042
怜は三角座りでうたた寝をしていた。
一翁と客人の話が思いのほか長く、本来なら聞き耳を立たなければいけないところだが睡魔には勝てなかったのだ。
「キョーキョー」
「はっ....」
「キョキョ」
「あ!そうや忘れとった!」
今日は久坂らに文を出さなければならない日だったのだ。すっかり忘れていた怜は懐から紙を出した。特に機密的な情報も無いが、とりあえず二日に一度は送り続けなければ金はもらえない。
「んー...なんて書こーかなー」
「キョキョキョキョ」
「おおーそうやな。そうしよ。鈴木君は天才やね」
「キョ」
早速部屋に戻ろうと腰を浮かせた怜だったが、襖の向こうから一翁の声がした。
「怜、入りなさい」
「え、でも」
「お前も此度の事件の功労者だ。遠慮することはない」
「はぁ」
近頃一翁は何かと怜を話に参加させる。"間者”としての役回りを考えれば逆に有難いのだが「意見」を求められるのは非常に迷惑極まりない。
「して、お前はどう考える」
一翁はいつものように目を細めて言った。
「わかりません」
先日の阿片の売人は、やはり植松屋の女主人が犯人であり、そこから芋づる式に数十名の男女が捕縛された。その中には”清”(中国)の者も含まれており、曰く長崎の英国商人から買ったものだと主張しているという。国家的な犯罪とは言えずとも、長崎を中心に闇取引が蔓延しているのは事実であり、阿片中毒に陥る遊女や町人も増加しているというのだ。
「西洋の奴らは、清のように我々日本人をも潰そうと考えているとの見方でございます。江戸まで入り込んでいるということは、上方の方も既に……」
”京”というキーワードに怜はピクリと反応した。あの地には家族は元より友達も沢山いる。特に祇園や島原の芸妓や遊女らとは仲が良かった。
「どうした怜」
「いえ何も」
怜は顔を上げて真っ直ぐ一翁を見た。
「その割に厳しい顔だが…」
眉根を寄せ固く口を結んだ怜の顔はいかにも何か”重要な事”を言いたいような、でも言ってはならないような複雑な面持ちに見える。
「怜」
しかし残念ながら”それ”が原因ではなかった。
「ほ、ほんまに何もな…い……です」
もぞもぞと腰を浮かせる怜。
実は”正座”が苦手なのだ。
今の足の状態はまさに”究極の痺れ”から”何ともこそばゆい感じ”に変化を遂げようとしている。
それを彼らに気取られてはならない。
気取られてはならないのだ!
「そろそろ帰らねば…」
そして人は、こんな時に限って最悪の状況に陥るのである。
「お待ちください!!」
「は?」
「ま、まだいいやないですか!ゆっくりしていってくださ…っぐ…」
一翁はニヤリとした。
「やはり何か言いたいことがあるのだな?」
「違い…ま… ……ッす…」
「ならばやはり帰ろう」
「お…待ちを……!」
「いやいや。某にも用があって」
「そんな殺生な!」
「ちょっ…は、離してくれないだろうか」
怜は手だけを伸ばし、男の袴の裾を握った。
「いやや!離せへん!」
「な、なんなのだ一体…」
「怜、離さぬか」
「今離したらもう死ぬッ絶対死ぬッ」
「やめてくれぇ!」
「これ怜!」
「ふぎぃいいぃいぃ!!」
一翁に足を踏まれた怜。(※わざとではない)
その拍子に男の袴が引き裂かれ、見事なまでの真っ赤な褌が怜の眼前に迫る。それを寸前で避けたのは良かったが、代わりに一翁が犠牲となった。
◇◇◇◇◇◇◇
長州藩上屋敷
【しばらく飯抜きだそうです…… 後藤怜】
「……アホなのだろうか」
「まあまあ。大方悪巧みでもして下手こいたんだろ。ほら、もう一枚あるぞ。見てみろ」
【極秘情報・大久保先生の好物はさわらの塩焼きです。】
「.........」
久坂はグシャリと文を握り潰す。
二人は思った。怜に間者は不向きであると。
「何処へ行くんだ?」
「ミミズ取りに決まっているだろう!」
「あー…」
久坂の頭の上には鈴木君。
すっかり懐いたようである。たまに何やら話をしているところを見れば久坂が夜鷹語を習得したのは言うまでもない。
◇◇◇◇◇◇◇
「鈴木君はええなぁ」
「キョ?」
「翼があるもん……自由に何処でも行けるやろ?」
「キョキョ」
怜はぼんやり縁側に座り込んで、空を見上げた。
茜色の空は遠い故郷を思い出す。
善治郎と手を繋いで散歩をしたことも、ハツと朱美と新しい着物を買いに出かけたことも、ほんの数ヶ月前のことなのに遠い過去のようである。
「会いたいなぁ…」
ずっと無我夢中だった。
それこそ”西瓜”ばかり追い求めてきた怜に初めて寂しさが込み上げた。
「文でも書こかな……」
おそらく肥後へ一人で行ってしまったことを、三男から伝え聞いているはずである。善治郎の心配気な表情が浮かんでチクリと胸が痛んだ。
「でもお金無いし…」
今の怜には飛脚代の三十文(普通郵便代)すら持ち合わせていない。よくよく考えたら「あの男」に出会ってからろくなことが無かった。
「おのれ……吉田め…」
”寂しさ”はいつしか”怒り”に変わる。
まるで過ぎ行く季節のようだ。
とその時、ジャリっと土を踏む音で振り返った。
そこには一人の男。
見た目は真面目そうで気が弱そうなクラスでも目立たないグループに必ずいるタイプである。しかしその眼差しはインテリジェンスな雰囲気が感じられた。
「百面相みたいだね」
怜は全く気配に気付かなかったことに驚いた。
それは鈴木君も同じである。
「大久保殿の息子さんかな?」
怜は否定も肯定もせず聞き返した。
「どちら様ですか?」
「これは失礼。私は小栗と申します」
怜はその名にドキッと胸が高鳴った。
「小栗……様…」
言わずと知れた英傑。小栗上野介忠順である。
(この人が小栗忠順……)
にっこり微笑んだ表情に物腰の柔らかさを感じる。怜はぽかんと口を開けたまましばらく動けなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
小栗忠順は三十四歳。
小栗家は江戸開府より徳川家に使えた幕臣で、言わばエリート中のエリートである。だがその生き様はあまりに悲劇で時代は彼に追いついてはこれなかったのだろう。
「急な申し出にさぞ驚かれたことでしょう」
「いやいや。こちらとしても都合が良いので」
「大坂へ行かれるとか?」
「ええ。引き継ぎの件で」
「なるほど」
「しかしわざわざこちらにお越し下さらなくとも、こちらから参ったものを」
「いえ。ちょうど近くに用があったものですから」
小栗は柔和な笑みを浮かべた。
「石川殿から聞きまして大変興味深い童だとか」
「そういえば貴方も算学が得意でしたな」
「”下手の横好き”というものですよ」
この二人は「開国派」という点で共通している。しかし互いに幕臣でありながら志しは共通とは言えない。徳川存続を第一に考える二人だが、一翁が穏健派に対し小栗は徳川絶対主義の強硬派と言えた。
そしてこれこそがまさに、二人の命運を分けることになるのだ。
「怜、入りなさい」
廊下で待機していた怜は「はぁ…」と溜め息をついて襖を開けた。
「おや?この子は……さっきの」
「”小姓”の後藤怜言います。宜しゅう」
小栗は「え!?」と一瞬身を反らし、上から下まで舐めるように視線を動かす。
「……てっきり大久保殿のご子息かと」
「うちの倅は、怜に比べればまだまだ赤子のようなもの」
「ほう。大久保殿にそのように言わしめるとは」
怜は顔を畳に擦り付けるほど平伏した。
「先生は誤解しとるだけです」
「謙遜しなくても良いのだよ。かの菅原道真公も幼少期より”神童”と称され、今では学問の神として名高いお方だ。やはり天賦の才というものはあるのだろうな」
「私は違います!そんなもんありません!」
怜は即座に否定した。
「わ、我が家は一歳になったら寺子屋へ強制的に入れられるんです!そやから生まれ持ったわけやなくて、刻苦勉励したから少しばかり知っとるだけで…」
怜は言葉を切った。
何故なら二人とも感心したように目を瞬かせているからだ。
「そんな難しい言葉を知っているなんて…」
「エェエェエ!!そこォ!?」
「いやいや。素晴らしい」
「ところで君の算学は西洋式のものらしいと聞いたのだが」
「ま、まあ…その」
怜は口籠もった。
小栗忠順という男は話し方は丁寧ではあるが、自信に溢れた物言いと鋭い目付きが小松とはまた違った「何か」を持っている。下手に言葉を滑らせて関心を持たせることだけは避けたかったが、実のところ怜はこの男に多少の興味を持っていた。
その怜の興味とはあの有名な”金銀比価問題”である。日米修好通商条約終結後、日本の金が海外に流出したことで彼を含む遣米使節団はアメリカへ渡り、為替レート改正に奔走する。
事の起こりは、初代アメリカ領事ハリスが幕府との間に「同種同量交換」を強引に認めさせたことから始まる。メキシコドル銀貨一個は、その重量と同じ日本の一分銀貨三個と交換するというものである。(※以下参照)
※同価値
1メキシコドル銀貨(約24グラム×1個)
1分銀貨(約8、5グラム×3個).
日本国内における一分銀貨は4個で1両小判1枚となる。例えば1メキシコドル銀貨4個を換金すると一分銀貨12個が手に入る。それを更に一両小判に両替すれば、3枚の1両小判が手に入る。これを再び海外に持っていけば、1両小判は4ドルの価値に相当するので、12ドルになるということなのだ。
つまり持ち込んだ4ドルが日本で換金するだけで、12ドルになるという仕組みであった。
「私はね、西洋のことをもっと知りたい。彼らは我々の先を歩んでいる。それに追い付くことが富国強兵の第一歩と考えているんだよ」
「仰る通り。儂も同じ意見だ。あちらからすれば今日の日本など小さな雀に過ぎぬ。ひとたび刃を交えようものなら、瞬く間に圧し潰されるのは必須であろう」
「誠に。攘夷攘夷と叫ぶもそれは世を知らぬからだ。敵国であろうと、学ぶべきものは学び、吸収し、より強大な国を創り上げる。それこそ人々が幸せに生きる道だと私は思っている」
一翁は深く頷いて同意を示した。
「例の渡米の際には、あちらの様々な施設を見学したと”勝”も申しておりましたが」
(そう言えば勝海舟も護衛艦(咸臨丸)でアメリカに渡ったんやったっけ……)
「海軍校なるものを見学したようで甚だ圧倒されたと」
「そうでしょうとも」
「あ、あの!」
怜は身を乗り出した。
歴史的な物事に置ける疑問に怜の探究心を排除することは不可能である。もちろんそれが失礼極まりない質問だと承知していてもーーーー
「その渡米に”意味”はあったんですか?」
ギョッとしたのは一翁であった。
相手は幕臣中の幕臣である。今は亡き井伊直弼からも相当目をかけられていた有能な男。その人物に対する言葉としてはあまりにして失言であり、到底許容出来る範囲ではなかった。
「怜、下がりなさい」
一翁は怜を睨みつけた。
むろんそれは怜を守る他の理由はない。下手をすればたった今ここで斬られても文句は言えない立場であるからだ。
「……いや、待って下さい」
だが、小栗は予想外の反応を見せた。
「しかし…」
「訳もわからず発言したとは思えません。そう言うからには何か”考え”があってのことでしょう」
小栗は特に怒った様子もなく、怜に向き直った。
「君は意味が無いと思っているのか?」
「いえ意味は無きにしも非ず。といったところです。結局のところ、これはアメリカと日本の問題や無く、国内問題やないかと思ったまでです」
怜は立場など忘れ、また一翁の心配など気にも止めず自分の思ったことを正直に発言したのだがーーー
「……面白いねえ」
その一言に小松を思い出した。
「気に入った」
「…え?」
キョトンとする怜に対し、にこやかな笑みを向けた小栗は勢いよく立ち上がった。
「大久保殿。やはりこの子どもは私が預かることにいたしましょう」
「おお。それは有難いお言葉」
数秒後。番町一帯に、怜の雄叫びがこだました。




