004
八軒屋に着いたのは早朝だった。桂に起こされた怜は寝ぼけ眼で船から降り、ぐるりと周囲を見渡した。
「大坂城や。あそこに将軍様がおるん?」
「将軍様は江戸だ。多分留守居しかいないだろうな」
今の将軍は元紀州藩主である十四代家茂公だ。一橋慶喜との後継者争いに勝利し、将軍職に就いた時、僅か十三歳という若さであった。それゆえに政治的権力は無きに等しく、代わりに田安慶頼が後見し、ほとんど将軍としての権力を奮ってはいない。
「おったら会いたかったのに」
「馬鹿言うな。会えるわけがないだろう」
桂は呆れたように苦笑した。
「それより怜。住所はわかるんだろうな?」
「うん。お母ちゃんが文持たせてくれたから」
怜はその文を桂に渡した。
「天神橋の方か。近いな」
「ほんま?」
「ああ。送ろう」
「大丈夫や。人に聞きながら行くから」
怜は文を袖に滑り込ませた。
「そういうわけにはいかない。和尚様に頼まれてるからな」
「ええって!桂君も忙しいやろ?これから色々倒幕の準備もあるやろうし!」
「お、おい」
「短かったけどおおきにな!伊藤君も元気で!」
「えー…」
あれよあれよという間に怜は人混みに消えて行く。桂と伊藤は呆然と見送ることしか出来なかった。
「桂さん」
「、、、何も言うな」
二人の心の嘆きが聞こえるはずも無く、怜は大坂の道を駆け抜けていくのだった。
** * **
(はー……これが大坂か。USJには一回だけ行ったけど)
怜の中学時代の修学旅行先は京都で、その最終日にUSJに行ったことがあった。ただ大阪の街を歩くのは初めてで、従来の好奇心もあり、早く一人になってのんびり探索したかったのだ。
とりあえず三男の家に挨拶して荷物だけ置かせてもらおうと、街行く人に話しかけた。
「すみません。天神橋って何処ですか?」
「天神橋やったらこの道真っ直ぐいって突き当たりを右に折れて、三本目の通りを左に曲がるんや。ほんで直ぐの道を右に入って、柳の木のトコを右に曲がってずっーと真っ直ぐ川沿いを歩いて大坂城が見えたとこが天神橋や」
「おおきに!」
「おう、頑張れよ!チビ」
「余裕のよっちゃん、いかの塩辛や!」
怜は気付いていない。着いた早々、早速大坂人の洗礼を受けたことを。
「な、なんてこった、、、」
大坂城を見上けた怜は感嘆の声を上げた。
言われた通りの道を歩いてきたわけだが、着いた先は元いた場所、八軒屋である。
「さすが大坂人や。めちゃくちゃ教えたようで、わからん時は初心に帰れという思いが込められとる」
怜は感心した。いわゆるポジティブ思考の持ち主なのだ。
「けどやっぱ、送ってもらったら良かったな…」
しかし同時に途方にも暮れていた。
歩き過ぎて足も痛いしお腹も腹ペコだ。
文もいつの間にか落としてしまい、住所も「天神橋」以外わからない。
「いや待てよ、、、」
鴻池の言えば大坂では有名である。
その名前さえ出せば知らない人を探すほうが難しいのではないだろうか。
怜は疲れた身体に鞭打って再び歩き出すと、道行く人に声をかけまくり、ようやく着いた頃には陽はもう真上に位置していた。
◇◇◇◇◇◇◇
「伶!」
「三男兄ちゃん!」
怜は三男の胸の中に飛び込んだ。
鴻池家は三百年以上の歴史をもつ両替商である。
元々は海運業や醸造業から始まり、今の形態になったのはおよそ二年前であった。
現在の当主は、まだ二十歳そこらの十代目鴻池善右衛門”幸富”である。後藤家との付き合いは古く、特に伶の父と今は亡き九代目鴻池善右衛門”幸実”は師弟関係にあった。しかし幸実には男子がいなかった為、幸富を養子に置き十代目を引き継いだのが約十年前のことである。その際、年若い当主の補佐として、後藤家の三男と富実の次女が婚姻関係を結んだという過去があった。
二人との再会は一年振りだった。
「遅かったやないか」
「心配しとったんよ」
「ごめんな。幸子姉ちゃん。文落としてん」
「相変わらずお前は鈍やなぁ。まあええわ、入り」
「ご飯食べるやろ?」
「うん。おおきに。お腹ペコペコやねん」
行動派で白黒はっきりした性格の三男と、おっとりとしたのんびり屋の幸子は、誰が見てもお似合いの夫婦だ。
「それにしてもでっかい屋敷やなあ」
「京の家と変わらんやろ」
「庭面積が違うやん。田んぼが出来る広さや」
「……それよりお前またよからぬこと企んでるやろ」
「な、なんのこと?」
「父さんから文がきたんや」
三男は怜を睨みつけた。隣りの幸子はそれを楽しげに見ている。
「武者修行ってなんや。目的はそれとちゃうやろ」
そう。
「西瓜糖」の件は家族に伝えていない。
というのも、こう見えて怜は慎重派であり、自分の夢が、まだ「夢」の段階に過ぎないことも理解しているし、これからどうなるかもわからない。物事が確定するまではむやみやたらに公言したくはなかったのだ。
「三男兄ちゃんは疑り過ぎや。そんなことばっか言うてたら、そのうちお父ちゃんみたいに頭禿げ散らかすで?」
「くっ…!」
「怜ちゃん言わんといてあげて……この人気にしとるんやから」
と、その時、使用人の一人がやって来た。
「御当主がお見えになられました」
「あら、珍しい」
バンッと襖が開くと、人懐っこい笑みの青年が現れた。十代目鴻池善右衛門”幸富”である。(以下鴻池)
「兄さん姉さん!」
ズカズカと入室し、ドカリと腰を下ろす姿はまさに「当主」の名に相応しい堂々っぷりだ。小柄ではあるが、日焼けした健康な肌と、キリッとした眉は気の強さを感じさせるものだった。
「ようこそおいでくださいました」
「兄さんは相変わらず堅苦しいなぁ」
「どないしたん?ここに来るやなんて珍しい」
「いや、ちょっと面白いもん手に入れたから、、、誰?」
鴻池はようやく怜に気付いた。
「私の妹です」
「”後藤怜”言います。宜しゅう」
いつもとは違い、礼儀正しく三つ指をついてこうべを垂れると、三男は満足そうに頷いた。怜とて馬鹿ではない。三男はあくまで婿養子なのだ。その顔に泥を塗るような真似だけは、けしてしたくなかった。
「へえ。妹はんか。可愛らしい子どもや。俺は鴻池善右衛門や。こちらこそ宜しゅうな」
穏やかに初対面の挨拶を交わした二人であったが、この後、激しいバトルが繰り広げられるのであった。
「何やこれ」
三男の第一声に、鴻池は嬉しそうな顔をした。庭先に置いてあるのは金属の骨組みのような物。この時代ではお目にかかれない代物である。
「”だるま車”っちゅうヤツや」
だるま車とは現代で言う”自転車”である。正式名称はベロシペード(ミショー型)という。自転車の原型そのものは1800年初期からあったらしいが、その頃はまだペダルなど無く、実際には活用し辛いものだったらしい。しかし鴻池が入手した自転車は、ペダルを前輪に取り付けた、今で言う三輪車の構造をもった自転車だった。
「凄いなぁ」
怜は思わず口を開いた。
「そうやろ?なかなか手に入らんシロモンや」
まさかこの時代に自転車があると怜は知らなかったので、ただただ驚いただけの感嘆だったが、気を良くした鴻池は自らそれを跨いだ。
「初試乗や!行くで!」
勢い良く地面を蹴り、グッ前に飛び出す。しかしペダルを踏む前に派手に転んだ。
「当主!!」
駆け寄る若衆と三男。そして心配そうに見つめる幸子。しかし伶はその派手な転び方にケタケタと笑った。
「アホやー!どんくさー!」
「こら!怜!」
「だってなー、ドヤ顔で言うからてっきり余裕で乗れるんやと思ったのに、まるでシャチホコやん?」
「シャチホコって。上手いこと言うなぁ怜ちゃんは」
幸子がクスクスと笑い、三男のこめかみがヒクヒク動く。怜はハッと我に返って鴻池を見た。
「あー、笑ってごめんな?」
ごまかし半分に駆け寄って、腕に付いた土を払うと、鴻池はそれを振り払って怜を睨み付けた。
「そこまで言うなら、お前は乗れるんやろな?」
「まあまあ、とりあえず血が出とるから手当てが先や」
「兄さんは黙っといて。俺はこのクソガキと話しとるんや」
「怜には後で言うて聞かせるさかい、そう怒らんと」
「黙れ。たかが婿養子が」
怜は少々のことでは怒らない。
しかしこれには心底腹が立った。自分は何を言われても良いのだ。だが兄を邪険にする物言いだけは、さすがに許せなかった。
「取り消してもろおか。今の言葉」
「はあ?」
「兄ちゃん侮辱するヤツは絶対に許さん」
「れ、怜、やめろ」
「ふーん。ほんならそれ乗れたら取り消したるわ」
「こんなもん朝飯前や」
とはいえ、足が届くか心配だった。大人の姿なら余裕だろうが、怜はまだ五歳の子ども。だが言った手前乗らない選択肢は無いのだ。伶はスタスタと自転車の前に歩み出た。
スタンドのない自転車。二人の若衆が前と後ろを支えている。怜は後ろの男に言った。
「私がいいよって言うたら手離してな?それまでは押して」
「へ、へい!」
続けて三男に向き直る。
「兄ちゃん、上に乗せて」
三男は一瞬躊躇いつつも、怜を抱き上げた。
「お前なぁ、、、」
「大丈夫や」
「そやけど」
「私は力もないくせに威張り散らすヤツが大嫌いなんや」
三男は一度言い出したら聞かない妹の性格を良く知っている。仕方なくハーッと諦めの溜め息をついて、怜を自転車に乗せた。
「足も届かんのか!」
怜はわかりきったことを馬鹿にする鴻池に視線を向け、ニヤリと笑った。
「足届いてもコケたヤツに言われたないわ」
「なんやと!?」
「これ幸富。いい加減にしなさい」
幸子は呆れた口調で窘めた。
「ほんなら行くで!」
ぎゅっとハンドルを握り前を真っ直ぐ見る。土の地面はアスファルトより取られやすいが、思いの外軽く感じた。
「後ろの人、押してー!」
その声に反応し、後ろの男の力が入る。グググっと両方の車輪が回り始めて、同時にペダルも円を描いた。
「もっと早くや!」
「へい!」
加速する自転車。風が過ぎるのを耳元で捉え、少し前かがみになって前方を見据える。数秒後、程よく平らの道にハンドルを切りながら叫んだ。
「離して!」
刹那、重力が分散した感覚を体感した。ふわりと身体が風に乗り、自転車は真っ直ぐ突き進んで行く。
「久しぶりの感覚や、、、」
アスファルトの道を、よく自転車で走ったことを思い出した。学校も仕事も友達と遊ぶ時もいつも自転車だった。
(そういや、事故の時も自転車やったっけ)
それも今となっては懐かしい思い出だ。怜は周りの事も忘れ、ただ純粋に楽しんだ。広い庭の幾つかの木を避けて、突き当たる壁の手前でUターンする。減速するスピードと距離を計算しながら、みんなの待つ場所まで戻り、ギリギリ到着する手前で自転車から飛び降りた。
「伶!」
ガシャンと音を立てて自転車が横倒しになり、上手く飛び退いた怜は三男に向かってニッコリと笑う。
「な?大丈夫やったやろ?」
完全勝利を収めた怜。鴻池は悔しげに唇を噛み締めた。
「ほおら、謝ってもらおか」
「怜、もうええから」
「それはあかんよ。勝負は勝負や。それに悪いのは幸富や。うちの大事な旦那様を侮辱したんやからね」
「お前まで、、、」
三男は複雑だった。確かに鴻池は歳の割りに子どもだ。十歳ほどで宗家当主になり、それに相応しい知識を身につける為、毎日必至で勉学に励み、青春時代をほとんどそれに費やしてきたのだ。それをよく知っている三男は、彼を不憫に思いこそすれ、嫌いになどなれるはずも無かった。
「謝りなさい幸富。オラオラ」
幸子は容赦無い。俯いて立ち竦む鴻池に何度となく体当たりをしていく。
「さ、幸子?」
あののんびりしたいつもの姿は錯覚だったのだろうかと三男は震えた。
「兄さん」
先ほどの暴言が本心ではないということは、三男もわかってた。
「すんません」
「いや、、」
か弱くもハッキリとした口調で謝罪を口にした鴻池は、フラフラと屋敷を出ようとし、門前で振り返った。
「それは兄さんに譲る。俺からのお詫びや」
「、、、そうか」(ごめん。そんなん要らんわ)
「ほんで」
鴻池はスッと視線を怜に向けた。
「”怜”やったな。次は負けへんからな」
「いつでも相手したるわ」
怜はニヤリと口角を上げる。だが一秒後、三男のげんこつを食らったのだった。
◇◇◇◇◇◇
「全くお前は!ええ加減子供らしくせんかい!」
「怜ちゃんらしくてええやないの。それにあの子にはええ薬になったわ」
「そうや!私は私らしく生きるんや!」
「お前なあ」
確かに鴻池の少し世間知らずなところがあるのは否定出来ない。新しいもの好きで、それを手に入れる為なら金に糸目をつけない。しかし三男は鴻池より怜が心配で仕方がなかった。
「怜、兄ちゃんと約束してくれ」
「何を?」
きょとんとした顔で怜は三男を見つめた。
「自分が正しいと思っても、口に出したらあかんこともあるんや」
「顔に鼻クソ付いとるとか?」
「それは言うてもええ。怜、最後まで聞け」
「うん」
「お前らしく生きるのはええことや。そやけど敵は作るな。うまいこと世の中回らな、いつか痛い目見る。兄ちゃんはそれが心配なんや」
それは、善治郎が以前怜に言った言葉と同じだった。
平成では無縁だったこの絆。それほど家族に愛されているのだ。
「うん。わかった。約束や」
怜は胸が熱くなるのを感じた。