041
「よっしゃあ!!」
怜は拳を高く突き上げた。
孫六は盆の上に乗せた味噌田楽を客に手渡す。
「クッソ!また負けた!」
「残念だったなあ」
「味噌ばっか食ってたら喉がカラカラだ!酒くれ!」
「へい毎度」
怜は宣言通り負け知らずだった。
この勝負の「穴」に誰も気付く者すらいない。それは一合の酒を賭けるというよりも「この子どもに勝つ」という執念だけが存在している。
甚兵衛の持ってきた空樽はあっという間にいっぱいになり、代わりに孫六の店の酒樽が空になる。そうすると味噌田楽が間に合わなくなり、店総出の作業となった。
「なあ孫六、考えたんだけどよ」
「おい甚兵衛。のんびり飲んでる場合かよ。ちっとは手伝え」
甚兵衛は懐から絵草紙を取り出した。
「もしかしたら、あの坊主……」
「あ?それ今流行りの”地獄小童子”だろ」
「ああ。もしかしたらコレってあの坊主じゃないか?」
孫六はギョッとして、怜とそれを見比べた。
むろん似ても似つかないので絵だけで判断はつかない。しかしそこに書かれた説明書きを見れば甚兵衛の言うことも納得出来た。
【年の功五つ六つ。その姿、あどけない童のよう也。しかし一度火が点けば、忽ち鬼神の如く】
「確かに……」
「絶対そうだ。あんな坊主他にはいねえよ」
二人は顔を見合わせ、同時に怜を見た。
「そこの二人!サボらんと働きや!」
「はいぃ!!!」
そうして一刻半が過ぎた頃、怜の思惑通り五つの空樽は全て満杯になった。名残惜しむ客は多数いたが酒宴の時刻が迫っている。さっさと片付けて食材を入手しなければならないのだ。
「また来てくれよな!次は負けねえから」
「うん!」
「久しぶりに楽しかったぜ!」
「おおきにー!」
文銭が入った木箱をずるずると押しながら、怜は二人の元へやって来た。
「さあ勘定しよか」
「……だいぶ儲けたよなぁ」
総売り上げは15両。
その内11両を孫六に渡す。十両は酒代で一両は味噌田楽(一本二文)の代金である。そして残り四両が怜の手元に残った。
「あの酒樽は全部甚兵衛君のもんな」
怜は空いた酒樽五つと満杯の酒樽五つ、計十個を指差した。
「アレが空くまでは渡されへんけどな。とりあえず甚兵衛君にも一両」
「ええ!?俺にも?」
「アレ運ぶの手伝ってもらわなあかんし」
「どこへ運ぶんだ?」
「番町や」
「ば、番町…」
二人は顔を見合わせた。
「今日酒宴があるんよ」
「それで酒が必要だったのか」
「うちの主人ドケチやねん。最悪やろ?三百文で何とかしやがれ言うて無茶なこと言うんよ。アレは鬼や」
「そりゃ厳しいよな」
「そやけど可哀相な人やねん。身分は高いのに貧乏なんや。悪く思わんといてな?」
怜は上げ下げを忘れない。
人を貶める発言の張本人でありながら「私って優しいやろ?」と自己アピールするという鬼畜極まりない所業。そしてその策にまんまと騙される二人。
「俺も手伝ってやるぜ!」
「ほんま!?」
「酒宴となりゃ酒だけじゃあ足りねえだろ?」
「そうやねん。でも三百文しかないし…」
忘れてはならない。
今、怜の手元には三両あるのだ。
それを持ってすれば今日の酒宴は大成功になるはずである。
「味噌田楽150本分か……客は何人だ?」
「30人や」
「だけどよ、田楽だけじゃ飽きるだろ」
「そうやねん。図々しいヤツらの集まりやけど、だから言うてもてなさんわけにはいかんし」
甚兵衛は憤慨した。
「こんな小さな子どもに苦労させやがるとは」
「全くだぜ!」
ニヤリとほくそ笑む怜。
宙に浮いた”三両”が、怜の懐へと収まったことに二人は気付かなかった。
と、その時であった。
「あの、すみません」
三人が振り返るとそこには十人ほどの男女が怯えた表情で立っている。
「あれ?八百吉のオッサンや。八百竹のジジィも」
それは神田の市場で立ち寄った店の店主らであった。
「知り合いか?」
「知り合いってわけちゃうけど」
◇◇◇◇◇◇◇
「旦那様、客人が参られました」
「……時間には早いが」
「いえ、奉行所の方が…」
「奉行所?」
「はい。部屋にお通ししております」
「そうか」
一翁は怜に何か良からぬ事が起きたのかと一瞬考えたが、それは直ぐに打ち消された。
「帰ってきたようだ。しかし何やら騒がしいな」
屋敷の外から大きな音や人の声がしている。
その中に「ただいま帰りました!!」という怜の威勢の良い大声が聞こえたのだ。
一翁は客人の待つ部屋を素通りし、足早に廊下を歩く。途中急ぎ足でこちらへ向かってくるもう一人の使用人に出くわした。
「旦那様!怜さんが……た、大変なことを」
「怜が?」
やはり一人で行かせるべきではなかったと半ば後悔しつつ使用人を押し退けて廊下を曲がると、一翁は即座に足を止めた。
「な、なんだこれは…」
間口の前には酒樽が五つ。その横に大量の野菜や魚が山積みされている。それだけではない。庭先に幾つかの屋台が並び、十数人の男たちが何やら作業をしているのだ。
「あ、先生。ただいま帰りました」
「うむ…」
「直ぐに酒宴の準備に取り掛かります」
ぺこりと頭を下げた怜は腕まくりをして男たちに紛れていく。一翁は一瞬呆気に取られたものの、無事なら良いと思い、踵を返して客の部屋へと入っていったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇
「全部食べ切られへんね」
「百人以上の食材はあるんじゃねーか?」
「八百屋らに何を言ったんだ?」
「何も言うてないよ?可哀相な子どもを助けてくれただけや」
目の前の大量の野菜や魚などは、怜が調査を行った一部の八百屋(十数軒)からの貢ぎ物であった。
怜の元へ訪れた彼らは、あの物価表を交換条件としてこの貢ぎ物を持ってきたのである。
もちろん怜に不足はない。たかが自分が作った紙切れで大量の野菜が手に入るのだ。
無論彼らの考えることなど手に取るようにわかる怜だったが、それは自分の管轄ではない。深く首を突っ込むことはせず子どもらしく了承すれば、気を良くした彼らは魚や油、醤油なども差し入れしてくれた。
(しかし産地偽装ってこの時代でもあるんやな…)
散々市場を見てきた怜だけに、素人ながらも目利きには自信があった。少々値が張っても”産地”にこだわる消費者はいつの世も存在する。それこそ明日の食事もままらならぬ家庭であれば安い物で済ませるが、”江戸”のような競争率の高い市場では様々な工夫をしなければ生きていくのは難しいのだ。
「さあ、もうあんまり時間がない。あと半刻もすれば客が来るからみんな急いでや!」
怜達は早速準備に取り掛かかったのであった。
◇◇◇◇◇◇◇
「お休みのところ、申し訳ありません」
町方与力の男が二人、丁寧に頭を下げた。
彼らは町奉行の部下組織で江戸市中の行政・司法・警察の役目を任されている少人数部隊である。つまり今でいうところの裁判官及び検察官の権利を持つ”警察署長”といった役職なのだ。(※かの大塩平八郎も同様)
「頭を上げられよ」
過去には京都町奉行(前述)、駿府町奉行、長崎奉行を歴任した一翁だけに、目下彼らは平身低頭だったが一翁の落ち着いた態度にやや安心したようだ。
「復帰したとはいえ落ちぶれたこの身。しかしご先祖に顔向け出来ぬ行いなどしていないつもりだが」
「いえ。けしてそのようなつもりでこちらに参ったわけではございません」
与力達は即座に否定し、またも頭を下げた。
「では、何用か」
「実は、こちらの小姓殿の事でお話させて頂きたく」
「小姓……」
勿論それは怜のことであった。
◇◇◇◇◇◇◇
「怜、来なさい」
一翁は縁側から呼び掛けた。
怜は持っていた伊勢海老を放り投げ、駆け足で一翁の元へ行く。高く飛び上がった伊勢海老は鈴木君が見事にキャッチし屋根の上へ消えてった。
「何ですか?」
「今日新川へ行っただろう」
「はい」
「何をしに行ったのだ?」
「お酒の相場調べに」
怜は袖口から古びた紙束を出し、一翁に手渡した。
「ふむ。……良く出来ている」
「はぁ…そうですか?」
「これを貰っても良いか?」
「はい」
怜の”誹謗中傷表”は与力達にとって喉から手が出るほど必要なものであった。というのも兼ねてより、ある犯罪が横行し、新川辺りにおいてその犯罪人が潜伏しているとの情報があったという。与力達はそれを追っていたのだ。
「お前と話をしたいという者がいる」
「はぁ……」
誰やろ?と怜は首を傾げた。
「奉行所の奴らだ」
「ブッ!??」
怜は真っ青になった。
「どうした?顔色が悪いが」
「あの!!さ、三両は別に騙し取ったわけやなくて!!あ、あれは…自分へのご褒美っちゅうか、その」
怜は背中に背負っていたリュックを下ろし、前に差し出す。一翁はそれを受け取ると中を見て眉根を寄せた。
「……ふむ。まあ来なさい」
(えらいことになってしもた…)
怜は半泣きであった。
思いつきの勝負を考えたのは自分でもつい欲を出してしまったのは否定出来ない。きっと誰かが通報したのだと思った。
「失礼」
音も立てず襖を開けた一翁は俯いたまま動かない怜の背中を押して座るよう目配せする。そして先ほど怜から取り上げた誹謗中傷表を彼らに渡した。
「それはこやつが書き記した新川の調査書だ」
「ま、誠でございますか!?」
二人の目が大きく見開かれ、食い入るようにそれを見つめている。その様子を見た怜は自分を捕まえに来たわけではないと悟った。
「怜。この者達が来た理由を知りたいか?」
「はい」
「”阿片”を知っているだろう?」
その言葉に与力達が口を挟んだ。
「大久保様……子どもにそのような話は」
「大丈夫だ。怜は馬鹿ではない」
一翁はちらりとも見ずに話を続けた。
「近頃江戸市中において阿片を売る輩がいるらしい。その売人が”新川”に潜伏しているとの情報があり、この者達は探しているのだ」
たまたま怜が辺りを徘徊し、何やら書き留めているのを見て目を付けたということである。
怜はホッと息をついた。
「その方に聞きたいのだが、この中に気になった者はいないか?どんな小さな事でも良いのだ」
「そんなん言われても……」
怜はふと”植松屋"を思い出した。
「商売人のくせに商売する気のない”いかず後家”くらいしか」
「いかず…後家……」
「そこに書いてあるでしょ?"植松屋"です」
一翁はククッと笑い「何故そう思う」と問う。
「質は他と変わらんのに相場の倍以上の値段で売ってるからです。競争率の高いお江戸ではそれって悪手でしょ?接客も態度も最悪やし会話も無い。商売人は”口勝負”の世界やのにあんな対応してたら客なんか来るわけない。.....でも不思議な事に客が来るんです」
怜が含み笑いをすると一翁もまたニヤリと口角を上げた。
「それは他に、何か理由があるのかもしれぬな?」
含みのある物言いに与力達は顔を見合わせた。
「”それ”はお前達に譲ろう。国に協力するのが我々の役目だ。良いな?怜」
怜はコクコクと頷く。
二人は安堵の表情で感謝を述べると直ぐ様大久保邸を後にした。
その後、香ばしい匂いと共に酒宴の準備が整った頃、大久保邸にやって来た客人は入るなり皆が皆驚きの声を上げた。
怜が取り仕切った酒宴会場は、屋敷内では無く広い庭である。孫六と甚兵衛の友人達が協力をしてくれたのだ。彼らは天麩羅屋台、寿司屋台、蒲焼屋台など、様々な場所に移動しながら売り歩く商売人だった。これなら屋敷内の台所など必要無く、後片付けもしなくて良いので怜にとって万々歳である。
「おお!これはなんと珍しい!」
「うまそうな匂いだ!」
身分の高い者はこういった形式での酒宴は無縁である。ゆえに一翁のみならず客人達も大いに喜び、酒宴は大成功となったのであった。
しかしただ一人納得いかなかったのは怜本人である。あのリュックに入った三両は、孫六や甚兵衛その友人達に酒宴協力金として全て一翁が渡してしまったのであった。




