きる全ての物事に立ち向かっていかねばならないのだ。


「あ、そうや」


懐から取り出した一枚の紙。きちんと四つ折りされたそれを広げた。先ほど手渡された小栗家の規則である。


「字ちっさ!!」


米粒並みの細かい字は読む気が失せる。ぐしゃぐしゃと丸めると庭にぶん投げた。


「規則は破る為にあるって坂本君が言っとったな」


そんなことは一言も言ってはいない。


「さあ寝よ。明日から早起きせなあかんし」

「キョキョ」


怜は明日に備え、早々と就寝することにした。



◇◇◇◇◇◇◇



次の朝。何やら庭の方から聞こえる人の声に起こされた。怜はもそもそと布団から這い出ると雨戸を開け、外を覗いた。


「こら!初日から寝坊とは何事か!」

「ヒギッ」


竹刀が怜の頭を打った。


「いたた……」

「昨日渡した紙に書いてあっただろう。五時起床!早く着替えて朝餉を頂きなさい。準備が出来たら出発だ」

「は、はぁい」


怜は急いで着替えて布団を片付けた。

手水場で顔を洗い台所へ向かうとちょうど前の部屋から使用人が顔を出す。


「用意が出来ていますよ。こちらでどうぞ」

「おおきに」



そして怜の長い一日が始まったのである。


「まさかの”歩き”で?」

「足腰を鍛えるには”歩く”に限る」

「命が狙われる可能性は…」

「無いことはない。だがそれは駕籠を利用しても変わらないよ」


確かにそうだ。あの桜田門外の変において井伊直弼は駕籠に乗っていて襲撃を受けたのだ。寧ろ逃げ道のない分、危険なのかもしれない。


「ほら見てごらん」


南町奉行所は今の有楽町にあり、北町奉行所はその手前、東京駅八重洲北口付近にある。


「あれが北町奉行所だ」


しかし怜は悠長に見物する余裕などなかった。何故なら小栗の荷物は半端なく重く、ついていくの精一杯なのだ。


「一体何をこんなに…」

「本だよ。貴重な本だから落とさないようにね」

「お、小栗先生も半分持っ…て下さ…い」

「いやだ」

「なんで…」

「重たいから」

「!」


我儘な男である。

怜は僅かばかりの殺意を覚えつつ、仕方なく肩に荷物を背負うと一歩一歩踏み締めるように歩いた。


しばらく川沿いを南へ向けて歩いていたが、小栗がまたも立ち止まった。


「おや?見てごらん」

「嫌や!」


敬語すら使うのも忘れ、怜はきっぱり拒否すると立ち止まる小栗を追い越して先へ進む。むろん悪態をつくのも忘れなかった。


「ほんまに何やアイツ。Sか!究極のどSか!」


ところが数歩歩いた矢先、前を過ぎ行く人々が立ち止まっているのに気付いた。見れば川の方を注目している。最初は珍しい川船でも現れたのかと思ったが、それはすぐに否定された。


「見て!子どもが!!」

「溺れてるぞ!!」

「誰か!!役人を呼んで来い!」


即座に荷物を降ろした怜は川縁の木柵に手をかけた。ちょうど川の中央付近に子どもの手が見える。顔は浮いたり沈んだりでまともに見ることは出来なかった。


数人が柵を乗り越えて行くのを見て、怜もまた下からくぐり抜ける。膝まで伸びた草が朝露に濡れ思いのほか足を取られたが、転びそうになりながらも川岸まで駆け寄った。


「これに掴まれ!」


隣りにいた町人らしき男が子どもに向けて縄を投げる。しかしその縄は数メートル手前で着水し子どもには届かなかった。


「頑張れ!」

「役人はまだか!」

「アホ!役人なんか待っとる場合ちゃうわ!泳げる奴おらんの!?」


怜は思わず叫んだ。


「俺ァ根っからのカナヅチで」

「ワシも……」

「ええい!!退け!」


怜は男を押し退け草履を脱いだ。

とその時、少し離れた場所から誰かが川へ飛び込んだ。


「小栗先生!?」


目を見張る光景であった。およそエリートとは掛け離れた行動である。大体役人というものは上であればあるほど下に命令するのが当たり前だ。まさか小栗のような立場の人間が自ら飛び込むとは露ほどにも思わなかったのだ。


ぐんぐんと子どもに近付いた小栗は、沈みかけた身体をしっかり掴むと、こちらへ向かって「縄を投げろ!」と命じる。それを受けて、男達は力を合わせて放り投げた。


「引っ張れ!」


怜は男達と共に綱引きのように縄を引っ張る。いつの間にか人が集まり、皆で力を合わせて一斉に引き寄せた。


たった子どもと大人の二人であるのに、川の流れと水を含んだ重量の所為で随分重く感じる。それでも皆それぞれ必死で縄を手繰り寄せ、ようやく二人は岸に辿り着いた。


怜は肩で息をする小栗に駆け寄った。


「先生!大丈夫ですか!?」

「わ、私は大丈夫……それより」


と、小栗が言葉を切ると共に、一人の男がぽつりと呟いた。


「駄目だ……息をしてねえ」

「……なんてこった」


ざわりと空気が一変する。

助かったと皆が安堵したのも束の間だった。


怜は振り返ってその子どもを見た。

背格好は”子ども”というより”少年”

髪は短め、全身はびしょ濡れであったが、小袖と袴を着用しており肩がけの小刀を所持していた。


身なりはそう悪くないが……と、ここまで分析した時、鈴木君が「キョオォオオ」と高らかに鳴いて、少年の上を旋回し、同時に怜の心臓が早鐘のように脈打った。



「東郷…君…?」


走馬灯のように流れる、ほんのひとときの旅路である。忘れるはずがない。


「嘘や……」


怜はヨタヨタと彼に近付いて、がくりと膝を付いた。


「知り合いか?」


小栗の言葉すら怜には届かない。



「そん…なわけない…だって、まだ時期じゃないもん……」


怜は合わせ襟を開いた。胸元に耳を当て微かな鼓動を確認する。そして胸と胸の間に指を交互に組んだ両手を置き、肘を真っ直ぐ伸ばして体重をかけた。


「おい!仏さんに何をしてやがる!」

「まだ心臓は動いとる!」


何度も何度も強く。垂直に力を加えるように圧迫を繰り返していく。次に顔を上向きにして気道確保し、吹き込む息が漏れないよう鼻を摘んだ。


覆うように唇を密着させ、息を吹き込むと胸がゆっくり上がっていく。一旦口を離したら、自然と息が吐き出され、そうしてまた吹き込みを繰り返した。


前の世で社会勉強の一貫として人形相手にこの手の訓練をしたことがあったが、本物の人間に施すのは初めてだ。実際合っているかどうかもわからない。


ただ、東郷を死なせることは何としてもあってはならないのだと……


怜は初めて神様に祈った。


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